学ぶ

真に学ぶ

 

本当に深く

物事を学ぼうという

意志を持っている人は

 

実に謙虚だ。

 

なぜなら

学べば学ぶほど

 

わからなくなる

からだ。

 

真剣に

探究すればするほど、

「さらにその奥」

があることに

気づき、

 

その「わからなさ」に

茫然とする。

 

しかしそれを

探究しようと

決めている人は、

 

その「わからなさ」に

敢然と向かっていく。

 

そこで生まれるのが

謙虚さだ。

 

その「深さ」に

対する

畏敬だ。

 

自然の摂理への

真摯さだ。

 

だから

学べば学ぶほど、

 

「自分」というものの

小ささを

知ることになる。

 

「自分」の儚さも

浅さも、浅はかさも、

脆さも、弱さも

知ることになる。

 

学べば学ぶほど、

自分を

壊したくなる。

 

でも壊れるのは

怖い。

 

でもそれでも

勇気を奮って

壊していく。

 

次々に。

 

そして

「壊す」ということの

尊さを知る。

 

「壊す」ことは

進化そのものである

ことを知る。

 

そして

それをしている

自分自身の深さを

知る。

 

自分の「わからなさ」

を知る。

 

だから自分自身を

探究したくなる。

 

自分を探究しながら

自分の探究したい

ことを

探究し続けるように

なる。

 

それが

真に学ぶ

ということだ。

 

つづく

 

もっと学び、もっと超えよう

 

人はいろんなことを

法則化したがる。

 

こうすれば、

上手くいきますよ、

という

法則を見出したがる。

 

もちろんそれは

良いことだし、

原理原則を見出そう

という探究心も

人として、

人の本能として、

とても重要なものだと

私は思う。

 

私自身も

現場で様々な原理原則を

見つけさせていただいたし、

それを法則として

まとめもした。

 

しかし。

 

その、

自ら導き出した法則に

自らが

縛られてしまっては

意味がない。

 

とも思う。

 

あえて言うけど、

 

真実は

法則を超えた

ところにある。

 

私はずっと

思っている。

 

法則とは

真実に近づくための

ステップに

過ぎない。

 

もっと言えば、

法則にこだわるあまりに、

真実を見失う

ということが、

あまりにも

多過ぎはしないか。

 

今、

この世の中を

構成している私達は、

 

縛られ過ぎだ。

 

自分自身の

考え方に。

 

自分自身の

法則に。

 

もしくは、

他者の言う法則

に。

 

もっと

自由であっても

良いのではないか、

我々人間は。

 

変な言い方だが、

 

法則を超える

存在が

人間である。

 

とも

私は思うのだ。

 

それが

人間の本来。

 

その本来を

取り戻すために

私は日々、

自分も含めて

様々な人達を

サポートさせて

いただいていると

言ってもよいかな、と。

 

ただし、

法則を学ぶことは

大事。

 

先日、

あるクライアントさんが

とても素晴らしいことを

言われた。

 

「私は先人が得た

知恵を学ぶ。

どんどん学ぶ。

その上で、

私はさらにその先に

行く。」

 

自由に行けば

いいから

何も学ばない。

というのは、

極めて不自由だ。

 

本当に自由な

人であればあるほど、

真実を求めるために

どんどん学ぶ。

 

しかし

その学びに

囚われることは

ない。

 

法則は

学ぶが、

そこには

囚われない。

 

これが

これからの時代、

さらに

私達に必要なこと

ではないか。

 

つづく