2021年 2月 の投稿一覧

見当がつかん

 

今日は私の

53回目の誕生日

なのだが、

 

たまには

自分で自分に

プレゼントしてみよう。

 

一つ

問いのプレゼント。

 

・・・

 

これから私は

これまで知らなかった

私自身の何かを

開放しようと思う。

 

それを

開放するためには、

 

これまであえて

やろう

と思いながらも

止めてきたことを

 

もう一度

やろうと思う。

 

さて、

それは

何だろう?

 

・・・

 

という問いが

浮かんだ。

 

さっぱり

わからん。笑

 

でもこれ、

皆さんにも結構

当てはまる問いの

ようだから、

 

皆さん自身も

考えてみると

いいね。

 

共に

考えてみよう。

 

つづく

 

進むか、戻るか

 

人生においては

どうしても

覚悟を問わねば

ならない時がある。

 

覚悟を問わずに

曖昧なまま

進むわけには

いかない時がある。

 

もちろん、

 

人間には恐怖が

あるので、

どうしても覚悟を

持てないことも

あるだろう。

 

その場合は、

やり直しだ。

 

もう一度、

少し戻って

やり直す。

 

人生には

やり直しも可能だ。

 

何度もやり直し、

ようやく覚悟を

持ち、

 

一つの境界を

超える。

 

何度も何度も

挑戦しようとし、

何度も何度も

境界の手前で

引き返す人もいる。

 

それはそれで、

その人の選択であり、

人生だ。

 

大事なのは、

ちゃんとすべてを

自分で決めること。

 

覚悟を持ち

境界を超え、

さらに先に進むか?

 

それとも

今回はいったん

逃げるか?

 

「逃げる」というように

表現すると、

とてもイヤな感覚を

覚えるかもしれないが、

 

事実、それは

逃げることだから。

 

そこは曖昧に

してはならない。

 

一番いけないのは、

逃げていることを

誤魔化すこと。

 

曖昧なまま

そこにずっと

留まること。

 

わぁ、ダメだった、

逃げちまったぁ!

 

・・・で良いのだ。

 

逃げることを

自覚し、

 

逃げるなら

しっかりと

自分の意思で

逃げること。

 

それさえできれば、

やり直しは

効くんだ。

 

以上を踏まえて、

もう一度、

 

今一度、

 

自分自身の

「覚悟」

を問うてほしい。

 

本当に

このまま進むのか?

 

この、すぐ先に

待つであろう

「境界」

を超えるのか?

 

次のステージに

入るのか?

 

「進む」

ということを決めるなら、

 

怖かろうが、

自信がなかろうが、

 

膝が

ガクガクになろうが、

 

捨て身になって

進むことだ。

 

「境界」さえ越えれば、

まったく新たな

自分が

 

そこに現れるよ。

 

つづく

 

私の原点

 

目の前にある

「現実」

を、

 

ただあるがままに

捉えよう、

 

真剣に思うように

なったのは、

ちょうど20年くらい前

だ。

 

しかし当然だが、

そう思うようになった

からと言って、

すぐにできるわけでは

ない。

 

そこから試行錯誤が

始まり、

 

ようやく

「あるがままに

観れるようになったな」

思えるようになるまで

10年くらいを要した。

 

すると、

急に

「実在」

がわかるようになった。

 

私達が「現実」と

呼んでいるものは

「現象」

であり、

 

あらゆる「現象」の

根っこには

「実在」

がある、と。

 

それはまるで

映画のようで、

 

映画のフィルムという

実体が

「実在」であり、

 

映し出される映像が

「現象」である、

という事実。

 

それがわかるように

なった。

 

ところが。

 

この世の中の

現実と

映画との大きな違い

があることも

わかった。

 

映画の場合は、

フィルムの通りに

映像が映し出される。

 

しかし今の私達の

この世の中の

現実では、

 

実在という

フィルムがあるのに、

 

そのフィルムの内容とは

まったく異なる映像が

映し出されることが

多い、

 

という

実に驚嘆すべき事実

にぶち当たった。

 

フィルムがないのに

映し出される映像。

 

それがだいたい

9割を占めるのだ。

この世の中は。

 

実在のない

現象。

 

それはいわゆる

「幻影」

のようなもの。

 

一つの「現象」が

次の「幻影」を

生み出し、

 

その「幻影」に

惑わされて

次の「現象」が

創り出されてしまう。

 

そんなことが

この世の中では

当たり前のように

起きている。

 

そして

それをすると、

私達人間は

単純に苦しみ、

 

幻影の中で

自分を失う

ということもわかった。

 

自分自身が

大切に持っている

フィルム、

つまりは「実在」を

 

ちゃんと映像として

映し出すこと。

 

実在に基づいた

現象を生み出すこと。

 

それこそが

私達人間が

 

人間としての

 

喜びや幸せを

感じ取るための

根本要因であり、

 

それを外しては

 

どれだけ

いわゆる「成功」という

ものを手に入れても、

 

それが

幻影である以上、

 

私達は決して

幸せを感じることは

ない。

 

たとえ一時的に

感じたとしても、

その幸せは

次の「不安」と「枯渇感」を

生み出すだけの

幻影となってしまう。

 

ということが

わかるようになった。

 

と同時に、

 

無意識にせよ、

その辺りのことを

感覚的によく

わかっている人も

実はかなり多い、

 

ということも

わかり、

 

かつ、

 

自分の実在を

感じ取れる体験を

一度でも積めば、

その感性を

(人として誰もが

最初から持ち合わせている

その感性を)

 

私達は取り戻す

ことができる

という事実も。

 

そう。

 

もうおわかりかと

思うが、

 

実在から来ている

私達の想いを

『真本音』

 

幻影のみの

私達の想いを

『反応本音』

 

私は名付けた。

 

真本音度合いを

高める、

とは

 

実在を現象化する

度合いを

高めること。

 

つまりは

自分自身を

正常化し、

 

幻影の世界から

救い出すこと。

 

他ならない。

 

そしてもし

その状態で

人生を送り、

 

もしくは

ビジネスを行なう

ことができれば、

 

世の中はもっと

幸せなものに

なるだろう。

 

大変嬉しいことに、

 

今は

実在を感じ取れる

人が

本当に

急増している。

 

それは今の世の

希望だな

思うんだな。

 

つづく

 

妥協すんな

 

「妥協」

というのは、

妥協だと思うと

妥協になる。

 

しょうがない

妥協するか、

 

となると

妥協となる。

 

私は何をどうしても

これが嫌だ。

 

妥協をするくらいなら、

仲違いを選ぶ。

 

妥協は

不調和の象徴だと

思うのだ。

 

ただ、

 

「妥協」という言葉の

使い方とか

定義の仕方は

人によって違う。

 

私の言う「妥協」とは、

自分も相手も

納得していない状態

だ。

 

「妥協」に対して

私は

 

「最善」

 

という言葉を

よく使う。

 

最善を尽くす

のは

私は好きだ。

 

いや、

人生とは本来

最善を尽くすもの

だと思っている。

 

自分の思う通りに

いかないのが

人生。

 

自分の理想通りに

いかないのが

人生。

 

「理想」を常に

大切に胸に抱き続ける

ことは

とても大事だと思う。

 

しかし私達の目の前

には

「現実」があり

「他者」もいる。

 

自分の理想のみを

押しつけて進む

こともまた

不調和の象徴だ。

 

理想を抱きつつも、

現実と向き合い、

 

今できる最善は

これだ!

 

と決めること。

 

それが大切であり

それは「妥協」とは

異なり、

 

納得がいっている。

 

妥協も最善も

結局は同じ選択かも

しれない。

 

しかし

 

しょうがない、

妥協するか。

 

 

今はこれが

最善だな。

 

 

この違いは

大きい。

 

いや、「大きい」

というレベルでは

ない。

 

似て非なるもの。

 

本質が

まったく異なるもの。

 

だから私は

「最善」だと思えるまで

決して

選択をしない。

 

決断を

しない。

 

そのかわり、

「最善」だと思えれば

直ちに進む。

 

結局は、

妥協で進むよりも

最善で進む方が、

 

何十倍も

速く進めるし、

 

何百倍も

エネルギーは

高くなる。

 

だから、

 

先に進むために

妥協はするな。

 

先に進みたいならば、

決して

妥協はするな。

 

いついかなる時も

最善を尽くそう。

 

つづく

 

新たな私の1ヶ月

 

私は何者だろう?

 

という問いを

初めて持ったのは

19歳の時だった。

 

それから30数年

経つ。

 

もちろん、

今でもこの問いは

ここにある。

 

そして

いくつかの答えを

見つけてきた。

 

その時その時代

の私にとっての

ぴったりの答え達。

 

私はその答えに

できるだけ忠実に

生きた。

 

もちろん完璧には

いかなかったが、

常にそれを

目指した。

 

その時その時代

で答えは変わったが、

 

本質は

変わらない。

 

言葉にはならない

本質が

ずっとあった。

 

これは私なりの

生き方であったが、

 

この生き方の

おかげで

今の現実がある。

 

昔は

未熟だった。

 

そして

今も未熟だ。

 

それでいい。

 

未熟だからこそ

私は常に

本質を求める。

 

この部分だけは

確かに

妥協は一切

なかった。

 

未熟さは

無限にあったが。

 

私が新しい答えを

手に入れてから

約1ヶ月が過ぎた。

 

激変した。

 

自分自身が。

 

自分で自覚

できるくらいに。

 

そしてその

激変は

ここからさらに

加速していく。

 

仕事が変わる

わけではない。

 

個性が変わる

わけでもない。

 

対人関係が

変わるわけでも、

 

環境が変わる

わけでもない。

 

ただ、

 

私にとっての

人生の意味が

変わった。

 

時間の意味が

変わった。

 

今の私は

1ヶ月前の私とは

まったく異なる

 

時間との関わり方

 

をしている。

 

毎日が

とてつもなく

新鮮だ。

 

ようやくここにきて

また、

 

人生の醍醐味を

味わえている。

 

深く感謝。

 

つづく

 

もう見えるだろう

 

人には

目指すものがある。

 

それが何か

わかりません。

 

という人は

多いが、

 

それは

気づいていない

だけ、

 

顕在化されて

いないだけ、

 

現象化されて

いないだけ。

 

自分自身の

準備が整って

いないのだ。

 

「準備」と言っても

環境的なことでも

物理的なことでも

能力的なことでも

ない。

 

まぁ、時には

そういうことも

あるが、

 

「準備」とは

もっと本質的な

ことだ。

 

つまりは、

自分の意志

の準備であったり、

 

自分の覚悟

の準備であったり、

 

自分の生き方

の準備であったり。

 

どんな時も

自分自身を

じっと見つめている

自分がいる。

 

それを私は

「真本音」と呼ぶが、

 

自分の真本音が

自分自身に

OKを出すかどうか?

だ。

 

「準備OK」だな

と。

 

ただしそれは

自己評価とは

ちょっと違う。

 

ちょっと、

じゃないな。

 

本質的に

違う。

 

真本音は

自分自身を評価は

しない。

 

ただあるがままに

見つめ続ける

だけだ。

 

そして、

評価ではなく、

 

事実、として

摂理、として

 

「準備OKだな」

と。

 

う〜、ここのところの

説明は

難しいね。

 

でもまぁ、

そのOKが出ることで

私達は

自分の未来が

観えるようになる。

 

つまりは、

自分が何を

本当は

目指したいと

決めているのか?

 

急にわかるように

なる。

 

せめてそこまでは

ぜひ

がんばってほしい。

 

自分の目指している

もの、

 

本当に、

 

目指しているもの

が、

わからないままに

人生を終えてほしく

ないのだ。

 

目指しているもの

くらい

わかってほしいのだ。

 

それがわかれば、

もう

 

モチベーションアップ

とか、

前向きに生きろ

とか、

 

そんな必要は

ない。

 

自然に内側から

エネルギーが

溢れてくる。

 

勝手に動き

出して行くよ、

人は。

 

そっからが

本当の人生

だろ?

 

本当の人生、

早く始めようよ。

 

つづく

 

無限の幹だった

 

どうやら

深い森の中心に

私はいるようだ。

 

そこには

巨大な一つの

幹があった。

 

「大樹」と言えば

よいのだろうが、

 

それはあまりにも

大きくて、

見上げても

遥か上空まで

幹しか見えない。

 

この幹の周りを

人が手を繋いで

囲むとしたら、

 

いったい何人、

いや何十人の人が

必要だろうか。

 

そんな巨大な

幹だ。

 

私はただ

茫然とそこに

佇んでいた。

 

先程から

幹から何かが

伝わってきている。

 

何か

メッセージのような

ものか。

 

私は

あまりに神聖なので

近づき難いその幹に、

 

思い切って

近づいてみた。

 

体が痺れる

くらいの波動。

 

右手で

その幹に

触れてみる。

 

瞬間、

 

私の中に

同じ幹が生まれた。

 

思わず私は

その幹を

ハグする。

 

いったい、

目の前にある幹を

ハグしているのか、

それとも

私の中に生まれた幹を

ハグしているのか、

 

区別が

つかなった。

 

私は幹に

吸い込まれた。

 

目の前の幹

なのか、

自分の中の幹

なのか、

 

またもや

区別がつかない。

 

そんなことは

どうでもいいや、

という気になった。

 

そしてしばらくすると、

自分と幹の区別すら

つかなくなった。

 

私の意識は

遥か上空まで

伸びていた。

 

そして

思わぬことを

口走った。

 

まだまだ

細いな。

 

この幹のことか?

 

う〜ん、

まだまだだな。

 

確かに幹は

無限へと

伸び続けている。

 

そこに

終わりはない。

 

しかしあまりにも

それは

細いのだ。

 

ついさっきまでは

あんなに巨大に

見えたのに、

 

今は、

一本の細い糸

のように見える。

 

でも私は

この幹を

守っていかねば

ならない。

 

育てて

いかねば

ならない。

 

本来の太さを

取り戻すまで。

 

無限の

さらにその先を

突っ切るまで。

 

幹は

まだ未熟だ。

 

しかし

幹には

無限の可能性が

秘められている。

 

つづく

 

どっちの痛みだ?

 

心の痛みと

魂の痛みの

区別がつくようになると、

 

人のサポートは

非常にやりやすく

なる。

 

対応を

誤らなくなる。

 

今のこの人の

行動は、

 

心の痛みに

よるものか?

 

それとも

 

魂の痛みに

よるものか?

 

それによって

対応は

180度変わるからだ。

 

心の痛みは

現象であり、

 

魂の痛みは

実在だ。

 

・・・と書くと

わけがわからなくなる

と思うが、

 

基本的に

現象の痛みとは

幻影だ。

 

つまり本当は

「ここ」にはない。

 

その苦しみは

幻で、

その幻を人は

自ら創り続け、

 

その中に埋没し、

溺れる。

 

溺れた状態から

その人を救い出そう

としても

実は、キリがない。

 

何度救えたとしても、

その人は

同じ幻影を自ら

創り続けるからだ。

 

だから、

「幻影創り」そのものを

 

その癖を

 

直さなければ

ならない。

 

しかし実はこれは

それほど難しい

ことではない。

 

真本音度合いを

高めれば良い

からだ。

 

それをすることで

癖創り(幻影創り)は

だんだんと

止まる。

 

その人は

幻影に苦しむ人生

から

脱け出せる。

 

問題は、

 

魂の痛み

の方だ。

 

これは通常は

あまりに苦しい

ため、

 

多くの人は

この痛みに

麻痺がかかっている。

 

痛みを

自覚できない。

 

自覚できないが、

それは

とてつもない痛みなので、

 

その痛みを

感じていなくても

その痛みが

怖いので、

 

そこから逃れるための

行動パターンを

自ら無意識に

創り出す。

 

そしてその結果、

今度は

心の痛みを伴うような

現実を創り出して

しまう。

 

つまりは、

実在の痛みから

逃れるために

幻影の痛みを

創り出す、

 

・・・というのが

我々人間が

常にやり続けている

ことだ。

 

だからもちろん

対処法としては

真本音度合いを

高めることは必須だ。

 

しかしながら、

それによって

心の痛み(幻影)は

消えていくが、

 

実在の痛み(魂の痛み)は

残る。

 

実在している

からだ。

 

むしろ人によっては

真本音度合いが

高まることで、

 

麻痺が取れて、

痛みを感じるように

なることも。

 

しかしその痛みは

やはり

尋常な痛みや苦しみ

ではない。

 

尋常ではない

のだが、

 

それでもしかし、

 

麻痺していたのが

痛みを自覚できるように

なるのは

大きな進歩だ。

 

痛みがわかれば

対処ができるから。

 

いやむしろ、

対処ではなく

根本解決ができる

のだ。

 

だから

変な言い方だが、

 

私はクライアントさんが

魂の痛みを感じるように

なると、

 

やった!

 

と、密かに

喜んでいる。

 

これでこの人は

生きながらにして

生まれ変わることが

できるからだ。

 

生まれ変わる

と言っても、

別の人間や人格に

なるのではない。

 

これまでずっと

苦しめられてきた

痛みから

解放されるのだ。

 

その人の

本来の姿、

 

本来の行動、

 

本来の人生を

 

その人は

痛みのないところで

健康的に

創り出せるように

なるのだ。

 

こんな

嬉しいことはない。

 

しかしそのためには

魂の痛みを

超えていかねば

ならない。

 

これが私のサポート

の本質であり、

 

これができる人を

私は「コーチ」と

呼んでいる。

 

「コーチ」を

増やしたい。

 

一人ひとり

丁寧に。

 

つづく

 

プレゼント

 

「問い」というのは

プレゼントだと

私は思っている。

 

すぐに答えは

出なくてもいい。

 

しかし

その問いが

常に心の中心を

占めることで、

 

時には

人生の展開を

根こそぎ変えてしまう

ことすらある。

 

それが

問いの力だ。

 

そういった意味で、

今回も

一つ、

問いをプレゼントしよう。

 

 

『本来であれば

すでにあなたと出会えて

いるべき人で、

しかしまだ出会えていない人

がいたとしたら、

その人と出会えるために、

あなたは何を変える?』

 

 

つづく

 

今は言うな

 

これはあくまで

私の考えなんだけど、

 

自分が何か

ものを発する時は、

 

自分自身の中心が

静かな時にしか

発しない。

 

・・・と決めている。

 

本当に静かで

落ち着いていて、

 

まるで

鏡のような湖面

みたいな状態。

 

その状態になれて

初めて

ものを発する、

 

つまりは

意見を言う、

 

ようにしている。

 

たとえ良い意見が

あったとしても、

もし自分自身が

その状態でなければ、

 

決して

それは言わない。

 

もちろん、

「この意見、言いてぇ〜!」

と思うことは

多々ある。

 

しかし

自分の中心が

騒がしければ、

 

渾身の力で

その「言いたい気持ち」

を抑え込む。

 

それをすると

決まって、

 

あぁあの時

言わなくてよかったぁ〜、

 

安堵する場面が

後々に訪れる。

 

逆に言えば、

 

自分の中に

まったく意見がなかった

としても、

 

自分の中心が

静かな時、

 

突然、私の口から

意見が飛び出すことも

ある。

 

決して意図して

語る意見ではない。

 

それは

たったの一言の

場合もあるが、

 

まるで滝のように

長く語る

こともある。

 

いずれにしても

その時の

私の中心は

静かだ。

 

鏡の湖面だ。

 

これを大事に

するようになってから、

 

人生の展開が

面白くて仕方ない。

 

こういうのも

人生の醍醐味だと

今は思っている。

 

あくまで

私の経験だけどね。

 

つづく

 

波動を感じると

 

真本音度合いが

高まることで、

感性は豊かに

なるが、

 

その、

豊かになり方が

人それぞれで

実に面白い。

 

人はみんな

同じだけど、

 

人はみんな

違ってるんだな。

独特なんだな。

 

とわかる。

 

そしてその違い

こそが

やっぱり

面白い。

 

ちなみに

私の場合、

 

真本音度合いが

高まることで、

 

人と物

 

の区別が

あまりつかなくなった。笑

 

こう書くと

ただの変なヤツ

なのだが。

 

人も物も

この世に存在する

あらゆるものは

波長であり

波動である。

 

すべてが

エネルギー体

だからだ。

 

そのエネルギー(波動)を

ダイレクトに

感じ取れるように

なった。

 

そうなると、

人だろうが

動物だろうが

植物だろうが

無機物だろうが

 

あらゆるものの

意志やメッセージ

のようなものを

キャッチできるように

なった。

 

もちろんそれらの

多くは

言葉にはならないもの

だが、

 

しかしあえてそれを

人間の言葉に

翻訳しながら楽しむことも

ある。

 

やっぱそれは

危ないヤツか。笑

 

まぁしかし

そうなるともう

この世のあらゆるものが

 

様々なコミュニケーション

をし続けていることが

よくわかる。

 

当然、

孤独を感じることも

ない。

 

常に

「世界」と共にある。

 

という感覚に

満たされるように

なった。

 

私が電車が

好きなのは、

 

電車に乗りながら

その電車そのものと

会話を楽しむからだ。

 

・・・などと

言うからやっぱり

危ないヤツに

なるんだな。

 

でも私はいつも

このようにして

この「世界」を

楽しんでいる。

 

だから、

人とのコミュニケーションが

より深く広く

楽しめるのも

わかるだろ?

 

つづく

 

仲間がほしいなら

 

自分一人でも

進もう、

 

と覚悟を持つことで

初めて

真の仲間ができ、

 

最初から仲間を

求めることで、

 

いつまで経っても

真の仲間とは

出会えない。

 

・・・そうでも

ないんじゃないか?

 

という疑問を

持ちながら

何度も試し、

 

やはりそうなのだ、

何度も痛感する。

 

それがこれまでの

私の人生だったように

思う。

 

真の仲間

とは、

 

気の合う仲間でも

相性の合う仲間でも

ない。

 

そんなことは

はっきり言って

どうでもいい。

 

自分が

自由奔放で

いられるかどうか?

 

自分が

全力で進む時に、

その状態の時にこそ

調和ができるかどうか?

 

そして

お互いがいることで

自分の限界を

どんどん壊していける、

 

つまりは、

 

お互いに自分自身を

(これまでの自分を)

破壊し続けられるかどうか?

 

こそが

大事だと

今の私はつくづく思う。

 

そういう人は

結果として

一緒にいて

とても安心するし、

居心地が良い。

 

でも決して

気が合うわけでも

相性が良いわけでも

ないのが

笑える。

 

そこを笑い合える

のが

笑える。

 

私が

「自分の真本音を

大事に生きるといいよ」

言い続けているのは、

 

まさしくそれこそが

真の仲間を

引き寄せることに

直結するからだ。

 

そして私達は、

真の仲間と出会えて

初めて発見できる

「道」

がある。

 

一人でも進もう

として初めて

仲間ができ、

 

仲間ができて

初めて

真の道が観える。

 

まったくもって

人生というのはねぇ・・・。

 

つづく

 

これは心か念か

 

恐れの深い人ほど

怒りは深く、

 

怒りの深い人ほど

恐れは深い。

 

恐れと怒りは

表裏一体の関係。

 

どんな時も

多かれ少なかれ

この二つと共に

私達は歩んでいる。

 

そして二つ共が

非常に

エンティティになりやすい

ものだ。

 

エンティティとは

念の塊であり、

 

ストレスがある一定以上

の濃度に

固まったものだ。

 

すべての人に

エンティティはある。

 

私達のコミュニケーション

とは、

エンティティの交換でも

ある。

 

・・・と言っても

過言ではない。

 

つまりは、

各々の念の塊を

様々な人達と

お互いに交換し合いながら、

私達は日常を

生きているのだ。

 

すると

どれが自分の心で

どれが他人の念なのか

が、

ほとんど見分けが

つかなくなってくる。

 

ストレスが多く、

特に恐れや怒りが

激しい人のサポートは

 

この

・自分の心

・他人の念

区別をつけるところから

始まるケースが多い。

 

区別がつくだけで

相当に楽になるからだ。

 

最も多いケースは

他人の念である

恐れや怒りを

自分の心であると

誤解をし、

 

そんな自分を

自分で責め続ける

というケースだ。

 

これは

辛い。

 

エンティティにプラス

罪悪感。

 

これは

私達を苦しめる

二大巨頭だ。

 

これにより

完全に自分を

失っている人は

多い。

 

そして、

 

そんな人が

組織のかなりの割合で

存在している

という会社も多い。

 

そうなると今度は

エンティティ同士の

交換も激しくなり、

 

いやな言い方だが、

 

エンティティと

エンティティの

相乗効果まで

発生する。

 

そうするともう

その会社の事務所に

入るだけで、

 

ドーンと

気持ちが落ち込んで

しまう。

 

そんな状態で

「頑張れ!」

と追い立てても、

それはやはり

無理な話だろう。

 

私達のコミュニケーション

は、

目に見えないところでの

影響が

とてつもなく大きい。

 

現象面だけの

一元的な見方と対処では、

 

人は間違いなく

疲弊し、

さらに落ちていく。

 

だから、

いろんな意味で

自分自身と向き合う

ことは

基本だ。

 

ちゃんと自分の

心の中にあるものと

対峙し、

 

どれが

本当に自分の

心なのか?

 

まずは自分自身で

見極める力は

 

誰もに

必要だろう。

 

今の時代

だからこそ。

 

つづく

 

美しい混乱

 

混乱には、

 

美しい混乱と

そうでない混乱が

ある。

 

そうでない混乱

とは、

 

自分自身が

「混乱である」

と認めていない

混乱である。

 

もしくは、

その混乱から

目を逸らし続けている

混乱、

 

もしくは、

その混乱から

逃げよう逃げようと

し続けている

混乱である。

 

つまり、

混乱そのものは

変わらないのだが、

 

その混乱を

美しくするも

そうでなくするも

 

その本人

である。

 

混乱を混乱と

受け止め、

 

これは自分の

人生である、

 

と引き受ければ、

その時点で、

 

「自分」は

その「混乱」の

「中心」

に立てる。

 

中心に立てば、

すべてを混乱を

静かに

見つめることが

できる。

 

すると、

混乱にも

一つ一つの「粒」が

あり、

 

それはまるで

原子や分子のようで

 

それらの一つ一つが

「混乱」という

一つの現象を

形創っており、

 

それはそれで

一つの美しさを

放つものである

ということが

感覚的に

わかる。

 

そうしたら、

自分はその混乱に

どう関われば良いか?

 

が観えてくる。

 

全体像は

観えなくても、

 

まずはどの原子(分子)

から

どう関われば良いか?

瞬時にわかる。

 

そしてそこから

一つずつ

「混乱」に「影響」を

与えていく。

 

その連続によって

ある時に

出口が観える。

 

ひょっとすると

そこまでは

何ヶ月も

何年もかかるかも

しれない。

 

でも、

出口が観えるはずだ、

どこかで

わかっている。

 

それはずっと

「中心」に立てている

からであり、

 

無意識的にも

ずっとその「美しさ」を

感じ続けていられる

からである。

 

出口が見つかれば

一気に向かう。

 

するとそこに

次の次元への

扉がある。

 

これまでとは

次元の異なる

創造がある。

 

その人にしか

生み出せないものが

 

この世の中に

一つ

 

生まれるのである。

 

つづく

 

この問いのおかげ

 

「永遠」

にも

「始まり」

がある。

 

皆さんの

「始まり」

とは

何だろうか?

 

これ、

自分自身に

問うてみてほしい。

 

「私の始まりとは

何だろう?」

 

一見すると

わけのわからない

問いを、

 

真剣に自分に

投げ続けるというのは

意義が深い。

 

問いの面白い

ところは、

 

答えが浮かばなくても

OKというところだ。

 

問いそのものが

心に残ればいい。

 

するとそれだけで、

日常における

様々な発想や視点が

変わり始める。

 

または、

 

ひょっとすると

上記の問いについて

すぐに答えが浮かぶ

人もいるかも。

 

そんな場合は、

それを「答えである」

決めないでほしい。

 

まだまだ先が

ある。

 

とか、

 

もっと深い答えが

私にはあるだろう。

 

という風に

捉え、

 

上記の問いを

投げ続けてほしい。

 

上記の問いは

実は

この3年間、

私が毎日自分自身に

投げ続けたものだ。

 

おかげで

随分とこの3年間で

私は進むことが

できた。

 

この問いの

おかげだな、

今日ふと思えたので。

 

皆さんにも

共有しますね。

 

つづく

 

中心軸、あるのに

 

すごく伸びやかで

しっかりとした中心軸が

あるにも関わらず、

 

そこからまるっきり

外れたままで

生きている人が

 

たま〜にいる。

 

中心軸は

ガッシリとあるので、

エネルギーは高い

のだが、

 

まったくその通りに

生きていない。

 

普通であれば

そんな芸当は

できないはずだが、

 

できてしまう。

 

エネルギーの

高さ故の技かも

しれない。

 

しかし残念ながら、

そういった場合

その人は

 

自分の気づかない

ところで

周りの人達を

たくさん傷つけてしまう。

 

もちろん

人間関係はまったく

上手くいかず、

 

結果として

自分も傷つくことに

なる。

 

しかし、

なぜ自分が周りから

責められるのか、

攻められるのか、

わからないのだ。

 

根本原因は

中心軸が

ズレているだけ。

 

しかし、

それが当たり前に

なった状態で、

 

ズレたままの

状態で、

 

自分の生き方の

癖をつけてしまうので、

 

他者から教えても

もらわない限りは、

なかなか

修正ができない。

 

修正をすれば

良いだけなのに、

もっと難しいことを

しようとして

悩みに悩み、

 

最後には

自分自身のことが

本当に嫌になって、

 

人生を捨ててしまおう

とすら

考えてしまう。

 

先ほど、

たま〜に、という

言い方をしたが、

 

いや、でも最近は

結構、このタイプを

多く見ている気がする。

 

こんな時に

よく思うのだ。

 

的確な「コーチ」が

必要だな、

と。

 

世の中に、

「コーチ」が

足りない。

 

やっぱり。

 

つづく

 

ポツリ、ポツリ、と

 

「コーチ」として

人と向き合う時、

 

私のあらゆる

メッセージは、

 

その人の

真本音に向けられた

ものとなる。

 

コーチとは

鏡である。

 

と私は思っているが、

その鏡とは、

 

真本音の鏡

 

だ。

 

目の前の人の

反応本音が

どれだけ強烈でも、

 

基本的に

私はそれをすべて

存在承認しながらも

 

付き合わない。

 

基本的には、

だが。

 

そして「鏡」として、

本当に必要な

一言だけを、

 

ポツリ、ポツリ、と

 

池に石を

一つずつ投げ込む

ように

語る。

 

一つの石を

投げたら、

 

その波紋を

確認する。

 

しっかりと

波紋が心全体に

行き渡ったのを

確認できると、

 

次の言葉を

投げる。

 

時には

立て続けに喋ることも

あるが、

 

それはまったく

意図しているものでは

なく、

 

その人の真本音が

そのように

少し強めの波紋を

望んでいる時だ。

 

私は

その人の真本音の

意思を受け、

 

それをそのまま

要望のままに

返す。

 

その人の真本音を

そこに

映し出すのだ。

 

つまりその人は

私という存在を

介して、

 

自分自身の真本音

と向き合うことに

なる。

 

これが

コーチングだ。

 

残念ながら

今の社会においては、

じっくりと

自分自身の真本音と

向き合う時間を

取れている人は

少ない。

 

本当は

セルフコーチングで

できれば良いが、

 

それには訓練が

必要だ。

 

だから私は

コーチングを通じて、

 

その人が

セルフコーチング

できるように

サポートする。

 

最初は、

私自身が鏡となるが、

 

だんだんと

コーチングの場は、

 

セルフコーチングの

サポートの場

へと変貌していく。

 

そして

私という存在が

必要なくなっていく。

 

そして私は

離れていくのだ。

スーッと。

 

その離れ際も

大切だ。

 

いかに絶妙な

タイミングで

その人から

離れるか?

 

具体的には

 

いつ

コーチングセッションによる

サポートを終了させるか?

 

私はとてつもなく

大切にしている。

 

そしてその瞬間が

来ることが、

 

私の最大の

喜びだ。

 

つづく

 

どれだけ疲れても

 

当たり前のことだが、

 

人間、疲労すると

「こなす」

ようになる。

 

あらゆる物事を

「こなす」

ようになる。

 

すると結果的に

さらに不調和が起き、

 

さらに疲労、

疲弊する。

 

そしてさらに

「こなす」ようになる。

 

その人生から、

 

その仕事から、

 

脱出しなければ

ならない。

 

そこにいては

いつまで経っても

幸せにはならないように

私達人間は

できている。

 

こなす人生は

あかんのよ、

本当に!

 

こなせば楽

なんて

思ったらあかんよ。

 

絶対

苦しむことに

なるから。

 

だから、

 

疲れた時こそ、

原点に戻ろう。

 

本当は

一日一日、毎日

原点に戻る時間を

習慣化できていれば

簡単なんだけどね。

 

でもとにかく

原点に戻ろう。

 

「戻ろう」と

するだけでもいい。

真剣に。

 

私は

もともと何を

望んでいただろうか?

 

どんな人生が

良いのだろうか?

 

どんな生き方を

したいのだろうか?

 

人とどう関わり、

どんな関係を

創り出したいのだろうか?

 

どんな現実を

生み出し、

どんな人生というストーリーを

創り出したいのだろうか?

 

私の願いは?

ずっとずっと大事にしたい

願いは?

 

変わらない願いは

何だっけ?

 

などなど。

 

答えはわからなくても

いい。

 

ただ真剣に

自分に問い、

 

真剣に答えを

探そうとしよう。

 

そこに真剣になれば、

それだけで

私達の心のチャンネルは

変わる。

 

変わったら、

一つ

キーワードを決めよう。

 

仮のキーワードでも

いい。

 

原点に戻ろうとした

その事実を

思い出せるキーワードだ。

 

たった一言。

 

簡単な一言でいい。

 

それが決まったら、

いつもそれを胸に。

 

いつもそれを

思い出しながら、

 

自分の原点を

思い出そうとしながら、

 

一つ一つの物事に

心を込めよう。

 

魂を込めよう。

 

「こなす」のではなく、

自分の意志と意思を

そこに

丁寧に、誠実に

込めよう。

 

それだけで

人生は

大きく転換するんだよ。

 

つづく

 

目覚めるか

 

眠っている自分を

感じたことは

あるだろうか?

 

自分の中の

眠っている自分。

 

もしその自覚を

したのであれば、

 

それはもうすぐ

「目を覚ます」

ということだ。

 

新たな自分が

生まれる、

 

ということでも

ある。

 

それはひょっと

すると、

 

人によっては

恐ろしいことかも

しれない。

 

これまでの

自分のままで

いたい。

 

そう考える

人は多い。

 

そして無意識に

新たな自分の

目覚めを、

 

自分で

無きものとする。

 

新たな自分を

自分が受け入れよう

 

ある意味の

覚悟をすることで、

 

それは本当に

目を覚ます。

 

大抵の場合は、

ちゃんと

目が覚めれば、

 

そこから先は

 

とても人生が

楽になる。

 

何かから

解放(開放)され、

 

もっともっと

広い場所で

生きることが

できるようになる。

 

だから本当は

早く受け入れれば

良いのだが、

 

なかなかそれが

できない。

 

進化するのが

人間の本能なのに、

 

その一方で

変わりたくないのだな、

 

人は。

 

今、

もし

目覚めようとする

自分がいるならば、

 

よ〜く

見つめてみると

いい。

 

まるで

赤ちゃんのように

可愛らしいはずだ。

 

まるで

親になったように

慈しみの目線で

見つめるといい。

 

不安は

スーッと消えていくよ。

 

つづく

 

救われた

 

時々、私の中は

ポッカリとした

「月」

が浮かぶ。

 

黄色い満月

だ。

 

月は何も言わず、

ただそこに

浮かんでいる。

 

藍色の

空に。

 

だいたいこういう時は

月は

私に何かを

伝えたいのだ。

 

しかしそれは

言葉としては

伝わってこない。

 

でも、

何かを伝えたい

ということはわかるので、

 

私はじっと

月を見つめる。

 

今、

浮かんでいる月は

何となくであるが、

 

笑っているように

感じる。

 

あえて言葉に

すれば、

 

よくやったなぁ、

 

褒めてくれている

ようだ。

 

いや、

 

よくやってるよ、

 

かな。

 

何を

よくやってるよ、

なのかな?

 

すると月は

突然巨大になり、

私を包んだ。

 

一瞬で私は

月の中に

抱かれた。

 

するとそこに

人の影が

浮かんだ。

 

その人が誰か、

わかった瞬間、

 

私は何を

よくやっているのか?

わかった。

 

あぁなるほど、

そういうことか。

 

それは確かに

よくやっているな。

 

おかげで

救われました。

 

その人からの

言葉。

 

私はあなたを

救えたの?

 

はい。

 

お〜、偉いじゃないか、

俺。笑

 

まだ終わって

ませんけど。

ここからです。

共に進むのは。

 

と、

力強い意志が

伝わってくる。

 

なるほど。

 

俺もまた

救われたわけか。

 

つづく

 

頼りきる

 

本当に覚悟を

持った人は、

 

人に頼ることが

できる。

 

自分を

預けきることが

できる。

 

人に頼る

ということは、

 

「世界」に頼る

ということだ。

 

自分以外のすべてに

頼るということだ。

 

それは

依存ではなく、

 

むしろ

依存の真逆だ。

 

覚悟のない人は

執着はするが

頼りきることが

できない。

 

その中途半端さが

苦しみを生み、

何も進まなくなる。

 

自分の足で

歩く人こそが

 

頼りきる

ことができ、

 

それによって

真の協調が

起こる。

 

もともと

我々人間は

頼りきるように

できている。

 

お互いに。

 

だから

「一つ」になれる。

 

実は、

 

今日、

私の人生にとって

とてつもなく大事な

出来事があった。

 

残念ながら

何かは言えないが、

 

私は恐らく

ずっとこれを

待っていた。

 

私は今月、53歳に

なるが、

 

きっと

53年、待ち続けた。

 

さぁこれで、

やっと

私は世界に頼りきりながら

進むことができる。

 

つづく

 

もっと雨を

 

土砂降りの雨が

降っているのが

わかっているのに、

 

その中に

出て行かねばならない

時がある。

 

晴れていれば

そりゃ

格好いい自分で

いられるさ。

 

でも

これだけの土砂降り

ではどうかな。

 

さすがに

倒れるかも・・・。

 

まぁでも

そん時はそん時だ。

 

開き直って

出る。

 

わざと

上を向いて

歩く。

 

雨粒が

顔に降り注ぐ。

 

痛い。

 

あれ?

 

これ土砂降り

というよりも

滝じゃないか。

 

後悔すれど

遅し。

 

そうか。

 

私の範疇を

超えているんだな。

 

じゃあ、

抗っても無駄だ。

 

身を預ける。

 

普通に

前を向いて

立つ。

 

雨、・・・いや、滝?

が痛い。

 

いつの間にか

自分が

滝になっている。

 

ドドドッという

轟音が

しだいに静かに

なり・・・。

 

いつの間にか

私は

歩き始めていた。

 

嫌な人生だな、

思っていたが、

 

結局、

これを望んでいるのは

他でもない

自分だったな、

わかる。

 

なぜなら私は

ここでこそ、

楽しんでいる。

 

充実を

覚えている。

 

多分、

この雨がやめば、

雨を怖がる私が

また出てくるのだろう。

 

でもそれでも

私は

その中に。

 

きっとその中に

自ら入り、

そこでまた

喜びを感じる。

 

違う私になる

わけではない。

 

本来の私を

思い出すだけだ。

 

雨なんて

嫌だ。

 

でも、

雨の中に出れば、

本来の私に

戻る。

 

なんだよ、

それ。

 

どんな人生だ?

 

ふと見ると、

遠くにうっすら

人影が。

 

結構、たくさん。

 

あぁそうか。

 

私を待ってる

人達だ。

 

やっと

見えてきた。

 

とりあえず

あそこまで

がんばろう。

 

つづく

 

あたたかい?

 

あたたかい

コミュニケーション

というのは、

 

余分なことを

言わない。

 

どれだけ

あたたかい言葉を

連発しても、

 

余分なことを言う

コミュニケーションで

あれば、

 

あたたかさは

どんどん

失われる。

 

なぜならそれは

誤魔化し

だから。

 

本当のあたたかさは

存在そのものから

醸し出されている。

 

その人の

存在そのものから。

 

だから基本的には

言葉は要らない。

 

でも

その実在が

自然に現象化する時、

 

それがそのまま

言葉になる。

 

実在が現象化

した言葉。

 

それだけを

伝えればいい。

 

ひょっとすると

あたたかさという

実在が

 

ある人の前で

現象化すると、

 

表面的には

厳しい言葉に

なるかもしれない。

 

耳の痛い言葉に

なるかもしれない。

 

しかし

その実在は

どこまで行っても

あたたかさ、だ。

 

表面上に

捕われない、

 

あたたかい

コミュニケーションが

もっと世の中に

溢れるといい。

 

昨日も今日も

つくづく

そう思った。

 

つづく

 

もうすぐひらめく

 

どうせ今の自分

には、

わからんだろう。

 

思うことが

多々ある。

 

もっと経験を

積み、

未知の領域に

進まなければ

 

決して

見えないものは

ある。

 

それを楽しむ

ことがまた

人生の醍醐味である

とも言えるのだが、

 

なんか

どこかが悔しい。

 

わからないことが

何か

すらわからない

のも

悔しい。

 

だから私は

意識を未来に

向ける。

 

じーっと

意識を向け続けて

いると、

 

何やら

ニンマリしている

奴の存在を

感じる。

 

未来の私だ。

 

私は奴に

問う。

 

今の俺が

わからんことは

何だ?

 

すると奴は

さらにニンマリ。

 

何も

言わねえ。

 

しかし意識は

伝わってくる。

 

言葉にすると

こうだ。

 

そのうち

わかるよ。

 

わからんことが

ある、

というその感覚だけで

いいじゃないか。

 

その感覚を

大切にすれば

いい。

 

感覚がある

ということは、

そのうちわかる

ということだ。

 

しかし

ニンマリした

奴の顔を見ていると、

 

やはり

悔しい。

 

奴は

ニンマリしながら

私の背後まで来ると、

 

私の両肩に

手を置いた。

 

すると

何かがわかった

気がした。

 

気がしたのだが、

ただの感覚だ。

 

ひらめきの

あの感覚

だけだ。

 

内容は

わからない。

 

こういうひらめきが

あるってことだ。

 

奴は言う。

 

そうか、

こういうひらめきが

訪れるのか、

と思うと

嬉しいは嬉しいが、

 

しかしやはり

ちょっと悔しい。

 

つづく

 

観えない

 

時々、

物事をあるがままに

観れないなぁ、

思うことがある。

 

その場合は

その状態を

素直に楽しむことに

している。

 

観れないなら

観れないで

いいや、

と。

 

そして

自分の意識を

今の自分に

預けてしまう。

 

すると、

自分が今

何に巻かれているか?

 

何を

グルグルしているのか?

 

なぜ

あるがままに観れないか?

 

などが

よ〜く観えるようになる。

 

多くの場合、

 

例えば、今の今

だが、

 

私の頭は

まるで巨大な雷雲

のようなものに

巻かれている。

 

真っ黒な雲。

 

稲妻が走る。

 

頭が痛い。

 

当然、

何も見えないし

観えない。

 

というのが

観えてくる。

 

そこまでわかれば、

意図的に

その黒い雲の

中に

意識を埋没させる。

 

決して

それは取り除こう

とはしない。

 

埋没して、

それ自体を

味わい尽くそう

とする。

 

当然それは

とても苦しいし、

 

頭も

余計に痛くなるが、

 

しかし

あえてそうする。

 

すると

いろんな叫び声が

聴こえる。

 

多くの苦しみの

声みたいなのが

聴こえる。

 

あ〜これはやっぱ、

私の心では

ないな。

 

誰から受け取った

ものかな?

 

それとも、

今の世の中全体から

伝わってくる

ものかな?

 

などなど、

ちょっとは客観的に

なりながらも、

 

しかしあまり

客観的、評価的に

なり過ぎないように

そこに自分を

ただ預ける。

 

するとだんだんと

それらは

浄化されていく。

 

ゆっくりと。

 

私は最後まで

ただ感じるだけ

にする。

 

そして

すべてが消え、

スッキリと周りを

観れるようになると、

 

今度は私は

その

あるがままの世界に

そのまましばらく

自分を預けておく。

 

そうすると

自然に、

私の中から

光のような一つの

「願い」

が湧いてくる。

 

ちょっとした

願いだ。

 

言葉には

ならない。

 

それでいい。

 

しかし

その直後に

ちょっとした指針が

浮かび上がってくる。

 

「もうちょい、

ゆっくり行っても

いいか・・・」

 

今回は

こんな呟きだ。

 

そして私は

それに素直に

動くことにする。

 

つづく

 

当たり前だろ

 

私の心の中に

光が浮上する。

 

眩い。

 

そんな光が

観えると、

私は必ずその中に

入る。

 

そして

じっとする。

 

すると

毎度、そこには

誰かがいる。

 

一人の場合も

あれば、

たくさんの人達の

場合もある。

 

その人達の気配

を感じながら、

 

ただただ

じっとする。

 

時には、

その人達の気配は

そのままに、

しかし、

その人達が

スーッと

遠のくことがある。

 

遠くから

その人達は

私を見守る。

 

そこで私は

何か準備をしている。

 

それを

彼らはただ

見守る。

 

「終わりましたか?」

 

という

彼らからの問いが

来ると、

 

「終わったよ」

 

私は答える。

 

すると彼らは

また近づいてきて、

 

私と

スクラムを組む。

 

私はとても

勇気づけられ、

 

と同時に

一つの問いが

浮かぶ。

 

凄い問いだ。

 

ここでは

書けない。

 

確かに

この問いと対峙するには

勇気が要る。

 

でももう

対峙してしまった。

 

私は

すぐに答えた。

 

「当たり前だろ。

もう決めたんだ。」

 

つづく