- ホーム /
- 2019年 8月
本当は、
不安定なのは
良いことだ。
思いっきり
不安定になる
ということは、
思いっきり
不安定になれるだけの
土台がある
ということだ。
土台が強固に
なればなるほど、
存分に
不安定になれる。
それが
私達の心の
真実だ。
ところが、
私達の多くは
この不安定さが
すべてであると
思い込む。
そして
不安定であることを
恐れすぎ、
不安定の波に
完全に呑まれてしまう。
溺れてしまう。
海に海底が
あるように、
どれくらい不安定な
心にも
海底が(大地が)
ある。
その心の大地を
常に
感じ取れるように
なれば、
どのような不安定も
安心して
観ていられる。
不安定さを
そのままに
しておける。
その
心の大地のことを
私は
『真本音』
と
呼んでいる。
・・・・・・
「大地」には
意志がある。
願いがある。
大地の願いを
叶えるために
大地は様々な
「不安定」を
自らに与える。
それは
不安定の中に
自分を溺らせる
ことが目的ではない。
自らを
「進化」させることが
目的だ。
「大地」は
進化を望んでいる。
「大地」は
常に
自らを進化させようと
思っている。
「固定」から
進化は生まれない。
「混沌」から
進化は生まれる。
だから
混沌(不安定)は
決して悪いことではない。
むしろ
そのまま受け止めれば
いい。
どれだけ混沌が
起きようとも、
自らは
大地にしっかりと
立ち、
ただただ
混沌を見つめれば
いい。
そのうちに
混沌そのものを
楽しめるようになるだろう。
・・・・・・
荒れ狂う海を
鎮めようと
してはならない。
海はそのままに
自らは
海底(大地)に
立てばいい。
すると、
海が荒れ狂って
いるからこそ、
そんな状態だから
こそ、
いや、
そんな状態でしか
できないことが
あるのだ、
と理解できるだろう。
不安定の
今しか
できないことが
ある。
それを
するんだ。
それをするためには
大地に立つ
しかない。
つづく
定期的継続的に
お客様のところに
通っていると、
時々通うが故に
そのお客様の
「変化」が
とてもよくわかる。
「変化」はまず、
本人が
決して気づかない
ところから始まる。
顕在意識、潜在意識
という観点から言えば、
まずは
潜在意識の変化
から始まり、
それはすぐにその人の
「空気感」
として現れる。
空気感なので、
本人には
わからないのだ。
しかしそれが
ガラッと
とてつもなく大きく
変わることがある。
あぁ来たなぁ、
と
私は内心で
ニッコリする。
この人達の
本質的変化が
始まった、と。
あとはその変化が
どのように
「顕在化」
するかを楽しめばいい。
ここからが
コーチとしての
この仕事の醍醐味だ。
「顕在化」は
多くの場合、
私の想像もしない展開で
成されていく。
おぉ、そう現れるのか。
と、
びっくりすること
ばかりだ。
逆に言えば、
こちらの意図通りに
変化したり、
思惑通りの成長
であるならば、
それは
本質的な変化とは
言えないと
私は思っている。
ただ
表面上だけが
形だけが
チョロっと
変わっただけのこと。
そういうのはすぐに
もとに戻ってしまう。
しかし本質的変化は
文字通り
「変質」
だ。
しかもやはり
本人がそれに
気づいていない。
こんなに変わったのに
あまりに自然なので
本人にとっては
「普通」なのだ。
でも、
その変化は明らかに
現実も変えていき、
気づけば
あれ?
なんでこんなに
いいことばかりが
起こるのだろう?
と
ようやく本人も
気づき始める。
そして言うのだ。
「たけうちさん、
周りの誰々さん達が
変わったんですよ!」
と。(笑)
いやいやいや、
あなたが変わったから
みんなも
変わったんだよ。
それをフィードバック
する時がまた
たまらなく
面白い。
この仕事は
本当に
面白い。
それは、
「人間」が
面白いからだ。
つづく
たとえ今日で
人生が終わって
しまっても、
私には
後悔は一つも
ないだろうな。
いやいや、
やり残したことは
たくさんあるし、
これからやりたいこと
実現したいことも
たくさんあるし、
何よりも
家族もいるし、
仲間もいる。
いろんなことを
残して
去って行くのは
とても悲しいことだが、
でもやはり
「後悔」には
ならないだろうな。
え? いや、
ご安心を。
私はあとまだ少なくとも
27年は
生きるから。
でも、今日
ある社長さんの
コーチングをしながら
ふと
そう思えたんだ。
本当に私は
今、
「後悔」というものが
ない、と。
「ああしとけば良かった」
が、
一つもないのだ。
・・・・・・
もちろん
上手くいかないことは
たくさんあるし、
試行錯誤
ばかりだ。
でも、
ちゃんと
試行錯誤すべきを
試行錯誤して来た。
経験すべきを
経験して来た。
と思うんだ。
たとえ今から
タイムマシンで
過去に戻ったとしても、
今日までの記憶が
あるままに
過去に戻ったと
しても、
私はきっと
過去と同じ選択を
し続けるのだと
思う。
それが
「最善」
だから。
・・・・・・
な〜んて
本当に思えるように
なったのは、
この7〜8年
くらいかな。
でもこの7〜8年は
そういう日々が
続いている。
これが
真本音で生きる
ということだ。
もちろん
今も私は
未熟だ。
真本音で生きる
とは
「完成された人生を生きる」
ということではない。
「完成」などないし、
人間はずっと
未熟だし、
だからこそ
「進化」を
し続ける。
真本音で生きる
とは、
その「進化」を
存分に楽しむ生き方
だ。
最大に味わう生き方
だ。
だからこそ
「後悔」がない。
とはいえ、
「後悔のない人生を
生きよう」
などと
意気込む必要もない。
真本音で生きれば、
自然に
そうなるのだからね。
つづく
もうそろそろ、
答えを出しても
よい頃では
ないかな。
これまでずっと
あえて
決断せずに
きたことの
答えを。
何度も何度も
決断を試みたけれども、
何度決断しても
決断し切れなかった
ことを。
・・・・・・
決断には
準備が要る。
覚悟ができた
とは、
準備ができた
という
ことでもあるんだ。
準備ができたら
一刻も早く
決断をし、
先に進んだ方が
よい。
・・・・・・
私は常日頃、
いつも口癖のように
言い続けている
ことがある。
それは、
「決断は
タイミングだ」
ということ。
決断すべき
その瞬間を
逃さないこと。
あらゆる決断には
ベストタイミングが
あり、
それを掴むこと
こそが
真の決断に
結びつくと。
言うまでもなく、
真の決断とは
真本音による決断
ということだ。
・・・・・・
あなたの真本音は
今、
次に進もう
と
しているんだ。
つづく
あなたの心は今、
静かだろうか?
静寂だろうか?
そうではない、
のではないかな。
あなたの中には
「叫び」
があるはずだ。
しかしそれは
決して
悪いものではない。
その「叫び」は
エネルギー開放(解放)
によるもの。
あなたの中心からは
今、
言いようのない
エネルギーが
溢れ続けているのでは
ないかな?
・・・・・・
それは
これまでのあなたの
努力の結晶だ。
これまで粛々と、
一歩一歩を
誠実に生きてきた
証だ。
ひょっとするとあなたは、
そのエネルギーの
あまりの凄まじさに、
あまりの強さに
怯え、
それを観ないように
しているかもしれない。
その気持ちは
わかる。
でもそれは
紛れもなく
あなた自身の
エネルギーであり、
パワーだ。
あなたのこれまでの
生き方が
生み出している
ものだ。
正確に言えば、
あなたと宇宙との
共鳴による
新たな波動だ。
だから
恐れることなく、
それを
観ればいい。
存分に
浴びればいい。
委ねれば
いい。
・・・・・・
しばらくの間は
あなたはそのエネルギーを
制御できないかも
しれない。
あなた自身が
エネルギーに
呑み込まれてしまうかも
しれない。
それでも
いいじゃないか。
たまには
いいじゃないか。
でも何がどうあっても
そのエネルギーは
あなた自身が発している
ものであり、
あなた自身だとも
言えるのだから。
新たな自分
とも言える。
だからいっそのこと
諦めて
すべて
呑み込まれてしまっても
良いのではないか。
・・・・・・
呑み込まれても
それは
一時的なものだ。
すぐにそれは
コントロール可能と
なる。
そのエネルギーは
あなたがあなたの
人生の願いを叶える
ためのもの。
あなたの
味方だ。
そのエネルギーを放ちながら、
あなたは
これまでとは
ステージの違う
人生を始めるだろう。
それは
もうすぐだ。
楽しみだ。
応援するよ。
つづく
自分が何をすれば
よいか?
わからなくなったら、
まずはいったん
止まってみよう。
そして
周りの「現実」の
一つ一つを
じっと見つめてみよう。
「現実」の中に
すべてがある。
これまで自分が
たどって来た道。
これまで自分が
行ない続けて来た
足跡。
それらが
「現実」に
刻まれている。
私は
何をすれば
よいか?
その答えは、
自分の中には
ない。
「現実」の中にこそ
ある。
それは、
自分の意思を無視して
周りに合わせなさい、
ということとは
真逆の意味だ。
あらゆる「現実」に
あなたの意思は
ある。
あなたはもう
それだけのことを
やってきたはずだ。
きっと今、
「現実」達は
あなたに教えて
くれるだろう。
ちょいと
無茶なことを。
これまでの自分を
大きく超えることを
やってほしい、
と
あなたに対して
欲求してくるだろう。
えぇ〜っ!
と
あなたはたじろぐ
かもしれない。
でもその
たじろぐことを
スタートするために
今、あなたは
あなたのやるべきことが
わからなくなっているのだ。
あなたはこれから
「現実」の世界で
あなたを大きく
超えていく。
心の中の世界では
もう
準備は整って
いるんだ。
つづく
最近、多くの方々との
出会いがあり、
私のこのブログを
読み始めていただいている
人も増えているようだ。
大変、ありがたいこと。
こんなマニアックで
大衆受けの対極のような
内容のものを
読んでいただけるとは。
このブログでは私は
『真本音』
という言葉を
当たり前のように
使っているので、
この「真本音」について
改めて解説するような
記事を
今後は増やしていこうかと
思っている。
・・・・・・
「真」
という文字を辞書で
引くと、
・まこと、本当、本物、真実
・真理
・真剣なこと
・嘘偽りのない、真実の
・正確な、ぴったりでズレのない
・混ざりけのない
・美しい
・ありのまま
・自然のまま
などの言葉が並ぶ。
まぁ要するに
そういうことだ。
私の会社の社名は
そのまんま
『株式会社真本音』
なので、
初対面の人の多くは、
「真本音って何ですか?」
と訊いてくださる。
そんな時、私は
一言でお答えするように
している。
「本当の本当の本当の
本音です」
と。
すごく短絡的な表現だが、
このくらいが
面白い会話になるからだ。
「ということは、
本当ではない本音
というのもあるのですか?」
と、それこそ真剣に
訊いてくださる人も多い。
「はい。その通りです。
ご本人は
本当の本音だ、
と思っていても
実はそうではない本音
というのが
いっぱいあるんですね」
と、
大概の場合は
お答えすることにしている。
「でも、本当の本当の本当の
本音に基づいて
行動する人は、
とてつもないエネルギーが
出るんですよね」
というお話をすると、
この時点で
ご興味をいただける人と
そうでない人が
明確に分かれる。
ご興味をいただける
人とは、
ここからかなり
深い話に入っていける。
・・・・・・
人の育成や
成長に関して、
本当に真剣に
取り組んでこられた人は、
この「真本音」という
言葉に、
すぐに「ピン」と来てくれる。
ほとんど私が
何の解説もしないのに、
「真本音」という言葉を
知るだけで、
「なぁなるほど」
とおっしゃってくださる。
と同時に
その時点もう
目がキラキラされる。
そういう人は
本当に「現場」を大事に
され、
人といつも向き合いながら
試行錯誤を
続けている人だ。
そしてそういう人は
かなり具体的なご体験や
ご質問を
私に投げてくださる。
例えば、
「人が本当に真剣に
仕事に取り組むには
どうすればよいのでしょうか?」
という質問ではなく、
「弊社にこんな傾向の社員が
います。
そして、こんな時にこんなことが
あったのですが、
それをどうすれば良いか、
すごく悩んでいます。
これまではこういった手を
打ったのですが、
なかなか効果がなく、
・・・・」
というような
かなり具体的なご質問
となる。
こういったお話の方が
私はとても嬉しい。
具体的なお話や
リアリティのあるお話には
具体的でリアリティのある
お答えができるからだ。
もちろん私の答えが
すべて
ではないし、
私が正しい答えを
言えている保証などない。
でも、
人の育成や成長について
真剣に
意見交換ができる。
その真剣さが
お互いに確認できると、
これが
新たなご縁となって
発展する。
・・・・・・
「真本音」
というのは
私の造語だが、
しかしこれはどう見ても、
私が考えた言葉
のようには思えない。
この言葉のおかげで
私は随分と
素敵な出会いを
広げられた。
この言葉がなければ、
23年間も
この仕事を続けることは
できなかっただろう。
だから私は
この言葉にとても
感謝している。
この「真本音」について、
いろんな角度から
語っていく記事を
今後は増やしていこうかと
思っている。
つづく
人には
「変わりたくない欲求」
がある。
今のままの
自分でいたい、
今のままの
環境でいたい、
今のままの
やり方でいたい、
・・・と。
しかしそれらの
欲求達は
「変わるため」
にある。
「変わりたくない欲求」
を超えてこそ
私達は本当に
「変われる」。
抵抗のない
変化は
意味がない。
・・・くらいに
私達は思っているのだ。
・・・・・・
あなたは
あなたの何を
今、
変えたいだろうか?
それを知るためには、
あなたは今、
あなたの何を
最も変えたくないか?
に
目を向ければいい。
自分が最も
変えたくないもの
こそが
最も
変えたいもの
だ。
変わることに対して
最も抵抗するものが
最も
変えたいもの
だ。
あなたのその
「抵抗」を
じっと
見つめよう。
見つめるだけで
いい。
あとは
何もしなくて
いい。
ただただ、
じっと
見つめることだ。
その「抵抗」は
いったい
何者か?
それがわかるまで
じっと
観察を続けよう。
解釈は
いらない。
観察だけを
続けよう。
すると
その「抵抗」の
根本にある
「願い」が
自然にわかるだろう。
あとは
その「願い」を
素直に
受け取るだけだ。
あなたは
先に
進める。
つづく
私の仕事は
向き合う人達のストレスや
苦しみを
そのままダイレクトに
受け取ってしまうので、
もう十数年前になるが、
私は一度、
体を壊してしまったことがある。
自律神経がどうも
おかしくなってしまったようで、
ご飯を食べられなくなった。
一日に食べられる量は、
確か、茶碗に3分の1くらい
のお米と、
お椀に3分の1くらいの
味噌汁くらい。
それ以上は
体が受け付けなくなった。
それでも当時は
毎日、
研修などでお客様の前に
立ち続けた。
当時はまだ私には
ストレス浄化のやり方も
力もまったくなかった。
確か、一気に10kgくらい
痩せちゃったんじゃ
なかったかな。
もしあのまま
行っていたら、
間違いなく死んでただろう。
当時はもうすでに
真本音の話とかしていて、
「真本音を大事にして
もっと楽に生きよう」
とか、
皆さんに訴えていたのだが、
「そう言ってる竹内さんが、
一番苦しそうだよ」
などと
お客様から言われたり
した。(苦笑)
・・・・・・
もともと私はお酒が
好きだったが、
あの時から飲めなくなった。
しばらくして
食事は徐々に取れるように
なったが、
お酒はダメだった。
確か、
6〜7年くらいは
飲めなかった。
ところが、
2011年くらいだろうか。
真本音をキャッチする力
とか、
「実在」を感じ取る力が
急速に開花した。
と同時に、
自分自身を癒す力も
急激に高まり、
一気に私は健康体に
戻れた。
するとまた
お酒を飲めるようになった。
そして、ある時から私は
なぜか
ウィスキーが好きに
なった。
しかも私は基本的に
ウィスキーを
ストレートで飲む。
氷も入れない。
この飲み方が
大好きになった。
・・・・・・
もちろん他のお酒も
好きだし、
ハイボールにしたりして
飲むのも好きだ。
しかし
ストレートで飲むと
酔い方
が違うのだ。
基本的に、
お酒を飲むと
人の真本音は
出づらくなる。
これ、
よく誤解されることだけど、
お酒は
真本音よりも反応本音の
方が
出やすくなってしまう。
でもだからこそ
大事だと私は
思っている。
そこで反応本音達を
存在承認するから
心が楽になったりできる。
それはそれで
良いとして、
しかし私の場合、
(あくまで私の場合だと
思うのだが)
ウィスキーのストレートは
真本音がより
出やすくなるのだ。
だから恐らく、
ウィスキーのストレートに
関しては、
それを飲んで仕事を
したとしても、
仕事のレベルは
下がることはないだろう。
もちろん、
試したことはないが。
なんでこれを
書いているかと言えば、
別に
ウィスキーのストレートを
皆さんにオススメしている
わけではない。
大事なのは、
自分の真本音を
より開花できるアイテムが
人それぞれ何かあるはずだ、
ということだ。
例えば、
電車に乗るのも
私にとってはそれだ。
私は電車に
独特の乗り方をする。
これについてはまた
機会があれば
書かせていただくが、
ちょっと
変態的な(笑)乗り方だ。
もちろん
人様に迷惑をかける
乗り方ではない。
基本的に私は
電車では座らないし。
立ったままで
とても気持ちよく乗れる
方法を見つけたから。
しかもその状態で
セルフコーチングをすると
とてつもなく
楽に発想が出る。
だから私は
電車の移動が大好きで、
電車の移動そのものが
趣味みたいなものであり、
ストレス解消にもなる。
まぁ、・・・
このように、
(変な言い方だが)
この3次元の世界を
楽しみながら、
かつ
自分自身の真本音を
活性化させる方法は
いくらでもある。
これも
人生を楽しむ
ということの一つだと
私は思っているんだ。
つづく
昔、ヒマラヤをトレッキング
した時、
5000m近い高地に住む
人達の中に、
子供達の姿を何人も
見かけた。
生まれたばかりで
母親にずっと
背負われている子も
いたし、
2歳くらいの
ヨチヨチ歩きの子も
いた。
4歳や5歳になる子は
すでに、
大人の我々が運ぶことも
できないような
重い荷物を運ぶ仕事を
していた。
皆、当たり前のように
そこで生きていた。
人は
どこで生まれるか?
によって
人生を大きく左右される。
物心つく前から
いる場所が
その人にとっての
「当たり前」となる。
人間は、
というよりも生物は、
環境に順応して
進化する。
心と環境のコラボ
が人生だ。
・・・・・・
子どもにとって
影響のある環境とは、
生まれた土地も
そうだが、
やはり両親の存在は
大きい。
両親がどのような人か、
どんな生き方や
考え方をしているか?
が
ダイレクトに影響する。
もちろん
その影響を超えて行く
のが人生、
という見方もあるし、
私もその通りだと
思うが、
やはり「最初の影響」は
大きい。
これからの社会が
進化するかどうか?
は、
「親のあり方によって
決まる」
と言っても
言い過ぎではない。
実は私は
親子関係のサポートも
よくさせていただく。
特に多いのが、
会社の社長や幹部さん達の
ご家族に
お会いさせていただく
パターンだ。
家庭訪問をさせて
いただくこともある。
そして社長のお子さんを
コーチングさせて
いただく。
親子共々の
コーチングも多い。
でも、
やることはいつもと
同じだ。
親も子も
一人ひとりの
真本音度合いを高める
サポートだ。
ご家庭での調和は
会社の調和に
直結する。
ご家庭が上手く
いっていない社長さんは、
やはり
経営にも不調和が
起こりやすい。
家庭も仕事も
人生だ。
・・・・・・
子ども達は
じっと親を
見つめている。
私達が想像している
以上の洞察をもって。
特に最近の
若い子達はそうだ。
その視線は
我々の世代には
なかったものだな、と
よく思う。
少なくとも私は、
親が自分の人生に
そして仕事に
誇りを持っていてほしいな、
と思う。
自分なりの誇りを
語れる親であって
ほしい。
いつも前向きで
いる必要はないし、
いつも明るくいなければ
ならないわけでもない。
格好いい部分だけを
見せるのは
むしろ私は反対だ。
「生き様」そのものを
見せた方がよいが、
それはその親の
「等身大」で
あってほしい。
「自然な生き方」で
あってほしい。
今は残念ながら
本当の「等身大」で
生きている人も、
「自然」に生きている人も
割合としては
かなり少ない。
今は残念ながら、
親が子どもを支える
というよりも、
(本質的には)
子どもが親を支えている
という親子が多い。
お互いに支え合えば
よいのだが、
親が子に
依存しているのだ。
よく
「子どもは親を選べない」
と言われるが、
私はそうは
思っていない。
子どもは親を選んで
生まれてくる。
最初から、
親と「コラボ」しようと
して
ここに来るのだ。
だから「等身大」の自分として、
ちゃんと子どもと向き合い、
コラボしよう。
上手くやろうと
するのではなく、
あるがままに
コラボしよう。
つづく
私達はどうしても、
・目の前にある「現実」
と
・自分の中にある「願い」
を
分離して
捉えてしまいがちだ。
「願い」は願い。
「現実」は現実。
「願い」と「現実」には
当然
ギャップがあるわけで、
そのギャップが
いやだ、
と感じるし、
ギャップがあるからこそ、
まぁ所詮、
「願い」なんて叶うわけ
ないし、
と
どこかでついつい
思ってしまう。
ギャップを埋めることが
生きがいだ!
と
前向きに考えることの
できる人もいるが、
残念ながら
稀だ。
だから人によっては
「願い」を持つこと
自体が
意味がない、
ともなる。
そこまでいかなくとも、
「願い」は願い。
「現実」は現実。
所詮それらは
別々のものだ、
となりやすい。
そして
「願い」とは分離された
「現実」に向かう。
「現実」のための
「現実」に向かう。
それはそれで
大事なんだけどね。
・・・・・・
コーチングの醍醐味
の一つは、
「願いと現実をつなぐ」
ところにあると
私は思っている。
しかもこれは
「ギャップを埋める」
という
意味ではない。
将来、「願い」を実現しよう、
という意味ではない。
(もちろん、それはそれで
大事だが。)
今、ここで、
そう、
今、この瞬間に
「願いと現実をつなぐ」
のだ。
もっと言えば、
「願いと現実を
つなぎ続ける」
のだし、
ちょっと言葉を換えれば、
「今この瞬間の現実に
願いを込める」
ともなる。
「願い」とは
「願い」であること自体が
素晴らしいし、
意味がある。
もちろんその「願い」を
叶えることができれば
尚、素晴らしいが、
叶っても叶わなくても
人は
「願い」を持っていること
自体で
エネルギーが湧く
生き物であり、
「願い」を持っていること
自体で
幸せになるし
満たされる生き物だ。
ただしそこには
一つ重要な条件があって、
「願い」であれば
何でもいい、
というわけではない。
一言で言えば、
「真本音の願い」
であることが重要だ。
しかも
「真本音の願い」
とは、
私達が新たに創り出す
ものではない。
もともと
私達の心の中心に、
(魂に、と言ってもいい)
最初から
あり続けるものだ。
それを見つけ、
それを常に自覚し、
今この瞬間に
大切にし続けること。
常に「願い」を
思い出し続けながら、
「現実」に向かうこと。
これができると、
その人は
本来の魅力を
パァーーーッと
発揮するようになるし、
先天的な能力も
開花し始めるし、
先ほども書いた通り
常に
「満たされた状態」
になれる。
この状態にまで
サポートするのが
コーチングの
「第一段階」
だ。
だから私は
この仕事が大好きだし、
でも本当は
コーチングなんぞなくても
みんなが自然に
その状態になれる
社会にしたいな、
と
願うのである。
つづく
何でもかんでも
ガムシャラに
突き進めばいい、
というものではない。
無駄なことは
する必要はないし、
常に全力を尽くすこと
だけが
「真剣」ということでは
ない。
いかに楽に進むか?
こそが
大切だし、
どこで力を抜き、
どこで力を込めるか?
について
見極めることこそが
「真剣」だと
思う。
そういった前提の
上で、
あえて言うが、
「みんな、
もっとガムシャラに
なった方がいい!」
ガムシャラを
知らずして、
楽もヘッタクレも
ないだろう。
どこで力を抜き、
どこで力を込めるか?
は、
ガムシャラな経験が
あってこそでは
ないか?
・・・と私なぞは
思うのだが、
私は古い人間か?
・・・・・・
上手く進もうとすることと、
楽な道を進むことは、
似ているようで
真逆なことがある。
例えば、
人間関係。
波風を立てずに
上手く立ち回ろう、
とか
自分の本音は抑えて
迎合しながら
ぶつかり合うのを
避けよう、
とか。
そのように
上手くやろう上手くやろう
とすればするほど、
人間関係は
本質的に悪化の一途を
たどる。
そして気がついた時は、
周りの誰からも
信頼されず、
楽な道どころか
最も茨の道を
進むことになる。
一見、大変そうに見えても、
一人一人、
一つ一つ、
丁寧に向き合う人こそが
結果として、
楽に道ができていく。
・・・ということが
現実的に起きていることだが、
しかしそれが本当に
わかるためには、
人間関係を良くしよう!と
ガムシャラになった
経験を経なければ
無理だろう。
頭だけで
楽な道を考えれば、
ただの
小賢しいヤツ
にしか
ならないな。
特に若い人達には
そうなってほしくない。
小さく
まとまってほしくない
のだ。
・・・・・・
とはいえ、
むやみに困難に向かえ、
ということでもない。
それはそれで
単なる自己満足だ。
私のオススメは、
今、目の前にある
現実。
例えば、
目の前にある仕事。
与えられた
役割。
そこに対して一度、
ガムシャラになっては
どうだろう。
いや、
モチベーションが
上がらないから。
という人もよくいるが、
モチベーションが上がるとか
下がるとか、
この際、関係ない。
やる気があろうが
なかろうが、
まずはガムシャラに
なってみるのだ。
そんな無茶な。
と思うかもしれないが、
それが必要なことも
あるんだ。
特に今の
あなたにはね。
つづく
今さ、
気になっていることは
ある?
どうしても
気になって
意識からなかなか
離れてくれないこと。
ある?
普段なら
気にも留めないのに、
なぜか
気にかかること。
もしあるのなら、
それ
ちょっと大切にすると
いいよ。
特に今はね。
今、多くの人が
感性が研ぎ澄まされているんだ。
そんな時期だと
言っていい。
だからこういう時に
気になるということは
きっと大事な何かがある
という合図だと思うんだ。
できれば「それ」に
一歩近づいてみると
いいよ。
怖い?
怖かったら、
遠まきに観察するだけでも
いいよ。
とにかくその
「気になる」という
感覚を
大切にするといい。
まぁ本当はこの感覚、
いつも大切にできると
なおいいんだけどね。
私の場合?
私の場合はよく
「人」が気になるね。
そう、
特定の誰かの顔がふと
浮かんだりするんだ。
昨日もちょっと印象的な
夢を見たんだけどね、
目が覚めた直後に
ある会社の社員さんの顔が
浮かんだ。
で、ちょっと気になったんで、
その社員さんと夢の
関係性について
セルフコーチングしてみた。
すると、
その人へのメッセージを
思いついたんだ。
だから次回お会いする時に、
そのメッセージを
伝えてみるつもりだ。
え?
そうそう、いつもこんな感じ
だよ、私は。
まぁ、夢がきっかけになることは
あまり多くないけど、
ちょっと気になる、
というのがとても大きな
ヒントや転機に
なることは多い。
だからこの感覚、絶対に私は
逃さないことにしてるんだ。
「気になる」
は
ヒントの宝庫だと
思うんだ。
つづく
自分をコントロールできない
とき、
その原因は2種類ある。
一つは、
自分自身のエネルギーが
枯渇している場合。
もう一つは、
その逆で
エネルギーが高まり過ぎて
制御できていない場合。
・・・だ。
今、
後者の状態にある人が
増えている。
しかし面白いことに
本人は
前者だと思い込んで
いたりする。
もちろん
前者と後者では
対応の仕方はまったく
異なる。
前者だと思い込めば、
上手な対応ができず、
余計に
コントロールが利かなくなる。
・・・・・・
エネルギーが一気に
高まる原因は
真本音度合いが高まる
ところにある。
ところがあまりに
一気に高まり過ぎて
自分の制御力を超えてしまう。
実は私のクライアントさんに
多いケースだ。
その場合、
まずは最もシンプルな
対応の仕方をしてもらう。
それは何かと言うと、
「エネルギーの源を
自覚すること」
だ。
自分の体の中全体に
意識を向け、
自分の中の
「とてつもなく明るい部分」
を
まずは見つけてもらう。
例えば、
胸の中心がとても
明るい気がする、
と
わかった場合、
恐らくそこが
「エネルギーの源」だ。
場所がわかれば、
今度はそこに意識を
向ける。
場合によっては、
その明るいエネルギーの
中に
自分自身が入り込んで
しまってもいい。
エネルギーの源の中を
探検するような感じだ。
あまりに明る過ぎて
怖い、
と思われるかもしれないが、
いやいや、それ
あなた自身だから。
自分自身の内側から
発しているエネルギーだから
大丈夫。
思い切って
その中を探検してみよう。
エネルギーの光の中に
入っていくイメージで
その光の中心に
向かっていこう。
ここが中心かな、
と思える場所に着いたら、
さらにその
中心に入って行こう。
中心の中心の
またその中心に
ずっと入り込んで行く感じ。
すると
「もうここが本当の
中心だ」
と思える場所に
たどり着くだろう。
そこまで来たら
あとはその場で
じっとしていよう。
じっとしながら
そこに存在している
「自分自身の声」
を聴こう。
場合によっては
「このエネルギーは
私自身のどんな願いから
生まれている?」
と
問うてみてもいい。
そこでじっとしていると
自然にわかるはずだ。
あぁそうか、
このエネルギーの源は
〜〜という私の願い
だ、と。
人は
真本音度合いが高まる
ことで、
真本音レベルの願いが
浮上し始める。
それがある一定以上に
浮上すれば、
そこから強烈な
エネルギーが発せられる
ようになる。
エネルギーの源には
必ず、
「願い」があるのだ。
その「願い」を
自覚することで、
エネルギーの意味が
わかる。
と同時に、
「これは私のエネルギーだ」
と
合点がいく。
合点がいくことで
私達は、
「普通」になるのだ。
つまり、
「このエネルギーがあるのは
当たり前のことだ」
と思えるようになる。
するとその瞬間から
コントロールが利く
ようになる。
なぜならそのエネルギーを
どのように活用すればよいか?
は
自分自身が最初から
一番よくわかっているからだ。
・・・・・・
多くの場合、
人は
自分自身をしっかりと
理解することで
自分をコントロール
できるようになる。
自分を制御できない人は
理解が足りていない
だけだ、
と言っても
言い過ぎではない。
「自分」
とは、
恐ろしいものではない。
「自分」
とはどんな存在なのか?
を楽しくいつも
探検しよう。
つづく
きっとこの人には
良いことが
あるだろうな。
そう思える人は
そう思える空気感を
まとっている。
もちろん
逆もある。
この人は苦労する
だろうな、
とすぐわかる。
これは私だけが
わかるのではなく、
誰もがそういうの
何となくわかるよね。
その違いは
一つには
その人のコミュニケーションの取り方、
もしくは
人との接し方や向き合い方
を見ていればわかる
というのもあるし、
もっと直観的なもの、
本当にただただ感じる
空気感そのもの
でもわかるよね。
この人はきっと
幸せなことがたくさん起こる
人生になるな。
この人がすることは
きっと上手くいくことが
多いだろうな、
と思える人の
空気感は
あえて一言で言えば
「オープン」
ということに
なるのかな。
でもこれは、
自分の感情を
表に出すとか、
声が大きいとか、
そういった表面的な
ことではない。
別の言葉にすれば
「取っつきやすいな」
とか
人として
「可愛らしいな」
とか
「軽くて明るいな」
とか。
・・・わかりますよね。
「この人とはずっと
一緒にいたいな」
「この人と一緒に
いるとなんか
幸せだな」
「この人は
居心地いいなぁ」
と、何となく
こちらは思うし、
何となく
「この人好きだなぁ」
となる。
あの空気感は
どこから来るのだろう?
ということなんだけど、
これは実は
私の中では実にシンプルな
答えがある。
そうそう、
「真本音度合いが
高いかどうか」
ということだ。
つまり、
「その人自身が
自らの真本音に
素直に生きているか」
ということで、
ほぼすべてが決まる、
のだ。
これが私の
現場(人生や仕事の現場)
で得た結論で、
これは変わらないな。
これ以外の答えは
ない、といっても
言い過ぎではないと
思えるな。
・・・・・・
私は何のために
人や組織のサポートを
させていただいているか?
と
問われれば、
「真本音度合いを
高めるため」
というこれまた
実にシンプルな答えを
私は持っている。
はっきり言って、
これ以外のことは
実は何もやってないんじゃ
ないか、と
最近、改めて
思うようになった。
というのも、
最近、本当に
クライアントさん達が
一気に真本音度合いを
高めている。
そのちょっと劇的な変化を
ここのところ
毎日のように
体験している。
コツコツと
サポートし続けてきたことが、
一気に花開く
という瞬間が
いつかは来るものだが、
今はそういう人達が
重なっているという
ことなのだろうけど。
それにしても
日々、
あまりにも気持ちが
いい。
「真本音度合いを
高める。」
・・・ほんと、
もうこれしかないね。
これさえできれば
何とでもなるような
気がするな、
みんな。
つづく
昔、
山に登っていた頃、
山の上で台風に遭うと、
それはそれはもう
ひどいことになった。
しかし、
台風は
あらゆるものを
吹き飛ばし、
さらって行く。
だから
台風が去った後は、
霞も塵もすべてが
なくなってしまったような
超純粋な濃い
青空となった。
台風は本当に
大変なのだが、
それくらいの
大きなものが来ないと
ここまでの純粋性は
実現できないのではないか、
と
よく思った。
人の心も
よく似ている。
心の中にも
台風が起こる。
それは私の表現で
言えば、
「脱皮」とか
「羽化」とか
そういった逸脱した
成長の手前で起こる。
本人にとっては
たまったもんじゃない。
立っているだけで
やっとの状態。
あらゆる余裕も
ゆとりもなくなり、
自分を失う。
人によっては
人生そのものを
捨てたくなることも
ある。
それくらいの
状況を経て初めて
たどり着ける場所が
ある。
・・・・・・
心の中に
台風が起きた時は、
できれば
その台風に
身を任せてしまって
ほしい。
間違っても
台風を無くそう
としてはならない。
もしくは、
台風がそこにあるのに
「ないのだ」と
必死に自分に
言い聞かせたり。
そういった「抵抗」は
してはならない。
それをしても
良いことは
一つもない。
せっかくの
「脱皮」や「羽化」が
成されなくなる。
台風の意味が
なくなってしまう。
心の中に台風が
起こるということは、
それだけのことが
起きても大丈夫な
自分になれた
ということ。
だからそんな自分を
信じて、
どれだけ不安定に
なっても
どれだけ自分を
失っても
どれだけ絶望に
落ちても、
ただただ
身を任せてほしい。
・・・・・・
この7月から8月に
かけて、
「脱皮」や「羽化」を
行なっている人が
多い。
ところが
それらの人達は今、
二つに分かれている。
「台風」に身を任せ、
すでに「脱皮」「羽化」を
完了させた人と、
「台風」に抵抗し続ける
ことで
未完了のままの人。
未完了の人はきっと
あまりに
苦しいだろう、今。
だからと言って
「台風」から逃げたり
抵抗してはならない。
あきらめて
ほしいのだ。
すべてを
あきらめれば
いい。
すべてを。
つづく
私の仕事は
人の苦しみを受け取る
仕事である。
と書くと、
自己犠牲のように
思われるかもしれないな。
でも、
自己犠牲ではない。
自己犠牲ではないが、
確かに
苦しい。
今日も、ある人の
コーチングをしていたが、
その人の持つ苦しみを
そのまますべて受け取り、
私は
あまりの苦しみに
意識を失いそうになった。
しかしおかげで
そのコーチングで
何をすべきか?を
知ることができ、
その通りのことを
することで
その人は苦しみから
解放され、
同時に私も解放された。
しかも面白いことに、
その苦しみは
その人本人には
自覚のなかったものだ。
自覚がないのに
確かに苦しんでいる。
多くの人が
その状態だ。
自分の苦しみを
そのまま
苦しめるようになるというのは
なんと健康的なことか、
ということを
私はこの仕事を通じて
知った。
潜在的にせよ、
その人は確かに
苦しんでおり、
その同じ苦しみを
私はそのまま感じ取る。
それだけを見れば
なんと苦しい仕事か、
とも思うが、
しかしその後の「解放」も
共に感じ合うことが
できる。
それはその人にとっては
「本来の自分」に戻る
大切なステップであり、
「本来の自分」に
一歩戻ることが
人としての「最大の幸せ感」の
一つでもある。
その「最大の幸せ感」を
私もそのまま
感じることができる、
ということで言えば、
この仕事は
なんと幸せな仕事か、
とも言える。
・・・・・・
ところで、
「本来の自分」に戻る、
と私達は
どうなるだろうか。
今日の別のクライアントさんは
まさしく「本来の自分」に
戻れた直後の状態だった。
どんな感じですか?
と私が問うと、
「それがまったく
普通なんですよね。
ただ淡々としています」
というお答えだった。
そう、
そうなのだ。
私達は「本来」を
取り戻すと、
まったくもって
「普通」
となる。
これを
『凡』
という。
平凡の「凡」である。
辞書を引けば、
「すぐれ劣りのないこと。
目立つ点のないこと。
ありふれていること。」
などとある。
一般的には
つまらない
というイメージがあるだろう。
実際に
当の本人は「本来の自分」に
戻ると、
かなりその「つまらない」という
感覚に近いものとなる。
しかし実は
その本質は
一般的な「つまらない」とは
まったく異なるものだ。
その「つまらない」とは、
言葉を換えれば、
「やろうと思えば
何でもできてつまらない」
という意味での
「つまらない」なのだ。
実はこれも言葉にすると
ちょっと違和感があるが、
これに近い。
不安も恐れもあるし、
実際に自分の能力だって
変わっていないが、
しかし
「やろうと思えば
何でもできるし、
自分が望むことは
すべてその通りに叶っていくな」
ということを
「思い出している」のだ。
「自然の摂理」を
理屈ではなく「実感」として
思い出している。
だから、
「なんだ、つまらないな」
となる。
自分の中に
喜びもある。
悲しみもある。
苦しみもある。
嘆きもある。
怒りもある。
憤りもある。
望みもある。
願いもある。
祈りもある。
すべてが
ただ、
ある。
そのまま、
ある。
なんだ。
すべて「そのまま」では
ないか。
ということが
そのままわかるのだ。
この状態は
さらに言葉を換えれば、
「完全に自由になれた」
状態でもある。
私達は
完全なる自由を手に入れると
「つまらないな」
となるのだ。
さらに
実感としてわかるのは、
自分の中にある
無限のエネルギーの
存在だ。
正確に言えば、
宇宙全てのエネルギーが
自分と共にある
という実感だ。
なんだ。
いつでも無限のエネルギーが
ここにあるじゃないか。
「つまらないな」
という感じだ。
これらを一言で
表現すれば
『凡』
となる。
そしてこれが
「本来の自分を取り戻した」
状態であり、
私のサポートの目的の
第一段階は
これである。
すべてのクライアントさんが
まずはこの状態にまで
戻ること。
それが
「第一段階」
だ。
つまり、
これができて初めて
私達は
「スタートラインに立てた」
ということになる。
・・・・・・
なんだ、自分は
何でもできるじゃないか。
と
思い出した時点が
スタートライン。
人生の本番は
ここからだ。
何でもできるのだから、
何をするか?
を
自ら決める必要が
ある。
何でもできることが
わかっている状態で
道を決める。
実はこれこそが
最も難しいことの一つ
だ。
本当は
ここからこそが
「コーチング」の
スタートだ。
ちょいと
長くなったな。
この話、
続けようと思えば
永遠に書き続けられるけど、
この続きは、
またその気になったらね。
つづく
丁寧に生きる、
とは
「完了感」を大事に
しながら生きる、
ということと
同義語であると
私は思っている。
一つ決めて
一つ行なう。
それをどこで
終えるか?は
「完了感」の有る無しで
決める。
たとえ仕事の途上で
あっても、
「完了感」が出たら
そこでいったん終える。
たとえ1時間のミーティング
でも、
20分で「完了感」が出たら
そこで終える。
逆に、
「やったー、終わったー!」
と顕在意識レベルで
仕事が完了したと思っても、
「完了感」がなければ
終えてはならない。
何かまだそこで
すべきこと
したいことが
残っているはずだ。
もちろん、
「終わったー!」という
気持ちと、
「完了感」が一致する
ことは多い。
この「完了感」に
敏感になることで、
仕事も人生も、
「時間」も
すべてが調和
していく。
すべてが
楽に進んでいくようになる。
・・・・・・
コーチングでも
そうだ。
たとえ相手が
クライアントさんで
あったとしても、
私は
「完了感」が出たら、
「ここでセッションを
終わりにしましょうか」
とご提案する。
もちろん
たまにクライアントさんの
方では
「完了感」が出ていないことも
あるので、
その場合は続けるが。
しかし
滅多にそれはない。
で、残りの時間を
雑談にする。
するとその雑談の
中でこそ
とてつもなく大切な
気づきがあったりする。
もちろんそれを
狙っているのではない。
残念ながら
狙ってもそれはできない。
本当に終わった。
本当にあとは雑談だ。
と思えるからこそ
得られる気づき。
そういうものが
確かにある。
そんなこんなも
全部含めて、
「完了感」を大切にすれば
人生が楽しくなる。
・・・・・・
「完了感」に敏感に
なるための
最も効果的な習慣は、
一つ決めて
一つ行なう。
を徹底することだ。
今はこのための時間だ、
と
決めるのだ。
もちろん
「今はダラダラする時間だ」
というのもアリ。
ダラダラするなら
ちゃんと
ダラダラする。
「完了感」が出るまで
ダラダラする。
そう決めて
ダラダラするのだ。
もちろんダラダラだけでなく、
すべてのことを
そのように決めて
行なっていくとよい。
すると
最初はわからなかった
「完了感」も、
しだいに感覚でわかるように
なる。
「完了感」がない場合は
そこで終えようとすると、
何となく
気持ち悪いのだ。
この「何となく」が
わかるようになるとよい。
メリハリなく
曖昧なままで
時間を過ごすのは
もうやめよう。
人生は
長いようで短い。
自分の意思で
人生を進めよう。
つづく
大空を見上げることは
大事だが、
見上げるのであれば
その前に、
今ここで立っている
自分自身の足元に
意識を向けてみよう。
ちゃんと自分は
自分の両足で
ガッシリと安定して
立っているだろうか?
立っているつもりが、
自分以外の誰かや
別の何かに
しがみついていたり、
寄りかかっていたり、
もしくは
抱っこされていたり、
していないだろうか?
立っているその場所は
安定した健康的な
大地だろうか?
足元のおぼつかない
沼地だったり、
蟻地獄のような
砂漠だったり、
踏ん張りの効かない
場所ということは
ないだろうか?
ちゃんと
健康的な大地に
自らの足で
しっかりと立つ者だけが、
ちゃんと
健康的に大空を
見上げることが
できるんだ。
足元も見ずに
空ばかりを見続ける
人がいる。
日々のやるべきことを
やらずに
自分の願いばかりに
意識を向ける
人がいる。
・・・・・・
今、目の前にある
自分の「現実」に
もしくは「課題」や「問題」に
向き合い、
行動し、
一歩ずつでも道を創る。
それができない人は
夢に向かっては
ならない。
もっと
極端に言おう。
夢を描いては
ならない。
なぜならそれは
本当の夢では
ないから。
現実に向き合えない
人の心からは
本当の夢は
浮上しないように
私達人間は
できている。
夢を描くならば、
真本音の夢を
描いてもらいたい。
しかしその真本音とは
まずは「現実」を
とても大切にしている。
「現実」を大切にする
生き方が日々できるからこそ、
真本音は
「未来」を観せてくれる。
それが本当の
夢でありビジョンだ。
・・・・・・
今、本当は
何が問題か?
自分が
向き合わねばならない
現実とは何か?
自分が立ち向かわねば
ならないものとは何か?
今、自分は
何をすべきか?
目をそらさずに
見つめてほしい。
もうそろそろ
本気にならんとな。
つづく
残念ながら、
私の体は一つしかない。
時間も
一日24時間と
限られている。
もちろん、
人としての集中力も
体力も気力も
人並みに限界はある。
もう51歳だしね。
ところが、
私が一回のコーチングや
研修などで使う
エネルギー量は
年々増している。
それだけのエネルギーを
注いでも大丈夫な人が
増えてきたからだ。
だから、
今は一日が終わると、
私の生命エネルギーは
ほぼ、ゼロに近くなっている。
それを朝までに
復活させるのが
私の夜の仕事の一つだ。
残念ながら
眠るエネルギーすら
残っていない。
眠るのには
エネルギーが要るんだよ。
だから寝ずして
自分を復活させねば
ならない。
こんなことをもう
7〜8年やってるのだが、
ここにきてさらに
私は一日のエネルギー量を
大幅アップさせねばならない。
泣き言を言いたい
わけではない。
むしろここからはちょっと
傲慢なことを
書かねばならない。
私はこれから
お客様を
選ばせていただくことにする。
もちろんこれまでも
それはやってきた。
私は
私がお客様にしたいと
思える人のみを
お客様にさせていただいて
きた。
具体的に言えば、
「この人を、
たとえ無料でも
サポートしたいか?」
と自分に問い、
迷いなく
「したい!」
と思える人と
契約をさせていただいてきた。
でも残念ながら
今後はさらに
それを絞らねばならない
と思っている。
人間としての
私の限界を超えない
ように。
というよりも、
ちゃんと私が
生き続けられるように。
これは
冗談でも何でもない。
切実な問題だ。
だからと言って
私は病気でも何でもない。
実に健康なのだが、
ただ
一日に使える
エネルギーに限りがある
ということだ。
・・・・・・
正直、
こんなことをブログで
書くことになるとは
思わなかったが、
何となく
書いておいた方がいい
と思うので
書きますね。
これから私は
さらにお客様を絞らせて
いただくと思う。
絞り方は単純。
その人の
「本気度合い」
で決めることにする。
もちろんそれは
私の主観となって
しまう。
あぁこの人
本気だな。
と本当に思える人。
そんな人は
周りへの影響も
大きい。
そんな人を優先的に
サポートさせていただく
ことにする。
こうやって書いていても
傲慢だよな、俺。
・・・と思うのだが、
でも、もうこれをしなければ
ならないし、
それをすることが
世の中に対する
「最大の効果」
となるのも
一方ではわかる。
どこまで
やっていいか?
どこからは
やってはならないか?
このギリギリの
見極めの中で、
これから私は
判断をし続けていくことに
なるだろう。
私は本気の人を
これまで以上に
徹底的に
サポートしていくことに
なると思う。
つづく
目の前に
滝がある。
大量の水が
激しく
落ち続けている。
激しい水飛沫が
私の全身を
襲う。
水飛沫、
うっとうしいなぁ。
と思った私は
いっそのこと
滝壺に
潜り込んでしまおうと
思い、
その通りにした。
すると
もの凄い水圧がまた
私に襲いかかってきた。
大概はここで
やめてしまうのだが、
そして
滝から離れて
しまうのだが、
なんだかこの滝、
気になるのだ。
だからちょっと
がんばって
さらに水中に
潜ってみた。
水圧に負けずに
潜り続けると、
しだいに
静かになった。
滝壺の
奥の奥は
意外にもとても
静かだった。
そこに、
誰かいた。
静かに目を閉じて
眠っているようだ。
ある意味、
サナギのようにも
見える。
私はその人に
近づいてみた。
声をかけようと
したが、
それよりも前に
その人が誰か
わかった。
「どうしたん?
なんでこんなところで
眠っている?」
と
その人に問うと、
その人は目を閉じながら
答えた。
「もうちょっと
眠らせたおいて
ください。
もうすぐ
起きますから。
起きたら、
羽化しますから。」
そっか。
今、その人は着々と
準備を進めているんだ。
こんな滝壺の
底で。
「なんでこんな場所で
準備を進めてるの?」
「自分を試すためです。
この恐ろしい滝壺を
通って、
外の世界に向かうには
相当の覚悟と勇気が
必要です。
でもそこに立ち向かえる
私になれれば
私はやっていける。
それができれば
ちゃんと羽化できます。」
「そうなんだ。
あまり無茶しないでね。
あと何日くらいで
羽化できそうなの?」
「あと二日だと
思います。」
「おー、あと少しだね。
応援してるよ。」
私は上昇した。
するとまた
激しい水の渦が
私を襲った。
そこを突き抜けると、
私は滝壺の
外に出た。
この滝壺を、
あの人ももうすぐ
上がってくるのだろう。
そうしたら
新たなあの人と
出会えるのだろう。
その後の展開が
楽しみだな。
あと二日。
待ち遠しいな。
つづく
一日一日を
自らの意志で始め、
自らの意志で終える
ことは
とてつもなく大切なことだと
思う。
何となく始め
何となく終わる
日々が一年続くのと、
自ら始め
自ら終える
日々が一年続くのとでは、
恐らく
一年後の未来の
「開き方」
は雲泥の差になるだろう。
よく言われることだが、
「時間」は我々に
等しく与えられている。
しかしその密度は
人によってまったく違う。
密度が濃ければ良い
という短絡的なものでは
ない。
密度を濃くすることも
薄くすることも
自由自在であることこそが
大切だ。
そのためにも
自らの意志で
生きること。
そしてその意志を
高められる
最も効果的な方法が、
一日の始まりと終わり
を
自らの意志で決める
ことだ。
・・・・・・
「ウチの社員は
主体性がないから・・・」
と
多くの社長さんが
悩んでいる。
「だから仕事に
主体性を持たせてほしい」
というご依頼を
よくいただくのだが、
残念ながら
「仕事のみ」に主体性を
持たせることは
ほぼ、不可能だ。
「人生」に対する
主体性を持てて初めて、
「人生の一部である仕事」
への主体性も
高まっていく。
本当に主体的な人
は、
仕事もプライベートも
すべて充実している。
何かを犠牲にして
何かを成り立たせる
のが
これまでは当たり前
だったかもしれないが、
しかし
ここからの時代は
もうそれでは
無理だ。
何かを犠牲にしている
というその時点でもう、
その人は
「本来の主体性」とは
異なる状態にいる。
・・・ということを
多くの人達がもう
気づき始めている。
私の表現で言えば、
反応本音の主体性か?
真本音の主体性か?
ということになるのだが、
しかし本来
反応本音の主体性
というのは存在し得ない。
主体性とは
自らが「主」になっている
ことなので、
真本音なくして
それはあり得ないのだ。
しかし
反応本音の主体性を
本来の主体性だと
信じて、
苦しみながら生きている人は
多い。
主体性とは
苦しいものでは
ないはずなのに。
・・・・・・
みんな
ちょいと
苦しみ過ぎだ。
「主体的であらねば」
・・・なんて、
そんなものは
主体性ではない。
主体性とは
もっと自然なもの。
それを思い出すと
いい。
そのための
第一歩が、
一日を自らの意志で
始め、
一日を自らの意志で
終える。
ということだと
私は思う。
つづく
今日一日は、
自分にとって
どんな一日になると
幸せだろうか?
一日の始まりに
そのような問いを
自分自身に
投げてみるといい。
そして
今日という一日に
名前をつけてしまおう。
ちなみに
私は、今日という日を
こう呼ぼうと思う。
『大樹の日』
今日もいろんな人と
会う。
皆、心の中に
それぞれの
「大樹」を持っている。
その人にしかない
その人独自の
「大樹」を
味わう日としよう。
まるで森林浴を
するように、
自分の身を
その人の「大樹」に
委ねてしまおうかな。
よし。
そんな一日を
楽しもう。
つづく
仕事にやりがいは
ありますか?
と、
時々訊かれるのだが、
実は
あまりピンとこない。
「やりがい」
という言葉が私には
ピンと来ないのだ。
その代わりに、
「仕事は私の
生きがいです」
とは
自然に言えるな。
「やりがい」
と
「生きがい」。
似た言葉だけど
だいぶ違うな。
・・・・・・
「やりがい」とは
目の前の物事に
対して、
「やる意味がある」
とか
「やる価値がある」
と
思えている状態。
だから
とても良いことだね。
でもそれは
目の前の
一つ一つの物事に
対して思うこと。
この仕事は
やる意味があるな。
だから
モチベーションが
高まるな。
という感じになると
思うのだが、
これがちょっと私には
ピンと来ないのだ。
それに対して
「生きがい」とは
「生きている意味を
実感できるな」
とか
「自分の人生の価値を
実感できるな」
ということかな。
私達には皆、
人生の願いが
ある。
こんな人生に
したい!
こんな人生が
いい!
こんな人生になれば
これ以上の幸せはない!
などなど。
しかも
真本音レベルの願い
となると
一人ひとり
とても深いものを持っている。
よく私は
「自分自身との約束」
という表現を使うが、
この世に生まれた
その瞬間に
私達は魂のレベルでは
自分自身と
約束をしているのだと
思う。
それは言葉で
表現できるものでは
ないが、
でもあえて言えば、
私の人生は
このためにある。
だから
私の人生においては
必ずこれを
成し遂げよう。
私の人生においては
常にこれをテーマと
しよう。
という感じかな。
自分なりの人生の意味を
皆、しっかりと
噛み締めながら
人生を始める。
自分が人生の始めに
持つその願いは、
まるで
自分自身との約束の
ようだと私は
思っている。
その約束に見合った
生き方ができると、
私達は魂レベルの
幸せを感じられる。
そういった生き方が
できることで私達は、
「生きがい」
を得られるのだと
思う。
自分の人生を
生きている実感を
得られるのだと思う。
私においての仕事は
まさに
これだ。
仕事をすることで
私は
生きている実感を
得られるし、
自分自身との
約束を
日々、ちゃんと果たしている
という
言いようのない手応えを
得られるのだ。
だから
「やりがいはありますか?」
と問われても、
ちょっとなんか
ピンと来ないのだ。
・・・・・・
今、
若者達の多くは
間違いなく、
仕事に
「生きがい」
を求めている。
「生きがい」を得られる
仕事を
探している。
自分との約束に
素直な人が
多いのだと思う。
ところが、
生きがいを感じながら
働いている大人達は
いったい
どれだけいるのだろうか?
仕事と生きがいが
分離しているのが
今の世の中だ。
というとても残念な
現実がある。
だから私のサポートとは、
仕事と生きがいを
結びつけることだ。
生きがいを感じられる
仕事を見つけよう。
・・・というのとは
ちょっと違う。
もちろんそれも大事
だと思うが、
それ以上に私は、
すべての仕事と
生きがいを
結びつけることは
可能だと思っている。
目の前にある
現実。
その現実に
生きがいを
感じられるかどうか?
ではなく、
どのような現実に
対しても
生きがいを得られる
自分になるのだ。
人間には
それができる。
なぜなら、
それが私達の
真本音の意志だから。
魂の
意志だから。
何をするか?
ではないのだ。
何をするにしても、
魂を込める。
というのが
私達の真本音の
願いなんだ。
つづく
2年前の今日、
ブログを毎日更新しよう
と決めた。
あれから2年。
一日も欠かさずに
書き続けることが
できた。
でも、現時点では
本来書くべきこと
本当に書きたいことは
まだ何も
書けていない気がする。
でも
とても嬉しいことが
いくつもあった。
このブログを通じて
何人もの素敵な方々と
出会えた。
毎日、しっかりと
読み込んでくださっている人。
時折、
感想を送ってくださる人。
お知り合いの方々を集め、
私のブログ内容をもとに
語り合いを続けて
いらっしゃる人。
ブログの文章を印刷し、
大切な方にお手紙を添えて
送っていらっしゃる人。
外国の皆さんに
このブログをほぼ毎日
通訳した上で
シェアしてくださっている人。
こんなマニアックな
内容なのに、
本当に感謝しています。
そういった皆様が
いてくださるおかげで、
雨の日も、
風の日も、
仕事でエネルギーを
使い果たして
動けなくなった日も、
酔いつぶれて
ほぼ意識を失った日も、
書き続けることが
できました。
この場を借りて
お礼申し上げます。
本当にありがとう
ございます。
・・・・・・
ただ、
まだこのブログは
序章にしか過ぎない。
先ほども書いたが、
本当に書きたいことは
まだほとんど
触りくらいしか
書けていない。
ブログを配信しながら、
世の中の空気を
感じながら、
不特定多数の方々に
向けて
書けるギリギリの線を
いつも見極めている。
世の中は
「実在」のレベルでは
随分と整ってきた。
例えば2年前と比べれば
雲泥の差がある。
でも本当の変化は
ここからだ、
ということもわかる。
やっと
基礎ができてきた。
家を建てるのは
ここからだ。
・・・・・・
やはり、
この世界では
「継続」は力だ。
真本音で「やろう」と
決めたことは、
継続すると良い。
真本音の想いを
習慣化するのだ。
オススメは
毎日行なうことだ。
一日置きとか
毎週一回とか
ではなく、
一日一日、
毎日必ず行なうことを
決めるのだ。
なぜなら、
一日とは人生の大切な
一区切り。
最もわかりやすい
一区切り。
その一区切りごとに
必ず一つ
行なうことを決める。
これはやはり
力になる。
「私は何があっても
毎日、何を続けようか?」
と
自分にシンプルに
問うてみよう。
・・・・・・
このブログ、
一年後には、
もう少し踏み込んだ内容に
なれているといいな、
というのが
今の願いだ。
そのためにも
世の中に向かう
毎日の活動を
(日中の活動を)
さらに加速
させていこう。
つづく
人との出会いに
期待してはならない。
出会いが人生を
変えることは
もちろんあることだし、
出会いは
人生においては
宝物のようだ。
だからと言って
そこに期待をして、
「出会うために
今日を生きる」
ことをしてはならない。
出会いを目的と
してはならない。
・・・・・・
それよりも、
「今の自分の生き方」
を
大事にしよう。
私は本当は
どう生きたいのか?
今、本当は
何をしたいのか?
それを
「人生の視点」から
真剣に問おう。
自分自身に。
問い続けよう。
たとえ答えが
出なくとも、
問い続けるべきことは
ある。
粛々とそれを
続けることで、
日々は間違いなく
進化していく。
真本音度合いは
高まっていく。
その結果として、
日々の調和も
高まり、
出会うべきタイミングで
出会うべき人と
出会える、
という「結果」を
得る。
・・・・・・
以上をあえて、
私の表現で
さらにシンプルに
言い直そう。
「現象」に
期待してはならない。
自分の中の
「実在」に
目を向けること。
「実在」を
粛々と
行動に移し、
自らの意思で
「現象」を
創り出すことだ。
これがすべての
調和の原点だ。
もうすでに
あなたには
できるはずだ。
つづく
昔、私にまだ
セルフコーチングの力が
まったくなかった時代、
私は物事に悩むと
よく、
星空を見上げた。
昼間であれば、
青空を
見つめ続けた。
天気が悪ければ、
さらに若い頃に行った
ヒマラヤの山々や
日本の山々を
心の中にイメージした。
とにかく、
大きなもの
広大なもの、
そして
私達人間の力が
まったく及ばないものに
意識を向け続けた。
すると、
目の前の物事が
小さなことのように
思えた。
思えるだけで
本当はそうではないのだが、
でも、
私の視界は大きくなり、
その大きな自分から
今の自分を
見つめることができた。
だから私は
大自然のような
大きなものに
憧れた。
自分は小さく、
自然は大きい。
その大きさを
目指した。
が、
目指してはいたが、
そこには決して
たどり着けないのだと
思っていた。
大自然と
自分が
分離していたのだ。
・・・・・・
今は
ちょいと違う。
大自然と自分は
つながっているし、
実は
「一つである」
ことを
実感として身に沁みて
理解している。
でっかい宇宙の中に
人はいるが、
実は
人の中にも宇宙があり、
内の宇宙と
外の宇宙は
完全に一致することも
実感としてわかる。
しかしそれは
決して
傲慢な感覚ではない。
その感覚は
「祈り」に近い。
私は
一つの祈りでもあるし、
全体の祈りでもある。
言葉で表現しようと
すると、
わけのわからないものに
なってしまうが、
感覚として捉えると、
当たり前のことを
言っているだけだ。
・・・・・・
なんか久しぶりに
わけのわからないことを
書いている気もするが、
先日、
私のビジネスパートナーから、
「いやいや、
たけうちさん、最初からいつも
わけがわからないですから、
慣れてますよ」
と言われた。(苦笑)
私のパートナー達は
素晴らしい。
私のわけのわからなさに
わけがわからないままに
ちゃんと真摯に
向き合い続けてくれる。
誠にありがたい。
・・・・・・
私は、
5歳の息子には
できるだけわけのわからない話は
しないことにしている。
ところが、時たまであるが、
ポロっと出てしまうことがある。
先日、二人でおもちゃ屋に
行った。
すると息子が
「このおもちゃ買ってほしい」
と言った。
「そりゃダメだ」
と私が伝えると、
「え〜、なんで〜、なんで〜!」
とゴネ始めた。
あんまりゴネるので、
「そのおもちゃさ、
真本音度合いが低いんだよ」
と思わず言ってしまった。
もちろん、
「真本音」とかそういうことを
説明したことはない。
しかし彼は
私のその一言を聴いた
途端に、
「あ〜そうなんだ」
と納得したのだ。
似たようなことは
他にもあった。
外食しようとして
お店を探している時に、
私が思わず、
「ちょっとここのお店、
次元が低いんだよな。」
と呟いたら、
「あっそう、じゃあやめよ」
と普通に返ってきた。
もちろん
「次元」なんて言葉を
使ったことはない(と思う)。
なんでこんなに
納得するんだ?
俺の子だからか?
とは思うが、
しかしこの感覚、
この、本質的なことを
実に素直に受け止める
この感覚は、
今の若い世代の人達には
本当によく感じることだ。
おそろしいなぁ、
(いい意味で)
と思う。
・・・・・・
最近、
本屋さんなどを見ると、
結構良い本が
出始めている気がする。
ちゃんと本質を
大切にした本だ。
残念ながら、
ほんの少し前までは、
本質を語っている風で
真逆なことを言っている
本が多かった。
なんかやっぱり
時代が
潮流が
良くなってきているのかな。
「実在」は完全に
良くなったので、
それが「現象」化され
始めている
ということだな。
(最後にちょっとだけまた
わけのわからないことを
書いてみた。)
つづく
あぁ、なるほど!
と思う。
そういうことか、
と。
あとですべて
合点が行く。
そんな瞬間が
来る。
私はその瞬間が
来るまでは、
物事の意味を
あえて
考えないようにしている。
よく、
前向きに物事を
捉えようとする傾向の人に
多いのだが、
どんな物事にも
意味を見出そうと
する。
それ自体は
大事なことだが、
それを
頭で解釈しているのは、
実は
オススメできない。
確かに
物事には意味が
ある。
その意味を摑むことも
大事だが、
それは「解釈」すること
ではない。
むしろ
解釈することで、
本来の意味とは
別の意味を
自ら見出し、
本来学ぶべきことを
学ばずして、
もしくは
学んだつもりになって
次の一歩に向かって
しまう。
そしてそれにより
様々な不調和が
起こる。
極端な例だが、
以前に
ものすごく体調不良に
悩まされている人がいて、
しかしその人は
「この体調不良には意味が
あるんです。
ここをしっかりと乗り越えなさい
という思し召しなんです」
と
言われていたが、
私は思わず、
「早く医者に行きなさい」
と
言わざるを得なかった。
前向きな人は
特に、
「試練」を意味あることとして
必然的なものとして
前向きに捉えようと
する傾向が高いが、
それも大事なんだけどね、
でもあえて
極端に言うよ、
そんな、
試練ばかりに向かうよりも
もっと
楽な道を行こうよ。
あえてもっと
極端に言っちゃおう。
試練にわざわざ
向かうなんて、
暇なんじゃない?
・・・と。
試練探しをして
自己満足している人は
残念ながら
多い。
物事に意味を見出そうと
する人ほど
その傾向が高いのは
本当に残念だ。
しかし。
私達にはもっと
やるべきことが
あるのではないか?
もっと
そんなことよりも
全力を尽くすべきことが
あるのではないか?
自分自身との
(自分の真本音との)
約束があるだろう。
人生の願いが
あるだろう。
そこに
向かおうよ。
素直に。
そして、
真剣にそこに
向かおうとする人は、
常に、
真剣に
最も楽な道を
見出そうとする。
そして
一つ一つの物事、
自分に降りかかる
あらゆる現実を
真摯に
受け止める。
真摯に受け止めはするが、
解釈はしない。
ただ、
受け止めるだけ。
それをすれば、
ある時ある瞬間に
必ず
「わかる」ときは来る。
あぁなるほど、
そういうことだったか、
と。
これも一つの
人生の醍醐味では
ないか。
つづく
少し、
「人生」を
意識してみようか。
まずは
目を閉じよう。
深呼吸をしながら
リラックスしよう。
そして、
「時間」に意識を
向けよう。
一秒、また一秒と
時間は過ぎていく。
何がどうあろうが、
着実に
一秒一秒、時間は
進んでいく。
その「一秒」にのみ
意識を向け続けよう。
この一つの瞬間と
そのつながりとしての
「時間の流れ」。
これが
「人生」だ。
これが
私達の「存在」だ。
この「時間の流れ」に
乗っかって
今ここに
私達はいる。
「時間の流れ」から
外れてしまえば、
私達は存在のものを
失ってしまう。
これこそが、
この3次元の世界の
掟だ。
・・・・・・
そう言えば、
いつも私はこの
「時間の流れ」を
意識している。
「時間の流れ」と
共にある自分を
意識している。
一日中。
ここに意識を
向けると
明らかにわかることが
一つある。
それは、
「どの一秒に
何をするか?」
こそが大事だ
という真実だ。
つまりわかりやすく
言えば、
「タイミング」
が大事だ。
同じ行動でも、
タイミングが変われば、
その後の展開の
「すべて」
が変わると言っていい。
例えば、
Aさんに何を言おうと
する。
その決めた一言を
「いつ言うか」
によって
Aさんの反応も
その後の展開も
大きく変わってくる。
行動だけではない。
「決断」も
そうだ。
私がいつも
クライアントさんに
お伝えし続けていることの
一つは、
「いつ決断するかを
決めましょう」
ということ。
つまり
「どのタイミングで
決断をするか?」
「どの一秒で
決断をするか?」
によって、
決断の内容も
その後の展開も
やはり「すべて」
変わってくる。
真本音度合いが
高まるということは、
その「感性」が
非常に豊かになる
ということでもある。
真本音度合いが
高まれば、
・今、何をするか?
・今、何をしないか?
そして
・いつ、何をするか?
・いつ、何をしないか?
が
ありありと確信として
わかるようになる。
すると
悪い意味での「迷い」が
なくなる。
つまり、
極端に言えば、
「タイミング」を掴むことさえ
できるようになれば、
「迷い」はなくなるのだ。
それこそつまり、
「時間」を
「一秒一秒」を
そして
「人生」を
大事にしているという
ことだろう。
「自分」を
大事にしている
ということだろう。
「人」を
大事にしている
ということだろう。
つづく
これまでのやり方を
大きく変えようと
する場合、
私がいつも行なうのは、
私が信頼する人に
「すべて委ねてしまう」
という方法だ。
例えば、
家庭であれば
妻であるし、
ビジネスであれば
パートナー達に
委ねてしまう。
正直言うと、
私のこれまでの
やり方や考え方と
真逆な時もある。
そんな時はやはり、
心に少しばかりの
抵抗が生まれるが、
まぁまぁ
これくらいの抵抗
どうでもいいじゃん、
と
私の真本音は
判断してしまう。
すると、
私の心が抵抗を起こした
ものに限って、
私の想定外の
良い結果が現れる。(苦笑)
そこで知る羽目に
なる。
これまでの自分の
考えは
固かったんだなぁ、
と。
私ももう51歳なので、
知らない間に
私の周りの人達のほとんどが
私よりも年下になった。
気をつけないと
ついつい私がすべてを
仕切ってしまいそうになる。
だからいつも
かなり気をつけている
つもりだ。
委ねるなら
本当に
委ね切ろう、と。
・・・・・・
似たようなことだが、
私はできるだけ
経験の浅い人や
未経験者の意見を
あるがままに
受け止めることに
している。
実際に、
周りの人達の目に私が
どのように映っているかは
知らない。
あのクソ頑固オヤジ、
と周りは見ているかも
しれないが、
それでも私は私なりに
すべてを
受け取ろうとしている。
どんなに
未熟な意見でも、
「未熟」の一言で
片付けることは
極力しないようにしている。
それよりも
まずはそれらの意見を
自分の中に
「インプット」
する。
「肯定する」
のではない。
ただあるがままに
「インプット」
するのだ。
これが大事だと
思っている。
そうすると、
インプットされた
それらの発想達と、
これまで私自身が
培ってきた発想が、
私の中で
「チャンククロス」
する。
ちなみに
「チャンククロス」とは
私の造語だが、
「別々の発想と発想が
紡がれる」
と言うような意味だ。
紡がれた発想達は、
相乗効果を起こしたり、
統合されたり
融合されたり
しながら、
さらに次の新たな発想を
生み出す。
そんなことが
私の潜在意識の中で
起こり、
それが「気づき」や「ひらめき」
として浮上する。
私はそれが
楽しくてしょうがない。
私は
あらゆるお客様とも
それをやっているので、
100社のサポートに入ったら
100通りのまったく異なる
サポート展開となる。
常に
そのお客様との間でのみ
生まれるものがある。
お客様との
「チャンククロス」
がある。
それが実に
冒険的だし、
刺激的で、
だからこそ私は
このお仕事に
いまだに熱中しているのかも
しれない。
でもよくよく考えたら、
それは私のお仕事だけの
話ではなく、
人生とは
そういうものなのだと
思うな。
つづく