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- 2020年 1月
交差する。
人と人が
交差する。
その時、
「火花」が飛ぶ。
その人とその人で
なければ決して
生じない独特の
「火花」だ。
それは
交差のタイミングに
よっても変化する。
つまり、
その「火花」は
奇跡的とも言える確率で
発生する。
そのように生まれた
「火花」の積み重ねで
私達は私達の人生を
創り、
そして
歴史を創って来た。
真本音度合いが
高まると
何が変わるかと言えば、
その「交差」が
変わる。
絶妙のタイミングで
絶妙の縁が
生まれるのだ。
それはある意味
「最高!」
と言ってもいい。
その「最高!」を
毎日のように
創り出せるようになる。
つまりそれは
「最高!」の人生だ。
傲慢な言い方を
あえてさせていただくが、
私は人類のこれからの
歴史を
「最高!」にしたい。
そのためには、
「最高!」の人生を
創り出すことのできる人、
自力でそれが
できる人を
一人ずつ増やすこと。
私自身が増やすことは
できないが、
増えて行くのを
サポートすることは
できる。
そして私と同じように
サポートできるコーチも
増やしたい。
あぁ、
やりたいこと
だらけだ。
残りの人生の時間が
少な過ぎる。
つづく
目の前に起きている
現象を見ていると、
ついつい
物事を複雑に
捉え過ぎてしまう。
そして
何をすれば良いか?
わからなくなる。
時には
そんな自分に
無力感でいっぱいになる。
しかし。
現象の根源は
非常にシンプルなことが
多い。
一つのシンプルが、
カタチを変えて
様々に現象化している
だけの場合が
多い。
だから私は
「観察」を続ける。
一つ一つの現象に
対して、
どうしようか?とは
考えない。
どうすれば良いか
わからないので
あれば、
それが
合図だ。
「まだ動くな」
という合図だ。
わからなければ
「観察」を続ける。
ただ、
何の解釈もせずに
現象の一つ一つを
あるがままに
観察し続ける。
意識を
自分の思考に向ける
のではなく、
ただただ「現象」そのものに
向け続ける。
これを続ければ、
ある時ある瞬間に
フッと
何かが観えるのだ。
何かがわかるのだ。
なるほど
そういうことか!
と
合点がいくのだ。
するとそこで初めて
「これをしよう!」
という
自らの行動が
湧いて来る。
これは文字通り
湧いて来る。
確信と共に。
現象の奥に潜む
シンプルさを掴み、
シンプルに
行動する。
その連続で
道は開く。
確信の答えが
湧くまで
待つべし。
ただ、観察をし、
待つべし。
つづく
渦の中心に
あなたは
いるか?
渦の中心に
いるといいよ。
そこにいれば、
「すべて」が
入ってくる。
そして
そこにいれば、
「すべて」が
出て行く。
すべてが入り、
すべてが出る。
すべてを
インプットし、
すべてを
アウトプットする。
完全なる
呼吸。
完全なる
協働。
それが
「世界」と共に
できるから。
これが一番
気持ちが良いし、
一番、
安心する。
真の自分が
現れる。
人間は、もともと
渦の中心にいる
存在なんだ。
もともと、ね。
でもそこから
外れてしまうことで
苦しみが始まる。
苦しみから
逃げようとすることで、
さらに中心から
ズレる。
その悪循環のまま
生きる人は多いのだが、
もうそろそろ
やめよう、
そんな生き方は。
中心に
戻ろう。
渦の中心に。
怖くても
戻ろう。
遊気をもって。
つづく
自分の中の
最もエネルギーの高い
自分の心に
到達しようとすると、
そこは
必ず、
厚くて黒い雲に
覆われている。
ある意味、
最も近づきたくない
場所なんだ、
そこは。
しかし、
その雲に
私達は
立ち向かわなければ
ならない。
雲から逃げずに
雲に
突入しなければ
ならない。
雲をくぐり抜けてこそ、
初めて
自分の「真」を
目の当たりにすることが
できるからだ。
その勇気を
持てる人を
私は育成している
のだと思う。
それが私の
志であり、
もし10人に一人の人が
それが
できるようになれば、
この世の中は
大きく変わると
思っている。
・・・・・・
「立ち向かう」
と言うと、
どうしてもかなり
キツいイメージが
ついてしまう。
勇気と言うと、
怖いとか、
気合いとか、
そんなイメージも
あるかも。
しかし私は
真の勇気とは
『遊気』
だと
思っている。
遊び心。
人生、
遊ぶが如し。
これは、
少し短絡的に言えば、
結果を気にしない
ということ
でもある。
もちろん
「結果」は大事だ。
ある意味、この世は
結果がすべて
とも言える。
仕事や経営では
特にそうだ。
しかしそれを
すべて
受け入れた上で、
あえて、
結果を
気にしない。
人事を尽くして
天命を待つ
ではないが、
どのような結果が
出ても
それはそれで
しょうがないではないか、
との
開き直りができると、
逆に
凄いパワーが出ることが
ある。
もちろん
すべての結果を
自分自身が
飲み込む覚悟があっての
話だが、
その覚悟ができると
人は
途端に
楽になる。
力が抜ける。
自然体になる。
そうなった時に
発生するのが
「遊気」
だ。
そういった意味で
言えば、
遊気をもって
事に当たれる人
を、
私は育成したいし、
それがやはり
私の志だ。
・・・・・・
人は
怖気づく。
当たり前だ。
それが
人だ。
それをなくす
必要は
ない。
一切ない。
というか、
なくそうとしては
ならない。
なくならない
からだ。
なくならないところに
人の価値と
存在意義が
あるからだ。
怖気づく
ヘナチョコな
自分。
それと共に
歩む。
その覚悟を
持った時に、
遊気は
生まれるね。
つづく
心が
100%スッキリしないと
出て来ない発想が
ある。
ということはつまり、
その発想とは
一生出会えない人も
多い。
100%のスッキリ状態を
知らず、
そこで生まれる発想も
知らないまま
人生を終えて、
それで果たして
「自分を生きた」
ということに
なるのだろうか?
もちろん、
100%スッキリせずとも
自分は自分だ。
淀みも含めて、
淀みの出方(パターン)も
含めて、
すべて自分だ。
それもまた事実
ではあるが、
本当にそれで
いいか?
本当の自分の
想いや発想を
知らないままに
生きて、
それで満足だろうか?
満足かどうかは
別として、
私はその「事実」は
実にもったいないと
思うのだ。
100%スッキリ
した時、
自分はどのような
発想をするのか?
何を決め、
何を決めないのか?
何を
願っているのか?
何を
目指しているのか?
ちょっと極端に
言うと、
「自分」として
この世に生まれてきた
以上、
私はそれらを
知ることは、
人間としての「義務」
ではないかと
思うのだ。
せめてそれを
知ろうと
努力することは、ね。
・・・・・・
最近、特に
思うのだけど、
みんな
悩まなくていいところで
悩んでいるよな。
先ほど、
100%のスッキリ
と書いたが、
これを手に入れることの
できる人は、
ちゃんと
悩むべきことに
悩んでいる
人だ。
本当に悩むべきことに
向き合い続けている
人だ。
だから、
変な風に聴こえるかも
しれないが、
100%スッキリできる
人ほど、
悩みが深い
のだ。
深い悩みと
向き合い続け、
いつも
ある意味
混沌としている。
でも
その混沌としっかり
関わり続けることで、
ある時
ある瞬間に
必要なタイミングで
100%晴れる
という状態が
訪れる。
100%晴れる
ためには
雲をなくそうと
してはダメだ。
あらゆる雲と
ちゃんと向き合い
続けることだ。
そして
そういう人ほど、
軽やかになる。
今、「悩みが深い」
という表現を
使ったが、
これは
「悩みが深刻だ」
ということでは
ない。
深刻ではなく、
深い。
深刻とは、
本来悩むべきことに
向き合わないことで
発生する状態だ。
それとは
まったくの真逆。
悩みが
深くなればなるほど、
その人は
軽やかに
なっていくんだ。
・・・・・・
そういう意味で
もっとちゃんと
悩もう、
我々は。
悩みと
向き合おう。
毅然と。
悠然と。
真正面から
ね。
つづく
自力で進もう
とする意思を
失ってはならない。
もちろん
私達人間は、
人との関わりの中で
生きている。
お互いが
助け合いながら
力を合わせながら
進むところに
人間としての
意義と価値がある。
しかし
本当の意味で
それを成すには、
その大前提として、
自分の人生は
自分のものだ。
自分の人生を
自力で進もう。
という
基本的なあり方が
必要だ。
これを持っている
人だからこそ、
逆に、
助け合いも
協力も
コラボも
相乗効果も
生まれる。
これを持っていない
人は
単なる依存しか
生まない。
もっと激しい表現を
使えば、
寄生
しか生まない。
人に、
人の人生に、
寄生して
血をチュウチュウ吸いながら
生きる、
という「寄生」だ。
・・・・・・
逆に、
「寄生される」
のを
好む人もいる。
これ自体も実は
「寄生」の一種だ。
あまり
決めつけてはならないが、
でもあえて
短絡的に決めつけ風に
言えば、
「自分は立派な
人間だ」
と言っている人ほど、
「寄生される」
ことによって
人に寄生する生き方
を無意識に創り出している
傾向は高い。
実は何を隠そう
昔の私自身が
そんな風だったので
よくわかる。
最近、なぜか
その時代の自分の
振る舞いが
フラッシュバックすることが
増えている。
フラッシュバックしながら
いつの間にか
独り言で
「ごめんなさい」
と呟いている。
もう二度と
ああいうことはしないで
おこう
気をつけているが、
でもなぜ
最近、そんなことを
思い出すのだろう?
と、少し不思議に
思っていたら、
最近、
「寄生の空気感」を
そこかしこに
感じるからだ、と
思い至った。
嬉しいことに、
私のクライアントさんは
今、
人生を最速で進んでいる
人が多い。
皆、基本的には
「まずは自力で」
とがんばっている。
がんばりながらも
様々な人と出会い、
協力し合って進んでいる
のだが、
そこに私は
寄生の空気感を
どうやら
感じているようだ。
最速で進む人に
寄生しようとする人が
群がってきている
空気感だ。
それは世の常
とは言いながらも、
やはり、特にこれからは
注意しなければ
ならない。
コラボという名の
寄生に
ならないように。
・・・・・・
スモールスタート、
ビッグウェーブ。
最近、私が
心掛けている言葉
だ。
始めは小さく。
そして、
自然に大きくなっていく
波を創り出す。
自走する波を
生み出すには、
始めは小さく、
着実に、
が良いのではないか。
着実、とは
「本質を大事に」
という意味だ。
形ばかりの
華やかさや、
形ばかりの
ビッグウェーブは、
後で必ず
寄生を生む。
足の引っ張り合い
になる。
ちゃんと
本質を一つずつ
形にしていく。
根幹を
しっかりと
創り出し、
自然の摂理に
従った広げ方を
したい。
そう
思っている。
つづく
これまで
頑なに守り続けてきた
ものが
燃えているのでは
ないか。
このために
頑張ろう!
と
自らの誇りとしてきた
ものが
燃えているのでは
ないか。
もしそれが
完全燃焼し、
カスも残らないくらいに
消えてしまったら、
凄い喪失感かも
しれない。
しかし
安心していい。
それだけ大切な
ものが
消える
ということは、
それを消してしまう
だけの
大いなるものが
あなたの中には
確かに存在し、
しかも今、
それが浮上しようと
している
ということだ。
だから、
燃えているものを
何とか燃えないように
しようと
足掻くのは
やめよう。
あきらめよう。
たとえそれが
なくなっても、
あなたが
あなたでなくなる
わけではない。
むしろあなたは
本来のあなたに
大きく一歩
近づくんだ。
それは
祝福に値する
ことだ。
だから
燃えていくのを
そのままに
見つめればいい。
これまで
ありがとな、
と
感謝しながら。
燃えていくままに
委ねればいい。
あなた自身が
やっていることだ。
凄い覚悟で
やっていることだ。
そんな自分を
讃め称えれば
いい。
つづく
物事を
順調に進める。
・・・とは、
物事を
ぶつからないように
上手く進める、
ということではない。
むしろそれは
真反対だ。
物事を
順調に進める。
・・・とは、
必要なぶつかり合いを
必要な瞬間に
きちんとする、
ということだ。
そこから
逃げるからこそ、
おかしくなる。
不調和が起き、
余計に
回り道になる。
物事が
順調に進まない
人は、
余計なことばかり
している。
余分なことに
人生や仕事の
大半の時間を
費やしている。
それは、
ぶつからずに
上手く進もう、
という
ある種の「逃げ」が
根本原因だ。
逃げる人ほど
余計なこと
余分なことが
多くなる。
断言
できるね。
・・・・・・
生きる、
とは
関わる、
ということだ。
関わる、
とは
摩擦すること
だ。
時には
ぶつかることだ。
別に
喧嘩をしろ、と
言っているわけでは
ない。
ぶつかり合いとは、
エネルギーの
交換だ。
エネルギーの
循環だ。
そして
向き合う
ということ。
向き合うことで
私達は
自分自身の範疇を
超える
発想や行動や
結果を
「初めて」
生み出せる。
それが
人間。
人間とは
そのように
できている。
だから、
ぶつかり合いから
逃げるということは
人間であることを
やめようとする
行為だ。
そして私達は
人間なので、
人間らしく生きることが
自分らしさとなり、
それが
幸せの「感覚」として
自分に
押し寄せ続けるように
なる。
「充実感」
と言ってもいい。
もし毎日に
充実感がないとしたら、
それは
自分自身が
ぶつかり合いから
逃げているからだ。
充実感のなさを
他の人や
環境のせいに
している場合ではない。
自分の
生き方の
問題だ。
・・・・・・
もう
いいじゃないか。
諦めて
ぶつかっちゃいなよ。
どうせ
人生は
ぶつかり合いの
道だ。
ぶつからずに
進もう、
ではなく
気持ちの良い
ぶつかり合いを
しよう。
そのためには、
自らの意志で
ぶつかって
行くんだ。
向き合って
行くんだ。
つづく
子どもの頃に
戻った感覚で、
心の中で
ブランコに乗ってみよう。
とても気持ちのいい
ブランコだ。
自分にとって
最も気持ちのいい
大きさの弧を描き、
最も気持ちのいい
風を感じながら、
いつまでも
ブランコを
漕ぎ続けよう。
これを続けるだけで、
何となく
エネルギーが
満ちてくるのが
わかるかな。
何となく
心の中に
光が宿ってくるのが
わかるかな。
子ども心
というのは
大事でね。
大人になると、
まるで自分はもう
大人である、
と
みんな思い込む。
しかし
そんなことはない。
子ども心は
ずっと私達の中に
あり続ける。
子ども心という
言い方に抵抗が
あるならば、
ちょっと表現を
換えよう。
「今を楽しみたい心」
と
言えばいいかな。
私達はみんな、
今を楽しみたいと
願ってるんだ。
人間の本能の
一つだと
私は思うよ。
・・・・・・
そもそも、
「楽しむ」とか
「楽しい」
というのは
どういうことだろう?
それは
感覚的なことかも
しれないが、
でもたまにはちょっと
その本質を
考えてみよう。
これ、
いろんな答えが
あると思うが、
一つ
私はこう思うんだ。
「楽しむ」
とは、
自分のエネルギーを
高めていること。
「楽しい」
とは、
そのエネルギーの高まりを
気持ちよく
感じ取っていること。
どうだろう?
まぁ、異論も
あるかもしれないけどね。
逆に言えば、
どうすれば私は
私のエネルギーを
ちょっとだけでも
高められるだろうか?
という問いを
持つことは
有意義な気がするね。
で、
エネルギーの高まりそうな
ことを、
ほんのわずかでも
少しずつ
毎日、増やして行く。
すると、
「楽しみ」が
増えて行くんじゃ
ないかなぁ。
ほんのちょっとで
いいんだ。
でも、そうやって
「楽しみ」を増やすことは
人生の充実度を
明らかに
高めるよね。
だって、
エネルギーが
高まるんだから。
・・・・・・
心の中で
ブランコに乗る
だけでも、
ちょっと楽しくなる。
だからさ、
楽しみなんて、
いくらでも
見つかるよ。
自分のエネルギーを
高める方法なんて、
いくらでも
見つかるよ。
見つけようと
思えばね。
つづく
問いを
投げよう。
次の問いを
自分自身に
ダイレクトに
投げてみよう。
できれば
声に出して
投げてみよう。
できれば
鏡に映る自分に
投げてみよう。
そしてまずは、
問いを受けた
最初の「感覚」を
自覚しよう。
その上で、
頭で考えず、
ただ
答えが浮かんでくるのを
待とう。
答えが浮かんで
来なければ、
何もしなくていい。
この問いを
単なる刺激として
活かそう。
何度か
自分に、刺激として
投げ続けるだけでいい。
さて。
では問いです。
『私は何と
さよなら、しようか?』
・・・誤魔化さずに
向き合えると
いいね。
つづく
星が
観えてきた。
斜め上、前方
遥か彼方
だが。
でも、
これまで一度も
観えなかった
星が
ついに姿を
現した。
これからは
ずっと
それを
見つめればいい。
そこを
目指せばいい。
そうすれば
私は
生まれてきた
意義を果たせる。
と
わかる。
・・・・・・
誰にでも
「星」はある。
それを
見つけ出せるのは
大いなる悦びだ。
皆、
そうなれると
いい。
もちろん
その「星」は
あなたの中に
ある。
誰もの
中にある。
しかしそれは
「外」に
観える。
内側には
決して
見つからない。
「内」と「外」が
一致してこそ、
それは
観えるのだ。
・・・・・・
「内」と「外」の
一致。
これが
我々人間の
目指すもの。
しかしそれは
「最初に目指すもの」
だ。
それが
実現すれば、
次はその「星」そのものを
目指すことになる。
不一致を
一致させる人生と、
一致した上で
進む人生。
どちらも
充実したものだが、
その「充実」を
味わうことが
人生の醍醐味だ。
結果よりも
過程に我々は
幸せを感じ、
幸せを感じながら
進むからこそ
結果が出る。
そういった意味で
過程と結果は
「一つ」だ。
・・・・・・
我々の中で
別物だと
思っていたもの、
分離
していたもの、
それらが
すべて
「一つ」になっていく。
それが
我々の
「正しい人生」だ。
別に人生は
正しくなければ
ならない、
というわけではない。
しかし
何が「正しい」か?
何を
「正しい」と
我々は決めているか?
は
知っておいた方が
いい。
皆、誰もが、
「正しい人生」は、
今、この瞬間から
始めることは
できるのだしね。
つづく
心の中の
「嵐」
の方に行ってみる。
凄まじい
風だ。
私は容易に
吹き飛ばされた。
超大型台風の
何十倍もの威力が
ありそうだ。
当然、
息もできない。
恐らく
竜巻に巻き込まれたら
こんな感じでは
ないだろうか。
縦に横に
吹き飛ばされ続け、
訳がわからない
状態のまま、
そのままに
自分の身を
委ねる。
風の音と共に
阿鼻叫喚の
声たちが
聴こえる。
大地震のような
振動を感じる。
何だ?
この振動は。
地面に立っている
わけでもないのに。
なぜ風と共に
空気はこれほどまでに
細かく激しく揺れる?
わからないこと
だらけだが、
それでも私は
身を任せたままだ。
そうこうしている
うちに、
とうとう本当に
訳がわからなくなり
意識も飛びそうになる。
しかしそこを
恐れずに、
さらに力を抜く。
委ね切る。
すると、
訳がわからなく
なっている自分を
静かにじっと
見つめる
自分がいることが
フッと
わかった。
その自分と
一致すると、
「嵐」の中で
翻弄されている自分が
ありありと
観えた。
あー、ありゃ
ダメだ。
到底自力では
抜け出せない。
何ともならん
状態だ、
と
わかった。
わかったが
やはり、
何とかしようとは
思わない。
あえてまた
私は
「嵐」の中の自分に
戻っていく。
意識を失いそうに
なりながらも、
何とかそれだけは
踏みとどまり、
「嵐」の怖さと
苦しさを
あるがままに
そのままに
感じることのみに
集中した。
私は
私ではなく、
単なる
「感覚」
となった。
・・・と、
突然、
何かがオギャーと
生まれた。
目の前に
パッと光が
溢れる。
いや、
光の中に
私は出たのだ。
いや、
光の中では
ない。
「嵐」の外に
出たのだ。
いや、
「嵐」の外では
ない。
「嵐」が
生まれ変わった
のだ。
「新しい世界」
として。
なんだ、そうか、
お前は
生まれ変わり
たかったのか。
・・・と
ようやくここで
合点した。
気がつくと
静かに私は
いつもの書斎に
座っている。
これまでの
風は
やんだ。
これからは、
君らが
風を起こす
番だ。
つづく
本当に
高いエネルギーとは
静謐である。
一見すると
「無」に見えるくらいに
何もないのだが、
しかしそれは
あらゆる色が
合わさることで、
光が無色透明になるのと
同様である。
声を
張り上げたり、
体を
震わしたり、
周りに
鼓舞したり、
・・・そういった
表面的な激動は、
エネルギーの小ささの
現れと
見ればいい。
だから
静謐のまま
進めばいい。
着飾る必要など
ない。
そのまま
行けばいい。
・・・・・・
今やろうと
していることが
あれば、
それを
やればいい。
理由づけは
要らないし、
結果も
気にすることは
ない。
良い結果が
出ても
悪い結果が
出ても
それは
一時的なもの。
人生のどの瞬間を
切り取るかに
よって
「良い」「悪い」
という解釈が
変わるだけ。
私達は
未来を予測し
結果を気にしながら
心が波打つが、
心は
波打つそのままに
しておき、
何の修正も
対策も加えず、
ただ
最初に自分が
思ったことを
思った通りに
すればいい。
それの連続
としての
人生を歩めばいい。
・・・・・・
本当は
すべてをわかって
いるのに、
本当に
何もわからない。
それが
我々人間だ。
それでいい。
それでこそ
人間でいる
意味がある。
何の
修正も対策も
要らない。
静かに
そのまま
進めばいい。
つづく
「等身大」で生きる、
というのは
とても大事なことだ。
が、
自分に枠をはめ、
その「枠」を
自分の等身大である、
と
思い込んでないかい?
本当にあなたは
伸びやかに
生きているかい?
自分の「本来」を
「存分」に
出し切れているかい?
それができている時に、
その人は
本来の「等身大」
なんだよ。
・・・・・・
なんで「等身大」が
いいか?
って言うと、
「等身大」の
その時こそが、
その人の「影響力」が
最大となるから。
ただしこの「影響力」は
物理的なものを
言ってるわけじゃない。
人の心に与える
「影響力」だ。
言葉を換えれば、
「感化力」
と言っていい。
・・・・・・
人が人を変える
というのは
基本的には
不可能だ。
人が人を
変えているようで、
実はそれは
「感化」しているに
過ぎない。
私達は
「感化」し合いながら
生きている。
「感化」とは
感じた上で変化する
ということだが、
実際に変化するか
どうか?
は、
本人が決めている。
余程の
洗脳でもない限りね。
私達が他者に
できるのは、
変化するかどうか?
を本人が決める
前段階まで。
つまりは、
「感じる」「感じられる」
というやりとりだ。
例えば、
この人と一緒に
いると、
なんか凄く
感じるものがある。
・・・というもの。
その「感じる」を
最も居心地よく、
かつ
その人の人生にとって
意味のあるものに
する。
影響力が大きい
とは
そういうことだ。
そしてそれは
「等身大」の時に
最大化する。
・・・・・・
等身大になろう!
というよりも、
まずは
自分自身の
等身大を
知ってほしいな!
と
思う。
みんな、
あまりに自分のことを
誤解している。
あるがままの
自分と、
あるがままの
自分の影響力を、
あるがままに
知ってほしいな。
つづく
時々、
とても難解な文章を
書きたくなる。笑
だから今回は
それをやってみたい。
・・・・・・
私は
今ここにいるが、
実は
どこにでもいる。
誰とでも一緒に
いるし、
常に孤独でもある。
幸せを感じている
自分もいれば、
不幸せに塞いでいる
自分もいる。
両方が
紛れもない
自分自身だ。
地球の真裏の
意思を
感じる。
私を呼んでいる。
しかしあえて
それには
私は応えない
という選択をする。
それにより、
私の隣の人が
笑顔になる。
その笑顔を
観ることで、
ようやく私は
一つの
決断をする。
今が
タイミングだと
わかったからだ。
その決断によって
空気が
まずは変わる。
その空気を
浴びながら、
私は
もう一つの決断を
することを
決断する。
しかしそれは
明日の15時くらいだな、
とわかる。
ということで
少しの間、
ブラッと
電車に乗ることに
する。
私は
電車になる。
空気になり
風になる。
共に車両にいる
人々になる。
それぞれの
淀みや清々しさを
そのまま
私のものとする。
それにより、
この後の
コーチングの肝が
明確になる。
メッセージが
浮かび、
あぁ今日は
これを伝えることが
私の一番の目的だな、
とわかる。
しかし結果として
それは
伝えない。
それにより
私は目的を
果たす。
・・・・・・
意味、
わかります?
これ、
わかる人
一緒にランチでも
したいね。
つづく
3つの問いを
投げよう。
一つ目。
この2週間で、
あなたは
何から離れた?
二つ目。
この2週間で、
あなたは
何をあきらめた?
三つ目。
この2週間で、
あなたは
何を覚悟した?
以上の3問。
頭をまったく
働かせずに、
純粋に
自分に問い、
純粋に
答えを待ってほしい。
もし
答えが出なければ、
無理に頭で
考えず、
一日の内に、
何度も何度も
3つの問いを
自分に投げてほしい。
すると、
その問いへの
直接の答えでは
ないかもしれないが、
何らかの発想が
浮かぶかも
しれない。
それらを
大切にしてほしい。
浮かんだこの発想は
どういう意味だろうか?
と、
さらに深掘りを
してみてほしい。
すでに
大事なことに
気づいているのに、
自分が
気づきを得ていることに
気づいていない、
という
状態の人が今、
とても多い。
もったいないことだ。
一度、
本気で
やってみてほしい。
つづく
「こうすれば
上手く行くな」
と、
頭の中に浮かんだ
あらゆる発想を、
私はいつも
すべて
捨てる。
それを持っておくと
ロクなことがない
からだ。
それを持った途端に、
私は自分の意図
の通りに
物事を進めようと
してしまう。
そこに待っているのは、
想定外のことが
決して起こらないという
つまらなさ、
と
想定内のことすら
上手く行われないという
失望、
と
何よりも、
常に自分が何かに
縛られ続けているという
窮屈さ、
などである。
結局は
自分の意図が
いつの間にか
自分を縛っている
ということなのだが。
要するに
自分が自分を
縛っている。
そのような人生では
面白いはずがない。
自由な
はずがない。
私は決して
自分の意図で
自分を縛るような
不自由なことは
しない。
・・・・・・
意図をすべて
手放す。
捨てる。
自分の思惑の
道筋を
消去する。
すると、
今この瞬間を
完全に
自由に生きる自分
のみが残る。
その自分は
目の前に展開する
「現実」達を
ただあるがままに
見つめる。
ありありと
「現実」の「本質」が
自分の中に
入ってくる。
すると、
何かを思い出すかの
ように、
次の自分の
一手
(つまりは行動や
振る舞い)
が
わかる。
「わかる」と言っても
「わかったから
そうしよう」
というように
思う時間すら、
そこにはない。
そう解釈する前に
勝手に自分は
その通りに
動いている。
するとそこに
「調和」が
生まれる。
・・・・・・
以上のような
そういった生き方、
行き方
の出来ている人は
増えているのではないか。
これを天然で
行なっている
若者も増えている。
真本音度合いを
高める、
ということは、
このような生き方に
なるということだ。
それは
先ほども書いた通り、
自分自分を
拘束しない生き方
であり、
自由な生き方
である。
そういった生き方を
する人が
これからの世の中を
引っ張っていって
ほしい。
そういった生き方を
する人の輪を
広げていって
ほしい。
それが、
世の中全体
社会全体の
調和度を一気に高める
最短の道だ。
つづく
一日の始まりは、
まずは
何をおいても、
「私」という人間が
今ここに存在している
という事実を
味わおう。
存在の幸せを
嚙みしめよう。
この世での存在には
「体」が必要だ。
頭のてっぺんから
足のつま先まで、
上から順番に
自分の「体」の存在を
感じよう。
ちゃんと自分の
体はここにあり、
自分は間違いなく
ここに存在している。
と、
ありありと実感できたら
一日をスタート
させよう。
私達は
存在している
というその事実だけで
価値がある。
存在している
からこそ、
何かができる。
次の価値も
生み出せる。
存在がなければ
何もできないのだ。
その事実に
感謝しよう。
一日を
感謝から始めるのは
やはり
健康的だな。
つづく
私達は
「今にしかできないこと」
をしている。
よく
「今の自分」の
未熟さを見て、
「今の自分は価値がない」
と自己評価する人が
いる。
自己評価だけであれば
まだ良いのだが、
それにより
「何をやっても無駄」
という方向に
意識を向けてしまう人が
残念ながら多い。
しかし、
最初から
成熟している人間
なんて
一人もいない。
未熟な時期を経て
初めて
成熟に向かう。
未熟な時期を
「未熟な自分」として
しっかりと体験・経験
することによって、
初めて成熟を
手に入れる。
これはもちろん
人間として
という話だけではなく、
仕事の能力の面でも
まったく同じ。
しかも。
私達人間なんて
ずっと未熟では
ないか。
未熟だからこそ
進化がある。
未熟さを
いかに楽しむか?
ではないか、
大切なのは。
しかも
「未熟さ」のとても
素敵なところは、
昨日の未熟さと
今日の未熟さは
異なる
ということだ。
未熟さと真摯に
向き合えば、
一歩一歩
成熟に向かい、
結果として、
今の未熟さは
今にしかない
ということに
なる。
これって
とても素敵なことでは
ないか。
だから。
今にしかない
今の未熟さを
存分に味わいながら
存分に楽しもう。
今の未熟さだから
こそできることを
見つけよう。
今の未熟さだから
こそできる冒険を
しよう。
今の未熟さだから
こそできる挑戦を
しよう。
それが
「今を生きる」
ということだと
私は思うね。
つづく
外に
出よう。
「自分」
という枠の
外に出よう。
それをするためには
それを本気で
しようとする
強い意思が必要だ。
いつか、
徐々に、
自分の枠を超えて
行けばいいさ、
という悠長さでは
残念ながら
私達は一生、
枠の中にいる。
それでも
いいじゃないか、
という生き方も
もちろんあるが、
でも本当に
それで良いのか?
と
真摯に自分に
問うてほしい。
私達は
人生において、
何度も、その枠を超える
チャンスを得る。
そのチャンスを
逃さずに
超えることができれば、
その度に
私達は「自由」という
感覚を
手に入れることが
できるし、
何よりも
その度に
心の深いところで
自分のことを
好きになれる。
それにより、
さらに次の枠超えへの
モチベーションも
上がる。
これも一つの
好循環。
進化への
好循環だ。
今、
枠を超えるチャンスを
得ている人は
多いのではないか。
あなたの目の前にも
そのチャンスが
あるのではないか。
チャンスが
来たときに、
一気に行こう。
勇気を持ち、
強い意思を持ち、
一気に
行ってしまえ。
つづく
窓を開けると
部屋の空気は
どんどん入れ替わる。
新鮮な空気が
入ってくると、
あーそうか、
この部屋の空気
結構、淀んでたな、
とわかる。
部屋の中に
新鮮な空気を入れる
だけで、
発想が随分と
変わったりする。
私達の心も
同じである。
・・・・・・
心の中の空気を
入れ替えよう。
空気の循環を
起こそう。
循環のない状態は
停滞・衰退に直結する。
そういった意味では
循環こそが
「安定」である。
よくよく考えれば、
世界は、
自然は、
循環で成り立っている。
良い循環を
自ら引き起こそう。
・・・・・・
そう言えば私は
随分前から
この「循環」というものを
大切にしてきた気がする。
企業さんのサポート
でも、
問題に対して
どう対策するか?
よりも、
どんな循環を起こせば、
この問題は
自然解決するか?
を、
皆で徹底的に考えたり
してきた。
循環というのは
一度ちゃんと回り始めると、
まるで慣性の法則が
働いているかのように、
その循環自体が
自立し、自転し、
パワーを高めて行く。
そういった意味で
仕組み創りとは
循環創りだと思う。
・・・・・・
一度、
「循環」という視点で
自分自身を
振り返ってみよう。
自分は今、
どのような悪循環を
無意識に創り出しているか?
自分は今、
どのような好循環を
無意識に創り出しているか?
今ある悪循環を
好循環に変換するには
どうすればよいか?
そんな視点で
振り返ってみよう。
・・・・・・
好循環を
創り出している人は、
別の
好循環を創り出している人と
出会いやすい。
するとそこで、
好循環同士の
化学反応が始まる。
好循環の相乗効果
が始まる。
そんな仲間が
そこかしこに
増えて行くといいな。
つづく
この一両日中に
大きく脱皮した人は
多いのではないか。
独特の
空気感が
伝わってくる。
だからあえて
書かせてもらうのだが、
自分の脱皮は
自分でしっかりと
認識し、
新たな自分に
なれたことを
自覚した方がいい。
脱皮前の自分と
同じ判断
同じ選択
同じ行動
をしていてはもったいない。
自分の中の
余分なもの(皮)を
脱ぎ捨てたのだから、
思い切って
これまでにない
自由な心で
物事を進めるといい。
・・・・・・
脱皮した人が
脱ぎ捨てた「古い皮」は、
多くの場合
何かに対する「執着」
だ。
私達の自由を阻害する
最も代表的なものが
「執着」。
執着とは
別の言葉にすれば
「依存」
とも言える。
それがなければ
生きていけない。
それがなければ
進んでいけない。
それがなければ
自分ではいられない。
と言ったような
もの。
ある意味の
「中毒」
とも言えるし、
「寄生」
とも言える。
そうそう、
今日のコーチングでも
少し話題になったのだが、
自分自身の
使命とか、
夢とか、
願いとか、
そういったものにすら
執着してしまう
人がいる。
この使命を
果たさなければ、
私は私で
なくなってしまう。
・・・というのは、
依存であり執着だ。
さらに、
この使命に向かうからこそ
私は素晴らしいのだ。
とか、
使命を持っている私は
持っていない人よりも
優れているのだ。
とか、
そういったものも
執着であり依存である。
使命や夢や
願いとは、
そういったものでは
ない。
別に
使命があっても
なくても、
どっちでもいいじゃない。
どちらにしても
私は、私自身が存在している
そのことだけで
価値がある。
と、真に思えている人
にこそ、
真の使命や願いは
浮上する。
使命がなければ
ダメなんだ、
使命のない自分では
価値がないんだ。
というのは、
その人の根底には
無価値感や
虚無感がある。
それらがすべて
執着につながる。
寄生につながる。
自分の使命に
自分が寄生して
どうするんだ、
という話だ。
とにかく、・・・
そういった余分な
執着を
一つ一つ脱ぎ捨てる
ことで、
私達は
より自由になるし、
本来の自分に
近づいていく。
それが
脱皮だ。
・・・・・・
自分はひょっとすると
脱皮したかも
しれない。
と思う人は、
いつもと同じ
日常生活をする中で、
そこにある
いろんなものを
いろんな人を
あるがままに
観察してみると
いい。
すると、
これまでとは違った
感覚や
発見や
気づきが
あるかもしれない。
それが
脱皮の合図だ。
環境は
すぐには変わらなくても、
自分自身は
脱皮をしながら
大きく変わっていく。
自分自身が
変われば、
それが結果として
環境をより良いものに
変えていく
きっかけとなる。
そのきっかけ創りを
楽しむといい。
つづく
人生を
斜に構えている人は
結構多い。
そういう人ほど、
私とは向き合って
くれない。
最初は。
だから
ちょっとずつ
近づいて行く。
本当に
ちょっとずつ。
すると
ある瞬間から、
ほんの一瞬だけ
向き合うことが
できるようになる。
でもその一瞬が
できるようになったら
とても嬉しい。
その後は
向き合える瞬間が
ぐんぐん
増えて行く。
すると
特に私が何も
しなくても、
何も
言わなくても、
斜に構えていた
その人の姿勢が、
嘘のように
消失していく。
人生に対して
素直になる。
真摯になる。
すると
自ら歩き始める。
特に私は
何もしていない。
ただ、
できるところから
少しずつ
「向き合う」
ということをしているだけ。
これが
「向き合う力」
だ。
誰もが
持っている。
・・・・・・
向き合うというのは、
別に
喧嘩をすることでは
ない。
意見を言い合う
わけでもない。
もっと言えば、
言葉を発する必要
すらない。
向き合うというのは
ただ
「向き合う」
だけだ。
しかしそれが
できない。
ほとんどの人が
できていない。
形だけは
向き合ってはいるが、
本質は全然
向き合っていない
ケースが多い。
「向き合う」
とは、
意識を完全に相手に
向けることだ。
ちょっと大袈裟に
言えば、
「相手に委ねる」
ことだ。
これがお互いに
できるようになると、
その二人のコミュニケーションは
劇的に変化する。
居心地の良いものと
なるし、
創造的になる。
もし、
組織のすべての人が
その状態になれたら、
それはもう
凄いことになる。
・・・・・・
向き合うことに
慣れてほしいな。
誰とでも
向き合ってみて
ほしいな。
景色が変わるから。
人生が
変わるから。
もし人と向き合うのが
怖い場合は、
最初は
「物」と向き合って
みよう。
例えば、
いつも自分が
使用している鞄とか。
意識を完全に
鞄に向け、
鞄に自分を
委ねるんだ。
わかるかな?
いろいろなものに
やってみるといい。
・・・・・・
向き合わないことで
起きている問題は
非常に多い。
逆に言えば、
向き合うだけで
解決することも
非常に多い。
だから私はまずは、
向き合う状態を
創るサポートをする。
それだけで
多くの問題は
片付いていくが、
それでも片付かない
問題は
その後に、
みんなで向き合いながら
対策を考え
一歩ずつ解決する。
これが私のサポートの
常套手段だ。
・・・・・・
もし人生を
好転させたければ、
人と向き合う
ことだ。
一人一人と
丁寧に
向き合っていく。
これなくして
本質的な好転は
ない。
つづく
ドドドドドッと、
まるで大滝が
下から上に噴出するように
凄いエネルギーの
流れが
止まらない。
これはいったい
何事か?
と
戸惑うばかりだ。
エネルギーが高いのは
とても良いことだが、
しかしエネルギーとは
きちんとコントロール
できて初めて
意味を成す。
このエネルギーを
これからどのように
制御していくのか?
と、
私は茫然自失と
している。
・・・・・・
今の私にできる
最大のことは、
唯一わかる
ことは、
すべての意図を
手放す必要がある
ということだ。
もはやこのエネルギーは
私の範疇を
超えており、
私のあらゆる意図を
超えるものだ。
私が意図を持つ
ということは
その分だけこのエネルギーを
矮小化させる
だけだろう。
すべてを
委ねれば
よいのか?
でも委ねてしまったら
エネルギーに
埋没するだけでは
ないのか?
かなり
不安である。
でも
どうしようもない。
湧いてくるものは
どうしようもない
のだ。
・・・・・・
もともと人は
無尽蔵のエネルギーと
つながることが
できる。
しかし
つながるためには
条件がある。
そのエネルギーを
コントロールできる
自分になることだ。
もう自分は
大丈夫。
・・・と、
自分自身にOKを出すことで
そこにつながる。
私は私に
OKを出したの
だろうか?
いや、多分
出したんだろうな、
とっくに。
それは
わかる。
わかるが、
顕在意識の私が
まだ
ついて行っていない。
ヒョ〜〜、
どうしよう。
・・・・・・
まぁでも
よくよく考えたら、
この10年くらいは
これの連続だったような。
でも今回のは
これまでとはちょっと
違う気もする。
こういう時にいつも
私は自分の
ヘナチョコぶりを
呪う。
とは言え、
どれだけ躊躇しても、
結局は
やっちゃうんだ。
委ねちゃうんだ。
そんなことは
よくわかっている。
わかっているが
その前に
あーだこーだと
言いたいのだよ。
・・・・・・
というわけで
ちょいと
委ねてみます。
これから
どうなるかな?
つづく
雲の上に
出たことはある?
飛行機に乗って
でもいいし、
山に登って
でもいい。
雲が自分よりも
下にある光景。
雲の上に
空が広がっている
光景。
それをナマで
見たことはあるかな?
もしあれば、
その時の光景を
しっかりと
思い出してほしい。
そして、
その場面の中に
入り込み、
もう一度
その場面を体験
してみてほしい。
じっくり
ゆっくりと。
・・・・・・
その場面にいる
あなたの心は
どうだろうか?
気分が
高ぶる感じか?
それとも逆に
どんどん落ち着いて
心が静かに
なっていくだろうか?
今いるその場面、
その場所は、
普段の自分とは
かけ離れた
非日常の場であると
感じるだろうか?
それとも、
こここそが
自分の本来の場所だと
感じるだろうか?
・・・・・・
雲の上にいる
その場所が、
もし自分自身の
「本来の場所」であり、
かつ、
「心が静かになる場所」
であるならば、
あなたは
太陽に向かって
飛ぶとよい。
太陽とは、
あなた自身の
願いだ。
一生変わらずに
一生追い求め続ける
願いだ。
そこに向かい
もっともっと
加速するといい。
もしその場所が
自分にとっては
「非日常の場所」であり、
かつ
「ちょっと落ち着かない」
とか
「気分が高ぶって
しょうがない」
場合は、
あなたは、
大地を踏みしめる
とよい。
足元をもっと
しっかりと見て、
ちゃんと立っている
安心感を
自分に与えることだ。
現実的に言えば、
日々の生活の
安定を、
しっかりと創り出すこと。
人は
安定があってこそ
自由になれる。
前者のタイプは、
飛ぶことそのもので
安定を得られる人だ。
後者のタイプは、
地に足をつけることで
安定を得られる。
どちらが
良い悪い
ではない。
どちらも
その人にとっては
最善のことだ。
・・・・・・
この方法を
行なう場合に、
一つだけ注意点。
それは、
実際に雲の上に出た
という「体験」を
一度でもしたことのある人にしか、
この方法は機能しない
ということだ。
その過去の体験の
場面を思い出しながら
やるところに
意味がある。
単なるイメージでは
正確な「感覚」は
得られないので
ご注意を。
つづく
自分自身の
輝きを
知るためには、
自分自身の
暗さを
見つめる必要が
ある。
真に輝きを放つ人
ほど、
自分の「すべて」と
向き合っている。
どのような
見たくない自分も
ちゃんと観て、
そのまま
あるがままを
ちゃんと観て、
「これが自分なんだな」
と、
受け止める。
ある意味、
すべての自分を
許す。
「許せない」
と言っている自分さえも
そのまま許す。
それができる人は
その人の
「真」の部分が
輝き出す。
「真の輝き」こそが
その人の
最大の魅力。
すべてを受け止める
人こそが、
真の魅力を
発現する。
自分を許す
ことのできる人は、
人を許す
こともできる。
人を許すことの
できる人は、
逆に
人に厳しくすることが
できる。
人の指導が
できる。
人のサポートが
できる。
私の願いは、
すべての人が
そうなること。
しかし
現時点では
なかなかにね。
だからまずは
「コーチ」を
育てたい。
ちゃんと人を
サポートし、
時には指導できる
「コーチ」を
育てたい。
その素養を持った
人達を、
これから
まだまだたくさん
発掘したい。
コーチの発掘と
育成は、
ようやく
始まったばかりだ。
つづく
「実在」と「現象」の
区別を
つけるといい。
「実在」とは
心の中での現実。
心の深奥で
起きていること。
「現象」とは
心の外での現実。
表面的に
起きていること。
私達はどうしても
現象に
捕らわれがちだ。
そりゃそうだ。
それが
現実だから。
しかし、
現実とは
上記の二つの「世界」
で成り立っている。
あえて「世界」
という表現を使ったのは、
それくらいに
二つが別個だからだ。
実在が幸せでも
現象が不幸せ
ということもあるし、
実在が不幸でも
現象では幸せを
感じている
ということもある。
最も大事なのは、
実在と現象が
一致することだ。
この二つの現実の
一致こそが、
私達人間にとっての
真の幸せに
つながっていく。
・・・・・・
私が、
人や組織のサポートで
常に大事にしていることは、
実在と現象の
片一方だけに
偏らないことだ。
どちらか一方だけで
判断しない。
むしろ、
その二つの
つながり
や
影響の仕方
を観る。
基本的には、
実在が現象に
影響を与えるという
矢印の向きはあるのだが、
逆流することも
ある。
今、この人(もしくは、組織)は
実在が
どのような状態で、
現象が
どのような状態か?
どちらをどう
強化することで、
二つが一致しながら
進化していくか?
というのが
私のサポートの
基本指針となる。
これができる
コーチを
私は育成したい。
と、
この5年間、
ずっとやって来た。
いや、本当は
十数年、
それを望んで来た。
ようやく今、
6名の候補が
集った。
この6名に関しては、
現在、
とてつもない開花の
途中だ。
この1〜2年で
私の仕事が
なくなるかもしれない。
そうなってほしいな、
と
真に願っている。
つづく
私達人間は
心の中に
いくつもの「断絶」を
持っている。
「断絶」とは
ズレである。
そしてそれは
痛い。
ということは
誰もが心に痛みを
抱えている。
私は毎日のように
その痛みを
クライアントさんから
ダイレクトに感じながら、
この人は一体
どのような断絶を
解消することが
今の最大のテーマだろうか?
という視点から
サポートを
させていただいている。
もちろん断絶には
意味がある。
その意味と真摯に
向き合いながら
生きることが
私達が人生でする
ことだ。
断絶が解消される
ことで、
その人は一つの痛みから
解放され、
その瞬間から
一つ
自由になる。
そう。
私達の本来の人生とは、
断絶からの自由
とも言えるかも
しれない。
・・・・・・
断絶の痛みには
様々あるが、
多くは
苦しみを伴いながらも
「空虚感」
や
「虚無感」
や
「虚しさ」「絶望」
などが発生する。
生きること
そのものに対する
無気力感が
あなたにも
発生することがあるだろう。
それらのほとんどは
その「断絶」から
来る。
ただしその「断絶」は
「その時できたもの」
というよりも、
「あなたの中に深く
眠っていたもの」
であり、
それが
「浮上した」結果として
「断絶」として
認識される場合が
多い。
その「断絶」は
もともと
あなたと共に
あったものだ。
とは言え、
それは
「あなた自身」
ではない。
あくまでも
「よそ者」
だ。
・・・・・・
今この瞬間、
「断絶」が急速に
浮上し始めている人が
増えている
感覚がある。
もし、
上記のような無気力感を
感じるのならば、
ぜひそれと
しっかり向き合って
ほしい。
苦しみの原因を
「断絶」として捉え、
次のように
自分自身に
問うてほしい。
「この苦しみは、
何と何のズレから
来ているだろうか?」
「私は今、
何が不一致なのだろうか?」
「どんな矛盾が、
私を無気力にさせて
いるのだろうか?」
などだ。
そして、
もし答えがわかった
としても、
無理に対策は
考えなくていい。
ただその
不一致の事実のみを
毎日、見つめてほしい。
毎日、見つめることは
面倒だし、
さらに苦しみを増す結果に
なるかもしれない。
しかしそれは
あなたにとって
極めて大切なことだ。
苦しみに耐えながらも
その不一致をいつも
意識すれば、
自然に
ある時ある瞬間に
「今、私は
こう動こう!」
「今、私は
これをやめよう!」
「今、私は
これを始めよう!」
などのような
理由があまり明確ではない
直観が
生まれるだろう。
それが
あなた自身の
真本音の発想だ。
真本音からの
メッセージだ。
それが自然発生
するまで
待っていてほしい。
私達は皆、
「断絶」を抱えている。
それらを解消するには、
真本音の判断で
進むしかない。
せっかくなので
これを、
自身の真本音との
距離を縮めるための
チャンスにしてしまおう。
つづく
企業様のサポートを
していると、
大樹のような
太い幹の人間に
なりたい。
・・・と言われる人が
結構多い。
その気持ちは
私もすごくわかる。
私もそんな時期が
あったから。
しかし
大樹の本当に
凄いところは、
幹の太さ
ではない。
中心軸だ。
中心軸が
しっかりとしている
からこそ、
太い幹になれるのだ。
・・・・・・
人としての
中心軸をしっかりする、
ということは
イコール、
人生の中心軸を
持つ
ということだ。
よく、
仕事と人生を
分けて考えている人も
多い。
人生は人生。
仕事は仕事。
その考えのもとで
数々の実績を
上げている人も
いる。
しかし残念ながら、
その分け方(分離)
によって、
その人の本来の力
を発揮できている人を
私は見たことがない。
人生に対する向き合い方は
そのまま
仕事に対する向き合い方と
一致する。
人生の中心軸を
持っていない人は、
何をあーだこーだ
言っても、
所詮、
仕事の中心軸は
その人本来のものではなく
脆弱だ。
しかし
仕事の能力のある人は、
脆弱な中心軸でも
それなりの成果を
出してしまう。
だから
自分はできる。
自分は
これでいい。
となるのだが、
いやいや、
私がいつも思うのは、
そういった
能力のある人ほど、
人生の中心軸と
仕事の中心軸を
一致させれば良いのに、
そうすればその人は
もっともっと素晴らしい
成果を
もっともっと多くの人が
深く喜べる仕事を
創り出すことが
できるのに、
・・・ということだ。
そういった人は
多い。
もったいない
というやつだ。
能力だけで
勝負している。
能力だけで
「できた」つもりに
なっている。
本当に
もったいない。
・・・・・・
人生の中心軸とは
具体的には何か?
ということだが、
これはその人によって
最も最適な視点が
あり、
様々な表現方法が
ある。
しかしあえて、
最大公約数的に
私がオススメするのは、
単純なことだ。
『私は人生で、
何を成し遂げたいか?』
の
答えを持つ
ということだ。
恐らくは、
難しい問いだろう。
人によっては
一生かかっても
本当の答えは
見つからないかも
しれない。
でも、
大丈夫。
今の自分が
本当にそうだ、と
思える答えを
持てばいい。
途中で、
やっぱり違った
となってもいい。
「やっぱり違った」
は、
成長の証だ。
大事なのは、
今、本当にそう思える
こと。
もし、
その「今の答え」すら
見つからないようなら、
「見つけようとする」
ことだ。
つまりは、
上記の問いと
毎日、
真摯に向き合い続ける
ことだ。
それだけで
自然に
無意識的に
人生の中心軸と
今の自分の生き方や
仕事のやり方が
一致を始める。
とても大事な
問いだ。
しかし
そういったことを
考えることを放棄
してしまっている
人は多い。
それは逆に
キツい生き方だ。
人生の問いと
真摯に向き合いながら
進む生き方は、
実はとても
楽な生き方なんだ。
自然に大樹に
なっていけるんだ。
つづく
私は夜の
静かな森の中に
いる。
周りは暗く、
鬱蒼とした木々が
さらに黒く
私を囲っている。
ただしそこに
怖さや不安はない。
ただ、
やすらぎがある。
私は地べたに
胡座をかき、
静かに上を
眺めている。
私の頭上には
満点の星々。
私を囲っている
木々の合間で
煌めいている。
星々を見つめながら、
私は無心になり、
星々の声を
受け取っている。
星々は
語る。
「だいぶ明るく
なれたけど、
我々はここからさらに
さらに
明るくなっていくよ」
と。
やっと
その気に
なれたのかい?
と私が返すと、
「最初から
その気だよ」
と
笑い返す。
「ただ、
時機を窺って
たんだよ」
と。
もう時機は
来たのかい?
と問うと、
「まぁ、
2020年にも
なれたしな」
と。
そうか。
と私は
何かを合点した。
私が
新たにすべきことは
あるだろうか?
とさらに
問うと、
「あなたはそのままで
いいよ」
と。
じゃあやっぱり
このまま行くか。
と
私は深呼吸した。
間違いない。
星々はもうすぐ、
このまま
明るさを増して行く。
そして
そのままこの世界は
昼になる。
新たな陽が
昇るのではない。
あの星々の
一つ一つが
太陽としての
明るさを発する。
今は暗いこの森も
すぐに
明るくなるのだろう。
私はあえて
ここを動かず、
このまま
明るくなるのを
待っていよう。
私自身は
もう
準備はできている。
とっくにね。
いつ
昼になっても
大丈夫だよ。
つづく