2024年 5月 の投稿一覧

脱皮の出口はくる

人が大きく
ステージアップ
することを
私は

脱皮

とか

羽化

と呼んでいる。

それが
ここのところ
私の周りで
頻繁に
起こっている。

中には
本人の自覚が
あまりないまま
自然に行なわれる
ケースもあるが、

大半は、
本人は
相当に苦しむ。

産みの苦しみ
ということかも
しれない。

しかし
そのような
苦しみが
大きければ
大きいほど、

脱皮や羽化

瞬間は
しっかり自覚
できる。

急に
楽になるから。

と同時に

世界が
開けた感じ、

何かから
脱け出た感じが
如実だからだ。

先日の
クライアントさんは、

目の前に
何か非常に
強い「存在」を
感じ、

その「存在」との
対話が
始まり、

これはなんか
とても
安心できる
存在だ、


わかったところ
で、

あなたは
誰?


訊いたら

あなた
ですよ、


返ってきた
そうだ。

その瞬間に
自己一致が
始まり、

急に
すべてが
安定した。

その人は
何ヶ月も
相当に
苦しんでいた。

その分、
その苦しみの
乗り越え方を
今回のことで
体験でき、

ここからは
同じ苦しみの
人を
サポートできそうだ。

人には
その人の
役割がある。

脱皮や羽化

越えれば、

その役割が
明確に
なってくる。

それは
これまでとは
全く異なる
自身の在り方
かもしれない。

でももう
それを
恐れる気持ちは
ない。

そうだ。
これからの
私は
こうするのだ。


スッキリ
クッキリ
決めることが
できる。

だから、

脱皮や羽化の
苦しみを
途中で
放棄しないで
ほしい。

最後まで
ちゃんと
苦しいままで
いれば、

必ず
出口は
くる。

長くかかる
人も
今は増えている。

でも、
必ず
出口は
くる。

つづく

自己判断するな

それが
小さなエネルギー
だと
思うなかれ。

自分の中に
あるものは、

自己判断
自己解釈
自己評価

はしない方が
いい。

突然
巨大化するかも
しれないのだ。

そこに
内包されている
エネルギーの
大きさは

表面的には
測れない。

私達の
観念では
把握しきれない。

基本、
すべては
すべてと
繋がっている。

ただ、
私達の勝手な
自己判断が
それらを
分断する。

分断され
孤立したものは
エネルギーは
断絶する。

そんな必要は
ないのに、
多くは
私達自身が
勝手にやって
しまっている。

例えば、

この発想は
大したこと
ないな。

これは
関係のない
ことだ。

あまり
意味のあることだと
思えないな。

・・・など。

自分自身を
見くびっては
ならない。

自分の実在

見くびっては
ならない。

日々、
ちゃんと
今日やるべき
ことをやり、

今日やるべきで
ないことは
やめ、

一日を丁寧に
生きていれば、

私達は
簡単に
実在と
繋がれる。

内側に
自然に発生
するものを

侮る
なかれ。

つづく

またここで、節目の問い

また、
わかりやすい
節目が

実在の
レベルで
来ている。

また、
改めて
自分自身に
問うてみよう。

『さて、ここから
何を始めようか?』

始まり時

始め時

というのが
ある。

今こそ。

今だから
こその
答えを。

つづく

かえったよ

返ってきた。

帰ってきた。

ずっと
待っていた。

でも
もうここには
戻らない
ということも
想定していた。

どのような
展開でも
構わないと、

あらゆる選択肢を
覚悟していた。

だから、
正直ホッと
したが、

ホッとした
だけで、
なんとなく
以前の私とは

もう違う。

これで
良いのだと
思う。

以前の私は
去っていった、
私から。

今の私は
今の私だ。

帰ってきた
ものを
慈しむことは
変わらず、

でもその
慈しみ方の
変化を
楽しもう。

つづく

人間というもの

空が
晴れたり曇ったり
するように、

私達の内面も
晴れたり曇ったり
する。

やはり、
曇るのは嫌だな、
特に
雨が降ったり
するのは
嫌だな、

誰もが思う。

いつもいつも
快晴の状態で
いたい、と。

でも
そのようには
できていないのが
残念ながら
私達人間だ。

しかも、
もし
ずっと快晴状態が
続いたら、

それに
物足りなさを
感じ、

たまには
曇ってほしい

などと
考えてしまう。

私達は、

不安定な
時は
安定を求め、

安定を得ると
不安定を
求める。

平穏に
なり過ぎると
冒険を
求めるのだ。

その習性自体が
もう
不安定さ
とも言えるが、

だからこそ

人間だ。

完璧な
均衡を
望まない。

どこか
綻びを
望む。

私が
人間は進化の
権化だと
思う理由の一つが
これだ。

実は、

実在が
完全に
現象化すると、

そこには
完全さは
ない。

必ず
次に繋がる
不完全さが
生じる。

これが
もしなければ
実在が
成り立たない
とも言える。

実在の
完璧さは
現象の
不安全さとして
現れるのだ。

これを
世の不条理と
捉えるか、

それとも
面白さと
捉えるか、

これによっても
また
人生が
決まる。

人生の
進み方と
展開、がね。

不完全さ
こそが
完全。

未完成
こそが
完成。

人間は
この不完全さ
によって
完成
されている。

つづく

自分自身に委ねる、とは

目の前に
ある
巨大な存在。

超巨大な
存在。

それが何か?

よく把握できない
ことが多い。

それが何か?

わからないのは
不安だ。

が、
しょうがない。

そこは
あきらめる。

ただ、
確かにここに
存在している
何かに、

そこから
逃げるのでは
なく

しっかり
意識を向ける。

向き合う。

場合によっては
勇気をもって
対峙する。

闘うわけでは
ないが。

すると
大概の場合、
何らかの
メッセージが
くる。

明確な
言葉ではない。
感覚、
として。

その感覚を
恐れずに
そのまま
自分の中に
受け入れる。

すると、
ザザザッと、
全身の細胞が
波打つ。

それにも
抗わず、

ただ
なされるがまま
に。

時には
その巨大なものに
取り込まれてしまう
ような
感覚の時もある。

でも、
それでも
抗わず。

実在が
わかるようになって
私の中で
育ったのは、

この
委ねる
勇気だ。

だって、
拒んでも
結局は
どうしようもない
から。

なら、
最初から
開き直って
委ねる。

すると、
直観は結構
すぐに
来る。

直観が
浮上すれば、
もう
すぐに
身体は動いて
しまう。

気がつけば
行動に
移している。

邁進
している。

こうやって
書いてみると、
まるで
何かに
支配されている
みたいだな。

でも
実は違うんだ。

自由
なんだ。

完全なる
自由を
私は確かに
感じている。

肩が軽く、
身も軽く、

心も魂も
軽く、

なぜなら
結局それは
私自身の

最も深く巨大な
意志だから。

私はこれを
自分自身に委ねる

呼んでいる。

つづく

発想の生かし方

何か
自分の中に
新たなものが
生まれたから
といって

慌てては
ならない。

それをすぐに
表に出そう

ついつい
してしまいがち
だが、

いつまで
それを
潜在化させて
おくか?

・・・は
とっても大切だ。

何か
生まれたが、
それが
何かを
わからないままに
しておく。

ここを
充分にやり、

機が熟すまで

つまり
最高のタイミングで
それを
発芽させる。

顕在化
させる。

要するに
ここなのだ。

この
熟成の仕方と
タイミングで

その後の
展開が
大きく変わる。

せっかく
生まれたもの。

それを
しっかり生かす
には、

やはり
待つ
ことが大事なんだ。

つづく

自分を落ち着かせる方法

心が
落ち着いて
いるか?

よりも、

身体が
落ち着いて
いるか?


大切にしよう。

もっと言えば、
細胞の
一つ一つが
ちゃんと
落ち着いて
いるか?
だ。

特に
大事な決断を
する場合は、

そこを
大切にしよう。

もちろん
決断時
だけではない。

可能であれば
一日中、
そういった自分に
なれるように。

身体(細胞)が
落ち着いて
いれば、

多少、
心が揺れていても
大丈夫だ。

深呼吸を
すれば
大概、スーッと
我に返る。

身体を
落ち着かせる
ためには、

できるだけ
常に、
自分の細胞
一つ一つに
意識を向けるように
しよう。

全身
隈なく、

手の先
足の先
まで。

自分の身体に
丁寧に
意識を向ける。

基本は
それだけでも
良い。

さらに
それに慣れれば、

身体(細胞)の
どの部分に
凝り(滞り)が
あるか?

とか、

どの部分が
浮き足立って
いるか?

とか、

どの部分が
重く澱んで
いるか?

など、
よくわかるように
なってくる。

そうしたら、
その部分に
集中して
意識を向けよう。

その部分を
あるがままに
感じる、
ことをする。

これをすると
余計に
澱んだり
苦しくなったり
するかも
しれないが、

それでも
集中して
続けていれば、

次第に
ほぐれてくる。

こういうことを
常に
やり続けると、

日々、
身体は楽に
なってくるし、

落ち着いて
くる。

意識を向ける
というのは
とても大切な
ことで、

それだけで
パワーが
宿る。

だから
人と向き合う
時だって、
その人に意識を
向け続けるだけで、
その人は
元気になる。

そういう
ものなんだ。

つづく

世界と調和する基本的やり方

上を向く
ことは
大事だ。

でも、

下を向いても
いいんだ。

上だけを
向く
のではなく、

下だけを
向く
のではなく、

上も下も
右も左も
斜め方向も、

360度
どこにでも
意識を向ける

そんな
自分になろう。

私はよく
意図的に
それを
やっている。

360度
全方位、

近距離も
遠距離も

無限大に

ただ
あるがままに

意識を
向け続ける。

360度
世界を
感じ続ける。

それを
思いついた
時に
すぐにやる。

街を歩き
ながら
行なうことも
あるし、

慣れて
来れば、

人と向き合っている
その瞬間に
やることもある。

今、
それをすべきだ!

思う瞬間が
ある時から
わかるようになった
ので。

これは
楽しい。

一気に、
自分の範疇を
超えた
発想が生まれる
こともある。

ただ、
そういった期待
などは
持たずに、

ただ
それをやる。

きっとそれは
宇宙(世界)と
共に生きる

共に
調和を高める

という
生き方の
基本なのだろう。

実在を
感じ取る
練習にもなるよ。

つづく

兆しを消すな

その人の
中に、
ずっと
眠っていた
もの。

何か、
光のような
もの。

それが、
ちょっとだけ
目を
覚ましたようだ。

それは
願いかな。

祈りかな。

それとも
もっと具体的な
ビジョンかな。

まだ正体は
わからないが、

かなり
確固たるもの
だ。

真本音だ。

実在だ。

まだ、
兆しに過ぎない
それを

私は
まずは
ご本人以上に
大切にしよう。

本人が
気づくのは
いつかな?

本人が
気づくまで

その兆しが
消えないように

維持、持続
するための

最低限の
刺激入れ。

それが
私の仕事だ。

ある時
ある場面で、

その時

はくる。

その人が
自身の実在に

真本音に

気づく時。

それは
他者が
教えては
ならないもの。

自ら
気づくことで
それは
一気に
輝き出す。

そして
その人の
中心核となり、

いつか、
その人そのもの
となる。

つづく

自然が教えてくれる

黄昏の時。

夕闇の時。

山にかかる
重い雲と、

しかしその
雲を
確かに
輝かす夕日。

そのコラボ

見ていると、

私は
ただひたむきに
山に登り続けた
日々を
思い出す。

自然と
向き合い、

自然と
一つになろうと
していた。

自然と
呼吸を合わす。

意図していた
わけではないが、

今から
振り返れば、
その時の私が
望み続けていた
ことは
それだ。

自然と
自分の
呼吸を
合わす。

これが
セルフコーチングの
基本でもある。

これが
できた時、
私達は
あらゆるものと
調和を始める。

すべては
まずは
呼吸なのだ。

自然の呼吸
とは、
実在の呼吸
でもある。

実在の
自分自身の
呼吸と
一つになる、
ということ。

これを通じて
私達は

個である自分


超える。

全体である
自分の
中の
「ここ」の
自分。

この自分
こそ
私だが、

その私も含め
すべてを
包んでいる
自分、
宇宙そのもの。

理屈では
ない。
実在で
ある。

すると、
個も全体も
どちらが大きい
小さい、ではなく、

どちらも
結局は
同じものだ、

わかる。

私は
自然の一部
であり、

自然は
私の中に
ある。

内も外も
同じ。

これが
一瞬でも
感覚として
理解できれば、

受容
できれば、

私達は
次の
私達に
なれる。

すべてが
進化する。

そう。

すべてを
教えてくれた
のは、

自然だった。

山であり
海であり。

あらゆる
自然達。

もっと
外に意識を
向けよう。

自分の中に
意識を
閉じ込めていては
ダメだ。

つづく

閉じてしまったんだね

その人は
突然、
口をつぐんだ。

そして
二度と
喋らなかった。

私は
諦めて
去った。

人の決断
だ。

私がどうこう
左右できる
ことではない。

それは
わかっては
いるが、

それでも
自分が
もどかしかった。

もっと
できることは
あったのでは
ないか?

でもきっと
タイムマシンで
過去の時間に
戻れたとしても、

きっと私は
その人に
同様の接し方を
し、

同様の結果を
出しただろう。

私にできる
最善を
尽くした。

それでも
その人は
閉じてしまった。

もう
きっと
見守ることすら
できない。

去ったのは
私だが、

本当は
その人が
去っていった
のだ。

茫然と
佇むだけの
私。

人の人生は
それぞれだ。

決断も
それぞれだ。

この悲しみを
胸に
湛えながらも、

私はまた
私のすべきことを
粛々と
続けていくの
かな。

明日からも。

つづく

光と闇は・・・

光のそばには
必ず
闇がある。

光と闇は
セットだ。

という
この世の中。

光も闇も
両方、愛す。

そんなことが
できる自分に
なろうと

ずっと
やってきた。

まだまだ
まだまだ
だが、

一つ
わかったのは、

光も闇も
同じことだ、

ということ。

闇を責めては
光が澱む。

光のみを
求めては
闇は深くなる。

この二つの
融合が
私達、人間。

人を愛すとは
光と闇の
両方を
愛すということ。

言葉で言う
のは
簡単だが、

もちろん
生半可な
ことじゃない。

しかし
その真理が
わかったのなら、

やるしかない
ではないか。

理想論とか
ではなく、

現実論として
それしか
ない
ではないか。

光と闇を
分離させては
ならない。

相手を
闇だと
思ってはならない。

自分を
光だと
思ってはならない。

当然、
逆も然り。

私は
光であり闇であり、

あなたも
光であり闇であり、

光と闇の
融合体が

共に
向かい合っている。

だからこそ

いや、
そうでしか

できないことが
あるんだ。

そのための
この世だ。

つづく

いろいろあったよ、一ヶ月

この一ヶ月、
実は
とても色々なことが
あった。

実在レベルでも
現象レベルでも。

大いに
揺れまくったよ。

それこそ
一生分
揺れまくったような
印象だ。

何があったかは
誰にも
言ってない。

家族以外は
知らない。

言うつもりも
ない。

でも
この一ヶ月が
なければ、

これからの
私の人生は

恐らく

なかったの
だろう。

それくらいに
大事なことを
立て続けに
やった。

実はまだ
終わっていない。

もうすぐ
終わりそう
だけど。

終わりが
見えたから
今はちょっと
安心してきたが、

油断禁物。

新たな
スタートを
しっかり刻むには、

ここからこそ
丁寧に。

変化の終わり

最も重要。

そして
本番は
これからだしね。

つづく

瞬時に決める

握り締めている
ものがある。

ずっと。

それこそ
生まれた
ときから。

ずっと
大事にして
きたものだ。

でも
それを
手放そうと
思ったんだ。

ふと、ね。

で、
手放したよ。

こういうのは
考えてちゃ
いけない。

考えれば
考えるほど
迷いが生まれ、

結局は
重要なタイミングを
外す。

だから
瞬時に
手放した。

生まれて
56年間、
ずっと
大切にしてきた
ものなのにね。

でも
もうない。

ここには
ない。

自分は
変わるのか?

わからない。

でも
なんだか
居心地が
悪い。

やはり
私には
インパクトのある
決断
だったのだな。

いいのだ。

こういう決断
ほど、
私は瞬時に
決める。

つづく

すぐに変えた

垂直に
流れ星が
落ちるように

一条の
光が
降りてくる。

目の前を
通過する。

その瞬間に
閃いた。

波長が
ダイレクトに
伝わるように。

”ここを離れ、
あそこに行こう”

と、
ふいに思った。

意味は
わからなくとも
こういった場合は
私は
即座に行動する。

私にとっては
かなり
大掛かりな
移動になる。

これまでの
生活とか
生き方とか

随分と
変えなければ
ならない。

でも、
閃いたのだし、
決めたのだ。

すぐに
やったよ。

で、今、
かなり
揺れ動いて
いる。

いつも
こうだ。

じきに
慣れるだろう。

つづく

人事を尽くしたな

どれだけ
踏ん張っても

流される
ことがある。

流されて
しまったら
その
流されている
自分を

感じ続け
よう。

踏ん張りたい
のに
踏ん張れない
ことはある。

であれば、

その流れに
委ねるしか
ない。

それは
混乱の流れ
かもしれない。

恐怖も
伴うだろう。

でも
もう
踏ん張れない
のだ。

気持ちよく
流れること
のみに
意識を向けよう。

100%完全に
委ねる
という意志を
持とう。

面白いことに
人間、
こういう時こそ、

一気に

実在が
わかるように
なる。

人事を超えた
流れと、

その先に
あるものが、

一瞬だけ
かもしれないが、

垣間観える
瞬間が
あるかもしれない。

期待しても
いけないが、

流れに
身を委ねる
とは

人間にとっての
最大の
覚悟の一つ
なので、

そこで得られる
体験は
尊い。

もちろん、

大切なのは、
踏ん張ることに
全力を尽くした、
という前提だ。

人事を尽くした
からこそ
私達は
天命を待てる。

実在の自分

本格始動だ。

つづく

人間だからしゃーない

深く
自分の内面に
入り込んでいくと、

それは
宇宙を旅する
のと
同じことになる。

同じ
無限性だ。

私達の
内面と、

現実世界の
外面は、

一致する。

内面と
外面の
一致の境界に

人は
ある。

境界
としての
自分は、

では
どのように
生きるか?

・・・なんてことを
真面目に
考えていると

頭が
おかしく
なりそうだ。

この世界は、

我々
人間自体も
含めて

理解不能の
世界だ。

ここでいう
理解不能
とは

人間の頭
では
理解不能、

という
ことだ。

すべてを完全には
理解できぬ
ように

私達人間は
創られている。

なぜなら
理解
できてしまったら、

その瞬間に
進化が
止まってしまう
から。

わからない
ことに
立ち向かってく。

これが
人間の本質
だ。

そして、
わからないことに
立ち向かう
ことを
本気でやり続ける
ことで

私達は
言いようのない
幸福感を
得る。

ただ、これは
体験しないと
得られない
ものなので、

多くの人は
これをまだ
知らない。

わからないことに
立ち向かう
そのこと自体は
恐怖を呼ぶので、

なかなか
実践もできない。

そのハードルを
乗り越えて
初めて
得られる幸福感。

やろうと
思えば
誰もができるが、

多くの人が
やろうとは
思わない。

こういった
カラクリも含めて

この世界は
ある意味

わざと

理不尽に
創られている
らしい。

私が
オススメなのは、

人間である
ことを
受け入れる
ということだ。

人間は
理不尽の中で
不理解のまま
生きる
という宿命を
背負っている。

そこを
良い意味で
諦めて、

まぁしょうがないよ、
私は
人間なのだから、

受け入れて、

進めば、
案外
楽になる。

そして、
わからないことに
立ち向かって
みようかな、
という気にも
なるだろう。

それが
本能なのだから。

もう少し、
私達は
本能に素直に
生きても
良いのではないか。

つづく

火の粉はとても熱いけど

火の粉が
降りかかって
くる。

たくさんの
火の粉が。

その
ほんのわずかな
一つが

ジュッと
この身を
焦がすだけで

私達は
人生の進み行きを
変えてしまう、

そんな
弱さがある。

強くあれ!


言いたいわけ
ではない。

人は
弱いもの。

自分の
弱さは
自分自身が
しっかり
感じ、その存在を
認めることこそ
肝要。

でなきゃ
本当に弱い
自分に
なってしまう。

ただ、

ただね、

火の粉には
何としてでも
向き合わねば
ならない時が
ある。

熱い、
怖い、
逃げたい、

という
あらゆる気持ちを
しっかり
抱きながらも、

しかしそれでも
向き合う。

向き合おうと
する。

今はそうすべき場面
であると、
わかってしまう
時がある。

それは
実在の自分が
教えて
くれているんだ。

今ここは、
何があっても
向き合う時だ、
と。

そんな時は
泣き叫び
ながらでも
いい。

格好悪くて
全然
OK。

ただ、

とにかく、

向き合う。

火の粉に。

ここを
越えれば、
その後の進みは
本当に
楽になる。

強くなくて
いい。

それでも
いざという時には
向き合える、

それが
人間だ。

つづく

勇気の使い方

勇気は
使うべき時に
使おう。

勇気を出しては
ならない時が
ある。

それは

現象のみに
走る時
だ。

つまり、
現象レベル
(顕在意識レベル)

意図や思惑を
もち、

それを達成する
ために
勇気を奮う
という場合だ。

極端な
言い方を
すれば、

思惑通りに
物事を進める
ための
勇気など

捨てて
しまえ。

ここからの
時代は
そういった勇気に
よって
余分なことが

不調和の
元凶が

次々に
発生してしまう。

もちろん
顕在意識は
大切だ。

すべては
顕在意識が
最終意思決定者
として

物事の決断を
する。

ただし、
その前段階が
あるだろう。

顕在意識に
最も大きな影響を
及ぼす、

自分自身の
実在の意志
だ。

それは
言葉にならない
ものかも
しれない。

しかしそれは
確実に
自分の中に
存在し、

常に
信号を発信
させ続けている。

それを
顕在意識の自分が
キャッチする
その瞬間、

多くの場合、

えぇ〜、まさか!


驚くような発想
として
浮かび上がる。

そんなことは
過去に
経験がない。

これまでの
自分の生き方
進み方とは
違う。

その違和感が
自分に
恐れを生む。

でも
そこでこそ
勇気が
必要だ。

自分の中から
湧き上がる
どうしようもなく
力強い
意志、そして
発想。

それを
拒んでは
ならない。

勇気を持ち、
それを
そのまま
受け取り、

顕在化し、

しっかり
自分の意思
として

その方向に
動いて
みよう。

そのために
こそ、
私達は
勇気を持って
生まれてきた。

つづく

気持ち良い気づきに負けるな

芋づる式に
気づきが
連発することが
ある。

それはもう
爽快だ。

しかし、
こういう時ほど
注意した方が
いい。

途中から
気持ち良さが
気づきを
引っ張ることが
ある。

そうなると
もう
それは
ただの「思いつき」
レベルとなる。

本質的な
気づきと、

思いつき

根っから異なる。

気づきとは
勢いで
広げるものでは
ない。

本当に
大切な気づきは

たった
一つ

で良い。

純度の高い
気づきを
得たら、

調子に
乗らずに、

その気づきを
しっかりと
自分の中心に
抱こう。

全能感
という言葉が
あるが
これは危険だ。

自分が
何でもできる!
という
感覚のままで
生まれる気づきは

大概、
途中から
おかしくなる。

中には
これに
ほだされたままに

日々を過ごす
人もいる。

大体は
本人の自己満足に
終わる。

気づきは
一つでいい。

そして
その一つを
大切に

冷静に

育てる
ことだ。

私達の実在は
そんなに
やたらめったらに
教えてくれる
もんじゃない。

気持ち良さに
負けない
ように。

つづく

似たもの同士だからといって

空の青と
海の青は

同じ青
なのに

全く違う。

二つの青が
混ざり合う
ことはない。

同様に、

同じような
個性(色)を
持っていても

混ざり合えない
人は
いる。

むしろ、
混ざり合っては
ならない人、

という
言い方の方が
本質的だ。

でもやはり
方向性は
同じ色。

そういう人
同士は、

あえて
離れる方が
いい。

離れて
それぞれの
世界を創る。

すると、
空は海の青を
見て、
「美しいなぁ」
と思えるし、

海は空の青を
見て、
「美しいなぁ」
と思える。

きちんと
離れるから
こそ、

お互いの
美しさを感じ合い、

お互いを
尊重し合ったり

離れている
からこその
シナジーが起きたり
する。

似たもの同士は
集まれ!
なんて
こだわる必要は
ない。

人と人は
距離感こそが
大切。

近ければ
良い
ということは
ない。

どの人とは
どの距離感で
関わるか?

という
問いを私達は
これからこそ
大切にしよう。

つづく

ここから動き方を変えていきます

実在と
現象が
隔たっている

というのは
ほとんどの人が
そうだ。

そういった
世の中に
なってしまって
いる。
何千年も。

その状態を
一気に
変えていくことは
とても難しい。

しかし
この10年間で
成されたことは

奇跡とも
表現できる
ものだ。

ただその
奇跡は
残念ながらまだ
ほとんど
現象化されて
いない。

現象化の
始まりが
昨年、つまり
2023年。

それを私は
「0の年」

呼んでいる。

そして
2024年。

今年を私は
「1の年」

呼んでいる。

どうだろう?

皆さんの
周りは
いかがかな?

実在が現象化
する
という意味での
変化を
感じられている
だろうか?

私の周りでは
今年に入ってから
本当に
変化が激しい。

人々の
脱皮や羽化の
連続だ。

そして
脱皮や羽化を
し始めている人との
出会いも
急増している。

私は
身一つなので、
サポートにも
限界がある。

それでも
やれるところまで
やってみる
つもりだ。

脱皮や羽化を
サポートするには
自分自身が
ちゃんと
脱皮や羽化を
貫徹しなければ
ならない。

その体験を
通じて
初めて、

脱皮・羽化段階の
人には
・何をして良いか?
・何をしてはならないか?

感覚的に
わかるようになる。

そういった
サポートタイプの人も
また
急増している。

現象レベル
での
変化の始まり。

正式には
昨年からだが、

私の印象的には
今年から、
ついに
本格化した

というところだ。

それを見越して
私もずっと
準備してきたので、

私は私の
動き方を
これから
変えていく。

もっと
効率的・効果的な
動き方に。

また具体化
したら、
ここで
報告していく
つもりだ。

つづく

ここで問いかけよう

あなたの
身体の
中心部分に

意識を
向け、

そこに
問いかけて
みてほしい。

「今、私は
順調か?」

と。

なかなか
答えが
スッキリしない
時は、

「何が順調で、
何が順調ではない
のだろう?」


問うてみると
いい。

今は、
とても順調に
物事が
進みやすい
潮流だ。

この状況で
もし
順調でない
ならば、

それは
あなた自身に
何らかの
問題がある。

こういう時
こそ、
何が問題か?

明確にしよう。

ここを
ちゃんと
やっておけば、

あとが
楽になる。

つづく

場からのプレゼント

足元から
突然、

エネルギーを
補給される
ことがある。

素直に
感謝だ。

その場に
プラスのエネルギーが
ある
ということだ。

あらゆる「場」には
エネルギーが
ある。

もちろん
マイナスエネルギー
の場も多い。

ある組織で

ある一定以上の
人達の
エネルギーが
高まることで、

場自体のエネルギーも
高まり始める。

すると
場が人を育てる
ということが
始まる。

そして
ある瞬間に
ふと

場から
エネルギーを
いただけることが
ある。

私の場合、
それを
足元から
いただく。

足元から
感じる。

下から
ジワジワと
心地良い
パワーが
昇ってくる。

あたたかく
落ち着いた
エネルギー。

これを
感じると、

あぁこの会社も
よくなったなぁ、

実感できる。

私の大きな
悦びの
一つ。

人を
育てる
とは
場を
育てる
こと
でもある。

人と場

セットだ。

そんな
見方をすると
面白い。

つづく

本当のエネルギーとは

風が流れ、
草花が
そよぐ。

一見、
穏やかに
見えるのだが、

実は
そういうものほど
本質的な
エネルギーが
高かったりする。

本当に
エネルギーの
高いものには
ゆとりがある。

ゆとりは
穏やかさを
生む。

逆に、

表面上の
激しさに
目を奪われ
過ぎては
ならない。

現象の
エネルギーと
実在の
エネルギーは
違う。

現象の
エネルギーは
使えば必ず
枯渇する。

実在の
エネルギーは
無尽蔵だ。
ただし、
そのエネルギーの
源泉を開く
ことは
なかなかに
難しい。

源泉は
すべて
「自然」の中に
ある。

例えば、
自然な生き方を
日々、
しっかりできている
人は、

実在のエネルギー

満ちている。

常に
内側から
エネルギーが
湧いている状態。
つまり、
その人自身が
源泉となれている。

私の
サポートとは
そうなるための
もの、
というのが基本だ。

安易な
現象の
エネルギーアップ
ではなく、

しっかり
じっくりと
その人の
もしくは
その組織の

実在エネルギーの
源泉を探す、

そして
掘り起こす。

これが
できると
その人や組織は

どんどん
穏やかに
なっていく。

静かに
なっていく。

源泉を得た
静けさ、

穏やかさ。

誰もが
体験できる
ことだ。

つづく

できればなんとかしたい

太陽に
翳りが
観える。

実在の
レベルで。

太陽が
悲しんで
いる。

おい、
どうしたんだ?


問う。

大したことは
ないさ、

返ってくる。

が、
悲しみは
確かに
伝わってくる。

思わず
涙が
出る。

本来、
明るく
燃え続ける
はずの存在が、

翳っている。

それだけでも
普通じゃ
ないのに、

この悲しさ

異常だろ。

いや、
大したことは
ない。

あなたの
ダメージに
比べれば、

・・・と。

・・・・・・

皆、
それなりに
ダメージを
負っている。

実在の
レベルでは
相変わらず

激しい
修復が
必要だ。

人が
ちゃんと
進んでいける
正常な
世の中に
治療するために。

人の
魂が
健康でいられる
ように。

人知れず、
ではなく

すべての人が
実在の
レベルで

実は
頑張っている。

現象の
自分達は

つゆ知らず。

実在の
自分は

ひっそりと
しかし
激しく
常に
頑張っている。

・・・・・・

この
世の中は

実在と現象

によって
成り立って
いる。

どちらかを
整備すれば
良い、
というわけには
いかない。

しかも
順番としては、

実在が
現象化する

というのが
正常だ。

だからまずは
実在を
何とかせねば。

それを皆、
痛いほど
わかっているから
努力する。

命を
かけてでも
必死に。

・・・・・・

太陽の
翳りは
なくなるのか?

私が
生きている
間に。

できれば
なんとか
したい。

できれば
この

数年で。

つづく

真本音で束縛する

右と左から
ガッシリと
身体を
固定されたような
窮屈さ。

本当は、
もう少し
右往左往
したいのだが、

この道を
この方角に
一寸のズレも
許さずに

今は
進まねば
ならない、と。

今ここで
少しでも
ズレてしまえば、

ここでの
僅かなズレの
蓄積が、

将来的には
致命傷と
なる。

だから
ここは
身体を
寸分違わず、

しっかりと
縛りつけ

水平に
垂直に
間違いなく
進む。

そんな無茶な、

いつも思う。

でもたまに
そうなる。

自分で自分を
そのように
縛るのだ。
真本音で。

真本音とは、
本来は
自由の象徴だ。

真本音で
生きれば
生きるほど、
私達は
開放される。

毎日を
自由に
生きる。

という状態に
感覚的に
入れる。

たとえ
環境的な
縛りがあっても。

つまり
どのような
環境においても

自由な自分
として
現実に向かい、
道を開く。

それが
真本音。

つまりは
実在の自分の
意思。

ところが
その実在の
意思が

どのような
環境においても
自分を
縛りつけることが
ある。

真本音で
進んでいるのに
窮屈だ。

そのような
ことは
特例だが、

たまに
ある。

道が
ないのだ。

そこしか。

選択肢が
本当に
ないのだ。

そこしか。

今のこの
世界は
そういった意味で

こんなにも
ひん曲がって
いるのかと
びっくりする。

そこまで
難しい世界
なのか、と。

そう、
なのだ。

私達の
この世界は
現象レベルで
見るならば、

落ちるところまで
落ちた。

だから
普通では
進めない。

しょうがない。

今は
自分を
縛ろう。
真本音で。

それにより
現実に

正確な

風穴を
空けよう。

真本音で。

まったく
我慢の
世の中だ。

つづく

気軽な再出発

トツン、
と 
何かが
落ちた。

トツン、
と 
落ちて
消えた。

大事な
ものだ。

絶対は
落としては
ならないもの。

なのに
落として
しまった。

落ちて
消えたものは
もう
戻らない。

また
始めから
やり直しだ。

この、
「やり直し」

できることこそ
私達人間の
大いなる力の
一つだが、

やり直す
ためには

「始めから
やり直しだ」

という
自覚が必要
だ。

ところが
それができない。

落として
しまった。

消えて
しまった。

という
事実を
受け止められない
からだ。

真面目すぎる
人に
多い。

そういう
意味では、

変な表現
だが、

もっと
不真面目で
いい。

あ、
落ちちゃった。

あ、
消えちゃった。

まっいっか、
また
やり直そう!

というくらいの
軽さが
必要だ。

私達は
大切なもの
ほど、

軽い気持ちで

落として
しまう。

それもまた
人間。

落として
消えてしまって
初めて
それが大切だった

気づいたりもする。

それもまた
人間。

であれば、
また
気軽に
始めよう。

再出発は
気軽で
いい。

つづく

命のやりとり

悲しみと

苦しみと

ほんの僅かの
喜びと。

そういうのが
ない混ぜに
なって

困惑しながら

その人は
ここにいる。

なぜ
私は
ここに
来たのだろう?

この会社に
とって
私は
本当に必要か?


問いながらも、

私に
伝わって
来るのは、

もう少し
根源的な問い。

この世の中に
私は
本当に必要か?

・・・それを
この人は
迷っている。

命を
投げ出すことを
厭わない
人だ。

一歩
間違えれば
人生を
捨ててしまう。

さて、
私は今、
この人に、

何を
伝える?

何を
伝えない?

本人の
自覚のない
ままに

ご自身の
人生を
懸けている
人は
急増している。

やりとりを
間違えれば、

その人の
人生展開は
180度
変わってしまう。

真っ当に
歩いている
人が

真逆に
向かってしまう
かも。

そういった
恐れが
感覚的に
私を襲う。

痛みにも似た
その感覚を

私はいつも
大切にする。

決して
誤魔化さずに
その場で

受け切る。

そうして
初めて
わかるのだ。

私が
どうこうでは
なく、

この場

だからこそ
本当に
必要な
一言が。

命の
やりとり。

それが必要な
場が
急増している。

つづく