2020年 3月 の投稿一覧

考え過ぎるな

 

人を傷つけないように

生きよう。

 

とすればするほど

知らないところで

人を傷つけていた。

 

あるがままで

生きよう。

 

とすればするほど

知らないところで

人を愛せていた。

 

人は

面白いものだな。

 

・・・・・・

 

私達の前には

必ず道があり、

 

そこをただ淡々と

進めばよいだけなのだが、

 

なぜか

余分なことばかりを

してしまう。

 

そして結果として、

余分なことばかりが

起こる。

 

何をしても

何をしなくても

 

道はそこに

あるのに。

 

ただそこを

進めばよいだけ

なのに。

 

・・・・・・

 

日が昇れば

活動をし、

 

夜が訪れれば

休めばいい。

 

嬉しい時には

笑えばいいし、

 

悲しい時には

泣けばいい。

 

やれないことを

やれない、と

悩むよりも

 

やれることを

一つずつ

丁寧に

やればいい。

 

進むことを

望むならば、

 

一歩ずつでも

足を前に出せば

いい。

 

隣の人と

笑い合いたければ、

 

隣の人に

こちらから

笑いかければいい。

 

一人になりたければ、

一人になればいい。

 

共に進みたければ、

共に進めばいい。

 

・・・・・・

 

海の風に

吹かれたければ、

 

海に行けばいい。

 

それなのに、

なぜか人は

山に行ったりする。

 

そのまま

 

その気持ちのまま

 

でいいのに。

 

自らを

物事を

評価したり

解釈するよりも、

 

私達には

できることがある。

 

したいことがある。

 

すべきことがある。

 

それを

そのまま

すればいいよ。

 

それが

自分

でいることだ。

 

つづく

 

そんなに壊しちゃうの?

 

成長には

2種類ある。

 

自分の枠内での

成長と、

 

自分の枠を壊す

成長だ。

 

一般的な成長とは

ほとんどが

前者だ。

 

本当の意味で

後者を行なう人は

わずかだ。

 

なぜならここは

他者の力や支えの

及ばない場所だから。

 

そこは、

本人の意志と意思と

覚悟のみで

決まる場所だから。

 

しかもそこは、

あまりに強い

恐怖と不安と不安定の

場所だから。

 

私はこの仕事を

させていただく中で、

なんとかして

後者の成長のサポートが

できないものか、と

試行錯誤して来た。

 

現時点での

結論は、

 

「できない」

 

だ。

 

自分の枠を壊す

その直前までは

サポートできる。

 

しかし最後の一歩は

本人が

「一人で」

越えねばならない。

 

現時点での私は、

そこを「一人で」越えること

そのものが

人間としての尊厳であると

思っている。

 

だから、

もしたとえ何らかの

サポート方法が見つかったと

しても、

そこは他者が

手をかけてはならないのだと

思っている。

 

でも、

であるが故に

私は祈る。

 

自分の枠を

その人が自ら壊し、

本来の自分を

取り戻せますように。

 

そして、

その人が本当に望む

人生の役割を見出し、

それを全うできますように。

 

これが私の

祈りだ。

 

ところが。

 

今の若い人達の

中には、

果敢に後者の成長に

向かう人が

増えて来た。

 

ある意味、

無茶とも言えるし、

無謀とさえも言える、

そんな勢いだ。

 

しかしなぜ彼らが

それをするかと言うと、

そこには

目を見張るほどの

使命感がある。

 

自分の決めた

自分の使命を

何としてでも果たすのだ、

という

人生への覚悟がある。

 

逆に私は

そういう人達をみると、

 

ちょ、ちょ、ちょっと

待って。

大丈夫?

もう、その辺で

やめておけば?

 

と、

ついつい言ってしまう

くらいだ。

 

しかしそんな私の

助言などには

一切構わずに、

彼らは、進む。

 

枠を

次々に壊していく。

 

さすがの私も

感動する。

 

すげーな、

人間って!

 

改めて感嘆する。

 

私のすべきことは、

それだけの覚悟と

勢いを持った

彼らを、

 

彼らが

自らのエネルギーに

呑まれてしまわないように、

 

彼らが本当に

自由に進めるように、

 

他者だからこそできる

最大のサポートを

し続けることだと、

つくづく

思ったよ。

 

つづく

 

ここが、スタートラインだ

 

私達は常に

スタートライン

に立っている。

 

道はこれまでも

続いて来たし、

 

これからも

続いて行くが、

 

その一つ一つ

一歩一歩が

本質的には

 

スタートライン

である。

 

常に、

 

いつ何時も、

 

ゼロからの

スタート

 

だ。

 

この本質を

掴めたとき、

人生は、

根本的に変容する。

 

いや。

 

変容、というよりも

やはり最も的確なのは、

 

本来に戻る

 

ということかな。

 

つまり、

私達は

常に

「ゼロ」にいる。

 

すべての一瞬一瞬

が、

「ゼロ」なのである。

 

ということは、

私達は

本来は、

 

完全に自由

 

だ。

 

これを理屈として

捉えようとすれば

わけがわからなくなるが、

 

理屈ではなく

「感覚」として

捉えるといい。

 

するとこれは

「当たり前の真理」

として

私達の眼前に

屹立する。

 

その「当たり前」と

常に向き合いながら

人生の歩を進めることが

 

真本音で生きる

 

ということだ。

 

そんな人が

増えれば、

組織は

社会は

世の中は

 

一瞬にして

次元を高めることが

できると思う。

 

過去が原因となって

起こる混乱は、

これからも

起こり続けるだろう。

 

しかしそれに

揺らされることなく、

常に「ゼロ」から

 

今ここから

 

スタートし続ける。

 

そんな生き方を

していこう。

 

つづく

 

やはりここで決まるな

 

人の影響力は

どこで決まるかと

言えば、

 

その人が

その人自身の

本来の在り方

本来の生き方

できているかどうか?

 

である。

 

もちろん

これだけでなく、

様々な要因は

あるだろうが、

 

これ以上の

要因はない。

 

本来の在り方。

 

本来の生き方。

 

これができている時と

そうでない時とでは

その人自身が醸し出す

空気感が

 

根本的に

変わる。

 

だから、

たとえ同じ言葉を

口にしたとしても、

人への伝わり方は

雲泥の差となる。

 

例えば、

「これをやろうよ!」

みんなに提案したとして、

 

それによって

みんながどれくらい

共鳴してくれるかが、

雲泥の差となる。

 

他者への影響力の

違いは、

人生の展開の違いに

直結する。

 

本来の在り方

本来の生き方

できているかどうか?

 

は、

人生展開を

大きく左右する。

 

だからまずは

ここから

始めることが

最も重要だ。

 

・・・・・・

 

肚が座っている人

座っていない人

 

という

言い方もできる。

 

肚が座っている人

とは、

自分の本来の在り方と

生き方の

できている人だ。

 

多少のことでは

動じない、

 

あらゆる現実と

しっかりと対峙し、

常に最善の行動を

見出すことのできる

人とは、

 

本来の在り方

生き方の

できている人だ。

 

そして、

 

人から

本能的な信頼を

得られる人も。

 

本能的な信頼とは、

理屈ではないところで

「なんかあの人

好きだなぁ」

自然に思える信頼のことだ。

 

それはやはり

空気感によって

決まる。

 

それも

本来の在り方と

生き方が

できているかどうかで

決まってくる。

 

・・・・・・

 

自分は

何者か?

 

自分は

何のために

生きるのか?

 

自分が

どんな時も大事にしたい

理念は何か?

 

こういった

すぐには答えを見出せない

問いがある。

 

根本的な問い達。

 

そのような問いと

常に対峙し、

 

すぐには答えは

出なくとも、

それを探求・探究し続ける。

 

そんな人は

本来の在り方と

生き方に

徐々に近づいて行く。

 

人生とは

探求・探究である。

 

それを真摯に

やり続ける人こそが、

 

「本来」

を得られるのだ。

 

つづく

 

本性を現せ

 

自分の本性を出す

ことを

怖い、と感じる人は

多い。

 

本性は

出してはならないものだ

思っている人も

多い。

 

いかに本性を

理性で抑え込むか?

そして

その力と技を

高めることこそが

人としての成長である、と

思い込んでいる人も

多いな。

 

そう。

 

それは

思い込みである。

 

本性とは

隠すものでは

ない。

 

活かすもの

だ。

 

活かすための

唯一の方法は、

 

真本音度合いを

高める

 

ことだ。

 

真本音度合いが

高まれば、

その人の本性が

どのようなものであれ、

 

その本性は

活かされる。

 

その本性こそが、

その人の

魅力となって

発揮される。

 

いかに自分を

オープンに

できるか?

 

これが人生を

決める。

 

そんな危険なことは

できない、

思う人はやはり

多いだろう。

 

しかし

私達の真本音は

私達のあらゆる心を

活かす術を

知っている。

 

というよりも、

すべての心は、

 

そして

すべての本性は、

 

真本音が

自ら選んで設定

したものだ。

 

自分の本来の人生を

創り上げるために。

 

だから

恐れることはない。

 

ただし、

真本音度合いを

高めずして

自分をオープンにすれば、

 

それは

単なる我欲の塊と

なるだろう。

 

それでは逆に

本性は

活きない。

 

あらゆる人が

自らの真本音によって

自らの本性を

活かす世の中になれば

良いと、

私は思っている。

 

そしてそれが

私のサポートの本質

でもある。

 

これをすることで

実際に

組織は初めて調和を

始める。

 

社会も初めて

真の調和を

得られるだろう。

 

つづく

 

本来のビジネスへ

 

ある若い経営者の

コーチングを

している。

 

彼は本当に

ビジネスの力が

あり、

次々に成果を

上げている。

 

ビジネスが

好きなんだ。

 

事業を始めたり、

事業を変革したり、

事業を通じた影響力を

一気に高めたり。

 

側から観ていると

自由自在だ。

 

そんな彼が

「これまでの自分の

延長線上にはない

ビジネス展開をしたい」

言い出した。

 

そこから一気に

コーチングの次元が

変わった。

 

しかし実は私は、

彼からコーチングの依頼を

受けたその時から、

彼が、こうなることが

ありありと

わかっていた。

 

だってその時は、

本来の彼じゃなかった

から。

 

ビジネスの力が

あるだけで。

 

その力だけで

ビジネスをしていた

だけで。

 

そこにはまだ

本来の「願い」と

繋がったものは

なかった。

 

でもいずれ

つながる時が

来るだろう、と。

 

それだけ彼の

まるで赤ん坊のような

「素直さ」を

強く感じ取っていたから。

 

で、

次元の変わったコーチングで、

私は彼に

問うてみた。

 

あなたは一体

何者ですか?

 

何のための

人生ですか?

 

何のための

ビジネスですか?

 

と。

結構ダイレクトな

質問だね。

 

すると

即座に返ってきた。

 

「子供たちの

ためです」

と。

 

「今の子供たち、

そして未来の子供たちの

ために、

ちゃんとした社会を

受け継いでいきたいんです。

だから

子供たちがワクワク

するような社会にしたい」

 

とニッコリ。

 

その笑顔がまるで

本当に

子供のよう。

 

あ〜こりゃいかん。

 

彼に惚れ込んで

しまう。

 

と思った。

 

彼の本来の

ビジネス人生が

始まる。

 

・・・こんな若い経営者が

今、増えている。

 

楽しい時代に

なりそうだ。

 

つづく

 

静かな場所から来る

 

私達は現実世界の

中で

生きている。

 

だから

いろんなことが

降りかかってくる。

 

楽しいことばかり

ではない、当然。

 

嵐のようなことが

降りかかることも

ある。

 

現実世界から

嵐が降りかかれば、

心の中も

荒れる。

 

私の言葉で言えば、

 

反応本音が

大揺れになる

 

ということに

なるが、

 

そういうことは

ほぼ毎日のように

ある。

 

しかし。

 

私達の中には、

現実が

どれだけ荒れようが、

心も

どれだけ揺れようが、

 

決して

揺れない場所

がある。

 

何が起ころうとも

いつも

静か

な場所がある。

 

それが

体の中のどこかに

ある。

 

その場所を

見つけよう。

 

それが

真本音の場所

だ。

 

・・・・・・

 

そこはいつも

静かで

落ち着いている。

 

「落ち着こう」

という意思を持って

落ち着いた状態を保っている

のではなく、

 

何の努力も

何の意図もなく、

ただ最初から

静かで落ち着いている。

 

その場所を

見つけることができたら、

そこに

入ってみよう。

 

自分の意識を

そこに入れ込んで

みよう。

 

するとそこには

何があるだろうか?

 

私の場合は、

そこには

「海」

がある。

 

気持ちよく

スーッと遠くまで

広がる

水面がある。

 

海なのに

波は一つもない。

 

まるで

鏡のような

冴え渡った海。

 

そこに

舟が浮かんでおり、

私はその舟に

乗っている。

 

時には、

舟にも乗らず、

その水面や水中に

自分自身の全身を

浸している。

 

その「景色」の中に

いると、

スッと私は

「もとの自分」

「もともとの自分」

に戻ることができる。

 

・・・・・・

 

「直観」

とは、

 

ここから来る。

 

この、

静かな世界から

来るものだ。

 

私の場合で言えば

その「海」は

 

「答え」の

宝庫だ。

 

「海」は

すでにもう

すべてをわかっているし、

すべてを知っている。

 

過去も今も未来も

全部、

「そこ」にある。

 

だから、

今自分が何をすれば

よいか?

ありありとわかる。

 

その「答え」が

「直観」である。

 

真本音の発想

という

やつだね。

 

つづく

 

スタートは、開き直り、だ

 

どうせ雨に

打たれるならば、

 

その土砂降りの

中に飛び出し、

 

全身を

晒してしまえばいい。

 

雨から

逃げようとするから

余計に辛い。

 

諦めて、

全身をそこに

委ねてしまえばいい。

 

開き直り。

 

そう、

開き直りだ。

 

開き直ることで

初めて開く

道もある。

 

いや、

そんな道ばかり

かもしれない。

人生は。

 

・・・・・・

 

土砂降りに

全身を晒して、

 

目を瞑りながらも

上を向き、

 

大きな雨粒の

一つ一つを

味わおうとする。

 

すると案外、

その激しさこそが

気持ちよさ

かもしれない。

 

なんだ、

飛び出す前は

土砂降りほど

怖いものはない、

思っていたけど、

 

結構

気持ちのよい

ものなんだな。

 

と思えた瞬間に、

その人は

何かから開放された

感覚を得るだろう。

 

何かを一つ

脱ぎ捨てることが

できたような。

 

もしこれが面白いと

思えるようになれば、

その人は

次から次へと

脱皮する人生へと

人生の質そのものが

変貌していくだろう。

 

一つの脱皮から

次の脱皮への間隔が

どんどん狭まり、

 

毎日のように、

 

毎時間のように、

 

脱皮を続ける人

すら現れる。

 

そうなると次に

何が起こるかと言うと、

 

その人の周りの

人達が

多大なる影響を

受ける。

 

脱皮する人は、

その存在だけで

影響を与える。

 

つまりは、

周りの人達も

脱皮を始めるのだ。

 

だから、

 

組織においては、

たった一人の

開き直りと

脱皮が、

 

組織全体の

脱皮に繋がることは

多い。

 

実は私は

これを起こすための

サポートを

させていただいている。

 

組織とは

たった一人の

「開き直り」から

変わっていくのだ。

 

・・・・・・

 

そのたった一人の

ことを、

私は

 

『要』(かなめ)

 

と呼んでいる。

 

私のサポートとは、

「要」となりやすい人を

見出すこと。

 

そしてその「要」候補に

適切な刺激を

入れること。

 

そしてその人が

「要」としての脱皮を

始めたら、

それを適切に

周りに波及させること。

 

そして

次々に「要」を

増やしていくこと、

だ。

 

ここまで、

「組織」という言い方を

したが、

 

これを

「社会」と言い換えても

きっと

同様のことが起こるのだろう。

 

組織の要

となる人は、

社会の要

にもなり得るだろう。

 

そのための

新たな動きを

今週末から始めようと

思っている。

 

つづく

 

一言も喋らんぞ

 

みんな、

喋り過ぎだな。

 

余計なことを

言い過ぎだ。

 

もっと

黙っていれば

いい。

 

一度、お勧め

したいのは、

 

一日中、

黙っていよう

とすることだ。

 

誰といても

何をしていても、

 

たとえ

それが仕事であろうと、

 

何も喋らないと

決めてしまう。

 

もちろん

愛想を悪くする

必要はない。

 

頷いたり、

相槌を打ったり

笑顔を見せれば

よいのだが、

 

自分から

言葉を発することだけを

止めてしまう。

 

そんな一日を

過ごしたら

どうだろう?

 

実際、

それをすると

本当に一言も喋らないで

一日を終えることに

なるだろうか?

 

結論を言えば、

無理

である。

 

何だかんだ

言っても、

結局は何かを

喋ってしまう。

 

口が勝手に

動いてしまうのだ。

 

・・・それでいい。

 

それでいいのだ。

 

口が勝手に

動くまで

喋らないと決めて

いればいい。

 

・・・実はこの

一日の過ごし方。

私が

毎日やり続けている

ことである。

 

実は私は、

毎日、

今日は、何も喋らんぞ、

と決めている。

 

研修で講師をする時

でさえそうだ。

 

みんなの前に立っても

何も喋らんぞ、

決めているのだ。

 

そんな日々を

そうだな、

もうかれこれ8年は

続けている。

 

すると、

本当に必要な一言、

本当に肝心の一言、

のみを

喋る自分になるのだ。

 

私はこれで、

コミュニケーションに

調和が取れるように

なった。

 

人間関係が

とてもスムーズに

なったし、

 

私の言葉が

人に届きやすくなった。

 

受け取って

もらいやすくなった。

 

ただ、この方法、

私以外の誰かに

試してもらったことは

ほぼないので、

上手くいくかどうかは、

わからない。

 

でももし興味があれば、

試してみてください。

 

つづく

 

本当は、できて当たり前

 

今、

これをすれば

よいのだ。

 

という確信は、

本来は、

 

体と心と魂

 

が、

完全に一致した時に

現れる。

 

言葉として

表現すればそれは

どうしても

「確信」

ということになってしまう

のだが、

 

実は、それほど

大層なものではない。

 

よく言うことだが、

それは何かを

「思い出す」

感覚に非常に近い。

 

過去の出来事を

思い出す感覚だ。

 

「あぁあの時は

そうだったな」

と。

 

もしくは、

何か探し物の在処を

思い出すようなもの。

 

「あっそうだ、

あそこに置いたんだった」

と。

 

本当に

それくらいの

感覚だ。

 

ただしそれはもう

「過去」の

出来事。

 

つまりは、

事実として既に

揺るぎのないもの。

 

それであることが

当然であるもの。

 

寸分違わずに、

他の答えが入り込む

余地を

まったく与えないもの。

 

それくらいの

明確さで、

 

未来のことと、

今、自分が

すべきことが

 

「わかる」

のだ。

 

だからもう

寸分違わず、

他の答えはまったくもって

存在の余地なく、

 

「今、これを

しよう」

 

思えるのだ。

 

これが本来の

「直観」

だ。

 

そしてこの「直観」は、

人生において

数えるほどしか

現れないような

特別で神秘的なものでも

なく、

 

それは

日常生活において、

朝起きてから

夜寝るまで、

ずっと

現れ続けられるものだ。

 

なんなら、

24時間の自分の行動の

すべてを

この「直観」のみで

決めることすらも

可能だ。

 

それくらい

「普通」

のことだ。

 

むしろ、

「直観」によって

自分の行動を決めない、

ということの方が

「普通ではない」

気がするし、

「無理をしている」

とか

「不自然な生き方」

な気もする。

 

私達にとっては

やって当たり前の

もの。

 

それができていないのが

不自然なので、

その不自然さを

治さねばならない、

 

というのが

今の世の中の状態だ、

私は観ている。

 

本当は、

何も難しいことは

ない。

 

難しくしているのは

私達自身だ。

 

複雑にしているのは

私達自身だ。

 

それこそを

「思い出す」

必要が、

今の私達には

あるんだな。

 

つづく

 

呑み込まれそうだった

 

凄まじい「情熱」が

内側から

湧き上がってくる。

 

いわゆる

「やる気」で

全身が満たされる。

 

前に向かおうとする

エネルギーが

溢れ出ようとする。

 

全身全霊

という言葉がぴったりの

自分に

すぐにでもなれそうな

気がする。

 

怖いものが

なくなる。

 

何でもできるような

気がする。

 

全能感。

 

・・・今日、

久しぶりにこんな

感覚になった。

 

いわゆる

「幸せだなぁ」

という気持ちを

抱かせる状態であるが、

 

しかし私は

これが出た時には

 

すぐにその状態から

外れることに

している。

 

状態を無理に

変えようとするわけでは

ない。

 

ただ、

そこから外れる。

 

つまりは

客観的に自分を

見つめるのだ。

 

すると、

すぐにわかる。

 

あぁこのまま行くと

やばいな、

ということが。

 

「情熱」という名の

エネルギーに

自分は完全に

呑み込まれてしまって

いるな、と。

 

エネルギーそのものは

とても大事なものだし、

それが溢れるくらいに

高まることも

大事だ。

 

しかし、

呑まれては

ならない。

 

呑まれることで

観えなくなるのだ。

「現実」が。

 

それはつまり、

その瞬間から

「現実と向き合わずに

生きる」

ことになる。

 

それはつまり、

本質的には

「現実逃避」

何ら変わらないのだ。

 

当然、

真本音度合いは

一気に

落ちて行く。

 

だから私は、

自分自身のエネルギーに

呑まれそうになっている

自分を発見すると、

すぐに、

 

そのエネルギーを

凝縮させる。

 

エネルギーの高さは

そのままに、

 

全身を覆っている

それを凝縮し、

小さな光の球に

する。

 

かなりの

高密度の

エネルギー体だ。

 

そしてそれを

身体の中心部分に

大切に抱くようにして

据える。

 

すると、

全身がホカホカとして

温かくなる。

 

まるで

カイロを入れている

かのようだ。

 

こうすれば

「現実」は

はっきり観えてくる。

 

やれやれ、

となる。

 

中心に据えた

高エネルギー体は

高エネルギーなので、

しばらくはずっと

私の中におり、

私を温め続けてくれる

だろう。

 

それはとても

居心地の良いもの

だし、

それがあるが故に

私は疲れることなく、

いろんな物事に

取り組めるだろう。

 

これは

「冷静になれ」

とか

「冷静に生きろ」

ということでは

ない。

 

これをすることで、

自分のエネルギーの

コントロールが

効くようになる。

 

その結果、

ここぞ!という

本当に必要な

その瞬間に、

 

一気にそのエネルギーを

注ぎ込むことも

できる。

 

だからこれは

「冷静に生きる」

というよりも、

 

これこそが

「真剣に生きる」

ことなのだと

私は思っている。

 

つづく

 

見せてやれ

 

もし今、

「やろう!」

と思うことがあって、

 

でも

いざそうしようと

思うと

迷ってしまうことが

あるとすれば、

 

やるべきだ。

 

今は

やるべきだ。

 

迷ったときは、

一度止まって

じっくりと状況や

環境の様子を観る

ことが

大切な時もある。

 

しかし逆に、

どれだけ迷っていても、

今は進むべき

という時もある。

 

今は、

後者だ。

 

世の中的には

今は

動きづらいかも

しれない。

 

しかし

だからこそ

動かねばならない。

 

ここでこの

潮流を

止めてはならない。

 

あなたが

阻害しては

ならない。

 

まずは、

あなたのその

意志と意思を

 

あなた自身が

信じるべきだ。

今こそは。

 

そのために

ここまで

来たのだから。

 

あなたは今、

あなた自身を

試そうとしている。

 

次に行っても

良いかどうか?

 

次に行くだけの

自分に

なれたかどうか?

 

自分自身に

見せてやれ。

 

もう

準備完了だと

言うことを。

 

つづく

 

苦しいな

 

時々、

とんでもないくらいの

人の苦しみを

私は受け取る。

 

その人のコーチングを

終え、

駅に向かって歩いている

その時に、

 

その苦しみを

そのまま感じてしまうと、

 

立っていられなく

なる。

 

しかし街中なので

倒れるわけにも

行かず、

 

私は必死に

その苦しみと

対峙する。

 

阿鼻叫喚

と言える苦しみも

あれば、

 

絶望

と言える苦しみも

ある。

 

私はそれを

ただあるがままに

感じ取る。

 

何の評価も判断も

しない。

 

ただただ

そのままを感じ取る。

 

その人は

この苦しみと

ちゃんと対峙している

だろうか?

 

していないの

だろうな、きっと。

 

だからこそ

ここまでの苦しみに

育ってしまうのだ。

 

苦しみとは、

逃げれば逃げるほど

増す。

 

そして限界を超えると

麻痺をする。

 

麻痺をすれば

苦しまなくてもよいので、

さらに

その苦しみから

目をそらす。

 

すると、

本人の気づかないところで

それは増長を

続け、

 

結果としてそれは、

何らかの病気という

形で現れたり、

 

重篤な心の病として

現れたりする。

 

私の体質は、

その人のその苦しみを

そのまま感じ取ることが

できるので、

それがヒントとなり、

すぐさま

そうならないように

対処はできる。

 

対処はできるのだが、

逃げ癖を身につけた

その人は、

やはりまたもや

逃げるようになる。

 

そんな人が

多いのは

悲しい事実である。

 

・・・・・・

 

これまで

あらゆる苦しみと

対峙してきた。

 

命に関わる苦しみも

数知れず。

 

しかしそんな中で

一つ、

事実として

明確にわかったことが

ある。

 

それは、

 

その人の苦しみは

その人自身が

乗り越えることが

できる、

 

ということだ。

 

乗り越えられない

苦しみを

もつ人は、

 

一人もいない

のだ。

 

人は、

自分に乗り越えられる

苦しみしか

自分に

与えないのだ。

 

しかし、

実際には

乗り越えられない人が

いる。

その原因は、

「逃げる」

からだ。

 

苦しみから逃げれば

逃げるほど、

 

本当は乗り越えられる

その苦しみを

妄想によって

より大きなものに

してしまう。

 

ちゃんと対峙すれば

何とかなるものを、

本人が

何とかならないもの

として思い込み、

 

そして

崩れていく。

 

だから私は

言い続ける。

 

「逃げるな」

と。

 

「見つめろ」

と。

 

「向き合え」

と。

 

そうすれば、

何とかなるんだ。

 

つづく

 

単純なんだよ

 

光と闇が

もし目の前にあったら、

 

心が健康で

あれば、

 

光の方に

進んで行くよね。

 

しかしその光が

眩し過ぎる場合、

 

それが辛くて、

思わず光を避けて、

闇の方に進んでしまう

のも、

また人間だ。

 

じゃあ、

闇がまったくダメかと

言うと、

そういうわけでもなく、

 

闇に真正面から

立ち向かうことで、

その闇を突破し、

 

その向こうに

真の光を

見出す人もいる。

 

それもまた

人生。

 

先日、ある人から、

「人間の器というのは

振り幅の大きさだ」

というお話を聴いて、

 

なるほど、と

思った。

 

光しか知らない人

よりも、

闇も光も

両方共を知っており、

 

それでも進もうと

する人は、

 

確かに器が

大きそうだ。

 

とは言え、

あなたは光しか

知らないから、

バカにする気も

もちろんない。

 

・・・・・・

 

様々な人が

いる。

 

実に様々な人が

いる。

 

一口に「光」だ「闇」だ

と言っても、

 

その人その人で

光の中身は

違ってくるし、

闇の中身も

違ってくる。

 

それを個性と

言うのかもしれないが、

 

基本的に私は

あらゆる人の個性は

素敵だなと

思う。

 

いや、

思えるようになった。

 

今のこの仕事の

おかげだ。

 

昔の私は

人間嫌いだった。

 

まずもって

自分が嫌い。

 

本当に

嫌い。

 

だから、

人も嫌いだった。

 

でも、

この仕事のおかげで、

日々、

あらゆる人と向き合い、

 

あらゆる光と

あらゆる闇と

向き合いながら、

 

ある時、

スコーンっと

 

人が好きになった。

 

恐らく、

自分のことも

好きになれたのだと思う。

 

嫌いから好きに

なった瞬間から、

明らかに

人生の展開は変わった。

 

・・・・・・

 

無理に自分を

好きになる

必要なんてない。

 

あなたの中に

闇があれば

それでいい。

 

そこにあるものは

そのままでいい。

 

大事なのは

そこにあるものを

あるがままに

自覚すること。

 

光も闇も

そのままに

認めること。

 

そして、

 

光であろうが

闇であろうが、

 

今日これをやろう!

 

心に決めたことを

しっかり

やればいい。

 

人生は

いろいろあるが、

 

人生は

思っているよりも

ずっと

 

単純ではないか。

 

つづく

 

捨てる人

 

海を自由自在に

泳いでいた魚が、

 

突然に

鳥になってしまった

としよう。

 

これまでいた

海にはもう

いられない。

 

背に翼が生え、

海ではなく

空を飛ぶようになった。

 

これまでとは

まったく異なる自由を

手に入れたが、

 

何をどうしてよいのか、

わからない。

 

その戸惑いと

不安は

大したものだろう。

 

しかし

それをよくわかった

上で、

 

あえて、

 

魚であった自分から

鳥になろう!

という意志を持つ

人がいる。

 

増えている。

 

もしあなたなら、

それを

「無謀である」

止めようとするだろうか?

 

それとも

応援をするだろうか?

 

魚と鳥と、

どちらが優れているか?

ということではない。

 

魚から鳥になることが

進化するということ

・・・であるとも限らない。

 

ただ一つ言えることは、

それは

まったく別物になる

ということであり、

別の存在になる

ということだ。

 

別の存在として

生まれ変わる。

 

・・・ということだ。

 

それを望む人を

あなたは

応援するだろうか?

それとも

止めようとするだろうか?

 

ある意味これは、

「これまでの自分」を

捨てる、

ということでもある。

 

「手放す」レベル

ではない。

「捨てる」レベル

だ。

 

ひょっとすると、

その人がこれまでの

人生で培った

あらゆるものを

「捨てる」ことになるかも

しれない。

 

当然のことながら、

その人自身の心には

「捨てる」ことに対する

悲しみや不安や

言いようのない混乱が

生じることになる。

 

しかしそれでも

その人の真本音が

その「生まれ変わり」を

望んでいるならば、

 

私は躊躇なく

それを応援する。

 

どれだけ

その人自身の心が

傷ついたとしても、

 

その人自身の

真本音が望むことで

あるならば、

 

私はその真本音に

躊躇なく

歩調を合わせる。

 

それが、

私というコーチ

だ。

 

「捨てるべきものを

捨てる」

 

これをしなければ

本来の人生を進めない

人がいる。

 

それは

身の引き裂かれるくらいの

苦しみを伴う。

 

しかしそこを

越えなければならない

人が

確かにいる。

 

私は

そういった人達の

サポートをすると

決めている。

 

つづく

 

卒業おめでとう

 

私は職人だな、

と思う。

 

人と向き合い、

人が開花していく

様を

リアルタイムで、

 

その決定的瞬間

を、

向き合いながら

共に体験する。

 

それがやっぱり

最上の悦び

だから。

 

そして

サポートをさせて

いただいている皆さんが、

 

私のサポートから

卒業して

旅立っていく。

 

自ら決めた道を

自ら拓いていく。

 

その後ろ姿の

逞しさと

晴れやかさを

リアルタイムで

体験した時はいつも

 

自分が

失われてしまうのでは

ないかと思うくらいに

私は

嬉しさの塊となる。

 

そんな自分自身の

在り様を

客観的に眺めると、

 

あぁやはり私は

職人だな、と

思うのだ。

 

とは言え、

私は、単なる職人を

超えていかねばならない。

 

なぜなら、

職人のままの自分で

在り続ければ、

 

私のビジョンは

達成できなくなる

から。

 

できれば

このままの延長線上で

進んでいきたいなぁ、

 

それは幸せだろうなぁ、

 

と思うのだが、

でもやはり

それは私の願いでは

ない。

 

私の本来の人生では

ない。

 

今日、

ある講座が完了し、

受講生の皆さんが

卒業されたのだが、

 

私自身もまた

これまでの自分を

改めて

卒業しよう、と

 

決意したんですよ。

 

つづく

 

あるがままで進んでみよう

 

成長意欲を

持つこと自体は

とても尊いことだが、

 

みんなちょっと

「自分を変えよう」

し過ぎな気がするよ。

 

例えば、

「私は人を信じる

ことができないのです」

という人がいた。

 

その人は、

「だからまずは

人を信じる自分に

ならねば」

と考え、

努力をされていた。

 

それ自体は

尊いことだと思うが、

 

結局はなかなか

そんな自分を変えることは

叶わず、

 

というよりも

その努力をしようと

すればするほど

空回りし、

 

ずっと同じ場所で

足掻き続けることに。

 

何度も言うが、

その努力自体は

尊い。

 

しかし

次のように考えることも

大事だと

私は思うんだ。

 

つまりは、

 

「こんな私を

私はどう活用しようか?」

 

と。

 

人を信じることの

できない自分を変える

 

のではなく、

 

人を信じることの

できない自分を

どう活用するか?

 

ということだ。

 

そんな自分だからこそ

何をどうすれば

よいか?

 

そんな自分だからこそ

できることは何か?

 

そんな自分だからこそ

逆に

大切にできることは

ないか?

 

という

発想である。

 

そして、

何か思いつくことが

あれば、

それを早速

実行に移してみる。

 

すると、

今の場所から

少しは進むことが

できるだろう。

 

少しでも進めたら、

景色は変わる。

 

違った自分や

違った展開が

観えてくる可能性も

ある。

 

つまり私は、

すべての始まりの

基本は、

 

「存在承認」

 

だと思うのだ。

 

「そこにあるものを

そのままに

あるがままに

その存在を

承認する」

 

こと。

 

その

「あるがまま」

どのように活かせば

よいかを

発想すること。

 

自分を

変えることよりも、

 

自分の場所を

変えてみること。

 

一歩でも

進んでみること。

 

そんなところから

始めてみることを

オススメするよ。

 

つづく

 

現象は現象だ

 

今の世の中は、

 

今の私達は、

 

「現象」に

揺らされ過ぎだな。

 

ちょっと何かが

起こると、

大きく

右に揺れたり

左に揺れたり

上に揺れたり

下に揺れたり

 

いつも

騒がしい。

 

ポンっと

ちょっと肩を

叩かれたくらいで、

 

飛び跳ねるように

驚く。

 

常に何かに

ビクビクしている。

 

過剰反応。

 

その連続の

ような生き方と

行き方。

 

脆弱だな、

と思う。

 

「現象」に

振り回され、

「現象」が

すべてであると

思い込んでいる。

 

すべての「現象」には

本質があり、

その本質のことを

「実在」と言うが、

 

もう少しみんなが

「実在」を

感じ取れるようになれば、

 

世の中はもっと

平和であり

調和するのになぁ、

 

私達の生活の

一歩一歩は、

 

日常の

一挙手一投足は、

 

もっと

地に足のついた

安定したものに

なるのになぁ、と

よく思う。

 

右往左往して

何も見えなくなるよりも、

 

しっかりじっくり

物事の展開を

見つめ(観察し)、

 

本当に

「こうしよう」と

迷いなく思える事柄

のみを

行動に移す。

 

その連続で、

すべてが

調和するのになぁ。

 

「現象」に

捕らわれるということは、

 

目を瞑ったままで

走るのに等しい。

 

それは

危険だ。

すぐに転ぶし、

すぐに何かに

ぶつかるよ。

 

物事の

「実在」を、

本質を感じ取れば、

 

私達は常に

ちゃんと目を開いた

状態で、

 

今、

何をすればよいかが

しっかりわかる。

 

何をすれば

よいか。

 

何をしては

ならないか。

 

それはすべて

「直観」として

わかる。

 

答えはすべて

私達の中に

ある。

 

外の情報は、

その答えに行き着く

ための

きっかけに過ぎない。

 

もっと

落ち着いて

生きよう。

 

「直観」とは

落ち着いた人から

発せられるものだし、

 

「直観」に基づき

生きることで、

その人は

落ち着いて進むことに

なる。

 

思いつきと

直観は違う。

 

右往左往するのは

単なる思いつき。

 

直観はもっと

静かな

ものだ。

 

静かで

とてもエネルギーが

高く、

 

あたたかく

安らぐ

ものだ。

 

つづく

 

1万人の答え

 

以下はあくまでも

私が現場で実感している

話なのだが、

 

決して大袈裟な

表現ではない。

 

私達の心の中には

1万人の「自分」が

存在している、

と考えてほしい。

 

様々な個性を持った

「自分」だ。

 

前向きな自分も

いれば、

後ろ向きな自分も

いる。

 

自信満々の自分も

いれば、

気弱な自分も

いる。

 

親切な自分も

いれば、

わがままな自分も

いる。

 

様々な個性や

考え方を持った

「自分」

が、

1万人いる。

 

決して大袈裟な

表現ではない。

 

もちろんそのほとんどの

「自分」を

自分は知らない。

 

1%の「自分」も

知らないだろう。

 

そして、

 

その1万人の「自分達」が

常に、

話し合いを続けている。

 

発想をし合っている。

 

ブレーンストーミングを

続けている、

考えてみてほしい。

 

例えば、

顕在意識のレベルで

一つの問いが

浮かんだとする。

 

するとその問いに

ついて、

1万人が議論し合うのだ。

 

当然、

宝物のような価値ある

「答え」は

そこかしこに生まれる。

 

珠玉の「答え」は

そこかしこに

生まれる。

 

しかしそのほとんどを

私達は

顕在化していない。

 

珠玉の答えが

たくさん生まれているのに、

それを顕在化

できないのだ。

 

もったいない!

 

しかしそれが

現実。

 

しかし、

時々ではあるが、

 

珠玉の答えの一つが、

何かの拍子に

フッと

顕在化することがある。

 

それがいわゆる

「直観」

だ。

 

だから、

 

直観とは

一つの答えが生まれて、

それがそのまま顕在化する

ということではない。

 

数え切れないくらいに

たくさんある答えの

内のたったの一つが

浮上する、

だけのことなのだ。

 

では、

 

直観力が高まる、

とは

どういうことか?

 

それは、

数え切れないくらいの

答えが、

同時に無数に

顕在化することだろうか?

 

・・・それはそれで

大変面白いかも

しれないが、

 

残念ながら

そうではない。

 

やはり顕在化する答えの

数そのものは

それほど変わらない。

(もちろん、増えるが。)

 

それよりも、

 

本当に今の自分にとって

最高・最善と思える答えを

きちんと選び出して

顕在化することが

できる。

 

・・・というのが

直観力が高まる

ということだ。

 

しかも、それを

 

「答えが欲しい

タイミングで」

 

行なえるように

なることだ。

 

一番欲しい時、

欲しいタイミングで、

一番欲しい答えが

浮上する。

その度合いが高まることが

「直観力が高まる」

ということだ。

 

そして、

それをするのが

「真本音」

の役割だ。

 

真本音とは、

1万人いる「自分」の中の

リーダーだと

思ってもらうとよい。

 

しかもそれは、

1万人すべての「自分」が

心から信頼し

尊敬するリーダーだ。

 

そのリーダーは

1万人の「自分」達が

総力を結集して出した

様々な発想や答えを

すべてチェックし、

 

その中の

最高・最善だと思われる

答えを

選び出す。

 

「今回は

これでいこう!」

と。

 

皆が尊敬するリーダーが

選ぶのだから、

皆、それに従う。

 

「リーダーがそう言うなら

それで行きましょう!」

全会一致となる。

 

その結果として、

1万人の「自分」達は

総力をあげて

その「答え」の方向に

動き出そうとする。

 

「本来の直観」が

発生すると、

自然に体が動いてしまう

のは、

その理由による。

 

だから。

 

真本音度合いを

高めることは、

直観力を高めることに

直結する。

 

真本音度合いが高い人は、

一日の行動のほぼすべてを

直観で決めるようになる。

 

それにより、

ほぼすべての行動が

調和につながっていく。

 

何度も言うが、

大袈裟な話ではない。

 

むしろ

普通の話だ。

 

「直観」については、

今後も度々、

様々な角度から

書かせていただくことにする。

 

つづく

 

参考 →【直観について書こうかな】

 

その純粋さをサポートしたい

 

自分の未熟さを

呪う時間があれば、

 

それを

祈りに変えるといい。

 

悔しさも後悔も、

自分自身への

蔑みも、

罪悪感も、

 

すべて

祈りに変えることが

できる。

 

ビジネスにおいては

「祈り」という言葉は

ほとんど使われる機会は

ないが、

 

しかし私は

本当に真剣に

ビジネスに取り組んでいる

人達からは

 

いつも「祈り」を

感じ取る。

 

それは飽くなき

成長意欲でもある。

 

もちろん

我欲ではないし、

自己満足でもない。

 

関わる人達に、

例えば、

お客様達に、

 

もっともっと上質な

価値を、

もっともっと広い範囲で

提供し続けたい。

 

それにより

もっと深い喜びが

世の中に

広がりますように。

 

・・・あえて言葉に

すれば、

こうなるだろうか。

 

そのあまりにも

純粋な想いを感じる時、

私にはそれが

「祈り」の感覚として

実感できる。

 

ビジネスはもちろん、

ボランティアではない。

 

ボランティアでは

ないからそこに

純粋さはない、

短絡的に考えることは

愚かだ。

 

純粋な想いが

きちんと

事業としての発展に

繋がっていく、

 

そのような形となって

現出していく

その様は

 

芸術的ですらある。

 

やはりそれは

「祈りの結晶」だ。

 

「祈り」という言葉自体は

自覚していなくても、

それを

当たり前のように

毎日し続けている人は

間違いなく

増えている。

 

特に

若い人達に

それを私は感じる。

 

もちろん

年齢ではない。

 

しかし、

初めて会った瞬間に

「祈り」を感じる

若い経営者は

確かに増えている。

 

それは

希望であると

私は思っている。

 

彼らは

自分自身の現時点での

不甲斐なさを

本当に呪う。

 

自分を

責める。

 

そこまでしなくても

よいのに、と

思うのだが、

 

しかしそれも

人間だ。

 

実に

人間らしい。

 

そして

私達人間には

全員、

 

そういった呪いのような

心を

祈りに変換する力が

ある。

 

そんなサポートが

できたらいいな、と

最近は

特に強く思っている。

 

つづく

 

直観について書こうかな

 

「直観」が

出てしまうことが

ある。

 

それが出ると、

思わず

その通りに

行動してしまう。

 

自分を

その方向に

動かしてしまう。

 

それに抗うことは

ほぼ不可能だと

思わせる。

 

かと言ってそれは

自分が自暴自棄に

なったり、

混乱に陥ったり、

制御不能になっている

訳ではない。

 

むしろ全く逆で、

 

自分の頭は

その瞬間、

晴れ渡り、

冴え渡り、

 

感覚として

「すべてがわかった」

という

実に清々しい状態

であり、

 

かつ、

非常に理性的な

落ち着いた

 

地に足がついた

 

状態だ。

 

その状態において

「これをするしかない」

確信している。

 

そのような

安定感と力を

持ち合わせているのが、

 

本来の「直観」

である。

 

それが浮上すると、

私達はもう

その方向に

動いてしまう。

 

「意味」は

後からついてくる

場合が多い。

 

その時その瞬間は

確信はあるのに、

 

なぜ自分が

それをしようとしているのか

わからない

 

ことが多い。

 

でも

確かに確信はあるし、

 

その確信を

抑える必要性も

感じない。

 

そして実際に

そのような方向の行動を

起こすと、

 

驚くような展開で

「調和」が

始まる。

 

むしろ頭がついて

くるのは、

その段階だ。

 

あぁそういうこと

だったか。

 

と、

自分の行動の後に

起こる結果の数々を

体験しながら、

ようやくにして

意味がわかる。

 

そして多くの場合、

その「意味」とは

実に楽しく、

感動的だ。

 

私は、

この「直観力」こそが、

自らの人生や

使命や経営や

人間関係や

・・・あらゆることの

可能性を広げ、

道を拓く原動力になると

思っている。

 

私達の欲しい

「答え」のほとんどは、

直観によって

もたらされる。

 

しかしその直観とは、

自分以外の何者か

が、

自分にもたらしている

ものではなく、

 

それは

私達自身の

「本当の意思」

に他ならない。

 

私達は

私達自身に「答え」を

もたらす。

 

それが

「直観」という形として

現れる。

 

それだけの

ことだ。

 

これまで私は

「直観」について

随分と語ってきたが、

 

もう少し丁寧に

このブログにおいても

書かせていただいた方が

良いかな、と

思い始めている。

 

なぜなら、

「直観」を単なる「思いつき」

と混合してしまう人が

いるようだから。

 

「直観を大事にしよう」

と言うと、

「ではもう、考えなくて

いいんですね!」

という反応すら

時々見受けられるから。

 

自分の「直観」を言い訳に

現実逃避の方向に

走っている人すら

いるから。

(それは本当は

直観でも何でもないのだが。)

 

直観もどきではなく、

本当の直観で生きる

ためには

私達は何をどうすれば

よいのか?

 

直観を阻害するもの

とは何か?

 

など、

様々な視点から

書かせていただきたいな

と考えている。

 

つづく

 

苛立ちを愛する

 

自分の中の苛立ちに

気づける人は

幸福だ。

 

本当は、

苛立ちのない人は

一人もいない。

 

苛立つために

私達は

この世界に生きている、

言ってしまってもいい。

かなり乱暴な

言い方だが。

 

自分は

本当は

何に

苛立っているか?

 

これを

何の解釈もなしに

あるがままに

見つめ、

自覚することができれば、

 

それだけで

その人は

自分自身の

今、すべきこと

人生でこれからすべきこと

理解できるかもしれないのだ。

 

それほど

「苛立ち」とは

大切なものだ。

 

自分の苛立ちを

知ることができれば、

私達は

その中から

抜け出ることができる。

 

自分の苛立ちを

自覚できなければ、

下手をすると

一生、その中にいることに

なる。

本人は、そうとは

知らないままに。

 

私達は

苛立ちから抜け出ることで

初めて、

本来の自分として

本来の人生を

歩み始めることができる。

 

そのためには

まずは

「自覚」だ。

 

人の成長とは

「苛立たない自分に

なることだ」

勘違いしている人は

多い。

 

違う。

断じて。

 

苛立ちとは

宝物だ。

 

自分の「本当」を

見つけるための

鍵だ。

 

せっかく

様々なことに

苛立つことができる

という「心」を

私達は手に入れているの

だから、

それを思う存分に

活用すればいい。

 

苛立ちを

人を傷つけることに

活用するのではなく、

 

苛立ちを

真の自分を見つける

ために

活用するのだ。

 

最近、

様々な方々との出会いが

増えているが、

 

にこやかで

柔らかい雰囲気を

持った人ほど、

 

その人の奥から私は

強い苛立ちを

受け取る。

 

それだけ強い苛立ちが

あることは

とても良いことだと

私はその度に思う。

 

大事なのは

それを自覚できているか

どうか、だ。

 

苛立ちを自覚し、

苛立ちを活用し、

真の道を見出す。

 

苛立っている自分は

愛すべき存在だ。

 

つづく

 

それは本当の意思か?

 

川の水面に空が

映っている。

 

まるで

鏡のように。

 

それを見つめていると、

どちらが本物の空なのか、

わからなくなった。

 

実在と幻影。

 

その本質は

まったく異なるものだが、

姿と形は

よく似ていることが多い。

 

似ているどころか、

表面だけを見れば、

完全に一致することも。

 

実在と幻影。

 

私達の心の中には

この二つがある。

 

その区別が

つかないからこそ、

私達は戸惑い、

迷う。

 

・・・・・・

 

ある時、私は

「風」になろうと思った。

 

風になれば、

川の水面は揺れる。

 

揺れれば、

そこに映っている

幻影も揺れる。

 

そうなれば、

本物の空と

映っているだけの空の

区別がつく。

 

私のやっている

サポートの本質とは

これである。

 

というよりも、

たったこれだけのことを

しているだけだ。

 

・・・・・・

 

あなたが捕らわれている

確かなものとは、

 

実は単なる幻影かも

しれない。

 

幻影に捕らわれ、

幻影の意思のままに

動けば、

 

いつかはそれは

消え、

あなた自身の意思も

消える。

 

すべての幻が

消え去った時、

 

あなたは何もない

孤独の世界に

ポツンと突っ立っている

自分を発見するだろう。

 

虚しさと虚無感。

 

絶望感。

 

それにより、

この世に確かなものなど

一つもない、

あなたは思い込んで

しまうかもしれない。

 

虚しさに基づき、

それが真実だと思い込み、

次の自分の道を

決めてしまう。

 

しかしその道すらも

幻影なのだ。

 

幻影で築いた道は、

どこまで行っても

幻影のまま。

 

そこから抜け出す

唯一つの方法は、

 

自分の中の

実在

を見つけることだ。

 

・・・・・・

 

自分の中の

実在。

 

揺るがぬ意思。

 

それは、

揺るがないようにしよう!

と努力して創り上げた

ものではない。

 

始めから、初めから、

揺るがないもの。

 

そこにただ

在るものだ。

 

それは、

顕在意識レベルの

表現を使えば、

 

あなた自身の

「願い」

である。

 

揺るがぬ願い。

 

人生を通じて、

一生

持ち続ける

願い。

 

一生持ち続けるが、

それは変化をしない

ということではない。

 

それは着実に

進化をする。

 

その進化に

歩調を合わせれば、

あなたの心も身体も

進化する。

 

だから常に

実在に

立ち返るといい。

 

そこを

毎日の原点と

するといい。

 

もし自分の実在が

わからないのであれば、

 

わかろうと

するだけでもいい。

 

今のこの私の意思は、

実在か、幻影か?

 

それを一つずつ

確認しながら

進めばいい。

 

それだけでだんだんと

区別はついて

来るもんだ。

 

・・・・・・

 

本物の空なのか?

 

水面に映っている

空なのか?

 

本当はそんな区別は

最初から

ついている。

 

私達は本当は

すべてをわかっている。

 

だから

「人間」を

やってるんだよ。

 

つづく

 

補助輪として

 

自転車に慣れない内は

補助輪をつけて

練習をする。

 

私達の人生そのものに

おいても、

補助輪が必要なときが

ある。

 

例えば、

一つの出会い。

 

ある人と出会い、

その人が

自分自身の補助輪に

なってくれた、

 

ということが

私にはたくさんある。

 

あの人が

いてくださったおかげで

今の私がある、

という人が

私にはたくさんいる。

 

とても

ありがたいことだ。

 

そして私は

そのご恩を、

 

私が誰かの補助輪に

なることで

お返ししようと

いつも考えてきた。

 

そこで

とても大事だと思うのが、

 

「私はこの人の

補助輪である」

 

という自覚だ。

 

補助輪が

本体と入れ替わって

しまってはならないし、

 

補助輪が

永遠にそこにあっても

ならない。

 

補助輪はあくまでも、

補助輪なしで

ちゃんと走れるように

なるための、

 

一時的な

 

支えである。

 

これを忘れてしまうと、

あらゆることに

不調和が起こる。

 

これは別に

私に限った話ではない。

 

すべての人が

誰かの

何かの

補助輪的な役割を

担っているし、

 

担い合っている。

 

私は今、

誰の何に関する

補助輪か?

 

という問いは

とても重要だ。

 

そして、

 

その人のその事に関する

補助輪として、

 

私は何を

すれば良いか?

 

私は何を

してはならないか?

 

は、

さらに重要だ。

 

補助輪は、

なくなるために

存在している。

 

もうこの人には

補助輪は

必要ないな、

 

わかったら、

 

補助輪が自ら

外れるべきだ。

 

補助輪の役目を

手放すべきだ。

 

それができてこその

補助輪。

 

その人の

自立・自律のために

あるのが、

補助輪だ。

 

つづく

 

不安を越えたい?

 

自分自身の

「不安」

の中に、

埋没してみよう。

 

「不安」を不安として

怖れ、

そこから逃れようと

することで、

 

「不安」は単なる

不安として

心の中にあり続ける。

 

その場合、それは

自分の本来の道のりの

妨げにしか

ならない。

 

「不安」とは

逃げるものではない。

 

「不安」とは

向き合うべきものだ。

 

そして

「感じきる」

べきものだ。

 

そのためにも

まずは、

 

自分の中にある

「不安」の塊を

見つけよう。

 

塊が見つかれば、

その中に

入ってみよう。

 

「不安」の塊の

中に、

自分自身の全身を

突入させて

しまうのだ。

 

そして全身で

その「不安」を

感じ取る。

 

「不安」と

一つになってしまう。

 

「不安」の全部と

一つになるのだ。

 

「自分は不安

そのものである」

 

という状態にまで

なってしまう。

 

それが完全に

成されたとき、

 

私達は

「不安」から

完全に解き放たれる。

 

それは

一瞬のことかも

しれないが。

 

しかしその一瞬が

重要だ。

 

その「一瞬」に

すべての「答え」が

存在している。

 

それをあえて

言葉にすれば

こうなる。

 

「なるほど。

この不安には

このような意味と意義が

あったのか。」

 

「なるほど、

この不安を抱えることで

私の人生には

このような展開が

生まれるのだ。」

 

「なるほど、

今の私には絶対的に

この不安が必要なのだ。」

 

「なるほど、

私は次の一歩として

これをすれば良いのだ。」

 

・・・etc.

 

それらは

理屈ではない。

 

頭で考え、

思考によって出される

答えではない。

 

完全に解き放たれた

その「一瞬」こそが

もたらしてくれるもの。

 

自ら導き出す答え

ではなく、

 

まさにそれは

「思い出す」

ものだ。

 

その「答え」が

わかれば、

 

あとはその通りに

行動することだ。

 

その行動には

ほとんどの場合、

大きな勇気が必要

だろう。

 

しかしそれを

飛び越える

覚悟を持とう。

 

そうすれば

その一歩は

私達の人生を、

次のステージへと

間違いなく

導いてくれるんだ。

 

つづく

 

本能に素直に

 

あなたは

だた、

そのままのあなたで

いれば

いいんだよ。

 

・・・真に

そういった眼差しを

受けると、

 

人は、

 

進化を始める。

 

変わろうと

し始めるのだ。

 

今のあなたでは

ダメだ。

変わりなさい。

 

・・・という眼差しを

受ければ、

人は

今の自分に執着を

始める。

 

何がなんでも

変わってやるものか、

意固地になる。

 

その結果、

たとえ表面上は

変わったとしても、

それはあくまで

表面上なだけであって、

 

それは

進化ではなく、

変化ですらない。

 

変わったフリ

である。

本人が自覚しているか

どうかは別として。

 

今の自分に

執着をして、

意固地に変わろうと

しないという生き方は、

 

その人に

あらゆるストレスを

生み出す。

 

人は本来、

進化の生き物で

ある。

 

いや、

 

進化というものが

カタチとして

現わされたのが

人だと

言っていい。

 

人の本質は

進化

であり、

 

しかしそれは

外圧によっては

浮上しない。

 

そのままで

いいじゃないか、

という

 

「完全承認」

 

があってこそ

初めて

それは浮上する。

 

「完全承認」が

あることで、

その人は、

 

「今のままでは

いやだ。

私はもっともっと

向上したい」

 

という「本能」が

発揮されるのだ。

 

だから

「完全承認」とは

甘やかし

ではない。

 

むしろその

真逆に位置する。

 

甘やかしとは

中途半端な

承認であり、

 

表面上だけの

承認であり、

 

そこには

愛はない。

 

それ自体が

執着であり、

執着は執着を

生むだけだ。

 

しかし

残念なことだが、

この

「完全承認」ができる人は、

ほとんどいない。

 

人を「完全承認」

するためには、

自分を「完全承認」

せねばならない

からだ。

 

果たして

そのようなことが

できるのだろうか?

 

私達人間に?

 

・・・というのが

この20年来の

私の探究テーマの

一つだった。

 

もちろん私は

「できるはずだ」

という前提のもとで

探究を続け、

 

それは

「できた!」

という体験も含めて、

年々

確信に変わってきている。

 

真本音度合いを

高める、

とは

自分も人も「完全承認」できる

瞬間を増やす

ということでもある。

 

そして、

それができる人のことを

私は「コーチ」と呼び、

 

意図的に「コーチ」に

なれる人

(それは、朝から晩まで

でなくてもいい。

ほんの瞬間でもいい)

私は増やしたいと

いつも願い、

ここまで来た。

 

その私の

探究の歩みと

実践の歩みを、

 

私はここから

さらに

一気に

加速させようと

思っている。

 

人は今、

・・・というか

もっと正確に言えば、

 

私達人類は今、

 

大きく、そして速く

そして一気に

進化を遂げようと

願っている。

 

その願いは

とてつもなく

高まっている。

 

と、

私は日々、実感

している。

 

私はその

「実感」に

応えたい。

 

もちろん私一人で

どうなるというものでも

ないのは

重々にわかっている。

 

しかし

私は人間だ。

 

人間は

自分にできる

最大のことをしたい

生き物だ。

 

それを通じて

進化したい生き物だ。

 

私はその自分自身の

本能に

素直に生きたいと

思う。

 

ここからさらに

加速するよ。

 

つづく

 

果敢に挑戦してもらいたい

 

よく、

「覚悟を持って生きよ」

という言葉を

聴くが、

 

その「覚悟」の中で、

私が最も基本として

大事だと思っているのは、

 

「自分として生きる覚悟」

 

だ。

 

これは具体的に

言うと、

 

「今、本当にしようと

思うことを、

今、そのまま実行に

移す」

 

という覚悟だ。

 

これができなければ

「自分の人生」

は始まらない。

 

ところが

これをすれば

最初の内は

様々な障害に当たる

だろう。

 

不調和も

起きるだろう。

 

失敗も

重ねるだろう。

 

なぜなら

最初の内は、

 

「今、自分が本当に

しようとすること」

 

 

「今、自分が本当に

しようと思い込んでいるだけで

本当はどうでもいいこと」

 

区別がつかないからだ。

 

これを

私の表現で言えば、

 

「真本音と反応本音の

区別がつかない」

 

からだ。

 

しかし私は

あえて言うが、

 

最初はそれでもいい

と思っている。

 

区別がつかなくても

いいから、

 

結果として

失敗を繰り返しても

いいから、

 

「今、本当にしようと

思うことを、

今、そのまま実行に

移す」

 

ことを

「今」から始めるべきだ

と思うのだ。

 

その「覚悟」を

持ってほしい。

 

・・・・・・

 

先日、

52歳になってつくづく

思うのだが、

 

人生というのは

短いな。

 

短か過ぎる。

 

24時間で

一日が終わってしまうのも

早過ぎる。

 

やりたいことが

いっぱいあるのに、

時間がまったく

足りない。

 

どう考えても

私のやりたいことは

私一人では

できない。

 

そのあまりに明確な

事実を

今、改めて

目の当たりにしている。

 

「自分の人生を

自分として生きる」

 

のは

当たり前のことだと

思うのだが、

 

残念ながら

本当にそれができている人は

滅多にいない。

 

人生はあっという間に

終わってしまうのに。

 

それが今の

世の中だ。

 

だから調和が

起こらない。

 

本当の調和とは、

 

「自分の人生を

自分として生きる人」

のみが

生み出せるもの。

 

最初は

試行錯誤の連続かも

しれないが、

 

真の調和を生み出せる

自分になるまで、

果敢に挑戦して

もらいたいな。

 

つづく

 

風の丘にて

 

私は

丘の上に

立っている。

 

そこからは

街が見渡せた。

 

田舎ではない。

 

かと言って

都会でもない。

 

程良い大きさの

街だ。

 

街の向こうには

海が見える。

 

穏やかな

海だ。

 

空は

晴れ渡り、

そろそろ夕暮れ時に

差し掛かろうとしている。

 

そよ風に

吹かれながら、

私はその世界を

感じ取っていた。

 

街にはいったい

どれだけの

人がいるのだろう。

 

どれだけの

人生が

あるのだろう。

 

ふと私は

後ろから

肩を叩かれた。

 

振り返らなくとも

それが誰かは

わかっていた。

 

私がよく知っている

人だ。

 

「どうですか、

ここからの風景は?」

 

「うん、いいね。

様々な人の様々な

想いが、

伝わってくるよ。」

 

「降りる気に

なりますか?」

 

「もちろん。

早くあの中に入り込んで

みたいね。」

 

「いつ行きますか?」

 

「まぁ、今すぐかな。」

 

私は立ち上がり、

伸びをした。

 

振り返ると

そこに笑顔が

あった。

 

「私と一緒に

来る?」

 

「いえ、今回は

ここから眺めています。」

 

じゃあ、と

私は片手を挙げ、

その人に

別れを告げた。

 

しばしの

別れだ。

 

恐らくすぐに

また会えるだろう。

 

・・・・・・

 

思った通り、

その街は面白かった。

 

街にドップリと

浸かった私は

丘の上に戻った。

 

その人は

まだそこにいた。

 

「やあ。」

 

「おかえりなさい。

どうでした?」

 

「やはりここは

面白いな。

君も行くか?」

 

「いえ、

ここから見ているだけで

お腹いっぱいになりましたよ。

グワッと次元が高まるのが

よくわかりましたよ。

あんな急激な高まりは

珍しいですね。」

 

「それがこの街の

もともとの力だよ。

いやぁ、まぁでも、

大変は大変だったな。」

 

そう言いながらも

その街特有のそよ風に

吹かれながら、

私は心地良い疲れに

充実感を覚えていた。

 

「こういう疲れ方だったら

大歓迎だよ。」

 

「どうします?

まだしばらくこの街に

いますか?」

 

「いや。

もうここは大丈夫だろう。

名残惜しいが

次に行こうかな。」

 

「そうですか。

次の街では、

私が降りることにしましょう。」

 

「なぁ。」

 

「はい?」

 

「しばらく、別々に

旅をしてみないか?」

 

「別々に?」

 

「うん。

君ももう一人で

大丈夫だろ?」

 

「はい。そうですね。

お〜、やっとそう言って

くださるんですね。

嬉しいな。」

 

「そう言うと思ったよ。

君はどっちの道を

行きたい?」

 

「じゃあ私はこちらの

道を行きましょう。」

 

「では私は

反対にあっちを行くよ。」

 

「次はいつ

あなたに会えますかね?」

 

「どうだろうね。

まぁでも、きっと

最も嬉しいタイミングで

会えるだろ。」

 

「そうですね。

では・・・。」

 

「うん、じゃあね。」

 

私は彼の

後ろ姿をしばらく

見送った上で、

踵を返した。

 

永遠に続くと

思っていた旅も、

そろそろ

終わりの予感がした。

 

つづく

 

晴れやかな一点を

 

「一点」を

決めよう。

 

自分が

どこに立つか?

 

決めるんだ。

 

何をやっても、

どんな状況に

あっても、

 

今この瞬間

 

私達が立てる

場所は

「一点」のみだ。

 

同時に

複数の場所には

立てない。

 

これは

現実レベルでも

そうだが、

 

心の中でも

実は

同様だ。

 

私は

何者でいるのか?

 

私は

何者として

事に当たるのか?

 

それを

完全に決める。

 

ここを決めないから

ブレる。

 

ブレるから

不調和が起こる。

 

だから

その後に起こる

現実も

複雑になり、

人生が複雑になる。

 

展開が

複雑になる。

 

同時に

二つ以上の自分で

あろうと

するからだ。

 

この3次元の世界が

なぜ

時間が一方向にしか

流れないのか。

 

なぜ、

身体は一つしか

ないのか。

 

なぜ、

皆は分離しているのか。

 

それは

「一点を決める」

という

意味と意義を存分に

味わうため。

 

それによる

進化を

執り行なうため、

なんだ。

 

だから、

「一点」を決めよう。

 

この世界では

「一点」を決めよう。

 

すぐに

決められなくても

「決めよう」と

努力しよう。

 

心も身体も

魂も、

 

すべてがスッキリと

納得できる「一点」は

必ずある。

 

それこそが

自分自身の

真本音の

一つだ。

 

つづく

 

逃げたくってしょうがない?

 

人生は、

逃げたって

いいんだ。

 

ちゃんと

自分が逃げていることを

自覚していれば。

 

自覚すれば

反省ができる。

 

反省すれば

次につながる。

 

しかし、

残念ながら、

 

逃げる人ほど、

自分が逃げている

という事実を

見つめない。

 

最も大事な

その部分を

まるでなかったかの

ように

フタをする。

 

自分は常に

立ち向かって来たんだ。

 

今も立ち向かっている。

 

その中での

選択だ。

 

・・・と、

渾身のエネルギーを使って

自分にそう

思い込ませ続けている。

 

これが最も

辛いことを知らずに。

 

潔さ。

 

もっと

潔く行ってほしい。

 

潔さとは

逃げないことを

言うわけではない。

 

人間だから

逃げることも

あるさ。

 

でも、

その事実をしっかりと

見つめること。

 

それが

潔さだ。

 

潔く

行こう。

 

それが我々にできる

最大のことだ。

 

つづく