2018年 4月 の投稿一覧

安定を求めるから不安定になる

心を静かにし、

目を閉じてください。

 

自分が今、

一本の道を歩いている

イメージをしてください。

 

自分の人生の道

のイメージです。

 

過去から今日までの

道。

 

そして明日から

さらに未来に続く

道。

 

過去、今、未来・・・。

 

その3点を同時に

感じてください。

 

そうした時に

あなたの魂は

静まるでしょうか?

 

それとも

騒がしくなるでしょうか?

 

魂が静まるのと

心が静まるのは

本質的に異なります。

 

例えば、

心が大騒ぎをするような

大都会の雑踏の中にいても、

時折、

魂が非常に静かになる

瞬間があります。

 

魂の静けさとは、

外部環境から影響を受けるもの

ではありません。

 

それよりも、

自分自身の生き方、

自分自身の

意思の持ち方、

そして、

自分自身の

願いの持ち方によって

魂は騒がしくなったり

静かになったりします。

 

要するに

内面的な理由です。

 

そこでもう一度。

 

自分の人生の道を

イメージした時、

自分の過去、今、未来の

3点を感じた時、

あなたの魂は

静かになるでしょうか?

 

もし

静かになれば、

今のあなたの生き方と行き方に

あなたの魂は

納得しています。

 

もし騒がしくなるのであれば、

あなたは

自分が本当に望む

生き方と行き方とは別の

生き方と行き方を

しているのでしょう。

 

その場合は、

何が問題なのだろうか?

と、

自分自身に問うてみて

ください。

 

自分の心に問うのではなく、

自分の魂に

問うのです。

 

・・・・・・

 

魂が静まる道。

 

それは、

現実レベルでは

冒険の道、である可能性が

高いです。

 

つまりは、

ハラハラドキドキするような

道です。

 

これまで

やったことのないことに

挑戦する。

 

自分にはできない、と

思い込んでいたことを

やってみる。

 

未開の地に

一歩ずつでも

進んでみる。

 

本質的には、そのような道を

望んでいる人が

多いからです。

 

この傾向は、

今年に入ってから

飛躍的に高まりました。

 

今の多くの人達の

人生の潮流は

「冒険」

です。

 

冒険すればするほど、

私達の魂は

静かになります。

 

それが望む

生き方であり、

行き方だからです。

 

冒険しようとすると、

「いやいや、私は安定がいい!」

という心が

反動のように発生するでしょう。

 

人は皆、

安定を求める生き物でも

あります。

 

しかし、

冒険を止める安定とは

反応本音に過ぎません。

 

なぜなら、

真の安定とは

冒険の中にこそあるからです。

 

冒険をせずに

同じところに止まり続けることで

私達の心は安心するかも

しれませんが、

私達の魂は

逆に不安定になります。

 

その不安定さを

打ち消そうとして、

さらに私達は止まって

しまいます。

 

しかし止まれば止まるほど、

さらに魂は不安定に

なります。

 

そしてさらにその人は

止まり・・・。

 

挑戦をしない人ほど

弱くなるのは、

挑戦をしないという

経験不足が招いている

からではありません。

 

挑戦をしない、

冒険をしない、

ということによる

魂の不安定さが

その根本原因です。

 

私達の魂は

もともと冒険を望んでおり、

というよりも、

冒険するために生まれたのが

「人間」という存在であり、

その本来の生き方を

取り戻そうという意志が

ニョキニョキと

芽生えてきているのが、

今年に入ってからの

傾向なのです。

 

つまりは、

自分自身に本当に

素直に生きるということを

すれば、

私達は自然に冒険の道に

入っていくことになります。

 

・・・・・・

 

「冒険」とは、

表現を変えれば、

既存の何かを壊し、

新たな何かを創造する

ということです。

 

「壊す」

という表現をすると

さらに怖さや不安が

増すかもしれません。

 

しかしやはりそれも

反応本音です。

 

今、

私達の中には

壊したいものが

あるはずです。

 

その衝動に

素直になることが

冒険への第一歩です。

 

魂の衝動。

 

これも最近、

本当によく感じることです。

 

魂の衝動に

今、

突き動かされようとしている人が

激増しています。

 

そんな時は

その衝動に

素直になることです。

 

怖いかもしれません。

 

でも、

素直になることです。

 

そうすれば、

一気に自分が

変わります。

 

そして、

一気に

安定を得ます。

 

ドッシリと

構えることができるように

なります。

 

真の安定とは

こういうことだったか、と

わかります。

 

冒険を

躊躇している人へ。

 

その躊躇は横に置き、

一歩を踏み出して

みましょう。

 

今が、

人生を変えるチャンス

です。

 

つづく

 

成功のサポートではなく試行のサポート

人の人生の主導権を

奪ってしまうサポートを

サポートとは言いません。

 

傲慢と言います。

 

傲慢な人ほど、

自分の傲慢さに気づかない

という傾向があります。

 

「傲慢」

とはとても厄介で、

私も随分と

その中にドップリと

陥りました。

 

陥っているときは

気持ちよくてしょうがない。

 

というところが

「傲慢」の

厄介なところです。

 

魂の本当の悦びと、

傲慢さ故の喜びの

区別がなかなかつかないのが

私達人間の性(さが)の

一つです。

 

・・・・・・

 

当たり前のことですが、

すべての人には

各々の個性が

あります。

 

自分とまったく同じ個性を

持った人というのは

世の中には一人も

いません。

 

もちろん、

過去にもいませんし、

未来にもいません。

 

人類の全歴史の中で、

「自分」という人間は

たった一人です。

 

唯一無二の

存在。

 

それが私達です。

 

ではなぜ、

まったく同じ個性が

この世にはないのでしょうか?

 

なぜ私達は

唯一無二の存在

なのでしょうか?

 

その答えは

シンプルです。

 

私達には

「違い」

が必要だからです。

 

「違い」があることで初めて、

私達は進化を遂げる

ことができるからです。

 

「違い」は必ず

多かれ少なかれ

不協和音を生みます。

 

ズレの気持ち悪さを

生みます。

 

それこそが

大切です。

 

ズレの気持ち悪さによって

私達は試行錯誤を

始めます。

 

どうすればこの、

気持ち悪さが

なくなるのだろうか?

 

どうすれば、

私はもっと

楽になれるだろうか?

 

気持ち悪さを

感じれば感じるほど、

その問いは

強いものとなります。

 

その結果、

本気で

試行錯誤に取り組むように

なります。

 

本当は

何が大事なのだろうか?

 

どうすれば、

私達はお互いに

もっと楽になり、

もっと幸せになれるのだろうか?

 

そういった

試行錯誤を繰り返すように

なった意識が

「5次元」

の意識です。

 

4次元の意識とは

「我欲」でした。

 

5次元の意識は

その我欲から一歩踏み出し、

試行に入ります。

 

ですから私は5次元を称して

 

『試行の次元』

 

と呼んでいます。

 

今のこの世の中で

最も主流を占めているのが

この試行の次元、

つまり5次元の意識です。

 

ある意味、

4次元の意識でいる方が

楽です。

 

物事を断定的に

迷いなく捉えることも

できます。

(あくまでも、反応本音レベル

においてでは、ですが。)

 

しかし

試行の次元に意識が上がることで

様々なことに

本気で迷うようになります。

 

悩みが増えます。

 

もちろん

4次元の意識でも

悩みは尽きません。

 

しかし4次元の悩みとは、

あくまでも

自分だけが良くなるには

どうすればよいか?

自分を守るためには

どうすればよいか?

という、

自分本位の悩みです。

 

それに対して5次元の悩みとは

本当に大切なものを

求める悩みです。

 

進化のための

悩みです。

 

進化のための悩みに

正面から向かい合うことで

私達は、

魂レベルでは

パワーが高まります。

 

4次元で生きることは

心のレベルでは

ある意味、元気になるかも

しれませんが、

魂のレベルでは

延々とパワーの枯渇が

続きます。

 

ということで言えば、

魂のパワーやエネルギーを

取り戻し始めるのが

5次元の意識

と言ってもよいでしょう。

 

・・・・・・

 

多くの人達が

5次元の意識で

試行錯誤を続けているのですから、

その人にとって

最も必要な試行錯誤が

できる状態にする。

 

それが本当の

サポートです。

 

しかし、

その人の試行錯誤を奪い取り、

安易に

「この場合はこうすれば

よいのですよ」

と答えを与えてしまうような

サポートをしている人が

多いのも事実です。

 

さきほども書きました通り、

それはサポートとは

言えません。

 

人にとって大切な

試行錯誤を奪い取るのは、

その人の人生や命を

搾取しているのと

同じことなのです。

 

ですから私のコーチングは

いかにその人(その組織)を

成功させるか?

ではありません。

 

いかにその人(その組織)が

最高の試行錯誤ができるか?

こそを、

最も大切にしています。

 

こういった本質を

理解しているコーチが、

世の中にはもっともっと

必要かな。

 

つづく

 

シンプルなコミュニケーションを楽しもう

泉からトツトツと

水が湧き続けるように、

自分の中からトツトツと

言葉が湧き続けることが

あります。

 

頭で考えている

わけではなく。

 

何かを説明しようと

しているわけではなく。

 

何かを理解してもらおうと

思っているわけではなく。

 

何らかの意図を

持っているわけではなく。

 

ただ、

トツトツと

ゆっくりと

湧き続ける言葉達が

あります。

 

それを私は一つずつ

宝物のように

抱き、愛でながら、

何の解釈も色もつけずに

そのまま

口に出します。

 

それはまるで

自分がただの

スピーカーになったような

感覚です。

 

自分で言葉を

口にしながらも、

自分自身も

それを聴いて

楽しんでいます。

 

次の一言を

自分の口は

何を語るのか?

 

を楽しみながら、

私は目の前のAさんに

向かって、

トツトツと言葉の一つ一つを

プレゼントします。

 

やはりそれは

何をどう観ても

私自身の言葉だとは

思えません。

 

どう観ても、

それは、Aさん自身の

言葉です。

 

Aさんの

真本音の言葉。

 

本当はAさん自身が

自力で気づきたい

答え達。

 

それを私は

Aさんの代わりに

Aさん自身に

お伝えしている。

 

それだけのこと

のようです。

 

研修でもコーチングでも

よく皆さんから

おっしゃっていただく

嬉しいお声があります。

 

「たけうちさんの言葉は

どうしてこんなに

スーッと心の中に

入ってくるんだろう?」

 

それは

私の言葉では

ないからです。

 

あなた自身の

真本音の

言葉達だからです。

 

・・・・・・

 

皆さんの中にも

「泉」

があるはずです。

 

その泉は、

地下水脈に

つながっています。

 

その地下水脈は

目の前のAさんと

共有している

地下水脈です。

 

地下水脈から

トツトツと

湧き出される

泉を

一つ一つ言葉にする。

 

そんなコミュニケーションは

本当は

誰もが取れるはずです。

 

私はこれを

『真本音コミュニケーション』

と呼んでいます。

 

本当にいつも私は

お会いする人達に

伝え続けています。

 

真本音コミュニケーションは

私特有の力では

ありません。

 

人類すべての人が

もともと持っている

普通の力です、と。

 

ただ、私達は

頭で考え過ぎて

しまうのです。

 

意図を持ち過ぎて

しまうのです。

 

自分の考えを

わかってもらおうと

欲し過ぎてしまうのです。

 

そういった気持ちも

もちろん人間ですから

ありますし、

そういった気持ちは

そういった気持ちとして

大事にすれば

よいでしょう。

 

しかしちょっとだけ

それらを横に置き、

ただ、

目の前のAさんにのみ

意識を向けて

みてください。

 

意識を

向け続けて

みてください。

 

すると、

すぐに「泉」に

気づくはずです。

 

あとはただ、

その「泉」の言葉だけを

語るようにして、

ただ、

静かに黙っていれば

よいのです。

 

それだけで

すべての事は

済んでしまいます。

 

何の説明も

言い合いも

必要なく、

ただ、

泉の言葉をそこに

残せば

よいのです。

 

それですべては

調和して

行きます。

 

そんなシンプルな

コミュニケーションライフを

あなたも

楽しんでみませんか?

 

つづく

 

本当は、エネルギーはいっぱいあるんだ

今、

これまでの人生を

振り返った時、

最も重要だったなと

思える出来事は

何ですか?

 

そう自分に問いかけて、

直観的に浮かぶ

出来事を

観てみましょう。

 

その時の場面を

ありありと

思い出してみてください。

 

もし可能であれば、

その場面を

イメージの中で

もう一度、

体験し直してみてください。

 

まるで今ここで

その出来事が

行われていかのるように

イメージするのです。

 

イメージの世界に

入ってしまうのです。

 

そして、

その場面の中の

自分の心に

意識を向けてみてください。

 

意識を向けるというのは

客観的に観察してみる

ということです。

 

その時の自分の心は

どのように動き、

どのように揺らぎ、

どのような刺激を受け、

どのように変化しましたか?

 

変化の前は

どのような心で、

変化の後は

どのような心ですか?

 

その変化によって

その後の日々に

どのような影響が

現れましたか?

 

もしその出来事がなくて、

自分の心が

それ以前のままだったら、

人生の展開は

どうなったでしょうか?

 

その変化によって

得られたものと

失ったものとは

何でしょうか?

 

そしてその変化は

次にどのような変化を

自分自身に

もたらしたでしょうか?

 

・・・・・・

 

時間とは、

過去から今、そして未来へと

一方向に流れていきます。

 

しかしそれは

この3次元の世界だけの

特有の摂理です。

 

一方向に流れるが故に

私達は

未来を知ることができません。

 

未来がわからない

という

言いようのない不安と

不安定感。

 

それがこの世界の

特徴の一つです。

 

未来がわからない

私達。

 

しかし、

そんな私達だからこそ

得られたものが

あります。

 

それは、

 

「エネルギーの自由奔放」

 

です。

 

未来がわかっていれば

私達はその未来に向かって

エネルギーを集約して

行けばよいでしょう。

 

しかし私達には

集約の方向がわかりません。

 

それにより

「迷う」

という状態に入ります。

 

迷うことで発生するのは

エネルギーの分散

です。

 

あっちにもこっちにも

エネルギーを分散させながら

私達は生き続け、

そのうちにエネルギーの

集約の方法すら

忘れてしまいました。

 

しかしそれにより

エネルギーは

自由奔放となりました。

 

悪い言い方をすれば

無駄なエネルギーが

飛び散っている状態。

 

でも良い言い方をすれば、

そこかしこに

エネルギーが

漂っています。

 

漂っているエネルギーを

漂ったままにしてしまうのは

もったいないことです。

 

もし漂っているエネルギーを

集めることができれば、

私達は

想定外の莫大な

エネルギーを

活用できるかも

しれません。

 

・・・・・・

 

この3次元の世界は

すべてが分離しているが

故に、

「想定外」の宝庫です。

 

本来であれば

調和すべきところで

不調和が起き、

本来は平穏に進むべきところで

混乱が起きています。

 

しかしその「想定外」こそが

この世界の魅力であり、

「意味」であり

「存在意義」でもあります。

 

「想定外」の中で

私達は何をするか?

 

何をすることで、

「想定外」だからこそ

生み出せるものを

生み出すか?

 

この世界でしか

できないことは何か?

 

これが、

私達全員に共通する

真本音のテーマです。

 

この世界に

漂っている人のエネルギー。

 

本当はそこにあるのに、

使われなくなってしまった

エネルギー。

 

それを私は発掘し、

未来に向けて活用しようと

思います。

 

私が行なっている活動とは

人のエネルギーをいかに

高めるか?

ということよりも、

そこにあるのに上手く

使われていないエネルギーを

いかに掘り起こして

活用するか?

ということなのだと

思います。

 

・・・・・・

 

さて、

最初の問いに戻ります。

 

これまでの人生を

振り返った時、

最も重要だったなと

思える出来事は

何ですか?

 

その出来事を

もう一度、イメージの中で

再体験しながら、

自分の心に

目を向けてみてください。

 

そして今度は、

心のエネルギーの変化

という視点で、

観察してみてください。

 

その体験により、

あなたの心のエネルギーは

高まりましたか?

低くなりましたか?

 

高まったエネルギーは

その後、どのように

使われましたか?

 

低くなってしまった場合は、

そこで奪われたエネルギーは

どこに放出され、

今はどこを漂っていますか?

 

そのエネルギーを

取り戻すには

どうすればよいでしょうか?

 

つづく

 

我欲でもいいじゃないか

刹那的な興奮のみを

求めて生きる人は

残念ながら

真本音の悦びを感じることは

滅多にないでしょう。

 

もちろん、

刹那的な興奮が

いけないわけではありません。

 

しかし

それは多くの場合

4次元の喜びです。

 

4次元とは

「我欲」。

 

自分だけが嬉しければ

それでよし、

とする私達の心です。

 

私が

「我欲の次元」

と呼んでいるこの4次元は

実在(心の中)の世界においては

最低次元に当たります。

 

念のために申しますが、

我欲がいけないわけでは

ありません。

 

それに、

どれだけ高次元の自分に

なれたとしても、

人の心の中から我欲が、

つまりは4次元の意識が

消え去ることは

あり得ません。

 

我欲があってこその

私達であり、

我欲があってこその

人間であり、

いつも申していますが、

高次元から低次元まで

様々な意識を持つことにこそ

私は、

人間の尊厳と

存在意義を感じます。

 

我欲は我欲。

 

それ自体が

良いとか、悪いとか、

そういったことではなく、

我欲は我欲。

 

ただそれだけの

ことです。

 

ただし、

この4次元の意識には

私達の真本音は

ありません。

 

4次元の意識達は

とても儚く、薄く、

すぐに消えてしまうもの。

 

実在の世界においては

最も弱い存在です。

 

だからこそ、

我欲のみの喜びとか、

刹那的な興奮のみを

求めて生きる人は

心が脆弱になっていきます。

 

安定がなくなります。

 

揺らぎが大きくなります。

 

心の振れ幅が

大きくなり、

常に何かに怯えながら

生きることになります。

 

その状態において、

真本音の悦びを

感じることは相当に

難しくなるのです。

 

・・・・・・

 

逆に、

「我欲」を否定する人も

います。

 

実は、

我欲を否定する意識は

我欲と同じ次元に

属します。

 

何かを否定する、

とは

その時点でその「何か」と

同じ次元であり

同レベルなのです。

 

昔の私も

我欲を否定していた時期が

ありました。

 

そして自分は

高尚な人格者であろう

とし続けていました。

 

その結果、

我欲にフタをし続け、

我欲がそこにたくさん

あるにも関わらず、

我欲をないものとし、

自分が綺麗だと思う心のみに

光を当てて生きていました。

 

その結果、

体を壊してしまったのですが、

あの時の私は

今思い返しても

非常に不自然でした。

 

不自然な生き方を

している人は、

その反動が凄いです。

 

我欲を否定し続けている人は

何かのきっかけで

自分で抑え付けていた我欲が

一気に溢れ出てしまうことが

あります。

 

いえ、

何かのきっかけがなくても、

抑え続けている我欲が、

どんな時も、

その人の持つ空気感として

滲み出続けることになります。

 

本人は

我欲を否定しているのに、

我欲の空気感が

滲み出るのです。

 

そして周りの人達は

その空気感を敏感に

察知します。

 

何となく、あの人、

嫌だな。

 

と周りの人は

そんな印象を持ち、

しかし本人は

自分がそのような空気感を

出しているとは

思いもよりません。

 

そんないびつな人間関係を

日々、創り出してしまう

という結果になります。

 

いびつな人間関係は

いびつな人生に

直結しますね。

 

・・・・・・

 

自分は特別な人間だ、

と思うのも

我欲です。

 

かと言って、

自分は皆と同じでありたい

というのも我欲です。

 

そんなこと

どちらでもいいじゃないですか。

 

最初から私達には

高次元から低次元まで

様々な意識が

あるのです。

 

大事なのは

自己統合です。

 

高次元から低次元の

すべての自分が

同じ方向を向いて

パワーを集約する時、

私達は素晴らしい展開を

現実世界に起こすことが

できます。

 

「俺がやってやったぞ!」

でもなく、

「所詮、僕には無理だ」

でもなく、

ただただ淡々と

生きていく。

 

それが最も自然

なのですが、

しかしその

「淡々と生きる」

ということは、

高次元の自分にしか

できないことなのです。

 

「淡々」という言い方をすると

情熱も何もないような

印象になるかもしれませんが、

真の「淡々と」というのは、

安定の象徴です。

 

安定とは、

その根底に

莫大なエネルギーがなければ

実現し得ないものです。

 

本当の意味での

「淡々と」を実現できている人は

エネルギーの高い人

なのです。

 

エネルギーが高い、

とは

心も魂も満ち足りている状態

です。

 

そうなった時に初めて、

私達は

私達自身の我欲も

許すことができるのです、

本当の意味で。

 

高次元の自分が

現れれば現れるほど、

低次元の自分も

大切にすることが

できます。

 

低次元の自分を

否定し拒絶するのは

低次元の自分だけです。

 

つまり、

本当の意味で

人間らしく生きるためには

高次元の自分を

思い出す必要がある

ということですね。

 

つづく

 

破壊するなら徹底的に

私達人間の持つ

大いなる力を一つ挙げよ、

と言われたら、

私は

「再生する力」

であると答えるでしょう。

 

「再生」という言葉の意味は、

死んだものが生き返ること

ということなのですが、

要するに、

「やり直しが効く」

ということです。

 

私が出会うクライアントさんは

真面目な人が

多いです。

 

真面目な人は皆、

真剣に「後悔」をします。

 

「自分のせい」

にします。

 

他人のせいにするよりも

まずは自分を責めます。

 

決してそれが良いことであると

私は思っていません。

 

自分を責め続けることで

自己満足をしている人も

いますし、

自分を責め続けることで

自分が本来為すべきことに

まったく手をつけられない

という人もいるからです。

 

しかしそういうことを

差し引いても、

「自分が悪いのではないか」

「自分が別の選択をしたら

良かったのではないか」

という見方をする人は、

どうしても応援したく

なりますね。

 

そういう人達に

必ずお伝えするのが

「再生の力」

です。

 

人は、

何かの大きな失敗を

犯したとしても、

きちんと後悔と

反省をするならば、

必ず再スタートを切ることが

でき、

進化の道を歩むことが

できるのです。

 

100積み上げたものが

すべて壊れて

0に戻ってしまったとしても、

また1、2、3、・・・と

一つずつ積み上げることが

できるのです。

 

そして

そのように「進み続ける」

ということ自体に

私は大いなる価値があると

思いますし、

「進み続ける」人は

その人なりの充実感と

幸せを得ることができるのです。

 

問題は・・・、

進んでいるつもりに

なっている人。

 

本当はまったく進まない

どころか、

人の足を引っ張ることに

エネルギーを費やしながらも

その自覚がまったく

ない人です。

 

・・・・・・

 

自己満足。

 

私も随分と

その状態で生きて

きました。

 

自己満足に陥っているときは

本人には

まったくその自覚は

ありません。

 

私は自己満足では

ないか?

 

という問いが発生した時点で

大丈夫なのです。

 

問題は、

そういった問いや

視点がまったく

生まれない人です。

 

その人が

本人の自覚のないところで

周りの人達のエネルギーを

いかに奪い取っているか。

 

周りの人達の

真本音度合いを

いかに奪い取っているか。

 

そしてそれが

組織であれば、

その人のために

いかに組織が疲弊しているか。

 

それを

その人本人にご理解

いただくのは

至難の業でです。

 

しかしそれでも

やらねばならない時が

あります。

 

その組織の生死が

かかっている時です。

 

こういうときは

「第3者」が

役に立ちます。

 

「第3者」とは

私のような者です。

 

つまり、

組織に属さないけど、

その組織に深く関わる者

です。

 

・・・・・・

 

いったいこれまで私は

どれだけ多くの人達の

心を壊してきたでしょうか。

 

「あなたは間違っている」

「あなたの生き方そのものが

完全に自己満足だ」

 

そういった

普通の人には言えない一言を

私はこれまで

どれだけ多くの人達に

ダイレクトに

お伝えしてきたでしょうか。

 

それをお伝えするたびに

私の心は

ズタボロになります。

 

それはつまり、

相手の心のズタボロを

そのまま受け取っているのです。

 

それはとても

つらい行為です。

 

でも一方で

私はわかっています。

 

それをすることで

その人の実在が

輝くことを。

 

心はズタボロでも、

その人の魂が

一気に輝きを放つことを。

 

その人の心から

魂が

解放されるその

爽快さを。

 

自己満足をしている人は

自分を誰かが

躊躇なく責めてくれることを

望んでいます。

 

・・・いえ、

それは「望む」などという

生易しいものでは

ありません。

 

それは、

「祈る」

と言ってもよいでしょう。

 

私はその「祈り」を

感じ取ったとき、

私自身の人としての心を

いったん横に置いて、

魂だけの自分となり、

魂の言葉を

その人に直接

浴びせます。

 

それが私の役割の

一つであると

思っています。

 

・・・・・・

 

どれだけ心を

壊されても、

その人の魂の光が

健全であれば、

その人は間違いなく

再生します。

 

「破壊者」。

 

時々、私は自分のことを

そう思います。

 

でも、

徹底的な破壊なくして

本来の創造は

あり得ません。

 

一番いけないのは

中途半端な

破壊です。

 

一度、すべてを更地に

するからこそ、

その後に健全な

建物を建てることが

できるのです。

 

高次元の私は

目の前のその人が

私自身であることを

よくわかっています。

 

私は私自身に対して

徹底的な破壊を

行ないます。

私自身が

再生することを

祈りながら。

 

それが私の役割の

一つです。

 

第3者だからこそ

できることです。

 

つづく

 

この世界の限界を超えていこう

3次元の世界に住む

私達の目は、

何かと何かをすべて

分離して捉えています。

 

例えば、

私とあなた。

私とパソコン。

パソコンとマウス。

マウスと書類。

書類とコーヒーカップ。

コーヒーカップとコーヒー。

コーヒーと時計。

時計と壁。

壁と窓。

窓と隣の建物。

・・・

 

すべてが分離され

区別された世界。

 

それがこの

3次元の世界です。

 

ここで私達が見ているものは

すべて

私達の脳が感知している

ものです。

 

脳が感知できないものは

私達は感知できません。

 

そしてその脳そのものが

3次元のもの。

 

3次元世界のための

もの。

 

最近は脳科学もかなり

進んできたようですが、

それでもまだ私達は

脳のことについて

1%も理解できていない

と聞きます。

 

間違ってならないのは、

脳の理解が

人の理解である、

と思い込むことです。

 

あくまで、

脳の理解とは、

この3次元世界の理解に

過ぎません。

 

・・・・・・

 

3次元世界に生きているから

3次元のことを理解できれば

いいではないか。

 

という考え方もあるでしょう。

 

しかし、

私達の実在、つまりは

心の中の世界とは

4次元以上の世界です。

 

最低次元は4次元。

 

そこから

5次元、6次元、7次元・・・

と階層ができています。

 

実は、

そういった数字を当てて

「階層ができている」

という捉え方そのものが

3次元的理解なのですが、

それは

3次元で生きる私達には

3次元での表現の範疇でしか

物事の理屈的理解はできませんので、

致し方ありません。

 

3次元以上のことを

3次元世界において少しでも理解するには

3次元表現をするしか

ありません。

 

ただ、

真本音度合いが高まり

意識の次元が高まることで

頭(理屈)での理解を超えて、

感覚や実感として

私達は4次元以上の世界を

理解できるようになります。

 

それは、

「理解」というよりも

「思い出す」という

表現がぴったりです。

 

そうです。

 

私達は

忘れてしまっている

だけなのです。

この3次元の世界の

中で。

 

・・・・・・

 

実在の世界、

つまり心の中の世界とは

最低次元が

4次元です。

 

そして

5次元、6次元、7次元、・・・

と上がっていって、

最高次元はそれこそ

無限大と言ってよいでしょう。

 

無限大とはつまり、

3次元における数字では

表現しきれない

ということです。

 

それくらいに

私達の心の中というのは

広くて深いのです。

 

それが

人の可能性でもあります。

 

人の可能性は無限大、

とよく言われますが、

本当にそうであることを

私はよく理解できます。

 

ただ、

先ほども書きましたとおり、

3次元に住む私達は

3次元の見方しかできませんので、

その範疇に留まります。

 

つまり

3次元的に考えられる

発想の中で、

さらに3次元的な

「限界」を

自ら設定し、

その中で細々と

生きています。

 

そうです。

 

細々と、です。

 

・・・・・・

 

限界を、

超えましょう。

 

そろそろ。

 

私達は私達の

限界を超えたがって

います。

 

それが私達の

真本音の共通の

意志です。

 

ここまでの世の中は

ほぼすべてと言って

よいですが、

3次元世界の中でいかに

上手く生きていくか?

という3次元発想に

基づいています。

 

人としての

生き方もそう。

ビジネスの仕方も

経営の仕方も

すべて、

3次元世界の中で

いかに上手く生きていくか?

に基づき

開発されてきました。

 

3次元世界における

成功者とは

そのやり方を上手く

実践できた人達です。

 

ただ、

もう誰もがすでに

わかり始めているように、

それらのやり方では

それこそもう「限界」が

きているのです。

 

私達はやり方を

抜本的に

変えていかなければ

なりません。

 

そうしないと

この世界は

どうなってしまうのか?

 

という危機感を

持ち始めているのが

今の私達です。

 

私達は

危機感を

共有しています。

 

しかしその危機感に

対して、

これまでと同様の

3次元的発想で

対処していては、

何も解決できません。

 

これまでの私達は

3次元という現象(現実)の

世界の中で、

3次元的発想によって

生きてきました。

 

しかしこれからは、

実在の世界における

できるだけ高い次元の

意識ややり方を

この3次元世界に

反映させていく必要が

あります。

 

3次元の世界に

高次元のやり方を

持ち込むのです。

 

それによってのみ、

これまで解決できなかった

様々な問題が

一気に解決できる

可能性が広がります。

 

そしてそのやり方は

すべての私達が

心の中ではすでに

わかっていることばかり

なのです。

 

答えはわかっているが、

忘れてしまっている。

 

それだけのこと。

 

忘れてしまっていることを

思い出す。

 

それが私達の

本質的テーマです。

 

高次元の話をしますと、

ついつい人は

「現実とはつまらないものだ」

と考えがちです。

 

しかし

そうではありません。

 

私達はこの

現実世界に生きていますから、

今、目の前にある

「現実」を大切にすることが

私達自身を大切にすること

です。

 

高次元で生きる、とは

現実から離れることではなく、

ますます

現実に向かい合っていく

ことです。

 

高次元の意識で

現実に向かい合い、

高次元のやり方で

一つずつ現実を

変えていく。

 

それが今の私達が

為すべきことです。

 

私はこれまでも

そしてこれからも、

そのためのサポートを

し続けます。

 

そして、

私と同じく

そのためのサポート役を

したいと思っている

人達が今、

増えています。

 

そんな人達に、

「サポートのやり方」

をお伝えするのが、

私のミッションです。

 

サポート役の

サポート役かな。

 

そのための活動を

さらに増やしていこうかと

考えています。

 

つづく

 

本当はここに二人いる

1対1の会話や、

複数人のミーティングの場で

皆が沈黙してしまう瞬間が

ありますね。

 

沈黙の時、

いつもどうしていますか?

 

沈黙の時間は

ちょっと居心地が悪く

なりますね。

 

緊張感が高まってしまう

こともあります。

 

それが何となく嫌なので、

沈黙を避けるように

その場を盛り上げたり、

何か話題を提供する人が

出たりします。

 

1対1の場合は、

沈黙が怖くて

延々と喋り続ける人も

いますね。

 

沈黙。

 

確かに、

ちょっと怖いかも

しれません。

 

でも私はこの

沈黙の時間こそを

大切にしています。

 

沈黙の間に

「実在」が大きく活性化する

場合が多いからです。

 

・・・・・・

 

これまでの傾向として、

実在を感じ取ることが

できるようになればなるほど、

口数が減る人が

多いようです。

 

無駄な一言が

なくなっていくのです。

 

場を取り繕うための

言葉が

ほぼ、なくなります。

 

建前もなくなります。

 

おべっかも迎合も

なくなっていきます。

 

結果、

その人は沈黙することが

多くなります。

 

沈黙しても

不安はありません。

 

実在を感じ取って

いるからです。

 

実在を感じ取るということは

目の前の人との

つながりを感じ取るという

ことです。

 

さらに、

目の前の人との

エネルギーの交換や循環も

感じ取れます。

 

その安心感が土台にあるため、

表面上の言葉のやりとりが

どのようなものであったとしても、

それに揺らされることは

ありません。

 

例えば、少し極端に言えば、

目の前の人が自分に

何か批判的な言葉を投げて

きたとしても、

実在レベルでその人との

エネルギーの循環が

とても気持ちよく、

その人と自分との

あたたかなつながりを

感じ取れていたとしたら、

表面上において

どのような批判をされたとしても、

その場はとても

居心地のよいものとなります。

 

表面上のやりとりだけが

コミュニケーションでは

ありません。

 

実在レベルでの

コミュニケーションを

私達は誰とでもいつも

とっており、

実はそちらの方が

圧倒的に影響力が

大きかったりします。

 

端的に言えば、

実在レベルでは

「好き」

と言いながらも、

現実レベルでは

「嫌い」

と言うこともあります。

 

そこでもし

実在レベルを感じ取れて

いれば、

「何言ってるんだよ」

と笑いながら受け止める

ことができるのです。

 

その余裕とゆとりが

人生の展開を

大きく変えていきますね。

 

・・・・・・

 

私達の人生は、

一つ一つの

人とのコミュニケーションによって

大きく変わります。

 

実在コミュニケーション力を

持つことは、

人生を非常に

豊かにしてくれます。

 

誤解とか齟齬が

激減します。

 

人に裏切られる怖さよりも、

人との本質的なつながりの

深さに驚く悦びの経験が

圧倒的に増えていくでしょう。

 

・・・・・・

 

以下は、

話をわかりやすくするための

喩え話だと受け取ってください。

 

私は、

Aさんと向き合う時、

現象(現実)のAさんと

実在のAさんを

同時に感じ取ることができます。

 

それは、

現実のAさんの隣に

実在のAさんが立っている

ような感覚です。

 

ですから私はいつも

二人のAさんと会話をします。

 

もちろん

私の口から出る言葉は

現実のAさんに向けたものです。

しかしその一方で、

実在のAさんにも私は

心の中で常に言葉を

投げかけ、

実在のAさんとも会話を

しています。

 

私のコーチングは、

まずは実在のAさんに

訊くのです。

「次、どんな質問を

投げたらいいですか?」

 

すると、

実在のAさんが答えます。

「では、〜〜という質問を

私に投げてください。」

 

私はその通りの質問を

現実のAさんに投げます。

 

それに対して

現実のAさんが

お答えになります。

 

「どう?この答えは?」

と私は実在のAさんに

問います。

 

実在のAさんは例えば、

「う〜ん、まだまだだねぇ。

全然素直な答えじゃないねぇ・・・。

では、こんなメッセージを

私に伝えてください」

と、

次に私が投げるべき言葉を

教えてくれます。

 

私はその通りのメッセージを

現実のAさんに

投げます。

 

そして現実のAさんから

返ってきた言葉を

実在のAさんに確認し、

さらに次に

何をすればよいかを

相談します。

 

時々、実在のAさんにも

次はどうすればよいかが

わからなくなることもあり、

二人でう〜む、と悩むことも

あります。

 

でもこのように

実在のAさんと相談しながら

現実のAさんに関われば、

現実のAさんは

自分自身の真本音に

非常にたどり着きやすく

なるのです。

 

これがいつもの

私のコーチング。

 

つまり、

現実のAさんを

実在のAさんと私の二人が

コーチングしている。

 

実在のAさんとの

協業作業なのです。

 

しかしこれは

私だけの特有の力では

ありません。

 

こういったコミュニケーションを

すべての人が

本当は取れるのです。

 

それが私達人間が

もともと持っている

コミュニケーション力の本領です。

 

その本領を

取り戻していただくことが

私のあらゆるサポートの柱の一つに

なっています。

 

これは

1対1のコミュニケーションだけでなく、

チームによるミーティングでも

同様です。

 

私がある組織の

チームコーチングに入ると、

そこにもし10名の人がいたとしたら、

10名の皆さんの実在とも

会話をしながら進めます。

 

つまりそこには

20名の皆さんがいるような

ものです。

 

そして、

実在の10名と私が、

現実の10名をチームコーチング

するのです。

 

ですから、

話をもどすと

沈黙。・・・

これがいかに

大切なことか。

 

皆さんが、沈黙したその瞬間に

いかに皆さんの「実在」が

活性化するかを

私はいつも実感しています。

 

実在の活性化を

現実の活性化に

つなげる。

 

私は、こういった

実在コミュニケーションを

駆使できるコーチが

増えるといいなぁと

願っています。

 

そしてできれば、

企業の経営者や

組織のリーダーとなる人が

実在コミュニケーションできると

いいなぁ、と

願っています。

 

いえ、本当は

すべての人に

早く、実在コミュニケーション力を

取り戻してほしいのです。

 

そのために私にできることは

何か?

 

それが私の今後の活動の

基本テーマです。

 

つづく

 

次は、現実を手放す番だ

今、目の前に

人がいます。

 

その人と

向かい合っています。

 

その人は、

あなたですか?

 

あなた自身ですか?

 

そう問われた時、

顕在意識のレベルではもちろん

いやいやいや、

目の前にいるその人は

自分とは別の人です、

と思うはずですが、

あくまでそれは

現象レベルの話です。

 

あなたの実在(心の中の世界)では

あなたは

どう感じているでしょうか?

 

やはり心の中でも

この人は私とは別の人だ、

と感じているでしょうか。

 

それとも、

この人は私自身だ、

と感じているでしょうか。

 

どちらが良いとか、

どちらが素晴らしいか、

ということではなく、

恐らく、

両方を感じている人が

多いのではないかな?

 

実は、

それが「実在」なのです。

 

「実在」の世界には

階層があります。

 

私はそれを

「次元」

と呼んでいます。

 

しかもそれを

数値で表しています。

 

次元が高まれば高まるほど、

「すべては一つである」

という実感が強まります。

 

「すべては私自身である」

という実感が当たり前と

なります。

 

次元が低くなればなるほど、

すべてに対して

分離感を得ます。

別物である、という感覚ですね。

 

私達の心の中の世界では

そういった様々な次元が

同時に存在しています。

 

高い次元から低い次元まで

様々な次元の自分を

持ち合わせているのが

私達人間です。

 

・・・・・・

 

目を瞑り、

空をイメージ

してみてください。

 

雲一つない

濃い青空です。

 

その青空の中に

漂っている自分を

イメージしてみてください。

 

現実では

あり得ませんが、

上も下も右も左も前も後ろも

すべてが

真っ青。

 

真っ青な空間の中に

一人でポツンと

漂っています。

 

そのまましばらくの時間

ジーッとしていて

ください。

 

何も考えず、

ただ、意識は

青空の「青」に

向け続けます。

 

それを続けていますと、

自分と青空の

区別がなくなって

きます。

 

自分は青空であり、

青空が自分であり。

 

自分はここにいるのに

ここではないどこかにも

いる。

 

自分は個であり、

自分は全体でもある。

 

自分は一点であり、

自分は「すべて」でもある。

 

すると、

青空である自分から

体を持っている自分が

観えるかもしれません。

 

自分の体に入ったり、

抜け出たり、

上から自分の体を観たり、

下から観たり、

後ろから観たり、

またもどったり。

 

あらゆる場所に

自分の意識を置けるように

なります。

 

それは

「自由」

です。

 

それは

「開放」

です。

 

これを充分に楽しんだら、

目を開けましょう。

 

すると目の前には

「現実」がありますね。

 

それが

「現象」です。

 

すべての現実(現象)を

ありありと観察してみて

ください。

 

いかがですか?

 

ちょっといつもとは違った

感覚で

自分の脳に

飛び込んできませんか?

「今ここ」が。

 

この感覚で

人と向き合うと、

結構、

面白いですよ。

 

・・・・・・

 

目の前にいる

その人は

「現象」です。

 

それは、

自分自身の反映でも

あります。

 

その人が

自分に対して、

どのような雰囲気で

どのような一言を

投げてくるのか?

 

そこに

自分の生き方のすべてが

映し出されています。

 

私達はいつも、

自分自身の反映と

向かい合いながら

生きているのです。

 

最近、

目の前にいるその人の

お顔は

幸せそうですか?

自由そうですか?

それとも、

苦しそうですか?

窮屈そうですか?

 

もし、

苦しそうであり、

窮屈そうであるならば、

あなたには、

何か手放すべきものが

あるはずです。

 

手放すべきものを

手放していないからこそ、

目の前の人が

苦しむのです。

 

実在のあなたは

(心の中のあなたは)

すでにそれを

手放しているはずです。

 

次は

現実のあなたです。

 

現実のあなたが、

現実の何かを

手放すのです。

つまりは、

行動に移すのです。

 

行動に移すことで初めて

「手放す」は

完了できます。

 

早く手放して、

次に進みましょう。

 

つづく

 

大事なものほど手放してみよう

「自由」と「手放す」

というのは、

ある意味、

同義語かもしれません。

 

もちろん

イコールではありません。

 

しかし、

本当に自由な人には

執着がありません。

 

手放すべきものを

手放すべきタイミングで

すぐに手放すことが

できます。

 

逆に、

そういう人は、

何を手放してはならないか?

について

とても冷静です。

 

手放すべきものと

手放してはならないものを

常に落ち着いて判断し、

その通りに実行することが

できます。

 

そういう人は概して、

とてもあたたかい雰囲気を

持っています。

 

そして、いい意味で

無邪気です。

 

一緒にいて、

癒されます。

 

なぜそうなれるか?と

言いますと、

そういった人は

実在レベルでは

すべてに満たされている

からです。

 

実在レベルでは

すべては一つである

という感覚が

大きいのです。

 

現象レベルで

何かを手放しても、

それはただ距離を離すという

だけのことで、

実在レベルでは

一つであるし、もしくは

共に在るのです。

ということを

感覚としてよくわかって

いるのです。

 

むしろ、

距離を調整することこそが

実在レベルでのあらゆるものの

存在感を

より高め合うことができる

ということも

よくわかっています。

 

「もうあなたと会うことは

やめにします」

「もうあなたと一緒に

仕事をすることはやめます」

「もう離れて暮らしましょう」

 

・・・というようなことを

言いながらも、

それをすることで

お互いのつながりや存在や

そして愛が

さらに深くなることを

知っているのです。

 

・・・・・・

 

私達が手放せるものの中で、

ある意味

最大のものは、

「人生」

かもしれません。

 

「人生を手放す」

 

もちろんそれは

自殺ということでは

ありません。

 

自分の人生を一度、

完全に手放して

しまうのです。

まずは

実在レベルで。

 

つまりは、

心の中で。

 

私は私の人生を

完全に手放せたな。

 

・・・と100%思えることで

初めて観えてくることが

あります。

 

例えば、

自分は自分の人生に

いかに執着していたか?

とか。

 

実は私はこれまで

何度もこれを

しています。

 

私の場合

そこで発見したのは、

人生の願いやビジョン、

そして、

使命に対して

依存している自分自身でした。

 

自分の真本音に

依存している自分であり、

自分の真本音に

執着している自分

でした。

 

もうその時点で

真本音

ではなくなってるんですけどね。

 

もちろん私達は

人間ですから、

執着があるのは当たり前です。

 

執着をゼロにすることは

難しいでしょう。

 

しかし、

執着が執着であることを

知ることが大事であり、

それが執着であるという

自覚のないまま進むことは

できれば避けたいですね。

 

・・・・・・

 

今、あなたにとって

最も大事だと思える人を

一人選んでください。

 

その人を

手放してみてください。

 

もちろん、

心の中だけで結構です。

 

でも、

完全に手放してみて

ください。

 

できます?

 

できないですよね。

 

そりゃ簡単には

いきません。

 

でも、

「手放せた!」

と確信できるまで

がんばって

やってみてください。

 

もちろん

心の中だけです。

 

するとそれが

ゼロリセットとなり、

その人との

新たな関係がスタート

するかもしれません。

 

その人との関係において

これまで思いもよらなかった

発想が

浮上するかもしれません。

 

同じように、

今の自分の仕事に

対しても

心の中で完全に

手放してみてください。

 

何をどう

感じますか?

 

どうしてもそれは

手放せない、

ということであれば、

それはまず間違いなく

執着です。

 

本当は私達は

自分にとって

真に大事なものであればあるほど

手放すことができるのです。

 

しかしもちろん、

その執着を無理に取り払う

必要はありません。

 

でも、

その執着がどのようなものかを

しっかり観察し、

自覚することは大事です。

 

その執着が

あなたの人生の足を

様々な場面で

引っ張っているかも

しれませんから。

 

以上は、

現実を本当に動かすわけでは

ありませんので、

「遊び」の範疇です。

 

でも、

「遊び」だからこそ得られる

発見もあります。

 

「遊び」だからこそ

一度、

真剣にやってみることを

お勧めします。

 

つづく

 

火花の散る関係こそが楽しい

人と人が会った時、

そこで何が

起きているでしょうか?

 

例えば誰かとコラボで

仕事をしようとした場合、

初めての会合で

何が起きるでしょうか?

 

私はいつもそこで

「火花」

を観ます。

 

もちろんそれは

現象(現実)レベルの話

ではなく、

実在レベルの話です。

 

「火花」は

大きければ大きいほど

私は、いいなぁ

と思います。

 

火花とは、

ぶつかり合いによって

発生します。

 

そこにいる人達の

人生と人生の

ぶつかり合いです。

 

自分の人生のハンドルを

自分でしっかり握ってきた人

であればあるほど、

ぶつかり合いは

激しくなります。

 

ただしそれは

先ほども申したように

現象(現実)レベルの

ぶつかり合いでは

ありません。

 

現象レベルのぶつかり合い

とは、

文字通りのぶつかり合い

です。

例えば、

言い合いをしたり、

否定をし合ったり、

どちらが正しいか?

どちらが優れているか?

を競い合ったり。

 

実在レベルのぶつかり合いは

調和のための

エネルギーの交換であり

循環です。

 

ぶつかり合えば

ぶつかり合うほど、

その火花は

ますます激しくなり、

エネルギーは

みるみる高まります。

 

いったん高まって

安定し始めたところで、

またそこに

新たな刺激を入れるのが

私の密かな楽しみです。

 

すると

さらにそのエネルギー達は

うねり、暴れ、

まるで昇り龍のように

垂直上昇します。

 

そんな刺激的な

ミーティングが行われると、

私は

いったいこの人達は

どうなるんだろう?

どこまで

行ってしまうんだろう?

と心配になります。笑

 

この人達は

私の手には負えないな、

どうしよう、

と不安になります。笑

 

でも私は

知っています。

 

その心配と不安が

出ることこそが

真の調和への道であり、

本質的なコラボへの

最短距離です。

 

私はいつも、

物事の展開を

現象と実在の両面セットで

眺めています。

 

面白いことに、

実在レベルで

手に負えないくらいの

激しさが湧き起こることで

現象レベルでは

非常に穏やかな展開と

なります。

 

静かで、マイペースで

トツトツと

物事が進みます。

しかし、

場のエネルギーは

とても高く、

恐らく、

真本音度合いの低い人が

その場に来たら、

目眩を起こすかもしれません。

 

・・・・・・

 

私はこれから

そんなコラボを

どんどん展開していきたいと

考えています。

 

幸い今、

私の周りには

私自身がクラクラと

目眩のしそうな人達ばかりが

いらっしゃいます。笑

 

しかし、

それらの人達は、

皆、自律はしていますが、

まだ本当の意味での

調和に至っていません。

 

これまでの私のステージが

自律した人との出会い

のステージだったとすれば、

これからは、

それらの人達と

真の調和を生み出していく

ステージだと

思っています。

 

そしてそれは

現象レベルにおいて

意図的に起こすものではなく、

すべてを実在レベルの

エネルギーのうねりに

委ねてしまうような、

そんな有機的なものに

していきたいです。

 

シナリオのない

シナリオが

今、始まった感覚です。

 

・・・・・・

 

やはり。

 

テーマは

『自由』

ですね。

 

結局はこのテーマに

行き着きます。

 

昨日から

このブログでは

枠を一つ外しましたので、

これからは

「自由」について、

枠を一つ外した状態で

書かせていただきたいなと

思っています。

 

つづく

 

一つの節目を越えました

節目、というものが

私達の人生には

いくつもありますね。

 

年の変わる年末年始は

代表的な節目ですが、

会社で言えば、

期が変わる節目とか、

個人で言えば、

誕生日とか、

結婚記念日とか。

 

様々な節目があり、

その節目ごとに

私達は何かしら

気持ちを新たにしています。

 

それらは

現象レベルの節目

です。

 

それとはまったく別として

実在レベルの節目

というものもあります。

 

実在レベルの節目

というのは

現象レベルのように

何月何日と日付が

決まっているわけでは

ありません。

 

不定期にその節目は

訪れます。

 

実は。

 

4月18日から19日にかけて、

ここに一つの

節目がありました、

実在レベルでは。

 

・・・・・・

 

「実在」とは、

私達の心の中の世界

です。

 

私達の心は

宇宙のように広く

そして深いです。

 

そして、

すべての人の心は

つながっています。

 

集合無意識、という

言葉がありますが、

私達は無意識下で

つながっています。

 

しかもそのつながりの

深さには

階層があります。

 

表面的なつながりから

深〜いつながりまで。

 

その奥の奥の奥まで行けば、

私達は「一つ」となります。

 

「一点」に集約されます。

 

その「一点」とは

「一点」ではあるのですが、

「無限」です。

 

そこには「すべて」が

存在しています。

 

何もない状態を

「無」と言いますが、

その真逆で、

すべてが存在している状態

です。

 

それを

「空」(くう)

と言います。

 

その、「空」である中心の一点

であり

無限であるものを

アメリカでは「Source(ソース)」と

呼んでいます。

 

日本では

『源』(みなもと)

と訳されているようです。

 

名前のごとく

これがすべての源である

と捉えられているのですが、

実は、

本当は、そうではありません。

 

「源」のさらにその奥にも

さらなる「一点」が

あるのですが、

それについてはまだ

ここでは言及しません。

 

とにかく私達の心は

深いです。

そして、

すべてがつながっています。

 

その心の中に実在している

ものを私は

『実在』

と呼んでいます。

 

心の中に実在しているもの

という言い方をすると、

それは

「イメージのことか?」

と思われそうですが、

そうではありません。

 

イメージとは

単なる幻に過ぎません。

言葉は悪いですが、

妄想と同じです。

 

「実在」は

妄想ではありません。

イメージでもありません。

本当に実在しているものです。

 

心の中の世界。

 

すべてとつながっている

世界。

 

それは

『実在の世界』

と言ってよいでしょう。

 

実在の世界において

実在しているものが

心の外の世界に

反映されます。

 

つまり、

私達のいるこの現実世界に

反映されます。

 

それを

『現象』

と言います。

 

この世にある

あらゆるものは

「現象」です。

 

それは、

「実在」の反映です。

 

「実在」がなければ

決して生まれないものが

「現象」です。

 

「実在」から

「現象」は生まれます。

 

つまり、

心の中にあるものが、

現実化するのです。

 

心理学の世界で

よく喩えられるのですが、

実在とは、映画のフィルムであり、

現象とは、フィルムによって

映し出された映像

のようなものです。

 

・・・・・・

 

さて、話を

戻しましょう。

 

そんな実在の世界において

4月18日と19日の境目が

一つの節目でした。

 

どんな節目かと言いますと、

一言で表現すれば、

 

『手放す期限』

 

です。

 

私達は、

人生において

何かを手放さなければ

先に進めない

という法則のもとに

生きています。

 

真本音で

手放そうと思っていたものを

きちんと

手放せたかどうか?

 

ということは逆に、

これは手放してはならない

と真本音で決めているものを

ちゃんと大事に抱いて

いるかどうか?

 

そのチェックを

自分自身がする節目

だったのです。

 

あくまで

自分自身のチェックです。

 

他の誰かが

するわけでは

ありません。

 

自分の真本音が

自分をチェックするのです。

 

チェックの結果

真本音が満足すれば

次のステージに

その人は進みます。

自らの意志でもって。

 

チェックの結果、

真本音が

これはまだまだダメだな

と判断すれば、

次のステージには行かず、

もう一度、同じステージに

戻ります。

もしくは、

もっとずっと前のステージから

やり直しをします。

もちろん、

これも自らの意志で。

 

その分かれ道が

4月18日と19日の

節目だったのです。

 

ダメだったな

という人も

落胆する必要はありません。

 

ちゃんとやり直しを

すればいいだけのこと。

 

しかし恐らく

その人はかなりの

後悔をするでしょう。

 

その、後悔こそが

大事です。

 

後悔するからこそ

進化があります。

 

人の人生には

やり直しが効きます。

自分で自分に対して

不合格を出しても、

やり直しをすれば

よいのです。

 

自分で自分に

合格を出せた人は

本当に

よかったですね!

 

おめでとう!

とお伝えしたいです。

 

その人達は

次のステージへ出発です。

 

そこには

これまでに経験したことのない

新たな冒険が

待っています。

 

それは

ドキドキワクワクする

冒険です。

 

つづく

 

そろそろ一つ、枠を外そうかな

私達の人生は

答えのわからないこと

だらけです。

 

どうすればよいのか?

がまったくわからない。

 

方法がまったく

思いつかない。

 

そんなこと

だらけです。

 

ですから私達は

ついつい

答えのわかる範疇に

留まろうとしてしまいます。

 

自分が把握できる

世界の中でのみ

生きようとしてしまいます。

 

自分が見ることのできる

視界の中に

い続けようとしてしまいます。

 

それこそが

安心であり

安定であると。

 

しかし本当は、

そういった生き方をし始めることで

私達は

安心と安定を失います。

 

なぜなら

自分の把握できる視界を

超えていくこと、

今の自分では

「わからない」世界に

飛び出していくこと、

それこそが

私達の本能が望んでいる

ことだからです。

 

そのための存在が

私達人間だからです。

 

『進化』

 

・・・これが、

私達人間の本質です。

 

進化を失ったとき、

私達の存在意義も

失われます。

 

つまり、

自分は生きている意味がない

と、

心の奥底で私達は

感じてしまうのです、

進化から逃げることで。

 

「進化することは怖い」

 

と言う人がいます。

 

「進むことが怖い」

 

と。

 

よく言う喩えですが、

私達は自転車と同じように、

進むことで安定し

進むことで安心できるのです。

 

止まってしまうと

途端に不安定になり、

あらゆることにすぐに

恐れを抱くようになります。

 

それが人間の

性であり

宿命です。

 

なんて疲れる宿命なんだ!

 

と思わないでください。

 

進むことで

疲れは癒されるのです。

 

進むことで

とても楽になるのです。

 

そのように創られているのが

私達なのです。

 

答えがわからない?

 

方法がわからない?

 

・・・それこそが

私達の進むべき方向です。

いえ、

進みたい、方向です。

 

その道を行くことで

私達は

真の安寧を得ます。

 

・・・・・・

 

あなたはどれだけ

日々、

人と向き合っていますか?

 

「向き合う」とは

意識を完全に相手に

向けることを言います。

 

相手ではなく、

自分の意識や自分の解釈に

意識を向けながら

人と関わるのは

「向き合う」という状態では

ありません。

 

「向き合う」とはある意味、

目の前の人に

完全に委ねるということでも

あります。

 

自分がその場を

引っ張るのでもありません。

 

相手に委ねるのです。

 

そのためには、

相手を信じるしか

ありません。

 

「相手を信じる」とは

相手の真本音を信じる

ということです。

 

信じる、

とは意志です。

 

信じられるかどうか?

ではありません。

 

信じようと

するかどうか?

 

それだけで

決まります。

 

私はこの人の

真本音を

完全に信じよう。

 

この人の

真本音に私のすべてを

委ねてしまおう。

 

その覚悟を持って

その人に

全意識を向けていきます。

 

するとそこで初めて

私は私の枠を超えた

私になれます。

 

人と向き合うことで

自分の枠を超える。

 

・・・これは

私達すべての人間が

持っている

願いの一つです。

 

その願いに素直に

人と関わり続ける。

 

私は今のお仕事を通じて

それをし続けることが

できました。

 

そういった関わり方を

私はすべての皆さんに

お勧めします。

 

そのような関わり方、

向き合い方を

毎日のようにし続ける人は、

必ず

「真実」を知ることができます。

 

宇宙の真実

です。

 

なぜ、この世が

できているのか?

 

なぜ、この世が

生まれたのか?

 

私達は

なぜ、ここにいるのか?

 

私達は皆、

何を目指しているのか?

 

人と宇宙

(実は、人と宇宙はイコール

ですが)

に関する真実を

実感できるようになります。

 

すべての真実は

「向き合っているその瞬間」

にあります。

 

そこにすべての

答えがあるのです。

 

このブログも

そろそろ

一つの枠を超えようかなと

思っています。

 

実は、

こう見えて、

かなり私は自分を制御しながら

このブログを

書き続けてきました。

 

もちろん

すべての制御を

取り去ることはしません。

 

しかし、

そろそろ

一つだけ、制御を

取り去ろうかな。

 

ちょいと勇気が

要りますが、

そうすることにします。

 

なぜならこのブログは

いつも読んでくださっている

皆さんと向き合いながら

書かせていただいて

いるのですから。

 

つづく

 

今、ここにいないでしょ

自分のことしか

考えない人は、

自分が今ここにいることに対して、

いったいどれだけ周りから

様々な力をいただいているか?

ということを

まったく気づけないままに

生きることになります。

 

自分のことを

わかっているのは、

自分だけ。

 

誰も自分のことを

理解してくれない。

 

理解しようとも

してくれない。

 

ひょっとするとそれは

事実かも知れません。

 

しかしその事実を

創り出しているのは

自分自身であるという

事実もあり、

もしそこに本当に気づけたら

その人はもう8割くらいは

そこから抜け出せたと

言えるでしょう。

 

自分の孤独を

創り出していたのは、

実は自分自身であった。

 

そして、

自分の現実を

創り出していたのは、

実は自分自身であった。

 

この単純な事実を

もしほとんどの人が

腑に落とすことができたら、

それだけで

世の中は変わると

思うのです。

 

ところが。

 

ご承知の通り、

そう簡単にはいかないのが

現実でもあります。

 

ここで、

ちょっと視点を

変えて。・・・

 

「あなたは今、

どこにいますか?」

 

と問われて、

あなたは何と

答えますか?

 

時たまですが、

私は突然クライアントさんに

そのように問うことが

あります。

 

多くの人は

 

「ここにいます」

 

と答えます。

 

でも本当に

そうでしょうか?

 

次の問いを

真摯に受け取って

みてください。

 

その上で、

自然に浮かぶ答えを

自分の中から

聴いてみてください。

 

「あなたは今、

本当に、ここにいますか?」

 

どうでしょう?

 

どんな答えが

浮上しますか?

 

やはり、

「ここにいます」

という答えですか?

 

もし

「ここにいます」

という答えでしたら、

次の問いを

自分に投げてください。

 

「本当に本当に

ここにいますか?」

 

そして、

 

「本当は

どこにいますか?」

 

と。

 

なんでこんなことを

書くかと言いますと、

今、「ここにいる」人が

極度に減っているからです。

 

これは

ここ2〜3週間の

傾向です。

 

私の印象では、

ほぼ、すべての人が

どこかに行ってしまっている。

 

ここに、

心と体はあるけれど、

魂が

どっかに行ってしまっている

のです。

 

もう一度、

このように問うて

ください。

 

「今、私は本当は

どこにいるのだろうか?

どうして、

そこにいるのだろうか?」

 

ここにいないことを

決して悪いことだと

思わないでください。

 

意味があって

あえて、

ここにいないのだと

思ってください。

 

どこかに行っていて

いいんだよ。

今は、そんな

時期なんだよ。

必要があって

そうしてるんだよ。

 

という気持ちで

自分自身に

問うてください。

 

「今、私は

どこにいるの?

何のために

そこにいるの?」

 

そして

さらに次のように

問うてください。

 

「何が完了したら、

ここに戻って来れるの?」

 

自分がここにいない、

真の理由を

できるだけ明確に

してください。

 

それをしなければ、

あなたはだんだんと

孤独になります。

 

そして冒頭に書いた通り、

自分のことしか考えない

という状態に

入ります、

今、ここにおいては。

 

私達人間は

「今、ここにいて

今、ここを生きる」

ことができて初めて、

周りとのつながりを

実感できるように

できています。

 

今、ここにいないということは

本来の自分を

見失うことに

直結します。

 

しかし、

今、多くの人が、

わざと

「今、ここにいない」

という状態を創り出して

います。

 

理由は

今の私にはわかりませんが、

恐らく、

そのうちに、近いうちに

わかるでしょう。

 

ただ、私が

皆さんにお伝えしたいことは、

今自分は、ここにいないのだ

という事実を知り、

そして、そのことに

大いなる意味があることを知り、

そういった状態にある自分を

許し、

大らかな眼差しで

自分を見つめてあげてほしい

ということです。

 

皆さんは今、

今ここから離れることで

何かを得ようとしています。

 

早くそれが

得られればいいなと

願います。

 

つづく

 

さて、ビジョンに向かおうか

豪雪の中、

立っている私が

いた。

 

雪はどんどん降り積もり、

私の全身は雪の中に

埋もれようと

していた。

 

抗うことを

まったくせず、

私は、自分が

閉ざされていくままに

していた。

 

このままいったら

私は死んでしまう

のではないか。

 

やり残したこと

いっぱいあるなぁ。

 

そう思いながらも

だんだんと

意識が遠のいて

いく。

 

うわぁ、

これじゃホントに

死んでしまうよ。・・・

 

・・・ハッと気がつくと

私は布団の中。

 

どうやら

夢だったようだ。

 

いや、

どう考えても

今のは夢ではない。

 

夢であるもんか。

 

たった今、

本当に経験したような

生々しさが

ある。

 

私は、私の人生の終わりを

本当に経験

したのではないか?

 

そう心の中で

つぶやくと、

まるでそのつぶやきに

返事をするかのように、

 

そうだよ、

本当に経験したんだよ、

 

と、また

私自身の心が

つぶやいた。

 

いったい、私とは

何なのだろうか?

 

私のこの人生とは

何のための

ものだろうか?

 

そんな問いが

浮かびながらも、

また私は

ウトウトし始めた。

 

ふと気がつくと、

私は暗闇の中。

 

何も見えない。

 

しかし、

私の周りに

複数の人達の気配が。

 

誰だ?

 

と思って周りに

意識を向けると、

姿は見えないけれども

どうやら

私の仲間のようだ。

 

なんだ、君らか・・・。

 

それは、

いつも当たり前のように

一緒にいる

私のファミリーのような

仲間達。

 

私は彼らと共に、

暗闇の中で

何か一点を見つめていた。

 

見つめる先に

目をやると、

そこには私自身の

姿があった。

 

横たわっている

私自身の姿。

 

その私にはすでに

意識はないようだ。

 

今、

心臓が止まろうと

しているのが

わかった。

 

あぁこれは、

私の人生が終わる

瞬間だと

直観した。

 

心臓の鼓動が

どんどん弱まって

いく。

 

もうほとんど

止まっている

と言ってもいい。

 

時々、思い出したかの

ように、

ドクン、と波打つだけ。

 

あぁもう本当に

私は死ぬんだな、

と、

私を見ている私は

つぶやいた。

 

すると、

暗闇の中の

仲間の一人が

私に訊いた。

 

どうでした?

いい人生でした?

 

私はニッコリと

笑った。

 

うん。

 

とっても

いい人生だったよ。

 

だって、

やり残したことが

一つもない。

 

さっきはさ、

やり残したこと

たくさんあるな、って

思ったけど、

違ったよ。

 

私がすべきこと

私が本当にやりたいことは

すべて完了した。

 

今わかったよ。

 

完了感が

ハンパない。

 

なんかさ。

 

これ以上の人生は

ないんじゃないかな、

と思えるくらいの

満足感だよ。

 

こういう人生も

あるんだな。

 

いやぁ、

いい人生だったよ。

 

すると、

暗闇の中の別の

仲間が

 

あっ、

もう完全に

止まりそうですよ、

 

・・・と。

 

私が見降ろすと、

横たわっている私の

心臓は

確かに最後の

一鼓動を

打とうとしていた。

 

あと一回、

心臓がドクンと

動いたら、

それで

終わりだ。

 

それで

この人生は

終わりだ。

 

あぁ、

本当に良かった。

 

いい人生

だったなぁ。

 

私は

私の人生のビジョンを

ちゃんと達成

できたなぁ。

 

まさか本当に

達成できるとはなぁ。

 

・・・と、

つぶやいた瞬間に

ハッと

私の意識は

もどった。

 

私は布団の中に

いた。

 

なんだ、

また夢か。

 

いやいやいや、

今のが夢で

あるもんか。

 

どう考えても

今まさに

経験したことだ。

 

今のはいつの

経験だ?

 

と問うた瞬間に

答えが浮かんで

きた。

 

あぁそうか。

 

30年後だ。

 

私は今、

ちょうど30年後の

自分を経験

したんだ。

 

ということはやっぱり

夢ではなく、

今のは実在だな。

 

そう言えば私は

自分のビジョンが達成

できたと、

つぶやいていたな。

 

30年後のビジョン、

とは何だろう?

 

・・・と問うた瞬間に

その答えが

浮かんだ。

 

あぁそうか。

 

これが私の

ビジョンか。

 

そうだったのか。

 

私はこのビジョンを

実現するために

生まれてきたんだ。

 

これが私の

人生の

目的か。

 

そう思った瞬間に、

これまでの私の人生の

道のりのすべてが

腑に落ちた。

 

なるほど、

私のこれまでの人生は

すべて

このビジョン実現の

ためのものだったんだ。

 

これからの人生の

すべても

きっとそうだ。

 

な〜んだ、

そうだったのか。

 

私は、

これまで

味わったことがないくらいの

スッキリ感を

味わった。

 

・・・・・・

 

これが、

私が

自分自身の人生のビジョン

を初めて認識できた

瞬間です。

 

私はそれを

「30年ビジョン」

と名づけました。

 

それから2年が

経ちました。

 

私は今、ようやく

30年ビジョンに向かって

本格始動

できそうです。

 

まぁ、

2年経ったので

あと28年ですが。

 

あと約半月後の

5月1日に

私は一つの法人を

立ち上げます。

 

ダイレクトに

ビジョンに向かうための

会社です。

 

名前はもう

そのまんま。

 

『株式会社真本音』

 

です。

 

つづく

 

距離感を修正しただけで、こんなにも・・・

私達の真本音は

距離(感)をとても大事にしている

というお話をしました。

(→【人生の展開は距離感で決まる】)

 

本当に面白いことですが、

例えば、AさんとBさんがいた場合、

距離(感)が

真本音が望むものであれば、

AさんとBさんはお互いに

パワーを与え合い、

パワーの循環を起こします。

が、

距離(感)が

真本音の望むものとズレていた場合、

二人はお互いに

パワーを奪い合う関係になってしまう、

・・・そんなケースが

非常に多いのです。

 

距離(感)によって

真逆の関係になるのです。

 

そしてその距離(感)とは、

・実在の距離と

・現象の距離が

あります。

 

実在の距離を適正なものに

することで、

現象の距離も適正に

なります。

 

一つ、実際にあった例を

かいつまんで

ご紹介しましょう。

 

ある会社で、

私はAさんのコーチングを

していました。

 

Aさんは、

言われました。

 

「どうしても私はB課長と

上手くいきません。

・・・というより、

B課長と一緒に仕事をしたく

ありません。

こんな子供のようなことを言うのは

ナンセンスだとわかっています。

でも、本当のことを言えば、

B課長と一緒の空気を吸うこと

自体が嫌なのです。

私は会社を辞めようと

思っています。」

 

そこで私は

Aさんに目を瞑って

いただきました。

 

そして次のように

問いました。

 

「Aさん、

B課長のイメージをしてみてください。

B課長のイメージは

どの場所に浮かぶかわかりますか?

その場所を特定してみてください。」

 

以下、Aさんと私のやりとりです。

 

Aさん

「B課長は私の正面の前方

3mくらいの場所にいます。」

 

たけうち

「その距離はAさんにとって

居心地の良い距離ですか?」

 

Aさん

「いえ、とてもきついです。」

 

たけうち

「もっと近づけたいですか?

それとももっと遠ざけたいですか?」

 

Aさん

「もちろん、もっと

遠ざけたいです。」

 

たけうち

「どれくらいの距離に

遠ざけたいですか?」

 

Aさん

「・・・。

15mくらいでしょうか。」

 

たけうち

「本当に15mで良いですか?」

 

Aさん

「・・・、いえ、もっと

離してしまってもいいですか?」

 

たけうち

「もちろん良いですよ。」

 

Aさん

「じゃあ、・・・60mくらい。」

 

たけうち

「本当に、60mで良いですか?」

 

Aさん

「えぇ? これ以上離しすぎると

姿が見えなくなってしまいます。

まずくないですか?」

 

たけうち

「大丈夫ですよ。

Aさんが本当に望む距離は

どれくらいですか?」

 

Aさん

「できれば、姿はもう見たく

ありません。

2kmくらい離れちゃっても

いいですかね?」

 

たけうち

「本当に2kmでいいですか?」

 

Aさん

「ええっ? だってそんなに

離したら、なんか悪いです。」

 

たけうち

「悪くないですよ。

これは単なるイメージ遊びです。

本当の本当の望みを

言ってみてくださいよ。」

 

Aさん

「・・・実はですね、本当は

地球から出て行ってほしい

くらいなんです。

・・・僕、ひどいこと言ってますね。」

 

たけうち

「大丈夫ですよ。

じゃあそれを数字で表すと

どれくらいですか?」

 

Aさん

「う〜ん・・・。

3000万kmくらいでしょうか。」

 

たけうち

「おっ、いいですね。

やっとAさんの空気感が安定しましたよ。

では、イメージのB課長を

Aさんから3000万km

離してみてください。」

 

Aさんはその通りに

イメージをしてみました。

 

たけうち

「いかがですか?

どんな気持ちになりますか?」

 

Aさん

「いや、なんか凄く

楽になりました。

体の力が抜ける感じですね。」

 

たけうち

「じゃあ、Aさん。

いつもB課長を今のように

3000万km離した状態で

いてください。

イメージの中では。

で、あとは実際には

いつもの通りにB課長と

接してみてください。」

 

それから2週間後、

再びお会いしたコーチングの場で、

Aさんはしみじみと

言われました。

 

「たけうちさん、驚きです。

B課長のことがそんなに

嫌じゃなくなりました。

むしろ課長のことを

よく観察できるようになりました。

で、自分でも驚いていますが、

先日、課長を誘って

一緒にランチに行ったんですよ。

課長とあんな風に話せたのは

初めてです。」

 

・・・

この話、あまりに上手く

でき過ぎているように思われそうですが、

実際にあったお話です。

 

もちろんこの例だけでは

ありません。

 

このように

イメージの距離を修正することで

イメージの中での調和が起こり、

それが現実の調和に

影響を及ぼすのです。

 

でも実はこれ、

本当は

「イメージ」ではないのです。

 

これは

「実在」です。

 

「実在」を

動かしたのです。

 

「イメージ」と「実在」とは

本質的に異なるものです。

 

「イメージ」でこのようなセッションを

しても、

ほぼ効果は出ません。

 

「実在」で行なうからこそ、

効果が大きく出るのです。

 

とりあえず今日は

ここまでにします。

 

つづく

 

先に進む? 進まない? どっち?

子どもは

永遠に親の保護のもとに

いるわけではありません。

 

必ず

親から独り立ちする

瞬間が来ます。

 

親から離れる

時が来ます。

 

『子が育ちますように』

 

この祈りは

誰もの心の中に

いえ、

魂の中に必ず

存在するものです。

 

この祈りに基づいて

生まれるエネルギーと

そのエネルギーに基づいて

生まれるあらゆる行動や

振る舞いのことを

『慈しみ』

と言います。

 

これについては

実は

私達人間の「本能」の成立にとって

あまりにも重要なものですから、

改めて時間をとって

ゆっくり書かせていただく

つもりです。

 

慈しみには必ず、

独り立ち、巣立ち、離れ、

そして、別れ

といったものがセットで

ついて来ます。

 

きちんと別れるべき時に

別れること。

 

離れるべき時に

手放すこと。

 

それは

真の慈しみの行為に

他ありません。

 

あの人のことが嫌いになった、

だから別れる

という単なる感情による

別れとは

それは本質的に異なる

ということは

誰もがわかるでしょう。

 

感情的な別れ、とは

反応本音による別れ。

 

慈しみの結果としての別れ、

とは

真本音による別れ。

 

どちらも寂しく

悲しいものかもしれませんが、

真本音の別れには

根底に必ず不思議な

すがすがしさが

湛えられています。

 

真本音で生きるということは

別れるべき人と

次々に別れ、

出会うべき人と

次々に出会う

人生となります。

 

よく言われることですが、

何かを手放すことで

新たな何かが

入ってくるというのは

真実です。

この3次元の世界に

おいては。

 

つまり、

感情のまま、もしくは

情に流されたまま、

別れるべき人と別れないことで

出会うべき人と

出会えなくなります。

 

・・・

何でしょう?

 

こうしてこの文章を

書いていますと、

様々な人達のお顔が

浮かんで来ます。

 

ほとんどが私の

クライアントさんですが、

今、多くの人達が

人生を次のステージへと

転換されようと

しています。

 

先日、

ある人が私に

言われました。

 

「なんか、この同じ体を

持ったまま、

生まれ変わろうとしている

気分です」

と。

 

まさしく、

そんな感じ。

 

そんな状態の人が

今、とても増えています。

 

今が4月だから

ということではない気が

します。

 

来年の今頃にちょうど

平成から新たな時代に

変わりますが、

その一年前に先んじて

人生の新たな時代に

入ろうとしている人が

多いのかな。

 

皆さんがちゃんと

新たな時代に入るためには、

ちゃんと

別れるべきと

別れなければなりません。

 

手放すべきを

手放さなければ

なりません。

 

中途半端なまま

先に進むことだけは

やめましょう。

 

先には進まない、

という選択も

もちろんありです。

 

その場合に、

別れは必要ありません。

 

行くか、

行かないか。

 

100か、

ゼロか。

 

どちらかの

選択にしましょう。

 

中途半端であること

だけは

やめましょう。

 

混乱や混沌とは

多くの場合、

中途半端さから

発生するものです。

 

本当は、

「距離感」についての

具体的な事例を

今回はご紹介しようと

思ったのですが、

あまりにいろんな人の

お顔が浮かぶものですから、

あえてその人達に向けて

今日はメッセージさせて

いただきました。

 

明日は

具体的な事例を

ご紹介できるかな?

 

つづく

 

人生の展開は距離感で決まる

私達の人生において

大きな転換のきっかけと

なるものに

「出会い」

がありますが、

その一方で、

「別れ」

というものがもたらす

影響も大きいですね。

 

出会いは概して

嬉しいものですが、

別れは概して

寂しいものですし

大きな悲しみを

伴うこともあります。

 

そのため結果的に、

 

「本当は今、

別れなければならないのに、

別れられない」

 

という現実を

創り出してしまっている

人が多いのが、

今の世の中の一つの傾向です。

 

実は、

どれだけ素敵な出会いを

重ねてきても、

きちんと別れるべき人と

別れないことで、

真本音度合いを著しく

落としてしまい

人生の不調和が始まって

しまった、

という人を私は

とても多く観てきました。

 

「別れ」とは

とても大事なものです。

 

そして

いつ、誰と別れるか?

私達は自らの真本音で

決めています。

 

もちろん

AさんとBさんが別れる場合、

Aさんの真本音が決めている

別れのタイミングと、

Bさんの真本音が決めている

別れのタイミングは

完全に一致します。

 

そしてその通りに

別れることができた場合、

二人の人生は

新たなステージに進み、

次の出会いと展開が

二人ともに起こり、

二人ともが

さらに真本音度合いの高い

人生を送ることができます。

 

別れるべき時に

しっかりと

別れましょう。

 

もし相手が

反応本音のレベルで

「別れたくない」

と言ったとしても、

その「情」に流されずに

しっかりとそれを

断ち切りましょう。

 

・・・このように書くと

寂しいでしょうか。

悲しいでしょうか。

 

冷たい人間だと

思われるでしょうか。

 

「別れる」という言葉と

ほぼ同義語として、

「手放す」

という言葉もあります。

 

手放すのも

本当に大事なことです。

 

本当に必要なタイミングで

別れを自ら切り出せる人、

そして

手放すことのできる人は

愛の深い人だなぁ、

と私は思います。

 

では、

「別れる」とか「手放す」

という行為の

本質とは

何だと思いますか?

 

それは私は

「距離を離す」

ということだと

捉えています。

 

「距離」

 

とか

 

「距離感」。

 

実は私達の真本音は

これをとても

大事にしています。

 

同じAさんとBさんでも

二人の距離や距離感が

真本音で望むものと

ずれていたら、

そこには不調和が

起きてしまうのです。

 

逆に言えば、

「調和」とは

「距離(感)で決まる」

と言っても

言い過ぎではないでしょう。

 

特に私達が今いる

この「3次元」という世界は

すべてが分離している

世界です。

 

分離しているが故に

一つ一つの物事

(その中に当然、「人」が

含まれます)

との距離(感)が

あらゆるものの展開に

影響を与えます。

 

その距離(感)とは、

心の中の距離(感)と

実際の距離(感)の

両方があり、

その両方を

真本音の望むものと一致させる

ことが「調和」のためには

必須です。

 

ちょっと

わかりづらいですか?

 

もう少し詳しく

お話しした方が

良さそうですね。

事例を交えて。

 

ただ、そのためには

ちょっと文章が長くなりますので、

続きは明日に。

 

まずは今回は皆さんに

二つの問いを

残しておきます。

 

単純に

直観でお答えいただくと

よいですね。

 

以下の問いを

自分自身に向けて

投げてみてください。

 

「私の人生において、

私はあらゆるものと

適正な距離感を持つことが

できているだろうか?」

 

そして、

 

「私が今、もっと

距離を離すべきものとは

何だろうか?」

 

つづく

 

自信のない人生を送ってきた自信がある

今日ふと、

思ったんですよね。

 

私って、

自信があるなぁ、と思いながら

道を進んだことって

あったっけ?

と。

 

いや、もちろん

ありました。

 

でもそれは相当に

昔の話です。

 

いつからでしょうか。

 

ずっと

自信のないままに

生きているのは。

 

皆さんは

どう思いますか?

 

自信って

あった方がいいですか?

 

ない方がいいですか?

 

そりゃもちろん、

あった方がいいですよね。

 

私も

そう思います。

 

あった方が

楽ですよね。

 

そう思うんですけどね・・・。

 

でもそれは

顕在意識の私が

そう思っているだけで。

 

実は、

これはあくまでも

私の経験上での話ですが、

私の場合、

自信のある道を行く方が

結果として

楽ではなかったんですよね。

 

なんでかと言うと、

自信があると

余分な自分が

どんどん出てきてしまうのです。

 

こうやれば

こうなるな。

 

こんな場合は

こうすればきっと

上手く行くぞ。

 

・・・自信のある場合は

過去の経験則が

役に立ちます。

 

しかし私の場合、

そういった

過去の経験則に沿って

物事を進めると、

大概にして

ドツボにハマるんですね。

 

まぁそれは

人と向き合うお仕事を

させていただいているから

かもしれません。

 

人と向き合う私のお仕事は

過去の経験則が

ほぼ使えません。

いや、

本当は使えるのですが、

経験則で物事を進めようとすると、

大切な何かが

失われるのです。

 

大切な何か・・・。

 

それをあえて言葉に

すると、

 

「目の前の人と

共に最善の答えを見つける」

 

・・・ということでしょうか。

 

人生とは

現在進行形です。

 

人も様々です。

 

本当は

二つとして全く同じ事象や

現象は

ありません。

 

今、目の前にある一つの現実は

唯一無二

のものです。

 

これまでの人類の

過去のあらゆる場面で

一度もなかった現実が

目の前にあるのです。

 

そしてその現実は

今後の未来において

誰も経験することのない

ものでしょう。

 

すべて、

今この一瞬一瞬は

ただ、ここにあるだけ

のもの。

 

唯一無二のもの。

 

それが、

私達の人生の

尊厳だと思います。

 

唯一無二の

現実を

経験する

唯一無二の

存在が

私達人間

なのです。

 

そんな、

唯一無二に対して、

過去の経験則から

答えを導き出すことは

本来の

今この瞬間でしか生まれ得ない

宝物のような

本当の答えを

掘り起こさずに進む

ということになってしまうのだと

私は思うのです、

・・・これは経験的に。

 

ですから

いつしか私は

自分の中に「自信」という

感情が生まれた時に、

最も気をつけるように

なりました。

 

そしてちょっと

極端に言えば、

自信のない方ない方に

舵を切るように

なりました。

 

その方が

謙虚になれるからです。

 

何に対しての謙虚かと

言うと、

目の前の現実に対する

謙虚さであり、

目の前の人に対する

謙虚さです。

 

とは言え、

普段の私の行動や

振る舞いをご存知の方は

「一体、あなたのどこが

謙虚なんだ?」

と言われるかも

しれません。苦笑

 

なぜなら私は

ほとんど場合、

断定的にものを

お伝えすることが多いからです。

 

よく言われます。

 

「たけうちさんは

いつも断定的に

ものを言いますね。

よく、言えますね」

と。

 

私は、

自己弁護をする気は

毛頭ないのですが、

私の中では、

謙虚さの証が

「断定的振る舞い」

なのです。

 

私の場合、

自信があると

断定的になれないのです。

 

だって、

自信があるということは

目の前の人と

「共に最善の答えを

見つける」

ということが

できている実感が

極度に減るからです。

 

私が断定的になれるのは、

私一人の結論

ではないからです。

 

共に向き合い

共に創り出した

お互いの真本音コミュニケーション

によって生み出された

その場にしかない

唯一無二の

答えだからです。

 

それは

宝物です。

 

そんな宝物だから、

それをそのまま

表現しているだけの

ことなのです。

 

なんだ?

 

今回は、自己弁護のための

文章か?

 

いや、・・・違うな。

 

私が今、

とっても皆さんに断定的に

お伝えしたいことが

あるのです。

 

それは一言で言えば

こうなります。

 

『今はあえて、

自信のない方に進もう!』

 

です。

 

これが、現在、

多くの人達の真本音が

望んでいる

人生の指針です。

 

自信のない方向に

行くからこそ、

すべての現実と

あるがままに向き合う

ことができるでしょう。

 

そこで得られるのは、

これまで見たことのないような

自分の個性と、

自分の力です。

 

自分の

まだまだ隠されていた

可能性です。

 

そういったものを

どんどん自ら

掘り起こしてほしいですね。

 

ですから私も

今まで以上に

自信のない方向に

行こうと思います。

 

皆さんも、ぜひぜひ

そうしましょう。

 

つづく

 

あなたのリミッターを取り払う一つの発想法

あなたは、これからの人生で

どんな人と

出会いたいですか?

 

あなたの出会いたい

理想の人を

描いてみてください。

 

もちろん、一人だけで

なくても結構です。

 

こんな人と、こんな人と

こんな人と、さらにこんな人と

こんな仲間と、こんなチームと

こんな家族と、・・・

出会えるといいな。

 

とにかく

発想されるだけ

描いてみてください。

 

できれば

何かにそれを書いてください。

 

書けば書くほど、

さらに発想が広がる

可能性があります。

 

本当にそのような出会いが

可能なのかどうか?

現実的なのかどうか?

などは

一切、考えないでください。

 

ワガママで結構です。

 

独りよがりで結構です。

 

自己中心で結構です。

 

とにかく自由な心で

理想の人達を

描いてみてください。

 

そして。

 

描き切れたなぁ、と

完了感が出たら

次の発想に進みます。

 

あなたの描いた

理想の出会い。

理想の人達。

 

その人達と本当に

出会えたとします。

 

理想のタイミングで

出会えたとします。

 

すると、その後、

どのような素晴らしい展開が

待っているでしょうか?

 

どのような未来が

待っているでしょうか?

 

あなたはその人達と共に

何をしたいでしょうか?

 

それをした結果、

どんな現実が手に入る

でしょうか?

 

これも思いつくだけ

たくさん発想します。

 

こんなことが

起こるといいなぁ。

 

こんな未来が

手に入るといいなぁ。

 

こんなことが実現できたら

もうこれ以上の

幸せはないなぁ。

 

これも、

ワガママでも独りよがりでも

結構ですから

自由に描きます。

 

さて。

 

まだ終わりません。

 

そういった未来が手に入ることで

さらに、

どのような出会いが

起こると思いますか?

 

どんな人達と出会い、

どのようなつながりが

広がっていくと思いますか?

 

今のこの世の中では

そんな出会いは無理だよ、

と思えることであっても

構いません。

 

現実的でなくでも

構いません。

 

どんどん発想してください。

 

そして。

 

それらの出会いによって

その後にどのような

未来が展開するでしょうか?

 

自由に、さらに自由に

発想を。

 

そして。

 

さらにその後、

どのような出会いが

あるでしょうか?

 

そして。

 

さらにその後、

どのような未来が

開くでしょうか?

 

そして。

 

さらにどのような

出会いが?

 

さらに、

どのような未来が?

 

・・・・・・

 

というように、

あなたの発想が続くうちは

それを延々と

続けましょう。

 

もうこれで

満足。

 

ここまでの未来が

手に入れば

言うことはない。

 

・・・と思ってからが

スタートです。

 

その先、

をぜひ発想して

ください。

 

あなたの理想の幸せ。

 

あなたから出てくる

最高の発想。

 

・・・それが

あなたの「枠」です。

 

自分自身にはめていた

「リミッター」

です。

 

その「リミッター」を

取り払ってしまってください。

 

何度も申しますが、

実現可能かどうか?

はまったく考えないでください。

 

大事なのは、

あなたの心の奥から

どのような発想が

飛び出してくるか?

です。

 

発想の

掘り起こしです。

 

どのような夢物語でも

あなたの心の中から

生まれる発想はすべて

あなたのものです。

 

発想のリミッターを

外していただきたいのです。

 

それが

目的です。

 

リミッターが

外れたな。

 

なんか、すごく自分は

自由な心に

なれているな。

 

そんな風に思えたら

それでOKです。

 

そこまで行ったら、

最後の問いです。

 

その問いの答えは

ぜひ、

頭で考えずに、

ひねり出さずに、

自然に浮かび上がってくるものを

そのまま言葉に

してください。

 

その問いは

これです。

 

「私が最高の出会いと

最高の人生を送るために、

今、

最も大事にしたい

私自身の生き方は

何だろう?」

 

自然に浮かぶ

言葉があるはずです。

 

それらをすべて

紙に書き出してください。

 

できるだけ

シンプルな言葉が

よいです。

 

書き出した言葉のうち、

本当に今、

大事にしたいなぁと思える

「生き方」を

表した言葉を

一つ、選んでください。

 

それが、

あなたの真本音の願い

の可能性が

高いです。

 

私達の中には

たくさんの真本音の願いが

ありますが、

その中で最も簡単に

見つけ出しやすいのは

「今ここで、どのような

生き方をしたいか?」

という、

生き方に関する願いです。

 

これを私は

『人生理念』

と呼んでいます。

 

これが私の人生理念かな、

と思える一つのワードを

選んでみてください。

 

選んだら、

それを24時間、

大事にしてみてください。

 

その理念の通りに

行動しなきゃ、

とは思い過ぎないことが

コツです。

 

行動に移せるかどうか?

よりも、

いつもその理念を

心の中心に大切に

抱き続けてください。

 

いつも思い出していて

ください。

 

それをしながら

いつもの日常を

過ごしてみてください。

 

それだけで

あなたの空気感が

変わります。

 

あなた自身は

気づかないかも

しれませんが。

 

そして、

これまでと同じ日常なのに、

いつもの風景なのに、

少し違って観えるように

なるかもしれません。

 

自分の行動パターンが

少し変化するかも

しれません。

 

ただし、

そういった「結果」を

求めないでください。

 

ただただ、

自分の選んだ理念を

大切に心の中心に

抱いてください。

 

これが

真本音で生きる

第一歩です。

 

真本音度合いを高める

第一歩です。

 

つづく

 

その願いの奥に真の悦びはある?

「願い」について

書かせていただいています。

(→前回記事)

 

反応本音の願いとは、

達成することで完了する願い

です。

 

それに対して、

真本音の願いとは

永遠に願い続ける願い

です。

 

・・・という言い方もできます。

 

永遠に願い続ける、とは

ゴールがない

ということです。

 

ゴールがないということは

一見すると

満たされることがない、

という印象を持つかもしれません。

 

しかし

満たされないものを満たす

願いこそが

反応本音の願いです。

 

つまり、

満たされるまでは

満たされない

ということですね。

 

それに対して

真本音の願いにはゴールは

ありませんが、

ゴールがなくても

満たされている

のです。

 

なぜなら、

真本音の願いとは

その願いを持つこと自体で

満たされるからです。

 

そしてさらに、

その願いに向かって

一歩ずつ進むだけで

その一歩一歩で

満たされるからです。

 

満たされるからと言って

じゃあ終わりにしよう

とはなりません。

 

満たされても

満たされなくても

さらに進みたくなるのが

真本音の願いです。

 

そして、

最初から満たされているけれども

一歩ずつ進めば進むほど

さらに満たされ感は

増していきます。

 

100%だと思っていた

満たされ感が

進めば進むほど、さらに

高まります。

120%にも、200%にも

1000%にも

100万%にも。

 

実際に私のクライアントである

ある社長さんは、

真本音の願いに気づいてからの

ご自分の経営の満足度について

「100万%です」

と笑いながらお答えに

なりました。

 

100万%です、とは

言いながらも、

それでも、

まだまだ足りない表現かな、

と思ってしまいます。

要するに、

数字で表すことができないレベルの

満たされ感が

あるのです。

 

私はこれを

「魂の満足」

と表現します。

 

心の満足と

魂の満足は

まったく次元の異なる

ものです。

 

魂の満足は

それを得ることで

歩みが止まるものでは

ありません。

 

それを得ることで

ますます

前に進もうという意欲と

エネルギーが

湧いてきます。

内側から。

 

私はそれを

「内発的モチベーション」

とも呼んでいます。

 

それは

私達の魂からもたらされる

動機付けです。

 

さて。

 

魂に動機付けされた人は

どうなるかと言いますと、

まずは、

「出会い」が変わってきます。

 

真本音の願いは、

他の人の真本音の願いと

共鳴します。

 

いえ、

それは「共鳴」と言うよりも

「共振」

と言った方が正確でしょう。

 

共振し合った人同士が

必然的に出会い、

出会った瞬間から

それは「共感」を生みます。

 

出会ったばかりで

まだお互いのことを

ほとんど何も知らないのに、

なぜか

お互いのことが

理解し合える。

 

何の説明も解説も

必要とせずに、

ただ一緒にいるだけで

もう、

わかり合えている「感覚」

がある。

 

そのような出会いが

多発します。

 

自分が

真本音の願いで生きているか

どうか?

をチェックする最も

簡単な方法が、

そういった出会いが今、

増えているかどうか?

をみることです。

 

最近、出会い自体は多いけど、

本当に共振し合える人は

どうだろうか?

 

そんな視点で

観てみてください。

 

何かを説明しなければ

わかり合えない人が多ければ

それはその人が悪い

のではなく、

自分自身に問題があります。

 

満たされないものを

満たすための動きを

自分はしていないか?

 

と、自分に問うてみてください。

 

もちろん私達は人間ですから、

満たされないものを満たす

ための動きはすればよいです。

 

しかし同時に

それにより、私の魂は

本当に悦んでいるか?

 

とも問うてみてください。

 

以前のブログにも

書かせていただきましたが、

真本音と反応本音は

どちらが正しいか?ではなく、

「つながり合う」関係です。

つまり、

真本音という上司が

反応本音という部下を

「活かす」

という関係です。

 

満たされないものを満たそう

とするその願いの奥に、

魂の願いが宿っているか?

を問うてみてください。

 

その問いに対して

理屈で答える必要は

ありません。

 

自分自身に問うた時に、

スッキリと迷いなく

あぁ何となく今の私は

自分の魂の願いを大切に

できているな、

と思えれば、問題はありません。

 

思えなければ、

もう一度、心を静かにして

内省をしてください。

 

満たされるとか

満たされないとか、

そういったこととは関係なく、

私が願い続けていることは

何だろうか?

 

と、静かに自分に問い、

静かに自分と

向かい合ってみてください。

 

さて、

では真本音の願いを見つける

最も簡単な方法とは

何でしょうか?

 

その辺りのことを

次回以降に書かせて

いただきます。

 

つづく

 

その願いは、自由をもたらす?

てんでバラバラな記事を

書いているように

思われるかもしれませんが、

ここのところのこのブログの記事の

すべての根底に流れている

テーマがあります。

 

それは、

「自由」

です。

(→【あなたは自由に生きていますか?】)

 

自由とは何か?

 

自由を阻害するものは何か?

 

真に自由になるために

必要なものとは何か?

 

真に自由になるために

どうすればよいか?

 

これらの問いが

すべての根底にありつつも、

様々な視点から

書かせていただいています。

 

もう一度、この辺りで

それを思い出していただくと

よいかなと思いました。

 

今回も

そんな視点からの

お話です。

 

さて。

 

人間とは何でしょうか?

 

・・・と問われたと

します。

 

私は、

人間と向き合い続ける

お仕事をさせていただいて

いますので、

毎日のようにこの問いと

向かい合っています。

 

これまで、様々な視点から

様々な答えを

見出すことができましたが、

この問いに関しては、

「これがベストアンサーだ」

という結論は出さない方が

よいと思っています。

 

その方が

もっともっと人間探究を

楽しめます。

 

その前提のもとで、

その問いについての

ある視点からの一つの答え

(あくまで私が実感した答え)

を申し上げます。

それは、

人間とは、

 

『願いのカタチ』

 

である。

・・・ということです。

 

「願いが服を着て歩いている」

のが人間である、と。

 

ただしその願いには

いろいろな願いが

あります。

 

私の言葉で表現すれば、

真本音の願いもあれば、

反応本音の願いも

あります。

 

どのような願いだとしても、

私達人間は、

 

「願いの一点」

 

を決めています。

 

つまり、

今の自分は、

今日の自分は、

どの「願い」のために

生きるか?

ということを無意識に

決めています。

 

そしてそれを

自分の「中心」として、

すべての言動を

無意識に

自分で決めています。

 

願いの一点を決めずに

日々を生きている人は

私が実感する限りでは

一人もいません。

 

ですから、

次の問いが非常に

重要だと思うのです。

 

「私は今、

どのような願いの一点を

中心にして

生きているのだろうか?」

 

ここが、

反応本音の願いだとしたら、

その人の心の中には

残念ながら

ストレスが湧き続けます。

 

真本音の願いだとしたら、

その人は

中心からパワーが

湧き続けます。

 

そういった

単純明快な法則が

あります。

 

反応本音の願いとは、

「満たされないものを

満たそうとする願い」

です。

 

ですのでそれは、

「枯渇した中で湧く願い」

です。

 

枯渇した中で

湧きますから、

多くの場合それは結果として

周りの人から

「何かを奪う」

願いとなります。

 

そういった人と一緒にいると、

単純に、

パワーを奪われ続けます。

 

あの人と一緒にいると

疲れる。

 

あの人と一緒にいると

苦しい、辛い。

 

あの人と一緒に

いたくない。

 

そんな印象を持ってしまう人の

中心には

そういった「枯渇した中で湧く願い」

が設定されています。

 

そして、

周りからパワーを奪い続けて

いることを、

一番よくわかっているのは

その人自身です。

 

ですからその人は

無意識のレベルで

自分を責め続けます。

つまり、

罪悪感というやつです。

 

罪悪感とは、

自分で自分を

傷つける行為と同じです。

 

ですからずっと

ストレスが湧き続け、

その人自身も

パワーが減退します。

 

つまり、

パワーを奪っているのに、

自分からもパワーが

奪われ続ける、

という状態に入っています。

 

で、ますます枯渇し、

ますます人からパワーを

奪おうとします。

 

その悪循環。

 

それを引き起こしてしまうのが

反応本音の願いを

中心に置く生き方です。

 

それに対して

真本音の願いとは

それ自体が

自分自身にパワーを

与えます。

 

願いが叶っているかどうか?

ではなく、

その願いを持つこと自体で

パワーが宿るのです。

 

そしてそのパワーは

周りに伝播します。

 

真本音の願いを

中心に生きている人と

一緒にいると、

誰もが元気になります。

 

あの人ともっともっと

一緒にいたいな、と

本能的に思うようになります。

 

さて、

どちらが

自由な人生となるでしょうか?

 

言わずもがな

ですね。

 

では、

真本音の願いとは

どんなものか?

を、もう少し詳しく見て

いきましょうか。

 

つづく

 

愚かでもいいじゃないか

すべての人の中に

愚かさはあります。

 

自分の愚かさを

一番わかっているのは

自分自身だと

言えるでしょう。

 

しかし、

愚かさが限度を超えてしまうと

私達は

自分の愚かさに

フタをします。

 

愚かさに

向き合えなく

なるのです。

 

自分は愚かではない。

自分は愚かではない。

自分は間違ってはいない。

自分は間違ってはいない。

自分は精一杯やっている。

自分は精一杯やっている。

・・・・

 

必死に自分に

言い聞かせるようになります。

 

愚かさを見ずに

前向きに

行こうとする。

 

本当のことを言えば、

これこそが最も

愚かなことです。

 

自分の愚かさにフタをして

前向きに生きる人は、

ほんのわずかな成果に

焦点をいつも当て、

ほんのわずかな成果を

クローズアップさせ、

そこで自己満足します。

 

その成果の影で、

いったいどれだけの人に

迷惑をかけているか、

いったいどれだけ多くの

悪影響を

周りに与え続けているか、

には

まったく目を向けません。

 

残念ながら、

そういう人からは

周りの人の心は離れていきます。

 

しかし誰もその人に

「あなたは愚かだよ」

とは言ってはくれません。

なぜなら、

何を言ってもこの人には

届かないだろう、と

皆、あきらめているからです。

 

孤立無援。

 

愚かさにフタをして

前向きに生きている

つもりになっている人を見ると

私はいつも

この言葉が浮かびます。

 

私達の真本音(魂)は、

自分の愚かさを

責めることは

いっさいありません。

 

「愚かだから自分は

ダメな人間だ」

と自分を評価することも

いっさいありません。

 

真本音(魂)は

ただただ、

あらゆる自分を

見つめ続けます。

 

あるがままの自分を

見つめ続けます。

 

時々、次のような

お声をいただきます。

 

「真本音を大事に

生き始めたら、

自分の愚かさが

どんどんクローズアップされて

苦しくなった」

と。

 

恐らくその人は、

自分の愚かさに

フタをしていたのでしょう。

 

しかし真本音で

生きるようになって、

心の安定度合いが

一気に高まったのでしょう。

 

心が安定したことで、

愚かさと向き合おうと、

無意識に決意を

されたのでしょう。

 

そして、

フタを取り払った

のでしょう。

 

フタの奥から溢れる

愚かさの数々。

 

フタをする度合いが

高ければ高いほど、

その苦しみは

大きくなります。

 

しかし、

これまではただ

フタをしていただけであって

本当はその人は

その苦しみと共に

ずっと生き続けていたはずです。

 

つまり、

麻痺していた苦しみが

顕在化しただけのこと。

 

ですが、

顕在化することで、

すべての苦しみは

徐々に浄化されていきます。

 

自らの愚かさと

向き合う人を私はいつも

「美しいな」

と感動してみています。

 

自らの愚かさと

向き合う人は

自分以外の人々の

愚かさとも

向き合うことができ、

自分以外の人々の愚かさを

許すことができます。

 

人の大きさとは、

自分自身の愚かさと

向き合った度合いで

決まるのではないか、と

私はよく思います。

 

人は

愚かなもの。

 

愚かな部分を

持っているもの。

 

でも、人は

それだけではありません。

 

様々なものを

持つのが

私達人間です。

 

性善説とか性悪説とか

そういったものを超えて、

あらゆるものを

包含できるのが

人としての尊厳であり

人としての凄みです。

 

人は皆、

大きいのです。

 

本当は。

 

でも、

本当は大きいはずの自分を

小さくしてしまうのが、

自分の愚かさを認めないこと、

自分の愚かさにフタをすること、

自分の愚かさから逃げること、

です。

 

人は

小さくなってしまうと

自分自身の真本音すら

信じられなくなります。

 

そして、

愚かさにフタをするのと

同じように、

真本音にも

フタをしてしまいます。

 

真本音は

そのような自分に対しても

抗うことはしません。

 

フタをされたままの状態で、

再びフタを開けてもらえるのを

ただただ

じっと待っています。

 

愚かでも

いいじゃないですか。

 

ダメダメな自分でも

いいじゃないですか。

 

私達が持っている

最大の力の一つは

「向き合う力」

です。

 

あるがままの自分と

しっかりと

向き合ってほしいな、と

私はいつも切に

祈っています。

 

つづく

 

本当に望む未来を描くには

今、自分は確かな道を

歩んでいる。

 

・・・という実感は、

未来が見通せているから

得られる、

というわけではありません。

 

むしろ私達の真本音

(真本音のことをあえて

魂と表現します。

あえて、ですが・・・)

私達の魂は、

わざと自分自身に

「未来を見せない」

ということをするケースが

多いです。

 

なぜなら、

私達に「準備」ができていない

からです。

 

「準備」が完了しないうちに、

もし私達が「未来」を

観てしまったら、

どうなるでしょうか?

 

多くの場合、

私達はその「未来」に

縛られることになります。

 

「未来」が

プレッシャーになります。

 

もしくは、

「未来」と今のギャップの大きさに

無気力になってしまう

かもしれません。

 

私達が真本音(魂)で

決めている「未来」は、

準備ができた時点で

「徐々に」

観えてきます。

 

つまり

「段階」があるのです。

 

一つの準備が完了すれば、

一つ、未来へのヒントが

わかります。

 

そしてもう一つ次の準備が

整えば、

未来像がより具体的になります。

 

さらにまた次の準備が

整えば、

さらにまた未来の姿が

明確になります。

 

・・・というように、

自分自身の準備には

ステップがあり、

そのステップに応じるかのように

未来が「徐々に」

観えてきます。

 

それを真本音(魂)は

意図的に行なっています。

 

よく、こんな声を

聴きます。

 

「私はどうしても未来を

描けません。

どう描いても、ピンときません。

違和感ばかりで、

未来を描く気になりません」

と。

 

それはまだ

未来を観るだけの準備が

整っていないのです。

 

私も自分自身の

人生のビジョンが浮かぶまでは

だいぶ時間がかかりました。

 

本当の意味での

私の人生のゴール(と決めていること)

がわかったのは、

たったの3年前です。

 

「わかった」と言っても

まだまだ抽象的です。

 

すべてが明確に

観えているわけでは

ありません。

 

でもそれで充分です。

 

必要な時に

必要な未来は

必ずわかるからです。

 

それよりも大切なのは、

「必要な時に

必要な未来が

ちゃんとわかる自分で

あること」

です。

 

人によっては

「準備」が一生整わない

というケースもあります。

 

いえ、実は

そんな人が圧倒的

多数です。

 

もしくは、

「準備」は整っているのに

未来を観ることができない

人もいます。

 

「必要な時に必要な未来が

ちゃんとわかる自分になる」

ためには、

必須なことが

一つ、あります。

 

それは言葉を換えれば、

 

「どんな人が

自分が本当に決めている

未来(ビジョン)に

気づくことができるか?」

 

という問いの答えです。

 

その答えは

単純明快です。

 

「今を大切に

生きている人」

 

です。

 

では、

「今を大切に生きる」

とは、

どういうことでしょうか?

 

これも

単純明快です。

 

「自分の本当に望む生き方を

今この瞬間に

大切にする」

ということです。

 

「今」とは、

この3次元の世界においては

唯一の「現実」です。

過去も未来も、

「現実」ではありません。

私達の頭の中にあること

です。

 

自分を大切にするとは、

「現実の自分」を

大切にすること。

人生を大切にするとは、

「現実の人生」を

大切にすること。

 

それはつまり、

唯一の現実である

「今」を大切にすること。

 

・・・私達の真本音(魂)は

そのように捉えてます。

 

どれだけ

未来を大切にしようと

思っていても、

今を大切にしない人は

一生、未来を大切にすることは

できないのです。

だって、

今の積み重ねが未来を

創るのですから。

 

今を大切にできる人が

未来を大切にできる。

そして、

今、望む生き方のできる人が

望む未来を実現できる。

 

そんな「事実」を

私達の真本音(魂)は

大切にしています。

 

「人生のあらゆる場面において

今、大切にしたい生き方」

のことを

私は、「人生理念」と

呼んでいます。

 

それは、

「今この瞬間に、

私は本当はどんな生き方を

したいか?」

の、その人その人の

真本音の答えです。

 

魂が望んでいる

答えです。

 

私はそれを

シンプルに言語化

することを

お勧めしています。

 

言葉として表すことは

有意義です。

 

それがもし

真本音(魂)から浮かび上がる

言葉であれば、

その言葉そのものに

深いパワーが宿るからです。

 

その言葉を

心の中でつぶやくだけで、

シュッと「本来の自分」に戻れる、

・・・そんなパワーが

宿ります。

 

そして、

その「人生理念」を

自分自身の心の中心に

いつも置いておくのです。

 

つまり、

魂の望む生き方を

心の中心に据えるのです。

 

それにより、

「今を大切にする度合い」は

圧倒的に高まります。

 

真本音度合いも

圧倒的に高まります。

 

そして、

その状態でいつも楽しく

未来を描くのです。

 

未来を描こうと

するのです。

 

すると、

必要な時に必要な未来が

自分の中心から

湧き上がってきます。

 

それは

頭で無理矢理に考える

ものではありません。

 

それはもう

私達の中にすでに

存在していますから、

必然的に

浮かび上がってくるのです。

「徐々に」

ではありますが。

 

たとえ

未来がわからなくとも、

今を大切に生きていれば、

「今の私は望む未来に

着実に向かっている」

という確信に

満ちてきます。

 

「今と未来のつながり」

を実感できます。

 

それはとても

気持ちのよいこと。

 

未来を見通せるから

確信が起こるのでは

ありません。

 

今を大切にするからこそ

未来への確信が

自然に生み出されるのです。

 

つづく

 

あなたの魂は怒ってませんか?

『反応本音』。

 

・・・真本音に対する言葉として

私はよく使います。

 

外からの影響により、

その反応として

出来上がる私達の心。

 

それが反応本音です。

 

反応として

出来上がりますので、

それは基本的には

弱いものです。

 

不安定です。

 

しかし、これは

私達の心の表面に常に

現れ続けますので、

反応本音そのものを

自分である、

という認識をしている人が

多いです。

 

もしくは、

反応本音のパターンを

「これが私である」

と思い込んでいる人も。

 

ただ、

いつもこういった書き方を

しますので、

反応本音は良くないものだ、

とか、

薄っぺらいものだ、

とか、

レベルの低いものだ、

とか、

そんな印象を持ってしまうかも

しれませんね。

 

ですからあえて申しますが、

反応本音とは

私達人間にとって

なくてはならないものであり、

宝でもあります。

 

反応本音があるが故に

私達は

人としての幸せを

感じることができます。

 

反応本音があるが故に

現実とより深く

関わり合うことができます。

 

反応本音があるが故に

真本音が活きる

のです。

 

もともと

反応本音とは、

現実世界において

真本音で生きやすいように

という目的のために

私達の真本音が自ら

発生させているものです。

 

私達は

真本音のみでは

この現実世界は

生きられません。

 

真本音と反応本音の

コラボによって初めて

生きる(活きる)ことが

できます。

 

ちょっと

わかりづらいですか?

 

ではあえて、

反応本音を「心」、

真本音を「魂」、

という言葉に

置き換えてみます。

(本当はちょっと短絡的な

置き換え方ですが。)

 

私達はこの現実世界では

魂のみでは

生きられないのです。

 

魂と心が

結びついて初めて

この世での

成長が成り立ちます。

 

今、目の前に一つの

現実があり、

その現実に対して

「どのような心で

関わって行こうか?」

を魂が決めるのです。

 

つまり、

魂が上司で

心が部下のようなもの

ですね。

 

魂が心を

活かすのです。

 

つまり、

真本音が

反応本音を活かす

のです。

 

反応本音は、

現実世界における経験によって

次々に生み出されます。

 

つまり、

経験を積めば積むほど

反応本音のバリエーションが

増えます。

 

その増えたバリエーションの中で

「今回は、どの反応本音に

活躍してもらおうかな」

ということを

真本音が決めるわけです。

 

つまり、

真本音と反応本音は

セットなのです。

 

それが

本来の姿です。

 

ところが、

反応本音が増え過ぎると

私達は

肝心要の真本音を

忘れてしまいます。

 

自分自身の真本音を

無視するように

なってしまいます。

 

すると、

真本音のないままで、

もしくは、

真本音にフタをした状態で、

反応本音のみで

現実に関わるようになります。

 

それにより、

現実も自分自身も

おかしなことに

なっていきます。

 

本来は

真本音と反応本音はセット

なのに、

真本音を忘れて

反応本音のみで

生きてしまう。

 

言い換えれば、

本来は

魂と心はセットなのに、

魂の意思を忘れて

その時その時の心の意思

のみで生きてしまう。

 

それにより、

その人の人生の一貫性は

失われ、

いったい何のために

自分は生まれてきたのか?

何のための

人生だったのか?

を忘れた状態で

ただただ惰性で生きていく、

ということになります。

 

その状態を実は、

最も嫌うのが

私達の真本音であり、

魂です。

 

ですので、

真本音(魂)は怒ってしまいます。

(喩えです。)

 

怒ってしまった結果として

真本音(魂)は

隠れてしまいます。

(これも喩えです。)

 

それにより、

「中心」を失った私達は

非常に不安定となります。

 

ストレスも

大量発生します。

 

残念ながら、

そういった状態になっている人が

とても多いのが

今の世の中です。

 

「中心」がないのは

とても不安であり

不安定ですので、

私達はとりあえずの「中心」を

無理矢理に自分に

設定します。

無意識に。

 

その多くは

反応本音による「中心」です。

 

本来は

真本音が「中心」に

来るはずなのですが、

それとは別の「中心」を

無理矢理に「中心」と

してしまうのです。

 

それでますます

真本音(魂)は怒り、

ますますストレスが発生し、

ますます、

自分がわからなくなります。

 

それも、

今の世の中の多くの人の

傾向です。

 

ですから、

「中心」を本来のものに

戻さなければなりません。

 

きちんと、

自らの真本音に

「中心」になってもらうのです。

 

それにより初めて、

私達は

「本来の自分」

を取り戻します。

 

逆に言えば、

「中心」を本来に戻さずして

私達に安定は

訪れません。

 

本来の「中心」ではないままで

自分を変えようとしても

それは難しい相談です。

 

たとえ自分が変わったとしても

本来の「中心」でないならば、

どのような自分に変わっても

不安定さは変わりません。

 

真本音中心の自分に

戻ること。

 

それにより、

あらゆる反応本音達も

生きて(活きて)きます。

 

自分自身が

活きて来るのです。

 

ですから私のサポートは

まずは

「中心を変える」

つまり、

「中心を真本音に戻す」

ところから始まります。

 

そこから始めるのが

最も簡単で、

最も楽だからです。

 

つづく

 

私の心は私のことを何も知らない

私とは何者か?

 

・・・を自分の心に問うても、

その答えは

永遠に出て来ません。

 

なぜなら

私達の心の中には

その答えは

ないからです。

 

私達の心とは、

外部との接触の中で

その「反応」として

創り上げられるもの

です。

 

つまり、

「経験」によって

生み出されるもの。

 

これこれこういう経験を

積み重ねたことにより、

これこれこういう反応の

パターンができあがった。

 

・・・というもの。

 

それはあくまでも

「反応のパターン」

でしかありません。

 

ところがその

反応のパターンを

私達は

「自分である」

と思い込みます。

 

こういう時には

こういう反応の仕方をするのが

自分である、

という認識です。

 

しかしそれは

どこまで行っても

反応のパターンでしか

ありません。

 

「私」でも「自分」でも

ありません。

 

ところが私達は

その「反応のパターン」の中に

「私とは何者か?」

の答えを見出そうと

します。

 

ですから、真の答えに

行き着くことが

できません。

 

反応のパターンは

反応のパターン。

それは

「私」ではないからです。

 

心で考えても

答えが出ない。

 

であれば、いったい

私達はどうすれば

よいのでしょうか?

 

実は・・・。

 

「私」というものは

本来はありません。

 

いやいやいや。

 

私はここにいるし、

私は私だし。

 

ちゃんと個人としての

私が存在するではないか。

 

それを否定しては

何も進まないではないか。

 

・・・普通は

そう思いますね。

 

でもまぁ、

ちょっとお付き合い

ください。

 

「私」は

ないのです。

 

便宜上、

私達は「私」を

カタチ創っている

だけのことです。

 

かと言って、

その「私」に価値がない

わけではありません。

価値があるからこそ、

あえて「私」を

創っているのです。

 

「私」を創ることで

「あなた」が

できます。

 

「あなた」ができることで、

「私とあなた以外」も

できます。

 

すべてが

分離します。

 

すべての

区別が始まります。

 

分離と区別をして

初めて

得られるものがあります。

 

それが

「進化」

です。

 

私達は進化を

したがっています。

 

だから、

「私」と「あなた」と

「私とあなた以外」を

分離させました。

 

分離することで

起こるのは

すれ違い

です。

 

不理解であり、

誤解であり、

拒絶であり、

否定です。

 

別物であるからこそ

初めて発生する

それら。

 

それらを乗り越えて

また

「一つ」に戻ろうとする。

その過程を経てこそ、

「進化」は

実現します。

 

別物が

一つになろうとする時に

発生するエネルギーが

あります。

 

それを

「愛」

と呼びます。

 

「愛」とは

進化のために必要な

エネルギーです。

 

私とは何者か?

 

この答えをもし本当に

知りたいと思うのであれば、

「すべてが一つ」である自分を

思い出す以外に

方法はありません。

 

分離された「私」

だけでものを考えても

決して到達できない

答えなのです。

 

あぁそうか。

「私」と「あなた」は

一つなんだ。

 

「私」は「あなた」であり、

「あなた」は「私」であり、

「私」と「あなた」は

「私とあなた以外のもの」

でもあるんだ。

 

・・・ということを

理屈ではなく、

実感としてわかること。

 

その「真理」を

「当たり前のことだ」と

思い出すこと。

 

その状態になって初めて

私達は

「私は何者か?」

を本質理解できます。

 

そして、

人生における

「私の為すべきこと」と

「私の成すべきこと」を

知ることができます。

 

何のために生きればよいか?

そして、

何を目指して生きればよいか?

を、

まったく惑うことなく

決めることができます。

 

「すべては一つ」であり、

「すべては私」である、

ということ。

そして、

その上で

「この分離した私がここにいて」

「分離した私だからこそ

できることがある」

ということ。

 

それらをすべて

完全理解した自分から

発せられるあらゆる

願い・想い・意志・意思・・・。

 

それを私は

『真本音』

と呼んでいるのです。

 

つづく

 

本当は決めていることがあるでしょ?

自分の人生の道が

最初から決まっていたとしたら、

皆さんはそこに

不自由さを感じますか?

 

決められたレールの上を

進む人生なんてまっぴらだ!

と思いますか?

 

それとも、

自分で自分の人生のレールを

決めることができるのであれば、

それは自由だな、と

思いますか?

 

人生は変化します。

 

人生は自分一人で

進められるものでは

ないからです。

 

状況は刻一刻と変化し、

自分に降りかかる現実も

刻一刻と変化します。

 

想定外のことが起こるのは

普通のことで、

想定外であることが

想定内だと言っても

よいくらいなのが、

この世における人生です。

 

自分が予測した通りの

人生を最後まで

歩み通したという人は

まず、いないでしょう。

 

人生は予測不能で、

自ら、状況を見ながら

一歩ずつ

創り上げていくものです。

 

予測不能で

想定外で

右往左往することを、

あえて一言で

「試行錯誤」

と表現するとします。

 

すると、

人生は試行錯誤の連続である

と言うこともできます。

 

しかし。

 

その試行錯誤のすべてが

もともと自分が

決めていたことであると

したら・・・。

 

皆さんは、

どのようにお感じに

なるでしょうか。

 

人が本当に

自由に生きる、とは、

その、あらかじめ決めていた

試行錯誤を

その通りに生きることである、

としたら、

どう、お感じになるでしょうか。

 

未来は、

本当に観えませんか?

 

もちろん、

観えませんね。

 

でも、本当に

未来は観えませんか?

 

本当の本当は

観えるのでは

ありませんか?

 

それが私達人間

ではありませんか?

 

未来が観えるからこそ、

私達には

「確信」が働くのでは

ありませんか?

 

未来が観えるからこそ、

根拠のない自信が

湧き起こることが

あるのではありませんか?

 

私達はもう、

すべてを知っている。

 

自分の道も。

 

自分の未来も。

 

人の道も。

 

人の未来も。

 

すべてを知った上で、

ここにいるのでは

ありませんか?

 

道が決まっていることは

自由ですか?

 

それとも

不自由ですか?

 

すべてが決まっている上での

試行錯誤は、

無駄だと思いますか?

 

抵抗がありますか?

 

それともそれを知ることで

楽になりますか?

 

未来がわかることで、

私は、

人生の99%以上の醍醐味は

失われると

思っています。

 

だから私は

未来を知りたくは

ありません。

 

ですので、

未来がわからないように

しています。

 

でもその一方で

思うのです。

 

「未来をわからないようにする」

という自分の意思を

外してしまえば、

きっとすべてがわかってしまうの

だろうな、と。

 

すべて、

自分自身で行なっている

ことなのだろうと、

どこかでよくわかっています。

 

私は人生を

楽しんでいます。

 

思わぬ出会いがあり、

思わぬ展開があり、

自分の想定外の現実が

起こることを、

心の底から

楽しんでいます。

 

そうやって

人生を味わっています。

 

それが人としての

幸せだからです。

 

そうです。

 

意図して、

そうしているのです。

 

私だけではありません。

 

すべての人が

そうです。

 

人生は

苦しいですか?

 

人生を

早くやめてしまいたいですか?

 

私は本気で

そう思ったことは

何度もあります。

 

でもそれも含めて、

私は人生を

味わっているのだと、

ある時に

気づいたのです。

 

人生という

ステージの上で

演じる自分。

 

それを監督として

ステージの外側から

見つめる自分。

 

両方の自分が

いませんか?

 

物語は、

最初から決まっている。

 

しかし、

演じているステージ上の自分は

それを忘れるくらいに

没頭している。

 

それが、

人生ではありませんか?

 

すべてをわかった上で

自分自身を見つめる

自分がいます。

 

それを

『真我』

と呼ぶ人もいます。

 

真本音とは、

「真我の意思」

と言ってもよいのかも

しれません。

 

人は

真我の意思を思い出せば、

すべてが変わり始めます。

 

「自分を変える」

ことよりも、

「真我の意思を思い出す」

方が、100倍も楽です。

 

私のさせていただいている

サポートとは、

要するにそういうことなんだと

最近、つくづく思います。

 

つづく

実は最も楽なのは、根本を変えること

自然の摂理という視点から

観たとき、

私達は、大河の流れに

身を委ねるということが

人として大切なことであり、

それが「自由」につながることである

ということを

昨日、書かせていただきました。

 

流れに身を委ねることで、

今度は

私達自身が自らの

流れを創り出すことが

できます。

 

自らの流れ。

 

・・・それは

「循環」

です。

 

私達が「生きる」ということは、

私達自身が何かを

「発想」

し、

その発想に基づき、

「行動」

し、

その行動によって何らかの

「結果」

を得る、ということです。

 

「結果」という言葉を

「現実」という言葉に

置き換えることもできます。

 

発想して、

行動して、

結果(現実)を得ることを、

一言で

「経験」

と言います。

 

「経験」により、私達は

次の「発想」をします。

 

「経験」により

次の「発想」に影響が

及びます。

 

そしてその「発想」により、

それがまた次の

「行動」につながります。

 

発想、行動、結果(現実)、

そして、

次の発想、行動、結果(現実)

そして、

次の発想、行動、結果(現実)

・・・・

この「循環」を私達は絶え間なく

続けています。

 

ところが

「循環」には、

その「循環」そのものに

力が宿ります。

 

「循環」を回すうちに、

慣性力が働き、

私達が意図しなくとも

ある時から勝手に

その「循環」が回り続けるように

なります。

 

それはまるで、

自転車を漕ぎ出したら、

スピードに乗った後は、

勝手に自転車が前に進むのと

同じようなものです。

 

すると、その

勝手に回り出した「循環」が

その人の人生のパターンと

なります。

 

それが固定観念を

生みます。

つまり、

「これが人生というものだ」

という固定観念、

「これが私という人間だ」

という固定観念です。

 

その固定観念が

その人にとっては

「真実」となります。

 

するとその人は

ある時からその「真実」に

基づき、

さらにその「循環」を

同じように回し続けるように

なります。

 

こうして、

その人の人生や

個性が

形作られていきます。

 

でもこれは果たして、

「自由」

と呼べるものでしょうか?

 

自ら生み出した流れ、

自ら生み出した循環。

 

その中から

出ることができない・・・。

 

年齢を重ねるということは

そういった自分なりの人生、

自分なりの真実を

固定化させることである、

という思い込みも

世の中には蔓延しています。

 

年齢を重ねるに従って、

私達はどんどん

自らの創り出した循環のパターンに

呑み込まれていく。

 

これはやはり、

自由ではないですね。

 

人生を変える

ということは、

本当は、

実に容易いことです。

 

自ら創り出している循環を

変えるだけのこと

なのですから。

 

ほんの一つの発想、

ほんの一つの行動を

変えるだけで、

人生は劇的に

変わっていきます。

 

その事実を

あまりにも多くの人が

知りませんし、

信じていません。

 

しかし、

信じていないものを

「信じなさい」

と言って、

他者がその人を変えることも

ほぼ、不可能です。

 

洗脳というものも

ありますが、

あれは、本当は

本人が洗脳されたがっている

という理由があります。

 

それも本人の選び出している

循環の中の

一つの現象に過ぎません。

 

私達は結局は

自らの意志で生きています。

 

もちろん、

あまりに理不尽な環境に

生まれ、

自らの意志、という概念すら

わからない人も

世界中にはたくさんいます。

 

でも、

それでもやはり私達は

自らの意志で

自らの循環を創り出して、

その中で生きています。

 

その循環を変えることが

できるのは

本人だけです。

 

それこそが

人の真実。

 

ですから

循環を変える方法は

たったの一つです。

 

本人が

「変えよう」

とすることです。

 

いえ、

正確に言えば

「変えよう」と思っているうちは

まだその循環に

捕らわれています。

ですから、

なかなか変わりません。

 

私が

私自身の経験と、

多くの方々と向き合いながら

実感することができた、

循環を変えるための

最大最善の方法があります。

 

それは、

 

「循環の原点を変える」

 

ことです。

 

原点を変えても実は、

循環そのものは

これまでと同じように

回り続けます。

 

しかし、

原点が変わることで

本人が気づかないうちに、

つまり

本人が「変えよう」としなくても

ある時は、徐々に

ある時は、劇的に

循環は変質します。

 

もちろん

「原点を変える」こと自体は

その人の意志です。

 

実は・・・。

 

表面上の循環を

変えることよりも、

原点を変える方が

簡単なのです。

 

一番簡単なところを

変える。

 

それが「原点」。

 

原点を変えることで

知らぬ間に循環が変わる。

 

・・・これが私のサポートの

本質です。

 

ではその

「原点」とは何か?

 

「原点」を変えるとは

どういうことか?

 

について、

次回以降に書かせて

いただきます。

 

つづく

 

自由は摂理の中でこそ

本当の自由を手に入れる

ためには、

委ねることです。

 

流れに委ねる

ことです。

 

私達人間は、

自然の摂理の中で

生きています。

 

自然が人を生んだ

とも言えますし、

人が自然を選んだ

とも言えます。

 

人と自然は

イコールです。

 

まずはその

厳然たる事実が

あります。

 

人と自然がイコールで

ある以上、

自然の摂理を無視することは

私達人間からあらゆる自由を

奪います。

 

私達は、

船に乗っている存在

であると

イメージすると

わかりやすいでしょう。

 

私達の目の前には

悠久の時を流れる

大河があります。

 

その大河の流れに乗り、

上流から下流へと

流れて行くことを

進化と言います。

 

進化の先には

無限に広がる海が

あります。

 

私達は

海にたどり着きたい

のです。

 

それが人の本能であり、

人という存在が生まれた

意味でもあります。

 

私達は船を

持っています。

 

船は、

大河の流れに乗らなければ

進むことはできません。

 

岸にいても

永遠に進むことは

できません。

 

岸にい続けることが

自由である、と

叫ぶ人もいますが、

同じ場所にいることを

私達人間は

本当に望まないのです。

 

私達は

旅する存在。

 

進む存在。

 

流れに乗って

前に進むことで初めて

その船は

活きてきます。

 

中には

流れに逆行することが

自由であると

言い張る人もいます。

 

しかし

どれだけ踏ん張ろうとも

船は、

上流から下流へとしか

移動できません。

 

それを

不自由というのは

あまりに勝手です。

なぜなら、

船に乗ることを選んだのは

私達人間なのですから。

 

大河の流れは

非常に気持ちのよいものです。

 

心地よい風を受けながら、

力を抜けば

自然に船は

動き出します。

 

風景も徐々に

変わっていきます。

 

時には

急流もあるでしょう。

 

それはちょっとした

刺激であり冒険です。

 

緩急を織り交ぜながら

船は進みます。

 

大河に委ねることで

船は気持ちよく

進み続けます。

 

大河に委ねることで

その船は

安定します。

 

その船の上で

私達は何をしても

良いのです。

 

変わりゆく風景を

楽しみながら、

私達は船の上で

自由に自分の役割を

全うします。

 

船の上にいるからこそ

活きるのが

人間です。

 

人間とは

そのような存在として

生まれたのです。

 

人間としての喜びを

素直に感じようとする

その生き方が、

私達に

「本当に私は自由だなぁ」

という実感をもたらします。

 

そして・・・。

 

大河の流れは

時に、

変化します。

 

実は、今日、

2018年4月1日をもって

流れは大きく変化しました。

 

進む方向は

変わりませんが、

流れが

これまでとは別次元

と言っても良いほどに

速くなったのです。

 

その「速さ」に

ついていけるように

私達はこれまで

準備を続けてまいりました。

 

準備が整った

ということもあり、

大河は

その流れを

一気に速めました。

 

最初はちょっと

怖いかもしれません。

 

でもすぐに

慣れるでしょう。

 

そして以前よりも

このスピード感の方が

何倍も気持ちが良いと

わかるでしょう。

 

なぜなら、

私達には

私達の望むスピードが

あるからです。

 

実はまだ

そのスピードまでには

達していません。

 

しかし、

大きく、その望むスピードに

近づいたのは

確かです。

 

真本音で生きる人が

一気に増えてきた

その結果です。

 

大河の流れを

速めることのできた私達を

まずは、

誇ることにしましょう。

 

よくやったな、と

自分を褒めましょう。

 

そしてこの新たな

スピード感に

委ねましょう。

 

そうすれば、

さらに私達は

自由になれます。

 

流れは速まり、

船はさらに

盤石なものとなりました。

 

私達はさらに

自由になれます。

 

ですから、

自由にやりましょう。

 

自由に

やってください。

 

つづく

 

嫌いになるのは悪いこと?

私達人間には誰しも、

好き・嫌い

があります。

 

嫌いなものがあった場合、

それを

「好きになろう」

とする人がいます。

 

例えば、

嫌いな人がいたとしても

その人のことを

好きになろう、

とします。

 

そういった生き方をしている人を

見ると、

私は素直に、いいなぁ、と

思います。

 

が、その生き方を

無理にし過ぎている人にも

これまで多く出会いました。

 

無理にし過ぎることで、

その人は自分の中の

「嫌い」

という気持ちにフタをして

しまいます。

 

そんな気持ちはないのだと

自分で自分をごまかして

しまいます。

 

その上で、

「好きであろう」

としますので、かなり心に

無理が生じ、

その無理無理感が

おかしな空気を生みます。

 

その空気感は実は

誰もが感じ取っていて、

その人の

「好き」

は、実はとても不自然なものだと

誰もが薄々わかってしまいます。

 

「好きになろう」

という気持ちは大切ですが、

「好きであらねばならない」

までいってしまうのは

苦しいです。

 

そういった人を観ると私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

ちょっと極端に言いますが、

私は思うのです。

 

嫌いなのものは

嫌いでよいではないか。

 

・・・と。

 

「好きだ」

「嫌いだ」

という、自分から湧く

素直な気持ちは

人間として当たり前のものなので、

それはそれでよいではないか、

と。

 

そこを否定することは

人間そのものを否定して

しまっている気がします。

 

ただし、・・・ですが。

 

「嫌いなものは嫌いだから、

そこは避けて通る」

とか、

「嫌いな人とは接しない」

とか、

「嫌いなものはすべて

拒絶する」

とか、

そういった人も私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

そこには

「選択肢」

がないからです。

 

「嫌い」

だから、

関われない。

 

「嫌い」

だから、

離れずにはいられない。

 

「嫌い」

だから、

受け止められない。

 

というのは、

その選択肢でしか

生きられないということです。

 

つまり

「嫌い」なものに

翻弄されている。

 

自分以外の何かに

翻弄されている。

 

・・・ということ。

 

それは、

人生のハンドルを

自分以外の他の何かに

握られているということと

イコールです。

 

一つの視点から言えば、

私は、自由とは

「選択肢の多さ」

にあると思っています。

 

つまり、

選択肢が多ければ多いほど

自由である、と。

 

どのような環境においても、

どのような状況においても、

自分の選択肢を

たくさん創ることのできる人こそが

自由ではないか、と。

 

「嫌いだから、関われない」

というのは、

たった一つの選択肢しか

ありません。

 

その選択肢以外の選択肢を

得られるようにすることが

より自由になるということでは

ないでしょうか。

 

それを「問い」として表せば、

次のようになります。

 

もし何か嫌いなものに遭遇した

として、

 

「嫌いなことはわかった。

では、その嫌いなことに

私はどのように関わろうか?」

 

ということですね。

 

その関わり方に

多くの選択肢があればあるほど

自由です。

 

選択肢が多い、

ということはそれだけ

「最善の選択」

をしやすいということです。

 

選択肢が少ないと、

そこには

「妥協」

が発生しやすいです。

 

「妥協」とは

自分が本当は納得していない

答え。

 

「最善」とは

理想とは違いますが、

今の状況においてはこれが最高だな、

と自分で納得できている

答えです。

 

妥協の道ばかりを

行く人は

自由ではありません。

当然ですが。

 

最善の選択のできる人が

自由なのだと

私は思います。

 

真本音で生きる度合いが

高まると、

単純に言えば、

その、最善の選択の度合いが

高まります。

 

つまりは、

今、自分は何を

最善と思っているか?

が、

すぐに明確になります。

 

そういった人生は

楽ですし、

自由ですね。

 

つづく