2024年 8月 の投稿一覧

目標設定は後だ

後ろから
押される感覚で

思い切って
行動したことが、

思いの外
上手く行って

しかもそれが
広がり続け、

今ではもう
なくてはならない
流れとなった。

最初のあの
後押しは
いったい、
何だったのだろうか?

皆から
後押しを
受けている感覚。

あれがなければ
到底
あの一歩は
出なかった。

あの一歩が
あのタイミングで
出なければ、

間違いなく
私は
ここにいない。

この流れも
起きていない。

人生を変える
一歩。
そしてその
後押し。

しかし、

そう考えると
そういった一歩は
あの時だけでは
ない。

きっと
自分が気づいて
いないだけで、

これまでの
人生で
無数に存在する
はずだ。

とても特別
だけど、
特別には思えない
日常の些細な
振る舞いとしても、

こういった
一歩は
無数に存在する
はずだ。

幸運なのは、
私には
あの
後押しの感覚が
わかったこと。

だから
それ以後は、
その同じ感覚の
得られる方向に
ずっと
人生の舵を
切ってきた気がする。

先日、

ある会社の
社員さんのコーチングを
させていただいた。

その人は
どうしても
目標設定というのが
できないのです、

言われていた。

未来に意識が
向かないのです、
と。

自分の事を
怠惰だと
言われていたが、

初めてお会いして
瞬間的に
わかった。

この人は
間違いなく
今を生きている。

今をとても
丁寧に
生きている、
と。

だから
その人は
後押しの感覚が
よくわかる。

いつも
後押しの方に
自分を
向けている。

こういう人は
下手な
目標設定を
すれば、
淀んでしまう。

その人は
一社員さんだったが、
実質、
その部署を
支えていた。

本人の自覚は
ほとんどない
ままに。

その人の場合は、
未来に意識を向ける
ことで、
その天然の無自覚な力が
なくなって
しまう。

やはり私は
思う。

基本は、
まずは

・・・だ。

今を生きる
ことが
本当にできて、

後押しの
感覚が
わかれば、

初めて
そこから未来が
観えてくる。

目標設定は
そこからだ。

つづく

中心核が点滅し始めたら

これまで
自分の中心核
であると
思っていたものが、

突然に
点滅を始める
ことがある。

消えて
しまいそうだ。

そういった場合、
私達は
極度の恐怖に
見舞われる。

そりゃそうだ。

自分の中心が
消えてしまうの
だから。

でも
安心していい。

中心核は
消えない。
決して。

その、
消えそうに
なっているものは、

これまで自分が
自分の中心核で
あると、
思い込んでいた
もの。

「思い込んでいた」
という表現を
使ってしまうと、
まるで愚かな行為を
していた、という風な
印象になってしまうが、

もちろん
そうではない。

今のこれが
私の中心核だ、

ちゃんと丁寧に
意識をし続ける
ことで初めて、

中心核は
進化し、脱皮する。

もともと私達は
本当の中心核には
なかなか
辿り着けないように
できている。

だから
真剣に「思い込み」
それを
大切にし続ける
という生き方は

人として
とても尊い。

しかしその
尊さが、
ちゃんと今後も
生きるためには、

今、点滅している
その中心核を

キッパリと
手放すことだ。

それができれば
新たな中心核が
突然に
姿を現す。

これまでとは
全く別の場所に。

しかしそれこそが
真の中心核、
に、
一歩近づいた
ということ。

そしてきっと
また
その中心核も
点滅し、消える
時が来る。

その連続
だ。

それを
生きている間、
ずっと真摯に
やり続ける。

これが
私達の
すること。

本来の
生き方だ。

つづく

暖簾に腕押しの人

暖簾に腕押し
という
言葉があるが、

どれだけ
向き合っても
向き合っても

そんな状態の
人は多い。

だからまずは、
ちゃんと
手応えのある人
とこそ、

優先的に
向き合うといい、
のだと
思う。

基本的には。

あくまで
基本的には。

しかし
たまにではあるが、

暖簾に腕押し
のように
感じるのだが、

ちょっと違う
感覚もある、

という人が
いる。

全くもって
嫌になるほど
反応がないのだが、

反応はない
のに、
何かとても深い
ところでの
手応えが
ある、

という
実に不可解な
人。

こういう人は
とてつもなく
面白い。

ひょっとすると
私は
こういう人と
巡り会うために
この仕事を
続けてきたのでは、

思うくらいだ。

暖簾に腕押し
なのに
妙な手応えが
残る人。

そういった人は、
心、ではない
次元の部分で、

つまりそれは
魂の部分で、
と言っても良いが、

言いようのない
焦りと葛藤と
渇望、
がある。

それがあまりにも
深いために
本人が渾身の力で
顕在化しないように
している。

だから
表面的には
暖簾に腕押し。

が、
何かのきっかけで
その
奥にあるものが
一気に噴出する
ことがある。

もしそうなったら
その人は
そこで
根本的に人生を
変える。

生き方を
変える。

生まれ変わる。

本当は
そういう人は
私が想像している
以上に
増えている気が
する。

そんな人達を
発掘したい。

そして
そんな人達に
本当のサポートを
させていただきたい。

つづく

波及は一滴から

たった一つ
だと
思っていたものが、

無数に
広がっていく。

スモール
スタート。

ほんの
一歩のつもりが、

思いもかけぬ
たくさんのものに
波及していく。

そんな
予期せぬ展開は
ある。

というよりも

本当に
物事が展開する
というのは

最も自然な
成り行きと
しては、

それが普通
なのかも
しれない。

だから
初めの一歩、

初めの一滴

こそが
命。

しかもそれは
同じ一歩、
同じ一滴でも

タイミングが
わずかに
ずれるだけで
変わってくる。

だから
なかなか
会心の一歩、
会心の一滴
というのは
難しいかも
しれない。

が、
それこそが
命であると
常日頃、
意識し続ければ、

随分と
チャンスは
広がる。

一歩、
一滴。

私達にできる
最大のことは
これだ。

人間の
すべきこと。

その感性を
高める
日々の自分の
生き方こそ
大切にしよう。

素直に
生きる。

素直な生き方
をする。

淀みのない
今を
過ごす。

この積み重ね
以外に
感性を養う
方法はない。


ここに
おける、

一歩、一滴に
意識を
丁寧に向ける
生き方を
今ここから。

つづく

未来発想のベストタイミング

世界の創世
のような
場面を見たことが
あるかな?

もちろん
想像でもいい。

そのような
イメージが
ふと湧いたり、

夢で
見たり。

自分が意図して
創り出したもの
でなければ、

そのほとんどは
実在だ。

あなたの中に
確固としてある
記憶だ。

私達は
太古からの
記憶を
共有している。

それがふと
浮上することが
ある。

その頻度が
高まっているのが
今の時代の
特徴だ。

それが浮上
したからと言って、
何も特別なこと
ではない。

自分の過去の
出来事を
思い出すのと
何も変わらない。

ただ、
その共有の記憶を
思い出す
ということは、

それだけ自分の
感性が今、
研ぎ澄まされている
ということ。

そして
自分という
小さな個人としての
発想の枠を
少々超えている
可能性もある。

そんな時こそ、
これからの自分の
進み行きを、

未来を、

発想して
みよう。

意識を未来に
向けるのは、

タイミング

が重要だ。

基本、私達は
今、
に意識を
向け続けることが
大事。

今、
にすべてが
込められている
から。

でも、
時折、未来にこそ
全意識を
向けるべき瞬間
というのが
ある。

自分の意識が
自分を
超えやすくなっている
その瞬間。

それこそが
未来発想の
ベストタイミングだ。

だから、
自分の中から
自然に湧き上がる
イメージや想像を、

勝手に
意味がない、

捨てることなかれ。

それは
実在。

人生の
宝物だ。

つづく

人生、真っ暗闇になったら

ここからの
人生の道が、

進み行きが、

真っ暗で
何も
観えなくなって
しまった
としたら、

それは
大チャンスだ。

大きく
生まれ変わる
くらいに
自分が変わろうと
している兆候だ。

その場合は、

その
真っ暗闇に
対峙しよう。

何も
観えない、

という
その空間に
意識を
向け続けよう。

向けたと
しても
もちろん
何もわからないが。

わからない
どころか
さらに
わからなさ度合いが
増すかもしれない。

自分が誰か?

わからなくなる
かも。

ここにいる
こと自体の
実感も
消えていくかも。

それで
いい。

少々怖いかも
しれないが、
それでも
その暗闇に
意識を向けよう。

すると
ふとした瞬間に
何か
「問い」が
浮かんでくる
はずだ。

私達人間は
「問い」
から始まる。

「問い」を
持つことこそ、
人間である
証。

何もなさそう、

場所にも
「問い」だけは
見出す。

これが
人間。

そしてその
「問い」こそが、
ここからの
あなたの
最初の一歩。

その「問い」に
誠心誠意
答えようと
しよう。

答えれば、
さらに次の
「問い」がくる。

これの
繰り返し。

新たな
あなたの
始まり、だ。

つづく

答えはどこにある?

もし
自分の中心が
頭の中にある

という
気がしたら、

今のあなたは
思考で
判断し過ぎだ。

もちろん、
よく考えることは
大事。

考え尽くさねば
得られない
答えはたくさん
あるから。

しかし
思考とは
あなたの補助を
する役割だ。

本当の答えは
そこには
ない。

答えへの
突破口やヒントが
そこには
あるけどね。

あなたの
中心は
そこではない。

あなたの
中心は
あなたの体の
中心と
一致するはずだ。

そこに
本当の答えが
ある。

体の中心に
意識を
向け続けよう。

すると、
いくつかの
「?」
が浮かぶはずだ。

それを
言語化して
「問い」の形に
しよう。

最も
しっくりくる
言葉として。

そしてその「問い」に
ついて
とことん
考えよう。

考え
尽くそう。

すると
ある瞬間に
自動的に
直観が働く。

それが
あなたの中心
からの
答えだ。

私達の
本当の答えは、

私達の
中心にしか
ない。

誰も
教えて
くれない。

自分で
導き出すしか
ないんだ。

つづく

魂は離れてしまうのだよ

そんなに
下の方に
あるのか。

自分の
足元の
遥か下に。

私の
魂は。

真本音の
出所は。

なぜだ?

なぜ
私から
離れた?

そして
なぜ
そんなに
下った?

・・・

魂を
失った私。

いったい
何をすれば
良いのだろう?

魂で
生きることの
できない
その脆弱性が

極度の恐怖を
生む。

ただ
呆然と佇み
ながら、

とりあえず
自己防衛しか
できなくなった
私。

・・・

私の何が
いけなかった?

私の何を
変えなければ
ならない?

どうすれば
私のもとに
帰ってきてくれるのだ?

・・・

その状態で
ずっと
生きた。

何年も
何十年も。

そのうちに
それが
普通となった。

これが
私だ、と
思い込むように
なった。

・・・

そこからの
復活は
難しい。

激しい。

痛い。

辛い。

一旦、
死ぬ気に
ならねば、

自分の魂は
戻ってきて
くれなかった。

だから
言うんだよ。

今のうちに
もっと
ちゃんと
生きようよ。

魂が
離れる前に。

ちゃんと
自分と
向き合おう。

つづく

鏡の前だ

鏡を
見ているんだ。

それは。

自分自身の
鏡だ。

それは。

他人じゃない。

自分とは
別個の
現実でもない。

ただの
自分。

それを
象徴的に
映し出している
だけなんだ。

・・・

鏡が
歪んでいるように
見えるだろう。

それは、
鏡の歪み
ではない。

自分自身の
歪みだ。

自分と別個の
ものなんて
本当は
一つもないんだ。

・・・

だからって
おおらかな
気持ちで
生きなければ
ならない、

ということ
ではない。

利他に生きろ
ということでも
ない。

無理に形だけ
表面だけ
取り繕っても

人は本当には
大きくなれない。

むしろ
小さくなって
いく。

より歪んで
いく。

・・・

もっと
素直になる
ことだ。

醜い自分が
映っているなら
それで
いいじゃないか。

その醜さを
直視しよう。

じっくり
見つめ、
観察しよう。

話は
そこからだ。

つづく

慈しみの雨ならぬ

雪のように
観える、

何かささやかで
柔らかいものが

降っている。

降り注いで
いる。

この
世の中に。

これを
感じとっている
人は今、
どれくらい
いるのかな?

この不安定な
現在の中で。

その
雪のような
ものは、
私には

恵みのように
思える。

慈雨
という言葉が
あるが、

慈雪
とでも言うような。

私はそれを
全身を開いて
浴びる。

浴びても
何の
手応えもない。

ただ
私の身体を
すり抜けるように
して、

それは
降り続ける。

それでも
私は
浴びる。

天を
見上げながら。

そういえば
昔の私は
よく
空を見上げた。

お客様との
重要な仕事の
直前には、
必ず時間をとって
空を見上げた。

青空で
あれば、

その青空と
同化できる
くらいまで。

私は
私を
超えたかった。

でないと
太刀打ちできないと
わかって
いたから。

私が最もよく
わかっていたのは
自分の
小ささ。

無力さ。

弱さ。

そんな私が
立ち向かおうと
している。

「私」である
うちは
それは無理だった。

ただ、
どうしても
自己満足には
なりたくなかったので、

常に私は
その時の「私」では
対処できない方に
向かって
歩き続けた。

今もそれは
続けている。

あと私は
現役を
22年続ける、

決めている。

22年後は
78歳だ。

そこまで
昇り続ける。

だからまだ
未熟の未熟だ。

もっともっと
私は私を
超える。

そういった
生き方に
対して、

まぁまぁまぁ、


その慈雪は
語りかけているようだ。

まぁまぁまぁ、
そう
焦らんと。

昇り続けよう
などと
思わなくても
あんたはずっと
昇り続けている
じゃないか、
生まれてから
ずっと。

・・・そう
慰めてくれて
いる。

まぁまぁまぁ、


声を出して
みる。

私の声なのに
私の声では
ないように、

それは
私の心に
染み込んでいく。

つづく

人生のゴールとは

私達の
根源とも
言うべきものが
ある。

それはそれは
言葉には
ならないもの。

でも
確かに
存在するもの。

それを
感覚的にせよ
しっかりと
感じること。

これが
私自身のこの
14年間の
習慣の一つだ。

最初は
一日の始めと
終わりに
感じるだけ
だったのが、

だんだんと
慣れてくると、

・・・人間、
慣れというのは
凄いな、と思うが、・・・

一日中でも
感じられるように
なった。

今では
当たり前の
ように
24時間、
寝ている時も
感じ続けている。

それで
何が変わるの?


問われても
理屈では上手く
説明できない。

でも、
これを感じ続ける
人生と、
そうでない人生を
比較すれば、

きっと私の
この14年は、

出会える人も
含めて

すべて根本的に
変わってきたのだろう
と思う。

そしてその
根源は私に

ずっと
根源的な問いを
投げ続けてくる。

・・・ような
気がしている。

その問いの
一つ一つを
自分なりに
言語化し、

その問いと
向き合いながら
日々に向かうのが、

私のすること
だった。

もちろん
今も
続いている。

これからも
続く。

これをやり切れば
私の人生の
ゴールなのだと
思う。

つづく

さらに、出るよ

時々、
とてもたくさんの
人達が
踊っている

という
映像が浮かぶ。

とても
たくさん。

皆、それぞれ勝手な
踊りなので、
バラバラだ。

でもなぜか、
全体がとても
調和している。

踊れば
踊るほど
エネルギーは
高まり続ける。

もちろん
皆、
幸せそうだ。

ある意味
これは私自身の
目指すビジョン
なのかな、
とも
思うのだが、

ちょっと
違う気も
する。

むしろ、
日々、大勢の
人達と
向き合い続ける
ことで、

彼らから
伝わってくるもの

それらの
総体が
この映像として
現れている気が
する。

つまり
みんな
これを望んでいる
ということかな?

それぞれが
それぞれらしさを
存分に発揮しながら
自由に活動し、

しかもそれらが
完全に調和する。

そのような
世界。

みんなが
望んでいるのかな?

少なくとも
私は
とても深くそれを
望んでいる。

だからそのために
日々、
活動してきた。

まぁ、という
わけであるから、
やっぱり
私自身のビジョンの
気はするが、

でもやっぱり
ちょっと違う
気もする。

世の中は
変わった。

今も
変わり続けて
いる。

安定だった
はずのものが
どんどん
不安定になり、

一見すると
何も安定して
いないように
見えて、

実は
とてつもない
安定性が
根底から
浮上し始めている。

それを
感じ始めている
人も
増え続けている。

統制される
ことで
調和を図るのでは
なく、

もともと
人間本来としての
自然な
調和がある。

それを
目指す人達。

増えているのでは
ないかな。

今、
ここに
私達はいる。

この時代に
共に
人生を
送っている。

それだけでも
大変な
ご縁だろう。

私は
このご縁を
本当に
大切にしたい。

だから
もっともっと
世の中に
打って出ようと
思っている。

つづく

そのビジョンは実在する

未来に向かう
ビジョンの
はずなのに、

まるで
「過去」のように
感じる。

理屈ではなく
感覚として。

もしそのような
感覚を得たら、

そのビジョンには
徹底的に
向かった方が
いい。

そのビジョンは
実在だ。

単に心の中で
思い描いている
というレベルでは
なく、

自分自身の中で
確固として
実在するものだ。

今、すぐに
でも、

そのビジョンに
向かうといい。

あまりに遠い
ビジョンだと
しても、

今、ここ

における
自分の行動を
そのビジョンと
結びつけよう。

ほんの些細な
行動でも
いい。

とにかく、

この行動は
あのビジョンに
結びついている
ものだ、

という実感を
自分自身に
与える。

すると
言いようのな
充実感が

内側から

中心から

溢れ出して
くる。

それは
エネルギーでも
ある。

その
内発的なエネルギーを
常に感じながら、

日々を
生きよう。

そうすれば
そのビジョンは
必ず
実現する。

実在が
現象化するんだ。

つづく

方向性が全然違う時

二つの葉っぱ
がある。

一つの茎

繋がっている。

もとは
一つ。

だけど、
二つの葉っぱは
全く反対の方向を
見つめている。

憧れが
正反対。

できれば
自分一人だけで
進みたいと
思っている。

が、
茎は一つ。

もとは
一つ。

どちらも
自分。

むしろ、
同じ自分なのに、
二つの別々の
方向を求める
という
その事実に

大いなる
意味がある
のでは。

どちらを
大事にするか?
でも
どちらを
選ぶか?
でもなく、

両方を
大切にし続ける
ことで、
何が起こるか?


楽しんだ方が
いい。

もとは
一つ
なのだから。

二つに
分かれる意味。

それは、
これまでの自分を
超えたい、
という
強い意志と願いだ。

一つのまま
では
これまでとは
変わらない。

二つに分かれ、
別々の方向を
目指すからこそ、

それが
統合された時、
これまでの
自分を
大きく超えられる。

一つだった
ものが、
分離した上で
また
統合される。

そしてさらに
融合して
一つに戻る。

実はこれは
宇宙全体の
進化の原理
ではないかと

私は
捉えている。

自分自身に
ついても、
組織に
ついても。

分離を
意味あるものと
受け止め、

分離を
大いなる過程と
受け止め、

分離を
進化への課題と
受け止め。

そういった
進み方をすること
こそ、
これからの私達に
真に求められている
ことだと思う。

つづく

新幹線空間

新幹線に
乗っていて、

ふと
気がつくと、

何もない
完全自由な
空間を

ふわふわと
漂っている自分を
発見することが
ある。

完全自由、
だ。

これだから
新幹線は
好きなのだ。

この状態に
入ると、
私はすぐに
仕事にかかる。

すると仕事が
ぐんぐんと
捗る。

窓から
見える景色は
そのままに、

しかし
実在のレベル
では、

完全自由の
空間に私は
いる。

実在と現象の
両方を
味わいながら、

新幹線の
スピード感も
相まって、

仕事は
通常の数倍の
ペースで
進む。

だから出張は
大好きで、

出張先のお客様
でのお仕事が
目的なのか、

新幹線での仕事が
目的なのか、

ようわからん
わけだ。

特に面白い
のは、

新幹線がたまに
緩くカーブすることが
あるが、

そのカーブ時の
独特の
空気の流れや
景色(世の中)の
流れが
たまらない。

その流れに
添うように、
私の発想も
グググッと視点を
変える。

そして
新幹線の車両と
一体化してしまう
こともあるが、

その時は、
まるで自分以外の
大いなる存在に
なったかのような

自分の範疇を
明らかに超えた
発想が生まれる。

当然、
仕事だけでなく、
セルフコーチングも
する。

その時自分の
中にある
超重要な問いが
明確になり、

かつ、
答えも一気に
明瞭に浮上する。

清々しい。

う〜む。

出張がなくても
新幹線に乗って
仕事しようかと
思う、
今日この頃。

つづく

懲りないヤツだった

恐らく
私の場合、

自分の力で
何とかなる、


考え始めた
だけで、
根本的な不調和が
始まっている
気がする。

何ともならん
のだ。

もともと
自分の力だけで
何とかなる
レベルのことを
やろうとも
していない。

自分の人生の
目的において。

だから私の
人生の前半は、

自分では
何ともならんのだ、
という事実を
痛烈に味わう
体験ばかりが
続いた。

もちろん
自力で上手くいった
こともある。

しかしその場合、
必ずそこから
私は
天狗になる。

で、
痛い目に遭う。

面白いくらいに
その体験を
繰り返した。

繰り返しても
繰り返しても
私は
懲りなかった。

この仕事を
始めた頃に
私は
あるお客様から、

竹内さんは
わざと
失敗を繰り返して
いるね〜。
こんなに懲りずに
反省しない人は、
見たことがないよ。


真正面から
言われたりもした。

懲りない人間は
懲りないのだ。

というより、
自分が原因で、

特に
自分の力不足で

物事が上手く
いっていないのだ、
という事実を
決して見ようと
しないのだ。

世の中に
そういった人は
いっぱいいるが、

私はその
典型だった。

でも、
自分の奥の奥に
ある
真本音の願いに
気づいた時、

私はその時、
本当に

あぁこりゃ
ダメだ、


痛感したのだ。

到底、
私の力では
できない、と。

その時から
やっと
少しは
謙虚になれたの
かな。

今、
振り返れば、

懲りない時代が
あってもいいかな、
とも思う。

いやむしろ、
散々、痛い目に
遭ったからこそ、
本当の意味で
気づくことができた
のかな、
とも。

だから、

あんまり
器用に進まない
方がいいよ。

ゴツゴツ
ぶつかれば
いい。

ぶつからねば
わからんだろ。

本当に
何が
大事か?

ということに。

まぁ、
今になって
思えることでは
あるけどね。

つづく

炎と光の中で

青い炎が
下から
湧き続ける。


思ったら、

上から
赤い炎が。

炎と炎に
挟まれる。

もちろん
熱い。
赤かろうが
青かろうが。

上下から
焼かれ、

初めて
観えてきた
ものがある。

それは
私自身の
錆びた
フィルターだ。

古い古い
私としては
まるで
自分自身そのもの
であるかのような、

フィルターとは
思いもよらぬ
フィルター。

それが今は
完全に
錆びてしまって
いる。

腐ってしまって
いる。

こんなものを
私はずっと
今でも
持ち続けて
いたのか・・・、


驚嘆した。

こんなものに
私は
捕えられて
いたのか・・・。

炎に
焼かれなければ
決して
気づかなかった。

人間は
果てしなく
愚かだ。

・・・

次に
右から
黄色の光が
来た。

左から
薄青の光が
来た。

それらは
それぞれ
「世界」となり、

それぞれが
私を
包んだ。

黄色の
世界と

薄青色の
世界。

二つの世界

私を介して
融合を始めた。

決して
結ばれなかった
世界同士が

私を介して
結ばれる
とは・・・。

人間とは
果てしなく
可能性に
満ちている。

つづく

閉じてしまったら

大きな脱皮

前にして、

頑なになる
人は多い。

自分を
閉ざして
閉ざして
閉ざす。

周りを
拒絶する。

あの人
大丈夫?


周りの人は
心配するが、

これも
脱皮のための
準備だ。
大事な。

脱皮とは
これまでとは
異なる自分の
開放だ。

解放だ。

オープンに
なること
なのだから、

その手前で
完全なる
クローズドに
なるのは
致し方ないこと。

むしろ
ここをしっかり
やっておかないと、

せっかくの
脱皮なのに
オープンに
なり切れない、

ということに
なってしまう。

・・・

道行く先に
観えるものは?

今は
何も観えない
かもしれない。

どころか、
これまで以上に
霧や闇に
閉ざされている
かもしれない。

それでも
気にするな。

今は
閉じている
のだから。

わざと。

・・・

脱皮に
時間のかかる
人もいる。

クローズドな
状態が、
下手をすれば
何年も続く人も。

以前の私も
そうだった。

でも、
脱皮には必ず
出口がある。

どうしても
クローズドに
なってしまうのなら、

徹底的に
なれ。

つづく

もっと強く

目の前に
とてもシンプルな
机と椅子
があり、

私は
その机に向かって
ものを書く。

それは
実在の机と椅子
だ。

そこは
実在の私の書斎

言ってもいい。

ここでしか
書けないことが
ある。

ただし
この机と椅子を
使うと、

とてつもない
エネルギーを
消耗する。

コーチングの
何倍、
いや、時には
何百倍も
エネルギーを
使う。

だから
よほど自分を
整えないと
その机には
向かえない。

私が日々、
自分自身を
精進させている
のは、

実は
この机に向かう
時間を
増やしたいから、

という
単純な理由が
大きい。

はっきり
言って、
生半可な自分
では、

すぐに
生命エネルギーを
使い切ってしまって
一瞬で
死んでしまうかも
しれない。

いや、実際に
これまで何度も
ヒヤッとした。

自分なんて
すぐに
死んじまうな、

自分の儚さに
愕然となったりも
した。

だから
もっと強い自分に
ならねば。

もっと
エネルギーを
高め、

自分だけでなく
世の中に漂う
エネルギー達を
使いこなしながら、

できるだけ
長時間、
その机に
向かいたい。

これが
私の
今の最大の
目標だ。

その机で
書きたいことが
たくさんある。

いや、
あり過ぎる
のだ。

だから私は
私を
鍛えに鍛える。

今日も
明日も。

実在レベルの
トレーニングだ。

これからの
私の
大事な仕事として

「書く」

という要素が
格段に
増える。

「書く」
ことを通じて
私は
生きているうちに
やらねばならないこと
やりたいこと

あり過ぎるほどに
ある。

時間は
ない。

もっともっと
強くなりたい。

つづく

階段との奮闘

階段が
観える。

無限に
上へと
続いている。

どこまで
行ってしまうのか。

一種、
恐ろしくも
あるが、

しかし
こういう時は
どうしても
好奇心が
勝ってしまう。

私は
階段を
駆け上がる。

明るい
黄色の光に
包まれた、
果てしない
階段を。

どれだけ
駆け上がっても、
いっこうに
息が切れない。

むしろ
内側から
次々に
パワーが開放
されていく。

希望

という言葉が
浮かんだ。

これは
希望の階段か?


思った瞬間に
一瞬で
すべてが
真っ暗になった。

気がつけば、
私は
もとの場所に
立っている。

目の前に
階段が
ある。

無限に上に
続いていく
階段が。

さっきは
確かに
ここを
駆け上がって
いたはずなのに。

私は試しに
もう一度、
駆け上がった。

が、
今度はちっとも
進めない。

何度やっても、
一段も
上がれないのだ。

なぜだ?

思っていると、
ふと、

本気じゃない
からだ、


浮かんだ。

そうか、
さっきは
本気で駆けた。

でも今は
試しに・・・
という気持ち
だった。

なるほど、
その違いか。

じゃあ
本気でもう一度
行ってやろうじゃ
ないか。

私は
無限に駆け上がる
つもりで
階段に
飛びついた。

今度は
ぐんぐん
登れた!

ぐんぐんと!

やはり
駆け上がるに
つれて
内側からパワーが
漲ってくる。

どんどん
登った。

恐らく
最初よりも
たくさん
登れている。

これは
行ける!

思いながら

喜びを
感じた
その瞬間に

またもや
真っ暗に。

次の瞬間、
また
もとの場所だ。

しかし
これで少し
わかった。

雑念だ。

余分なことを
考えた瞬間に、
ここに
戻ってしまう
のだ。

よし、
いいだろう。

雑念なしで
行けるところまで
行こう。

何度
ここに戻ったと
しても、

何度でも
やり直そう。

きっと
この階段は
今の私に
必要なのだろう。

そして
私は
その階段に
飛びつく。

何度も
何度も
もとの場所に
戻る。

これは
本当に
私自身の
訓練だった。

実在レベルの
話。

しかし
私はこの訓練を
もう14年
続けている。

つづく

果てしないエネルギーと

時々、
外からエネルギー

グワッと
入ってくる。

グワッと。

一瞬で
エネルギーに
満たされるが、

その濃度に
耐えられなく
なることも
ある。

そんな時は
せっかくの
エネルギーを
吐き出しそうに
なるのだが、

そこは
グッと
堪える。

グッと。

私にとって
必要な
エネルギーだ。

私は
私自身が生み出す
エネルギーのみでは
もう
やっていけない。

他力本願

言ってもいい。

私以外から
与えられる
エネルギーを
集約し、

濃密にし、

必要なところへ
必要な
タイミングで

一気に
注ぎ込む。

到底、
私自身の
エネルギーでは
足りない。

というか、
私自身のエネルギー
など、
微小過ぎて
もはや
ないのと同じかも。

それくらい、
私は
いただき、
放出する。

いただき、
注ぎ込む。

その
繰り返し。

それが
私の
やること。

この世は
エネルギーに
満ちている。

でも
そのほとんどは
使われず、

ずっと
漂ったまま。

それを
活用すること
こそ、

私の
やること。

ただ、
私自身は
微小なので、
いつも
呑まれそうに
なる。

そこを
耐える。

呑まれ
流されない
ように。

まるで
一人で
富士山と対峙
するように、

自分よりも
あまりにも
格段に
大きな存在に、

私は
委ねつつ、

しかし
舵取りを
する。

つづく

吐き出し結ぶ

身体の中
から

何かが
吐き出され
そうだ。

とてつもない
何か、が。

きっとそれは
恐ろしい
ものだろう。

ということは
ずっと
私はその
恐ろしいものを
内包しながら

ここまで
来たのだ。

その存在を
知らず。

しかしそれが
人間たるもの。

これまで
何度も
様々なものを
吐き出してきた。

吐き出す
度に

それらから
自由になれた。

軽く
なれた。

今回も
同様なのだと
思うが、

一つだけ
違う気がする。

きっと私は
その
吐き出した
ものを

また
喰らう。

吐き出した
ものには
芯(真)が
ある。

吐き出された
それは
吐き出される
ことで
浄化され、

芯(真)
のみとなる。

そいつを
また
きっと私は

喰らう
だろう。

そいつは
とても
恐ろしい存在
だが、

私に
とっては

私の人生
にとっては

なくては
ならぬもの。

そいつと
私は
再び
結ばれる。

つづく

時間の長短ではない

花火は
一瞬で
消える。

どんなに
美しくても。

一瞬だ。

だから
儚い
という考え方も
ある。

が、

実在レベルで
言えば、

その一瞬
とは
永遠だ。

永遠の
一瞬に

最大の
美しさを

カタチとして

ここに
現す。

こんなに
尊いことは
なく、

こんなに
美しいことも
ない。

もちろん
継続の美しさも
ある。

しかし
一瞬の美しさも
ある。

どちらも
永遠だ。

そこは
変わりはない。

この
3次元世界では
時間の長短が
あるので
ややこしくなる。

本質は、

時間の長短
ではない。

長くても
短くても

美しいものは
美しい。

醜いものは
醜い。

だからこそ
私達は

を美しく
生きよう。

つづく

焦ってはならない

未来の
目指す状態へ
一気に
突き進む感覚が
あるのだが、

現実がまったく
変わらない、

という人も
多いのではないか。

今は特に。

ここで
焦っては
ならない。

ここで
焦って
無駄な動きを
とってしまうから、

せっかくの
チャンスが
遠ざかってしまう。

焦っては
ならない。

一日一日は
どうだ?

今日、
やることは
全部やり、

今日、
やってはならない
ことは
明日以降に
ちゃんと後回しに
する。

この連続を
きちんと
踏んでいるかな?

一日一日の
完了感。

もしこれが
きちんとある
なら、

焦るな。

このままで
いい。

昨日と
同じように
今日も
この一日を
大切に。

明日も
同じように
大切に。

これが
最善最速の
進み方。

つづく

最上の混沌を

様々な旋律が
絡み合う。

一見すると
混沌。

しかしその
本質は

実に
シンプルだ。

絡み合えば
合うほど
シンプルに
なっていく。

それはまるで
いろんな色の
光が
合わさることで
無色透明と
なっていくような。

すべては
在る

・・・という
状態に
向かっている。

その状態への
最短ルートは

混沌

だ。

理路整然と
まとめていくのは
遠回りだ。

混沌こそ
最短の
道。

これは
人の成長も
組織の成長も
実は、同じ。

なので
私はむしろ

混沌を
助長する

という
サポートの仕方を
する。

混沌を
避けるのでは
なく、

最上の混沌


創り出すこと。

そのためには
余分な手を
出さないこと。

じっと
状況を観察
しながら、

ここぞ!
という
タイミングで

混沌の種

投入する。

もうすぐで
理路整然と
まとまりそうだ、
という
瞬間が多い。

もう少しで
というところでの
混沌の種

効く。

顕在意識レベル
では
容量を超えて
しまう。

が、
だからこそ
境界線を
超えられる。

一気に
次のステージへ
進み、

そこから
調和が
始まる。

混沌の後に
調和あり。

混沌の後
だからこそ
調和あり。

いや、

混沌を経ない
調和は、

無いのだ。

つづく

いったん死んで

サッと
鋭い日本刀で
背中から
切り付けられた
感覚だった。

その瞬間。

痛みよりも
ヒヤッと
した。

イメージでは
背骨がそのまま
縦に
割れた。

それは
一般的には
即座に

を意味するが、

実在レベル
では
そうとも限らない。

誰が
こんなことを?


後ろを
振り返れば、

超巨大な
私自身がいた。

また
必要があって
私は
私自身を
殺したな、と
わかった。

私だけでなく、
人は
何度も何度も
自分自身を
殺す。

殺す
と表現するのは
怖い感じだが、

多くの場合は
良い意味で
だ。

もちろん
殺した瞬間に

始まる

のだが。

それにしても
何が
始まるのか?

すぐには
わからない。

ただ、
殺された
という
自覚を持つことは
とても大事だ。

一刀両断。

こんな
一気呵成な
殺し方を
私は私自身に
課した。

こんなことが
できるくらい
私の準備が
整っていたとも
言えるが。

さて。

私は
いったん死んで

何に
なるのか?

つづく

純度はどれくらい?

今、自分の
純度は
何%だろうか?

そう
自分自身に
問うことで

自然に
浮かんでくる
数字は
何だろう?

私の場合、
へっちゃらで

100%だ


軽く、かつ
断定的に
浮かんでくる。

面白いことに、
本当に
そう思えるように
なってから、

外部との
コミュニケーションが
柔軟になれた
気がする。

私から投げる
言葉も、

私の発したい
言葉ではなく、

相手に
自然に届く
言葉を
選べるようになった。

恐らく、
純度99%では
できなかった
ことだ。

やっぱり
中途半端では
ダメなのかな、
特に私の場合は、
と思う。

ところで、

私はもっと
みんなも
堂々と
純度100%を
目指せばいいのに、

よく思う。

もちろん
現実はそうそう
思う通りには
いかない。

でも、
まずは自分の
内面、
もしくは
目指すもの
くらいは
100%に設定しても
良いだろう。

内面的
精神的に
最初から
妥協したり

中途半端で
いいや


やっているうちは
いつまで経っても
満足感や
充足感は
得られないと
思うのだけど。

それに、

純度100%と
自分自身が
自然に思えて
初めて

自分の中から
発せられるものが
あると思うんだ。

滲み出る
空気感も
含めて。

そういう人生に
毅然と
向かっても
良いのではないか?

つづく

戸惑うばかりだとしても

ちょっと前
までは、

年に一度
くらいの
大きな節目が、

マジで
今は
毎日ある、

という
感じだ。

恐ろしい
世の中に
なったもんだ。

実在レベルの
話だが。

ここから
この影響は
立て続けに
現象化
されるだろう。

私達はきっと
戸惑い
ばかりの状態に
なる。

でも、

私達の
中心核は、

真本音の
自分は、

もしくは
実在の
自分は、

もう
すべてを
わかっているよ。

だから
表面的に
どう戸惑おうとも、

中心の
静謐さを
そのまま
感じとろう。

そうすれば、

今ここでの
判断を

見誤ることは
ないだろう。

つづく

10年前と比べる雲泥の差

時々、
ゴリっと
回転する。

回転する
度に

何か
新たな分子の
ようなものが

恐らく
新種の成分が

生み出される。

そしてそれが
拡散する。

世の中
全体に。

それらが
染み渡って
行けば、

最初は
新たな異物を
含んだ違和感が
あったにしても、

自然にそれは
慣れて
しまう。

そして
最初から
それは含まれていた
かのように、

それが
自分自身で
あったかのように
思えてしまう。

しかしこの
本質的変化

大きい。

私達が
気づいていない
だけで。

私達は
鈍感だ。

鈍感だから
やっていけるのだ
ということも
もちろん、ある。

鈍感だから
すぐに
慣れてしまう。

慣れるのが
人間。

適応してしまう
のが
人間。

でも
随分と
変わったんだよ、
私達は。

10年前に
比べるとね。

雲泥の差。

そう感じる。

もし
タイムマシンに
乗って、
10年前に
戻ったとしたら、

この世を
構成している
何ものかの
密度が、

濃密さが、

あまりにも
違うことに
驚くだろうよ。

濃密に
なっている。
日々。

新たな何かが
どんどん
染み渡って
いるんだ。

つづく

それは中毒だろ

世の中
便利に
なればなるほど、

自分自身が
しっかりせねば
ならない。

便利さに
溺れるという
ことは、

環境に溺れる、

つまりは
依存した生き方

なってしまうから。

言葉を
換えれば、

現代は
「中毒」に
なりやすいものが
あまりにも多い。

多過ぎて、
ほとんどの人が
自分が
「中毒」
であることを
自覚しない。

中毒的選択と
中毒的行動を
とりながら、

私は私の
意思で生きている、


思い込んでいる。

ある意味
恐ろしい
世の中だ。

中毒から
出る方法は、

まずは
一歩立ち止まる、
しかないかな
と思う。

一歩
立ち止まり、

これは本当に
私の意志・意思か?


問い続ける
しかない。

私は一日、
起きている間は
ずっと
これをやり続けている
気がする。

そんなの
疲れるだろ?

思われるかも
しれない。

いやいやいや、

こっちの方が
よっぽど
楽だ。

中毒に
埋没する方が、
1000倍も
疲れるよ。

麻痺している
だけで。

自分の意思と
ただの中毒と、

まずは
この区別から
始めなければ
ならない。

なかなか
悲惨な
世の中だ。

つづく