2025年 1月 の投稿一覧

身を預けて進む

身を預ける
ように
進むと

逞しく
進める。

内面的には
それは
依存ではないか、

思ったことも
あるが、

預けるとは、
覚悟の要る
ことなのだ、

わかった。

この流れ。

実在の。

そこに
身を預ける。

すると、
先は見えない
が、

今、ここで
何をすべきか?

わかる。

時にそれは
とても怖い
選択だったり
するが、

構うものか。

こう生きる

決めたんだ。

・・・・・・

亀のような
歩みに
見えても、

現象のレベルで
そう見える
だけであって、

本質的には
最速の道を
進んでいるんだ。

なぜなら
身を預けて
いるから。

そこに
表面的な我欲
はなく、

全体的な
願いと
自分自身の
最大の想いが
ある。

自分も
自分以外も、
その区別すら
つかなくなる。

関係なくなる。

そこでは
もう
孤独は、ない。

ずっと
孤独できた私が
もう、
恐らくずっと

孤独からは
解放された。

・・・・・・

このペースで
良いのだろうか?

このやり方で
良いのだろうか?

と、
表面の意識では
いつも
疑念しているよ。

それでいい。

それがいい。

だからこそ、
着実に
間違いなく
進める。

イケイケどんどん
なんかには
なるものか。

つづく

自覚せずに傷つける

命のやりとり
なんて言うと、

大袈裟だな

思うだろ?

でも人はね、
命のやりとりを

結構頻繁に
やってるんだよ。

例えば、
たった一つの会話を
をきっかけとして、

ある人は
自分の人生を
生きることを
突然、
諦めたりするんだ。

顕在意識レベルの
話ではない。

潜在意識、
無意識レベルでね。

自分の人生を
完全に諦めれば、
もう
その方向に
進んでいく。

ある人は
それが後に
病気として
現れたり、

無意識に
自分を
事故に巻き込ませたり。

起きている現象は
すべて
その人の
「決めたこと」の
反映に過ぎない。

無意識に
完全に
決める、

ということを
私達は結構
やっているんだ、
日常生活の中で。

だからこそ、
人との関わりは
命のやり取りと
なる。

だからこそ
私は
最善の

できれば
最高の

命のやりとりを
したいと
思っている。

今、
目の前にいる
Aさん。

このAさんとの
この時間。

唯一無二の
時間。

これを私は
本当に大切に
する。

惰性で
人とは
関わらない。

惰性でしか
関われそうも
ない人とは
関わらない。

そう
決めている。

・・・・・・

この世は
後悔が
溢れている。

顕在意識では
全く自覚
していなくても、

自分がさっき
あの人を
傷つけた。

あの人の
生きる意欲を
失わせた。

・・・という
認識は、
無意識でしっかり
得ている。

だから
無意識に
とてつもなく
深くて大きい
後悔を
抱えている人は
多い。

これは
キツい。

実に
キツい世の中
だ。

命を
打ち消し合う
のではなく、

命を
活かし合う
世の中に
なれないものか。

命はもっと
輝けるものだ。

つづく

帰る場所はどこにある

時々、
街並みが
浮かぶんだ。

まばゆい
夕日の光に
包まれた、

オレンジに
輝く
都市のビル群。

そこには
たくさんの
人達がいる。

今、私がいる
東京のように。

でもそれは
実在の
街並みなんだ。

確かに
存在しながらも
今の私達の
まだ知らない街。

そこには
確かに
生活がある。

人生が
あるのだが、

今の私達には
知る由もない。

一つ一つの
存在が
際立ち、

現象ではなく
実在そのもの。

本来、
私達みんなが、
目指している
街並み。

独自の個性と
調和による
ハーモニー、

夕日とも
一つになって
いる。

自然とか
人工物とか
関係ない。

一つ一つが
唯一無二の
存在たち。

尊重と
共振の
世界。

・・・・・・

時々、私は
そこに
帰っていく。

そして
思い出す。

何を
思い出したのかは
わからないのに

思い出した
という事実だけは
わかる。

私は今、
思い出すべき
ことを
思い出したな。


わかる
安心感と共に、

私は
その街を
離れる。

またこれで
しばらくは
がんばれそうだ。

・・・・・・

私には
帰る場所が
ないのでは
ないか。

ということを
感覚的に
得てしまい
悩む人がいる。

気持ちは
わかるよ。

この
現象の世界では
確かに
どこに帰っても、

本当の
我が家では
ない気がする。

本来の街
では
ない気がする。

そうなんだ。

この現象の
世界には、

まだ、それは
ないのだ。

だから
私達が自ら
創り上げねば
ならない。

帰る場所を
ここに
実現するんだ。

・・・・・・

背中に
受けた
あの夕日の

焼けつくような
感覚を

そのまま
素直に
背負いながら、

私は
今日も明日も
現象の世界に
向かっていく。

まだ
ここには
何もない。

私達は
まだ
何も成して
いない。

これからだ。

ここからだ。

つづく

嘆くしかないよ

水が
地中に染み込む
ように、

その人の
嘆きが
私に染み込んで
きた。

これは
辛い。

言葉で
表現すれば、

嘆き

としか
言いようがない。

悲しみも
怒りも
後悔も
寂しさも

そして
慈愛の心
さえも

そこには
混在している。

大きな
溜め息と共に、

ドーンと
体が
重くなる。

立って
いられなく
なる。

思わず
うずくまりたく
なる。

声をあげて
泣きたくなる。

・・・・・・

なんで
こうなって
しまったのだろう?


何度呟いても、

答えはない。

いや、
明確な答えは
あるが、
それは表面的な
ことだ。

人と人との
関係だ。

相手のいる
ことだ。

相手との
ちょっとしたやりとり
の蓄積、

齟齬の蓄積が、

このような
憎しみのような
気持ちまで
延々と
噴き出させる。

今のこの世の
典型と言えば
言えるのだが。

こんな時
いつも
思うのだ。

やはり
人と人は
向き合わねば
ならない。

どんなに
素晴らしい個性
でも、
向き合わねば
何も始まらない。

どんなに
強い志があっても、
向き合わねば
道は途切れる。

人は
向き合うために
存在しているのでは
ないか。

向き合うために
わざわざ
別個の存在として
この身体が
あるのではないか。

向き合わない、
というのは
人であることを
放棄している、という
ことではないか。

そこまで
思ってしまうよ。

こんな時は。

・・・・・・

人を育てるのは
難しい。

もちろんだ。

どれだけ
心を込めて
育てても、

裏切られて
しまう。

相手のある
ことだ。

しょうがない
とは
言いたくないが、

しょうがない。

これが
人間だ。

今の
この世の中の
人間の一つの
姿だ。

今はしっかり
嘆こう。

祈るように
嘆こう。

嘆ききる
まで。

それが
完了してから
だ。

次のことを
考えるのは。

つづく

後悔から脱け出すには

後悔。

悔恨。

そういった
念の深い人は

私は
好きだ。

もちろん
ただ
ウジウジしているだけ
であれば、
ちょっと嫌だけど。

後悔に
基づいて
前に向かおうと
している人。

私は
好きだね。

後悔と
本当の意味で
向き合える人は

謙虚だしね。

私自身が
深い後悔を
何度もしてきたので、

上辺だけの
後悔か、
本当の後悔か、

やはり区別できる。

本当の後悔
というのはもう
どうしようも
ないね。

ズブズブと
底なし沼に
はまっているようで。

どこまでも
堕ちていく。

自分を
堕としていくんだ。

そして
決して自分を
幸せにしようとは
しない。

本当の幸せが
手に入りそうに
なると、

自分を不幸の
方向に
追い詰めていく。

私自身が
そうだった。

私にとって
この人生は

償いのための
人生

だった。

途中までは。

それだけ
後悔を抱えて
いた。

でも、
償いの人生を
続けることは

自分も
他人も

誰をも
喜ばせないし
幸せにはしない、

ということに
途中で
気づくことが
できた。

本当に
償いをするならば、
まずは
自分が幸せに
向かわねければ
ならない、

ということが
途中でわかり、
私の人生は
そこから
根本的に変わった。

根本的に
変わったが、
しかしそれは
本当に難しい
ことだった。

償わねば
ならないと
根本的に
思い込んでいる人が

幸せに向かうのは
至難の業だ。

しかし
絶対にできない
というものでも
ない。

私の場合は、
自分の真本音の
願いの方向に
人生を進めることで、

自然にそこから
脱け出ることが
できた。

今から思えば、
償いの人生など
自己満足そのもの
だったな、と
わかる。

が、
その時は
当然、わからんよ。
人間は。

自分のことは
わからん。

それでいい。

いずれにしても
本当に
後悔と向き合って
いれば、

自ずと
そこからは
脱け出せる。

だから、

苦しみのあまりに
後悔の
フリをする、

ことだけは
やめよう。

フリをすれば、
余計に
苦しみが深くなる
だけだ。

自分の
後悔だ。

自分でしっかり
引き受けよう。

つづく

いったん離れた方がいい

いったん
離れると
良いことがある。

離れるのは
寂しいかも
しれないが。

人と人は、

・・・いや、
人だけでなく
あらゆる物事に
おいて

どれくらいの
距離で
関わるか?

はとても
大切だ。

どちらかと
言えば、私達は
近づき過ぎる
傾向がある。

基本、
近い方が
安心するから。

しかし私は
あえて
極端に言えば、

まずは
全てから
離れてみる、

つまりは、

一人になる、

ことを
お奨めする。

一人になって、
自分の足で
立ってみて、

初めて、
何(もしくは誰)と
どのくらいの距離で
関わろうか?


観えてくるから。

今日、
ある会社の
幹部さんのコーチングを
させていただいた。

その人は
「人に対して
本当は
無関心でいたい」

言われた。

それを聴いた
瞬間、

あぁこの人に
とっては
それがベストだな、


思えた。

その人は、
人に近づき
過ぎてしまうのだ、
無意識に。

人と
一体化し過ぎて
しまう。

そして
相手のストレスや
苦しみ、痛みなどを
すべて
自分のことのように
感じ取ってしまう。

その状態での
マネジメントは
非常に辛そうだった。

だから
その人の理念を
「無関心」
とした。

冗談のようだが、
冗談ではない。

その人にとっては
最も必要なことだ。

これにより
その人は
一人
になれる。

一人になった
時に、
初めて
自分流のベストの
マネジメントのあり方に
気づいてゆくだろう。

くっつき過ぎ

ダメだ。

依存や執着や、
場合によっては
寄生
を生む。

これが今の
世の中の
不調和の根源
の一つだ。

内面的な
意識のみでも
良いので、

まずは
自分が無意識に
くっついてしまって
いるものを、

いったん、
自分から
引き剥がそう。

いったん、
自ら
離れてみよう。

つづく

ここでまた重要な問い

今ここで
また、

重要な
問いが
ある。

次の問いに
私達は
真摯に
向き合おう。

・・・

今の私の
錘(おもり)は何か?

その錘は
これからの私にも
必要なものか?

もしその錘を
手放すならば、
現実に私は
何を為すべきか?

・・・

為すべきことが
あるならば、

早急に
動かねば
ならないよ。

つづく

もうだめだ、というとき

鬱蒼と茂る
森の中を
彷徨っていた。

霧も深く、
どこをどう歩いて
いるのか、

ついに完全に
見失った。

現在地が
わからない。

向かうべき
方向も
見当もつかない。

どちらの方向に
向かっても
道が開かれる
感覚はなかった。

かといって
ここに動かずに
いることは
もっと危険だと
わかった。

まさに
八方塞がり、

絶望感。

・・・・・・

こんな時、

突然、
光が差してくる
こともあった。

しかしそれは
たまたま、
だ。

正確には
たまたまでは
ないにせよ、

それは
自力で成した
ことではない。

自力では
何も
できなかった、
という
その無力感は

結果的には
人生の
宝物となる。

その経験を
するかどうかで、
人生の展開は
大きく変わるし、

自分以外の
「世界」との
関わり方も
根本から変わる。

が、
今はそれを
言っている場合
ではない。

わかるのだ。

ここは
自力で何とか
せねばならない。

待っていては
ならない、
のだ。

・・・・・・

八方塞がり

絶望感。

これと
一つになる
ことだ。

完全に
一つになる
ことだ。

それは
自分自身が
崩壊してしまう
恐ろしさがあるが、

それでも
一つになる。

絶望、そのもの
となる、
のだ。

・・・・・・

私は
絶望。

何も
できぬ。

ただ、
滅びゆく
だけの
存在。

全てが
滅びゆく
その
一コマが
私、だ。

・・・・・・

ここまで
行って
始めて、

内側から

中心から

湧き上がる
「何か」
がある。

それは
一つの「意志」
の塊となって

自分の中に
浮上する。

自力突破の
礎。

源。

そして、
この森そのものを
壊し、
変質させる

鉾となる。

つづく

人生のヒントを見つける

たった
一筋だけで
いい。

全貌が
わからなく
とも。

ほんの
一筋の
光が

そこに当たれば
いい。

一点しか
見えなくとも。

それだけで
私達は

「わかる」

のだ。

「わかる」
とは
「思い出す」
ということだ。

もともと
私達は
全てを知っている。

知らない
ことも、
知っている。

それを
一筋の光が
思い出させて
くれる。

大事なのは
その光。

光を自ら
生み出すことだ。

・・・・・・

この世界は
光で
溢れているが、

その中で
本物の光は
いったい
どれだけある
のだろう?

本物の光、

実在の光。

単なる
現象でなく。

・・・・・・

過去と
今と
未来。

その
すべてを
受け止める。

大概、
私達は
どれも
受け止め
きれない。

過去にも
目を閉ざし、

今も
承認せず、

未来も
怖がって
見ようとしない。

だから
永遠に
光はわからない
かもしれない。

過去も
今も
未来も
受け止める
覚悟ができたとき、

実在の光が
わかる。

どれが
本物の光か
が。

・・・・・・

まずは
過去をしっかり
振り返って
みよう。

自分の人生を
もう一度、
思い返しながら

体験し直す。

これを
綿密に
やってみよう。

時間をかけて。

すると
本来はあの時は
私は
こういった現実を
創るべきだったのだ、

瞬間的
直観的に
わかることがある。

本来の道。

それが
一筋の光の
きっかけとなる。

その
本来の道と
今の自分との
差。

そこを
直視すれば、

未来にも
目を向けられる。

本来の道を
未来にまで
結びつけた時、

ようやく、

今、

未来、

結ぶ光が

一筋の光が

生まれる。

その光が
差す
たったの一点が

大いなる
ヒントとして

私達を
照らしてくれる
だろうよ。

つづく

今、環境を変えるとき

私は
「世界」を
創りたい。

新たな
「世界」を
生み出したい。

・・・言葉で
表現すれば
そのような願いを

強烈に
抱き始めている
人が
増えている。

この類の
願いを
私はサポートしたい。

「世界」と言っても
いろんな意味が
あり、

それは
全世界を指している
人もいれば、

例えば、
一つの小さな
空間や集団を
指している人も
いる。

どちらも
本質的には
同じことだ。

規模の大小
ではなく、
その質と深さが
ここでは
重要だ。

独りよがりで
我欲まみれの
「世界」
ではなく、

あくまで
私の表現で言えば、

次元の高い
世界、

実在と現象の
一致する
世界、

本質的エネルギーを
生み出し続ける
世界、

というような
もの。

それらを
目指す人が
増えているし、

その人達は
今、
急激にその人なりの
何か、が
開花を始めている。

そういった
人達に今、
このタイミングで
お奨めしている
ことは、

環境を変える

ことだ。

もし今いる
環境に違和感を
覚え、

ひょっとして
環境を変えた方が
良いのでは?


疑問符が
湧いたら、

躊躇なく
そうすることを

今は

お奨めする。

これから
発生する
自分自身の
新たなエネルギーを

そのまま
素直に
放射・照射できるように
するには、

それ相応の
環境が
必要だからだ。

今の自分に
見合った
環境を選ぶ。

これも
今こそ
最も必要なことの
一つだ。

つづく

決意表明のようなもの

よく私は
「垂直上昇」
という言葉を
使う。

垂直に
上昇するくらいの
逸脱した
成長の仕方

進化の仕方

を表現している。

ここ数年で
そういった進み方
を目指す人が
本当に増えた。

実際にそれが
できている人も
増えた。

垂直上昇の
影響は
あまりにも大きく
深い。

たった一人が
垂直上昇を始める
だけで、

実在のレベル
では
「全体」に
そのエネルギーが
波及していく。

人の影響力
とは
やはり、
その上昇率、
成長率
で決まる。

今、何ができるか?
とか
今、どれくらいの
力があるか?

よりも
その影響は
果てしなく
甚大だ。

・・・・・・

垂直上昇する
人との
コラボ。

これが
今の私が
推進している
ことだ。

垂直上昇する
人は、

根底の部分が
果てしなく
安定しつつも、

表面的には
とてつもなく
不安定だ。

そりゃそうだ。

逸脱した
進み方は
人の心を
極めて不安定に
させる。
当たり前の
ことだ。

その不安定さを
自分のもの
としながらも、

常に
根底の
果てしない安定を
感じながら
進む。

そういった
人達とのコラボは、

とてつもなく
不安定で
果てしなく
安定している。

それを
事業として
この世の中に
形にしていくことは

きっと大きな
インパクトと
なるだろう。

・・・・・・

異質なもの。

未知のもの。

そういったもの

私達はどうしても
拒絶感を
出してしまうが、

毎日その
拒絶感を
得ながらも、

それでも私は
進みたい。

昨日まで
「最高」だった
ものが、
今日は突然
「最低」になって
しまうかも
しれない。

それを
恐れず、

・・・いや、
大いに恐れれば
良いが、

それも
抱きながら
進もう。

私にしか
できないことで、

かつ、

私には
決してできない
ことを、

これから
激しく
推進していく。

つづく

伝わるコミュニケーションのために

わかりやすく
伝える。

シンプルに
伝える。

これはとても
大切なことだと
思うが、

案外
できていないんだよね。

わかりやすく
伝えるには、

まずは
自分が本当は
何を一番伝えたいのか?

何が伝われば
それで満足なのか?


はっきりくっきり
明確にすることが
必須だ。

「私がここで
本当に
伝えたいことは何?」

という問いを
常に

本当に常に

自分に
投げ続ける習慣は
つけた方がいい。

私自身が
これを始めた時、

まず最初に
変化したのは、

冗談や茶化しの
類の発言が
私の中から
消えてしまった
ということだ。

それまでは
冗談とか言いながら
場を和ませようと
していたのだが、

それが
消えた。

すると、
場は静かになって
しまうので、
それが不安だったが、

逆だと
わかった。

むしろそういった
要らぬ冗談を
言う方が
場は不安定になる。

自分はなんと
余分なことを
し続けていたのだろう、

つくづくわかった。

そして
どんどん私は
無口になっていった。

相手を理解する
ために
良い問いを投げねば、

というのも
いつしか消えていた。

もちろん
私自身の話をする
ことも
ほとんどないので、

私は基本、
コミュニケーションの
場面では

何もしなく
なった。

ただ、
私は本当は
これをここでは
伝えたいのだ、
という認識だけは
持ちながら。

認識は
あるけど
何もしない。

・・・これが
私の基本スタンス
となった。

これがまた
実に
居心地が良い。

何もしなく
なったのに、

それでも勝手に
自分の口が動く瞬間が
くる。

それが
冗談であったり
問いかけであったりも
するのだが、

こっちは
一切の意図を
していない。

だから
スッと自然に
口からそれは
流れ出る。

するとその場は
驚くほど調和し、

気がつけば
私が最も
伝えたかったことが

なぜが
伝わっている

という
状態になる。

で、
完了感がくる。

で、
じゃあまた!

その人と別れる。

今は毎日が
その繰り返し。

本当に
伝えたいことは
何か?

この場で
本当に大事なことは
何か?

まずはこの
把握を。

くっきりスッキリ
と。

丁寧に。

コミュニケーション
改善は
まずはここからだ。

つづく

蜘蛛の糸に掴まれば

蜘蛛の糸が
スーッと
降りてきて、

それに
掴まる。

糸は
スーッと
上昇していく。

それに伴い
私も
上昇するのだが、

途中で
怖くなって
手を放して
しまう。

落ちる!


思ったが、
なんとそのまま
私は
空中に留まっていた。

空中に
浮遊している。

そして
少し意識したら
自由に
空を飛び回ることが
できた。

なんだ
いつの間に
こんな力が?


思ったが、
いやいや実は
最初からできたんだよ、

直観的に
わかった。

蜘蛛の糸は、
自分にできることを
気づかせて
くれる
きっかけだったのだ。

そんなきっかけを
与えてくれたのは
誰だ?

・・・私自身だ。

自分が自分を
引っ張り上げる。

これは
私達誰もが
常に行なっている。

が、
引っ張り上げる
「きっかけ」に
本人が
気づいていない
ケースは
あまりに多い。

私のサポート
とは、

その人の
蜘蛛の糸、

つまりは
その人が
その人自身に
与えている
「きっかけ」に
気づいていただくこと。

これが
メインだと思う。

自分を
成長させるのは
自分自身だ。

自分自身の
導きによってしか
人は
本質的な成長、

つまりは
進化

はできない。

私がよく言う
「実在の自分」
とは、

そのように
自分を成長に
導いてくれる
自分自身でもある。

言い換えれば
「真本音の自分」。

だからこそ
自己対話が
重要となる。

でもみんな、
自己対話
下手くそなんだよなぁ。

わかりやすく
蜘蛛の糸が
垂れてきている
のに、

目の前に
あるのに、

気づかない。

いや、
気づいていない
フリをしているのか。

そこに
糸があるじゃない、
その糸に
掴まってごらんよ!

というのが、
いつもの私の
メッセージだ。

糸に捕まる
のは
最初は怖いかも
しれないが、

本当は
ちっとも
恐ろしいことは
ないんだよ。

つづく

不安との関わり方

現象レベルの
不安は
しっかり
持っていた方が
いい。

この世の中
には、
様々な不安や
心配がある。

お金の不安、
人間関係の
不安、
事業の不安、
結果の不安、
安全安心に
関する不安、
・・・。

個人的な
ものから
社会的な
ものまで、

数限りない。

不安のない
人生はなく、

人生を
送るのであれば、
不安がなくなる
こともない。

不安の中に
埋没し続ける
ことは
お奨めできないが、

しかし、
自分の心に
浮かび上がってくる
不安の一つ一つに

しっかりと
目を向けることは
とても大切だ。

解決できない
ことを
悩み続ける必要は
ないが、

どんな不安が
今、自分の中に
発生しているか?
は、

きちんと
観察、把握した方が
いい。

でないと、
不安の「置き換え」
をしてしまうのが
私達だからだ。

例えば、
本当はAについての
不安があるのに、

そのAについて
向き合ったり
考えたりするのが
億劫なため、

全然関係のない
Bに意識を向け、

Aの不安への
感覚のみを
持って
Bに向かうことで、

私は今、
Bについて
とても悩んでいる、

と、
思い込んで
しまうのだ。

これも一種の
現実逃避だ。

これをしている
うちは、
何をしていても
心が本当の意味で
安らぐ瞬間は
来ない。

もちろんたとえ
Bを解決したと
しても、

心は
キツいままだ。

不安の「置き換え」

純粋な不安よりも
何倍も
キツい。

本当は私は
Bではなく
Aに悩んでいるんだよ!

と、
自分が自分に
合図を送っている
から、
自分で自分の心を
より苦しめるのだ。

こういったことに
エネルギーを
費やすよりも、

私は今、
これが不安だ、


純粋にスッキリ
把握し、
それらの不安を
ちゃんと
存在承認しよう。

それができれば
その「奥」が
わかるようになる。

つまり
自分の根っこの
部分が今、
どうなっているか?

感覚で掴めるように
なる。

結果として、

私は今、
表面上は
こんなにもたくさんの
不安があるのに、

なぜか
根本的には
こんなにも
悦びに満ちている、

というような
ことが
わかるようになる。

表面の自分と
しっかり向き合える
人は、
基本的には
根本の自分は
悦ぶのが
私達人間だから。

そして
その根本の悦びが
増す方向に
人生を進めていく。

それが
真本音の道だ。

不安を
なくそうとする、
その方向に
努力しては
ならない。

不安は
あるのが普通だし、
あるのが
健康だからだ。

それよりも
不安と共に進む
自分で
あり続けよう。

つづく

難易度高えな

私のクライアントさん
の中には

一般の人が休んでいる
年末年始にこそ
大変なお仕事に
向かわねばならない
人達もいる。

「もう死にそうです!」
と、
必死に
生命力の全てを
使い続けている
人もいる。

その状態を
私も共に
感じながら、

改めて、
2024年から
2025年にかけての
この節目の意味も
観えてきた。

今回は、
わかりづらい
節目だった。

実は私は
ずっと
ここに節目はなく、
地続きである、

認識していた。

だから
私自身は
節目を
創らないように
創らないように
あえて
してきた。

昨年から
そのまま自然に
今年に流れ続ける、
ことを
してきた。

が、
それをしなければ
越えられない
節目だったのだと、

今になって
観えてきた。

以前も
書かせていただいたが、

2024年は
「1」の年。

2025年は
それを
「2」にする年。

しかし実は
「2」
とは
「1」
からは
生まれない。

「1」を
培ったからこそ、
あえて
「ゼロ」に
戻る。

「1」を経ての
「ゼロ」。

「原点」。

だからこそ
そこから
一気に
「2」が生まれる。

ただしこれを
意図的に
やってはならない。

意図すれば
崩れる。

地続きで
行くからこそ、
自然に
「ゼロ」に戻れる。

・・・と、
そのような
何と言うか、
非常に
難易度の高い
節目だった。

あの必死の
クライアントさんの
叫びを
全身に感じながら、

それを
振り返りながら
ようやくそれに
気づいたよ。

このように
ここからは
さらに
難易度が
高まるよ。きっと。

が、
それを意識
し過ぎて
意図を持ったら
負けだ。

何がどうあっても、
これまで通りの
私達で
進んでいく。

「1」を
創り上げた
私達で
行くんだよ。

つづく

本来の自分の感覚を思い出す方法

自分の中の
最も深いところは

中心
にある。

自分の中心
に入れば、

その中心の
さらに
中心がある。

さらに
その中心に
入れば、

さらにその中に
中心がある。

このように
中心の中心の
中心の中心の・・・


どんどん
入り込めば、

無限に
中心に
向かい続ける。

それくらいに
私達は
深い。

・・・・・・

ところが、

もうここまで。

これ以上は
中心には
入れない。

・・・という
ことがある。

それは
自分自身が
自分に
ストップをかけて
いるということだ。

それ以上
深く入っては
ならない。

今の自分には
まだその準備が
できていない。

・・・という
自分なりの判断
だ。

その場合は
無理をしては
ダメ。

その中心地点で
じっと
落ち着こう。

・・・・・・

中心から
出る必要は
ない。

その中心地点
のまま、

そこから
自分を
広げていく。

大きく大きく
どこまでも
広げていこう。

イメージで
広げる
というよりも

感覚で

広げる。

宇宙の彼方まで
広げるつもりで、

しかし
徐々に、
ゆっくりと、

広げ続けると、
ある瞬間に、

ふと、

「ここ」に
戻る。

今、体が
存在している
「ここ」に
戻る。

そして
体と自分が
一致する。

現実と
自分が
一致する。

あぁ私は
ここにいるんだな。

・・・と
何の違和感も
なく
自然にそれを
受け入れられる。

それが
当然のこと。
それが
真理。

実に
普通、のこと。

そんな感覚に
なれたら
終了。

以上、
本来の自分の
感覚を
取り戻す、
最も簡単な方法。

つづく

育ててはならない芽がある

芽が出れば、
それを
伸ばせばいい、

という
単純なことでは
ない。

育てては
ならない
芽は、ある。

芽を
見つければ、
誰だって
育てたくなる。

育てれば
育てるほど
愛着が湧く。

そして
その芽に
執着を始める。

本当は、

執着を
呼び覚ます
芽であれば、

育てない
方がいい。

本当は、

芽は常に
無数に
生えては
消えていく。

多くを
気づかない
だけなのだ。

必要
なのは、

芽に
気づくことと、

芽を
選別すること。

どちらも
難しいこと
だが。

・・・・・・

人のこと
の方が、
まだよく
観える。

じっと
観察さえすれば
わかることは
多い。

一つ
発芽すれば、

必ず、
その人の

まずは
目が、

変わる。

目の光が
深まる。
輝きが増す。

よく
観ていれば
わかる。

あぁ何か
発芽したな、

直観する。

直観したら
より丁寧に
観察をする。

そして
その人の
言動の変化と
目の輝きが

どれだけ
連動しているか?

注視する。

目の輝く
瞬間と、
行動の変化が
一致すれば
するほど、

その芽は
その人にとって
必要なものだ。

しかし
多くは、ここで
ズレるのだ。

行動は
変化したが、
目の輝きとは
タイミングが
ズレる。

その場合は、
その芽は、
徐々に
執着を生み出して
いく。

その芽は
育てては
ならない。

・・・・・・

人を観察
することで、

自分自身を
観察する目が
養われる。

自分の観察は
難易度が
高い。

が、
できないことは
ない。

毎日、
人をしっかり
観察し、

そして
自分も
観察しよう。

まずは
自分の目を
よく
観るようにしよう。

目の状態を
常に
チェックする。

以前の私は
これをするために、
どんな時も
いつも
手鏡を持っていた。

そして
コーチングの
合間に必ず、
自分の目を
チェックしていた。

すると
自分の目の観察を
通じて、
自己把握が
できやすくなった。

もちろん
完璧ではないが。

皆さんにも
お奨めする。

自己観察力を
高めて、

自分の芽は
自分で選別し、
育てよう。

つづく

自分の中に答えがなければ

あぁもう、
自分の中からは
答えは出ないな、


わかることが
ある。

その場合は、
一人で考えるのは
やめる。

考えても
答えが出ない
ことは
考えない。

その代わりに、

自分に
何をインプットするか?

どんな
刺激を入れるか?

何を
体験させるか?

誰と会うか?

誰とどんな
会話をするか?

などを
かなり綿密に
発想する。

自分の中に
答えがない
ということは、

インプットが
必要

だと言うことだ。

もしくは、
自分以外の誰か
によって
「答えがもたらされる」
可能性もある。

それが
きちんと起こる
ように、

いつまでに
どのタイミングで
何をするか?


速攻で決める。

自分一人では
わからないことで
ウジウジしない。

オロオロ
しない。

セルフコーチング
の基本。

・・・・・・

共創の時代、
という
言い方が時々されるが、

ここからは
きっと
本当にそうだ。

私もますます
共創していく
ことにする。

共創するために
必須なのは、

各々の
自律だ。

自律している
人同士でなければ
共創は
絶対に無理だ。

そう思うと、
準備は随分と
整ったなと
思える。

まずは
4本の
共創の流れを

一気に
進めることと
する。

つづく

謙虚にいく

人間は
人間の尺度で

価値あるもの
価値ないもの


勝手に判断
しているが、

もちろんで
あるが、
人間の価値観が
正しい、とは
限らない。

例えば
私の場合、
「次元」の話を
よくするが、

次元が高い
次元が低い

という尺度
一つとっても、
皆、勝手に
「こうに違いない」

決めつける。

決めつけ
たがる。

実はその行為
そのものが
次元を低めている
のだけどね。

例えば、
人間は
動物よりも
自分達の方が
次元が高い、

勝手思っているが、

本当に
そうか?

「動物的欲求」
という言葉を
使えば、

それは
すなわち
「自己実現欲求」
よりもかなり
下等なものだと
決めつけているが、

本当に
そうか?

私達はもっと
本質的な
視点、

本質的な
問いを
持たねばならない、

そうでなければ
今後はもう
やっていけなくなる
のではないか、

特に最近は
強く思うよ。

人間よ
奢るなかれ。

・・・と、
自分自身も
含めて、

戒める気持ちが
強く
湧いてくるよ。

私達はもっと
謙虚に生きねば
ならないのでは
ないか。

実は、
年末年始

珍しいことに
私は
インフルエンザに
罹った。

病の状態で
年末年始を
過ごすというのは
人生で
初めてのことだった。

が、
それが良かった。

私は
繭に閉じこもる
蚕のように、

じっと
「羽化」のための
時間を過ごした。

全く
何も
しなかった。

昨年
やるべきことは
やり尽くしたし、

せっかくなので
実在も
現象も
あらゆる活動を
ストップした。

自分自身の
電源を落とし、

「羽化」のみに
集中した。

そんな時間を
潜り抜けて
最初に浮かんだ
言葉が、

人間よ
奢るなかれ。

・・・だ。

きっと私は
これから
昨年とは
比べものにならぬほど

激しく
活動する。

だからこそ、
謙虚に
行く。

素の自分
として
行くよ。

つづく

完全自由の基礎

世界の中に
いる自分と、

その世界を
外側から
眺めている
超巨大な自分。

この二つの
自分を
常に同時に
感じ続ける。

この15年間、
ずっと私が
やり続けている
ことだ。

これをすると
自己分離を
起こしてしまう
のではないか?

思われるかも
しれないが、

実は
逆である。

これを
すればするほど、

自己一致感

が高まる。

今よく使う
言葉で表現すれば

実在と現象が
一致する

ということだ。

本質的な
一貫性が高まる

とも
言える。

・・・・・・

私達には
もともと常に

超巨大な
視点

というものが
ある。

常に外側から
自分で自分を
見つめ続ける
視点。

自分を見つめる
ということは、
自分の立っている
環境も同時に
見つめ、

特に、

自分自身と
環境との
関わり方を
見つめる、

ということ
になる。

自分とは
「自分」という
一個の存在で
成り立っている
わけではなく、

「自分以外」
という存在が
あるからこそ
「自分」
という存在は
生じる。

ということは
「自己理解」
とは
「自己以外理解」
でもある。

あらゆる全ての
存在から
分離・独立して
できたのが
「自分」なのだから、

あらゆる全て
を見ずして
「自分」を見ることは
できない。

この当たり前の
ことを
常に思い出させて
くれるのも、

「自分」を外側から
見つめる
眼差しだ。

・・・・・・

今、一つの
決断を
しようとしている。

行動に
移そうと
している。

そんな自分を
外側の
超巨大な眼差しから
見つめる。

見つめ
続ける。

最初は、
何かに監視
されているかの
ような気持ちに
なるかもしれないが、

慣れれば
それも
消える。

そしてそこで
得られるのは、

言いようのない
「自由」な
感覚。

これが
「完全自由」の
基礎となる。

つづく

要領よく行こう

真正面から
向き合うのと、

何でもかんでも
正面から
ぶち当たるのとは
違う。

大きく
本質的に
違う。

真正面から
向き合えば
向き合うほど、

その人は
実に
柔軟性を
増す。

実に、ね。

よく
現実を
観れば、

隙間が
わかるはずだ。

あぁあそこ
から
ここを
くぐり抜ければ
いいんだ、
という

千載一遇の
ような
出口が。

出口が
観えれば
ダイレクトに
そこに向かえば
いい。

それは
逃げ、では
ない。

私達に
必要なのは、
一刻も早く
速く
「次」に進む
こと。

一つ一つに
ゴツゴツと
ぶつかっていては、

自己満足の
人生で
時間終了を
迎える。

遊んでいる
暇はないのだ。

もし目の前に
ロープウェーが
あれば、

乗れば
いい。

一歩一歩
自分の足で
登らねば、

などと
やっている
暇はない。

与えられた
ものは
全て活用し、

隙間があれば
全て活用し、

ぐんぐん
進もう。

それを真剣に
するからこそ
初めて
向き合わねば
ならない
課題が
立ちはだかる。

これだ。

私達が
本当に向き合う
べき、は。

超のつく
難易度の高い
壁は。

その壁に
ぶち当たる
までは、

要領よく
行こう。

スルスルと。

できる
はずだろ?

つづく

1万分の1

自由発想は
大事だ。

特に新年の
この時期は
大事だ。

が、
自由発想だけで
発想を止めては
ならない。

たくさん発想
したら、

次は
絞り込みだ。

発想は
宝物。

宝の持ち腐れに
しないためには、

それらの
発想を
し尽くした

直後の
自分

だからこそ
得られる
視点で、

発想した
あらゆるものの
中から

これだ!


確信できる
ものを
選び出し、

それを
実行に移す
こと。

1万個の
発想を出して、
その中の
たった一つに
なるかもしれない。

それでいい。

1万個の発想たち
の願いを
すべて引き受けて、

その一つの
発想に

全エネルギーを
込めて

実行に
移そう。

今年からは
これが
実に
やりやすい状態に
なっている。

そんな世の中に
なってきて
いるんだ。

つづく

思いっきりリセット

これまで
まっすぐである

見えていた
ものが、

ひん曲がって
観える。

・・・このような
感覚になったら
それは
正常だ。

表面的な混乱
はともかくとして、

この世の中は
本質的には
ぐんぐん
正常に近づいて
いる。

特にこの
2〜3年の進捗は
目覚ましい、

というより
凄まじい。

自分に素直に
誠実に
生きていれば、

その世の中の
正常化の影響は
ダイレクトに
受けるはずだ。

つまりそれが、
これまで
まっすぐに
見えていたものが
ひん曲がって観える
という現象だ。

・・・・・・

これまで
気持ち悪さを
感じなかったところで
気持ち悪さを
感じてしまう。

これはもう
しょうがない。

麻痺が
覚め始めて
いるのだ。

であれば、
ここからも
素直に行こう。

ひん曲がった
ものは
まっすぐに
直せばいい。

自分自身に
対しても
現実に
対しても。

気持ち悪い
ものは
気持ち悪くない
状態にしよう。

手放すべきは
思いきって
手放そう。

修正すべきは
修正しよう。

そして、

壊すべきは
壊す。

最初から
しっかりと
創り直す。

それに
覚悟をもって
すぐに
取り掛かれるか
どうか?

それが
ここからの
流れを
決定する。

・・・・・・

もし自分の
夢やビジョンまで
ぐらついて
きたら、

それすらも
思いきって
リセットして
しまおう。

その上で
もう一度。

もう一度。

きっと
前よりも
もっと素敵な
ものが、
見つかるよ。

つづく

この一年ですべきこと

カタチになる
前のものが、

カタチになろう
とする
その直前、

強烈な
メッセージを
送ってくることが
ある。

それは
言葉にならない
メッセージかも
しれないが、

たとえ
感覚のみだと
しても、

それをしっかり
受け取る感性は
養っておこう。

もし
微細なメッセージ
にも
気づけるように
なれば、

この世の中には、
実に多くの

カタチになる前
のもの

が存在しており、

それらから
実に多くの
メッセージや
提言が
発信され続けている
ことが
わかるだろう。

もしそれを
きちんとキャッチし
例えば、
ビジネス展開
できれば、

それは大いなる
力となる。

残念ながら
この世の中は
見えないもの
ばかり。

つまり
私達人間の目が
認識できる
波長の範囲は
実に狭い。

本当は
ここ、にあるのに
それに
気づかない。

気づけば
始まるのに、
気づかないので
何も変わらない。

そんなことが
無数に
ある。

感性を養う
とは、
目を見えるように
するのではない。

目に頼らない
受信力を
高めること。
つまりそれは
体感覚だ。

いや、
正確にいえば
体感覚ではない
のだが、
体感覚に一番近い
と言えばよいか。

自分の身体の
反応に
できるだけいつも
敏感であろう。

今日は何か
いつもと少し
違う感じがする。

・・・というような
違和感などに
敏感になろう。

そのためには
意識を常に
外に

現実世界に

出しておく
こと。

出し続けて
いられる自分に
なること。

これができれば、
意識を外に
出したまま
思考する、
ということすら
人間はできるように
なる。

この一年。

そう、
この一年で、
感性をどれだけ
養えるか?

で、
来年以降の
人生が
大きく左右されるよ。

つづく

始動のための自分の整え方

足元に
意識を向けよう。

今、この
タイミングで。

自分の足元には
何が
存在しているだろう?

それは
自分にとって
安定したもの?
それとも
不安定なもの?

それは
自分を
自由にしてくれるもの?
それとも
自分を縛るもの?

きちんと
感覚で
把握しよう。

・・・・・・

次は、
背中だ。

今、自分は
何を
背負っている?

それは
重い?
軽い?

その重さは
適正?

ちゃんと
背負うべきものを
背負っている?

背負うこと
自体は
大事。

でも、
自己満足では
いけないよ。

・・・・・・

頭のてっぺん。
つまり
頭頂部。

そこはちゃんと
開放
されている?

そこに何か
邪魔なものが
乗っかってない?

張り付いて
いない?

頭頂部は
大切だ。

そこは常に
開かれた状態を
維持すること。

もし
余分な何かが
そこにあれば、

それが何か?
をしっかり
見つめ、

それを
取り払って
しまおう。

イメージだけで
すぐに
取り払えるなら
それでよし。

それが難しい
場合は、

どんな現実を
どう変えることで、
これは
取り除かれるか?


しっかり発想し、
一刻も早く
行動に移そう。

・・・・・・

最後に
血管全体に
意識を向ける。

血の流れは
気の流れと
連動している。

流れの悪い
箇所は
ないだろうか?


丁寧にチェック
しよう。

流れが悪い箇所
には必ず、
何か余分なものが
ある。

それが何か?
を、やはり丁寧に
把握し、

しっかり
取り除こう。

新たな年の
本格始動だ。

良いスタートを!

つづく

入れ替わり、くるぞ

入れ替わり、


起こるよ。

これから。

結構、
一気に

激しく。

おかげで
心は大きく
揺れるかも
しれない。

そこで
大事なのは、

その揺れ
に、
ちゃんと
自分を委ねること
だ。

揺れちゃいけない
などという
ことはない。

しっかり
揺れること。

慌てふためけば
いい。

それを完全に
やり切ること。

やり切れば、
自分の奥から

真の自分が

浮上する。

真本音
がね。

そうしたら、
この
入れ替わり

対して、

自分は
何を変えるか?

もしくは
何も変えなくても
よいのか?

などの
答えが瞬時に
わかる。

それが
根拠のない
答えだったと
しても、

それをまずは
自分自身が
信じよう。

そして
根拠がなくても
その方向へ、

動いてみて
ほしい。

入れ替わり、
って何?

と訊かれそう
だけど、
それは
体験すれば
すぐにわかるよ。

非常に大きな
変化だ。

きっとこれから
入れ替わりは
どんどん
頻出する。

私達はまだ
これに
誰一人として
慣れていないが、

自分を
慣らしていかねば
ならない。

これくらいの
こと
これから
いくらでもあるさ!

と、
自分を励まし、

しっかり
向き合おう。

つづく

ここからの進み方

闇に包まれて
何も
見えなくなっても

ここからは
もう

焦る必要は
ない。

何も
見えないの
なら、

待てば
いい。

無闇に
動き回らない
こと。

待てば
ちゃんと
出口は
観えるように
なる。

観えてから
動くこと。

観えれば
すぐに
動けるよ。

・・・・・・

待てど暮らせど
来ないものが

この
世の中には

多くある。

しかし
それでも
待つこと。

時間切れに
なることは
もう、ない。

たとえ
ギリギリ
だったにせよ、

それは
必ず、
現れる。

・・・・・・

表面は
荒れても

根本は
どんどん
健康になっている。

現象は
荒れても

実在は
より
安定してくる。

これが
今の世の中の
状態。

自分の道を
間違わず
進もうとする人は、

待てば
いい。

観えれば
進む。

観えなければ
待つ。

この
シンプルな
在り方、

進み方。

その代わり、
観えた瞬間に
躊躇しない
こと。

こう動こう!
という
衝動に
身を委ねれば
いい。

力を入れる
ことはない。

ただ流れに
身を任す
だけだ。

つづく

これからが私達の本領

目まぐるしく
移り変わる
天気のように、

今年の「現実」
は、
移り変わって
いくだろう。

しかしそれは
今年に限った
ことではなく、

来年以降も
ずっと。

年々、激しさを
増し続ける
だろう。

私達は
そうした時代に
生まれてきた。

その事実を
嫌が上でも
体感することに
なる。

でも
これもいつも
言うことだが、

全て承知で
私達は
ここにいる。

ようやく
私達の
本領発揮の時代
となる
わけだ。

・・・・・・

どれだけ
現実=現象の
移り変わりが
あっても、

根底はずっと
安定している。

根底の安定を
感じ続けられる
人ほど、
間違いなく
道を進めるだろう。

そして
根底の安定を
感じられる人
とは、

自分自身の
根底の安定を
常日頃から
感じ続けられる
人だ。

つまりは
真本音で
生きている人。

真本音で生きる人
は、
自分の表面の
不安定、

つまりは
反応本音の不安定
を、

そのままに
しておける。

心の表面が
どれだけ激しく
揺れ動いても、

それは
それ。

そのままで
いい。

・・・となれる。

そして
心の状態によらずに
常にどこか
安定しながら、

今日すべきことを
ちゃんと
今日やる
ことができる。

そういう人は
世の中全体の
不安定を
前にしても、

しっかり自分の
道を
歩き続けられる
わけだ。

やはり全ては
自分事。

自分の生き様
が、
あらゆることの
基本となる。

・・・・・・

人生は
短い。

自分一人で
やれることは
限られている。

だから
躊躇している
暇はない。

やろうと
思うことは
全てやる。

これまでも
そうしてきたが、

さらに
加速させて
いく。

あるがままの
自分を

そのまま

出して
いく。

つづく

真本音の睡眠

ゆっくり
目を覚まし、

全身
伸びをし、

起き上がる。

朝の空気を
感じながら。

ほとんど
寝ていないが
関係ない。

私は今日も
すべて
リセットされている。

一日の始まり方
こそ
その一日を決める
もの。

そう気づいて
からは、

一日の始まり方
を良くするために、
一日の終わり方
を大切にするように
なった。

まずは、
自分自身が
真本音で

もう寝よう

と、思うまでは
寝ない。

私の場合だが、
時には
睡眠を2時間とか
1時間しか
とらないことが
ある。

それはもちろん
仕事が終わらない
ということも
あるのだが、

真本音が
寝させてくれない、
のだ。

長く寝れば良い
というものでは
ない。
あくまでも
私の場合は。

その日その日の
適正な
睡眠時間があり、

明日は
何時何分に
起きたいか?
というのがある。

それに合わせて
眠りに入る時間を
決める。

真本音で
決めているから、
最も良い眠りの
入り方と、

最も良い深さの
睡眠がとれる。

そして必然的に
目覚めが

最高

となる。

私の場合、
休日とか平日とか
関係ない。

いつも気持ちよく
一日が終わり、
気持ちよく
一日が始まる。

もちろん日々、
悲しいことや
辛いことは
ある。
生きていれば。

でも
その時の自分が
できる
最大の心地よさで

一日を終え
一日が始まる。

人間は
なぜ眠るか?

私はやはり
一日が、
一つの人生である
ように思う。

しっかりと、
今日という人生を
始め、
終える。

これを繰り返すことで
人生全体が
調和する。

自分を大事に
する、
一つの大きな要素は
ここにもある。

つづく

一つの祈りだ

直滑降、
急降下。

どこまで
落ちるか?

どこまで
堕ちるか?

中途半端は
ダメだ。

とことん
堕ちるところ
まで。

必ず
底は、ある。

底まで
行けば、
あとは
浮上するだけ。

そこまでは
堕ちることに
手を抜くもんか。

・・・・・・

実は、
底まで堕ちても、

もっと
堕ちたい


願ってしまう。

でももう
底、なのだ。

堕ちようにも
堕ちる術は
ない。

もう、ここが
底なのだ。

すぐに堕ちる
人は、
堕ちること
自体を
望んでいる。
本当は。

堕ちている
ことで
安心するから。

浮上をしたり、
幸せを
感じ始めると
とても不安に
なる。

この浮上は、
この幸せは、
すぐに
失われるのでは
ないか、と
思うから。

そしてその
不安に
耐えられなくなり、
自ら
堕ちていく。

その連続。

昔の私の
人生は、
まさにその
連続だった。

堕ちようにも
堕ちない
という
あの、底での
状態が、

私にとっては
不安定の
根源だった。

・・・・・・

しかし
堕ちては浮上し、
堕ちては浮上し、

繰り返している
うちに、

人生の時間は
どんどん
過ぎていく。

気がつけば
同じ場所で
同じことを
ずっとしている。

そのループから
抜け出さなければ
自分の人生の
願いは
絶対に叶わない。

生まれてきた
意味そのものが
失われる。

そう気づいても
なかなかその
ループからは
脱け出せ
なかった。

・・・・・・

私をその
ループから
救い出して
くれたのは、
一つ。

それは
「祈り」
だった。

私は必死に
祈った。

自分のことを、
ではない。

自分以外の
誰かの
ことを。

世の中の
ことを。

世界の
ことを。

そして、
目の前の
その人の
ことを。

私は、
一つの
祈りだ。

これが当時の
私の
口癖だった。

口癖と
言っても、
口には
出さず、

心の中で
これをずっと
呟き続けた。

あらゆる人、
あらゆる存在と
祈りながら
向き合った。

いや、
祈り、として
向き合った。

一つ一つの
日常生活の
振る舞いを
すべて
祈り、として
行なった。

これを
何年も続けて
ようやく
脱け出せた。

私は
私を
救った。

というよりも、
祈りが
私を
救ってくれた。

・・・・・・

今の世の中に
祈り、は
あるか?

ある。

むしろ、
増えている。

本人が
自覚せぬまま、
無意識に
ずっと心の奥で
祈り続けている
人たち。

私は、
そういった人を
敏感に察知する。

初めて
お会いした
瞬間に
わかる。

祈りが
私を救って
くれたから、

祈りで
自分を救おうと
している人の
ことは、

敏感に
わかるんだ。

口に
出さなくとも
いい。

密かに
呟けばいい。

ただ、

自分を救う、
イコール
人を救う、

そういった祈りが
もっと
世の中の隅々まで
行き渡れば
いいな、と
思うよ。

つづく