2024年 12月 の投稿一覧

真実は無限だ

どこかに
移動する感覚が
くる。

瞬時にして
大移動する。

時には
宇宙の彼方に
行ってしまう
くらいに。

その大移動した
先が
どこか?

ということ
よりも

その場所から
観える
「ここ」が問題だ。

もちろん
宇宙の彼方
だったとしても
「ここ」は
よく観える。

先程までとは
全く異なる
見方ができる。

さっきまで
こうしよう!

思っていたことが

真逆に
覆ることも
ある。

人の目線。

それはいつも
固定されて
いる。

一つの同じ場所
から見ていれば、
いつも同じ答え
しか出ない。

多数の場所から
見れば、
多数の答えが
発想される。

それは
迷いの始まりかも
しれないが、

この迷いを
経なければ
出ない答えが
ある。

私達の真本音は
無限とも言える
答えの中から
たった一つを
選び出す。

一見すると
最初から一つしか
答えはないように
思えても、

実は大概の場合、
答えは
無限にある。

無限から
一つを
選ぶ。

これが
真本音がいつも
していること。

だから
自分自身が
最も納得できる。

どう生きるか?

これから
何をするか?

今、
どう動くか?

無限の選択肢の
中に
私達はいる。

自由じゃない
と思っているなら、
そう思っているのは
自分の心
だけだ。

真実は
違う。

真本音は
真実を観る。
しっかりと。

そして
無限から
一つを
選ぶ。

私達は
無限の中に
いる。

それがわかれば
自由になれる。

自分を
縛っているのは
結局は
自分自身に
過ぎない。

つづく

極めて繊細なサポート

濁っている
感覚が
自分の中に
わずかでも
感じられたら、

私の場合、
とても
気持ちが悪い。

気持ちが悪い
と感じられる
こと自体が
健康であると
捉え、

気持ち悪さや
濁りの
原因を
すぐに探り出す。

少なくとも
わずかでも
濁った状態で
お客様と向き合う
ことだけは
ないようにする。

実は
私のお客様は
難易度が
高い。

それは
お客様自身が
難しい人だ、
ということでは
なく、

難しい進み方

選択される人(会社)
ばかりだからだ。

難しい進み方、
とは
その人(会社)の
現時点の器や
容量、限界値を
仮に100と
表現すると、

1000以上のことを
しようとする
人達だ。

ただしそれを
ご本人が自覚
されているとは
限らない。

自覚しながら
やっているなら
その時点でもう
大したものだ。

サポートは
最低限で済む。

しかし
自覚していない
からこそ
難易度が上がる。

その人の
真本音が望む
スピードが
凄いのだ。

そして
目指している
ものも。

もちろん
実在レベルで
観れば、

実在の自分が
望んでいる
通りに
進んでいるだけ
なのだから、

1000だろうが
10000だろうが、
それはその人(会社)の
等身大だ。

しかし
なかなかこの
現象の世界では
簡単にはいかない。

私達には
「心」があり、

「心」が
自分を縛ってしまう、
自分の
限界を「100」と
決めてしまう。

そしてその通りの
現実(現象)が
起こる。

その「心の枠」を
10倍以上に
一気に壊そうと
する。

それだけ
実在レベルの
パワーが大きい
ということだ。

そういう人を
私はあえて
選んで、
近づいていく
ことをしている。

だから
そういったお客様
ばかりになるのは
当たり前だし、
それが私の
悦びだ。

難易度が高まる
ということは、
その人達への
サポートはもちろん
かなり繊細なもの
になる。

たった一言も
間違えられない。

的確な強さの
的確な表現の
言葉を使って、
その人に
的確な大きさの
刺激を
的確なタイミングで
入れ続ける。

それを貫徹
するためには、

私自身には
1mmも
濁りがあっては
できない。

だから
徹底的に
自己管理をする。

毎日、
というよりも
1分1秒。

こうやって
書くと、

何ともまぁ、
大変なことだ、
とか
自分を縛り続けて
窮屈そうだ、
とか

そんなイメージに
受け取られる
かもしれないが、

逆なんだ。

私は、今、
完全に自由だ。

逆に言えば、
完全に自由
でなければ、
こんなことは
できはしない。

極めて
繊細なサポートを
必要とする
人(会社)と

私は
共に進んでいく。

私がずっと
望んできた
人生は、
今、ここにある。

そして
ここからこそ
この日々を、
深化
させていく。

つづく

がんばってきたあなたに

すべてから
自由になる、
とは
どういうこと
だろう?

手始めに、

すべての意図
から
自分自身を
自由にさせて
あげよう。

こうしなければ
ならない。

こんな結果を
出さねば
ならない。

そういった
ことから
一度、
自由になって
みよう。

こういうことを
言えば、
一歩間違えれば
現実逃避に
走ってしまうのが
人間、

ということは
わかっている。

私達はちゃんと
結果を
出さねば
ならない。

それももちろん
わかっている。

そういうことを
ひしひしと
わかった上で、

それでも
一度、
やってみてくれ。

責任感の
ある人、

自分の人生に
立ち向かって
いる人、

であれば、

意図からの
自由の

さらにその
先の世界を
体感できる
はずだ。

そのためにも
まずは、

意図を
手放す。

今だからこそ
もう
やってみても
良いと思う。

すべては
面白いように
調和を
始める。

それだけ
これまで
がんばって
来たじゃないか。

つづく

トゲトゲの私

光のように
見えて、

実は
固体だった。

カチカチの。

トゲトゲの。

しかしそいつは
光のエネルギーに
満ちていた。

ただ
あまりにトゲトゲ
なので
触れることは
できない。

触れた瞬間に
手に
穴が空くよ。

とても
巨大でもある。

扱いきれる
ものじゃない。

だから
好きなように
放っておく。

勝手に
そいつの
やりたいように
やってもらえれば
いい。

私の中心核の
話さ。

自分の中心核
なのに、
自分では
全くもって
制御できない。

正確に言えば、
制御できる自分に
なるように
ずっと
頑張ってきた。

制御できるように
なったことも
ある。

が、その度に
そいつは
私の制御を
必ず、超える。

必ず。

おかげで
セルフコーチング力は
高まったが、

どれだけその
力を
高めても、無駄だ。

最初から
わかっていたよ。

土台、
そいつの制御など
無理な話だ。

というわけで
やっと
「諦め」がついた。

最近のことだ。

57年近くも
足掻き続けたよ。

諦めるのに
57年近くも
かかってしまった。

まぁでも
ちょうどよい
タイミングだ。

ここからは
「諦め」の人生。

私はただ、
自分自身に
委ねるだけ。

これは
主体的、と
言えるのか?

わからない。

わからないが、
覚悟はもう
できている。

つづく

振り回されてもやってるよ

背中に
乗っかる重みが

より
ズシンと
重くなる。

最初から
覚悟している
ことだ。

この重みは
誰も
知らない。

それは
そうだ。

私の人生は
私のもの
だから。

人の人生を
肩代わりすることは
できない。

どれだけ
重くても、
自分の人生の
重みは
自分で背負う。

これが
私達だ。

・・・にしても
重い。

ギックリ腰に
なるんじゃないか?

そういった
心配をよそに、

重くなれば
なるほど、
私の細胞たちは
より加速しようと
する。

それも
正解、だと
知っている。

重いほどに
加速すれば
いい。

スピードが
上がるほどに
重さは
意味をなくす。

ごまかしている
わけではない。

それが
経済速度
なんだ。

適正速度
なんだ。

・・・・・・

私が
乗っかっている
ものを
振り回している
のか?

それとも
乗っかっている
ものが
私を
振り回している
のか?

途中から
よくわからなく
なった。

で、
どっちでも
よくなった。

振り回されて
いてもいい。

それでも
やることを
やるだけだ。

いつの間にか、
ゴールは
観えている。

ゴールに至る
道筋も
観えている。

それを
着実に、
重みを背負いながら
登っている。

決して
道は外さない。

この重みでは
道を外れた瞬間に
すっ転んで
全てが終わるだろう。

だからもう
道は外さない。

実在レベルでは
この調子で
行けばよさそうだ。

あとは
それらを
そのまま素直に
現象化する
だけだ。

ここから
徐々に
現象に比重を
傾けていこう。

次々に
ここで
現実を
創っていくよ。

つづく

リベンジ

大樹が
縦に割れて、
燃えている。

巨大な
火の柱が
暗闇を
明るく照らしている。

なぜ、
割れた?

あれだけの
大樹が。

なぜ、
燃えた?

命が
尽きるように。

私はただ、
呆然と
眺めている
だけだが。

すでに
できることは
ないのか。

それでも
ただ
祈っている。

燃えること
自体は
悪いわけでは
ない。

火とは、
生命力の
証でもある。

あれだけの
炎が
次の何かの
誕生につながる
こともあるだろう。

ただ問題は、
割れ方
だ。

あの割れ方
には、
潔さが、ない。

迷いながら、
割れてしまった、
という
気配が濃厚なのだ。

あれだけの
大樹が
なぜ
迷いながら
割れる?

この影響は
測り知れない。

私の呆然の
理由は
ここにある。

・・・・・・

海の向こうに
霞がかり
わずかに観えていた

塔のような
島。

小さな
島。

あそこを
いつかは
目指そうと
やってきた。

もう一歩で
準備が
できたのに。

一旦、
すべてが
ご破算になって
しまった。

私は
膝から崩れ、
もう
永遠に
立ち直れないと
思った。
その時は
本当に。

あれから
もうすぐ
8年になる。

よく
立ち直ったよ。

あの大樹は
もう
完全に
燃え尽くし、

なくなって
しまった。

そして今、
あそこまでは
大きくは
ないけれど、

新たな
大樹が
立っている。

今度は
行けそうか?

今度は
行けそうだ。

つづく

死、について

生きる、
ということを
真剣に
考え始めたのは、

私の場合、
小学4年生の
頃だったかな。

学校から
帰る途中で
一人で歩いて
いたら、

今でも
ありありと
思い出すよ、

ふと、

死の恐怖が
襲ってきたんだ。

そして
当たり前の現実

向き合うことに
なった。

僕はいつか
必ず、死ぬ。

・・・と。

途端に
足がすくんで
動けなくなった。

道端の
ちょっとした林を
見つめていたら、
急に
そうなった。

その林の様相が
今もありありと
蘇る。

いつかは
必ず
死ぬ。

その
リアリティが
私を硬直させた。

今になって
みれば、
よくわかる。

もちろんそれは
無意識では
あるが、
私はその時から
ずっと
「死」と
向かい合ってきた。

それは
私の人生に
プラスだったのか
マイナスだったのか
わからない。

私はすぐに
諦める少年と
なった。

誰かと闘うことから
いつも逃れた。

スポーツを
やっても
個人競技で
自分が勝ちそうに
なると、
相手が可哀想に
なって、
わざと負けた。

いや、
当時は
わざと負けようと
していたわけでは
ない。

でも今はよく
わかる。

私は常に
わざと負けていた。

基本、
自分のことなど
どうでもいい、
という
虚無感があった。

よくそれで
生きてこれたと
思う。

高校の時には、
私は
全人類で
自分が最も
劣った人間であると

完全に
思い込んでいた。

それが
確固たる信念として
自分の中に
確立した。

今となっては
ありありと
それが観えてくる。

あれはあれで
必要だったのだ、
とは
安易に結論は
つけないでおこう。

今も私は
常に
「死」と
向かい合っている。

人はなぜ
「死」を恐怖
するのか?

その恐怖に
意味は
あるのか?

「死」の先には
何があるのか?

それらの
問いに対して
今の私は
明確な答えを
言える。

だが、
それは
本当の答え
なのか?

という
問いは
絶対になくさない
でおこうと
決めている。

つづく

至福に向かう感性とは

ここ、
にいる
という感覚が

どんどん
研ぎ澄まされると、

実は
ここにはいない
という
感覚も芽生えてくる。

どちらが
正しい、
ではない。

どちらも
大事にするといい。

唯一いけない
のは、

ここにいる
感覚がないままで
ここにいない
感覚のみを
育てること。

それは
妄想の人生
への
第一歩となる。

想像力、

伸ばすことは
大切であるが、

そして
想像力は
人間にとって
創造力の源と
なるが、

それが
妄想方向であっては
ならない。
すべて、自我の
満足のみに
向かうことになる。

ここ、
の感覚を
味わう。

自分の
存在感を
ヒシヒシと。

自分の体に
意識を向ける。

細胞の一つ一つ
にしっかりと。

この世界は
現象だが、

現象という
現実の
一つ一つを
大切にすること。

現象だから
と言って
蔑ろにしては
ならない。

現象を愛する
ものこそが
結果的に
実在を愛することが
できるように
なる。

つまりは、
現象を大切に
することで、

今ここに
いる、

という感覚が
育ち、

その先に、
実在が
観えてくる、
感じられてくる。

すると
本当は
ここにはいない
という
感覚が育つ。

両方の感覚を
大切にする
ことはイコール、

実在と現象
両方を
大切にするという
こと。

それができる
ことで、
実在と現象は
一気に
繋がり始める。

人としての
至福の人生の
始まりだ。

つづく

問いは怖い

自分の中に、
特別な問いが
できることがある。

問いであり
メッセージで
あるもの。

ただし
それと向き合う
のは、
それなりの
勇気が要る。

なぜなら
その問いが
きっかけで、
大きく現実に
変化が起こるから。

もっと言えば、
自分は何かを
手放したり
壊したり、

一見すると
自分にとって
とても痛い
ことを
する始まりと
なるから。

そういった
特別な問いが
浮上する直前の
独特の感覚。

この感覚が
起こるだけで、

きたか〜〜!

と、なる。

しかし
向き合わない
わけには行かず、

もうその時点で
ある一定の
覚悟を私は
持つことになる。

で、
そういったプロセス
自体に
意味があり、

問いが明確に
なる瞬間には
すでに、

全てを
受け止める
覚悟は
できている。

だからこそ、
問いが
わかった瞬間に、

答えも
わかり、

次の瞬間には
もう
行動を
起こしている。

問いは、
怖い。

問いは、
本当に
怖いんだよ。

でも
それに
立ち向かうから
こそ、

人生は
開いていく。

自分の中の
問いと
向き合うことこそ、

自分の人生と
向き合う
最初の一歩だ。

つづく

企業の放つエネルギー

やはりか・・・、

空を見上げる。

よく
晴れている。

これから
夕暮れだ。

雲一つ
見えない。

ある
地方の街。

寒い。

静か。

しかし
感じる。

この地域
全体に
力が漲って
来ていると。

ある一つの
企業の
行ないが、

その地域
全体の
エネルギーと
なっている。

エネルギーを
与えている
わけではない。

もともとある
エネルギーだ。

もともと
あるのだが、
眠っていた。

そこに
刺激が入った。

この地域の
持ち合わせて
いた
過剰なまでの
エネルギーが、

今、
メリメリと
表出しようと
している。

この世の中
は、
カタチにするには
何かと
時間がかかる。

しかし
実在の
エネルギーレベル
では、

いろんなことが
瞬時に
起こる。

あとはそれを
素直に
現象化することだ。

そここそが
難しいのでも
あるが、

私はそれを
「経営」
と呼んでいる。

ここに
通い始めて
1年半。

ここからが
本番だな。

つづく

妄想じゃないかと思ったが

最初は
幻聴とか妄想かと
思ったんだ。

だから
必ず、確認を
とるようにしていた。

明らかに
訴えてくる
その声。

人によっては
これを
霊感というかも
しれない。

しかしきっと
霊感とも
根本的に異なるもの
だという
確信はあるんだ。

やはり
最もピッタリ
くる表現は、
「実在」。

ここに確かに
実在するもの。

でもまだ
現象化できて
いないもの。

映し出される
前の
映画のフィルムの
ような。

しかしその
フィルムには
すでに
現象化するための
あらゆるものが、

準備が

詰まっている。

映し出された
映像を
見る前に、

フィルムの方を
チェックする。

しかし
それがこちらの
妄想であっては
ならないので、

実在だとか
現象だとか
そういった話は
一切せずに、

ただ普通に
それとなく
本人に確認を
する。

するとほぼ
間違いなく、
私の受け取った
ものと、
本人から出される
言葉は
一致した。

いや、
正確には
一致しないことも
あったが、

一致しないから
間違いだった、

安易に決めつけ
過ぎずに、

その後、
その人の振る舞いを
ずっと見守っていると、

結局は
最初に受け取った
通りに、

すべては
進行した。

もちろん
予知能力とも
違う。

未来予測など
できないし、

したくもない。

ただ、
実在として
受け取る
その人のものと、

現在のその人の
言動の
ギャップは
わかるようになった。

そのギャップを
埋めるような
後押しやサポートを
させていただくと、

必ずその人は
元気になったし、
明らかに
その人らしく
なった。

こういった
サポートの仕方を
させていただいて
もう、
15年近くなる。

この15年の
私のサポートを
一言で表現すれば、

「実在と現象の一致」

だ。

これ以外は
していない。

しかしこれさえ
できれば、
すべては調和し、

すべては
進化を始める。

面白いことに
これは、
ビジネスの場でこそ
顕著に
成果が現れた。

組織ほど、
顕著に
成果が現れた。

15年経ったと
言ったが、

このサポートの
探究は
まだ始まった
ばかりだ。

サポート手段も
まだこれから
無限に
増えるはずだ。

共に探究
してくれる
仲間もできた。

このサポート法
を、
私は次世代に
受け継いで
もらいたい。

物事は
シンプルだ。

実在と現象を
一致させる

これだけ
なのだ。

これさえ
すれば、

すべては
しっかり
決めた通りに
流れていく。

そんな世の中に
私はしたい。

つづく

上手くいかぬことばかり?

流れを
観ていると、

表面上の
混乱達が

実は大いに
意味のある
一つ一つ
だと

改めて
わかる。

物事が
思ったように
進まない、

という
現実が続くと、
ついつい不安に
なるが、

現実は
表面だけを
見つめていては
ならない。

本質と
表面と
両方を観る。

特にその
繋がりを
観る。

その視点を
持ち続ければ、

一見すると、
上手くいかない
という判断に
なりがちなことが、

全くもって
単一的な見方
だったことが
わかる。

第一、
この混乱の
世の中だ。

上手くいく、
ことばかり
続くわけが
ない。

本当は
ここで
何が
起きているのだろう?

この問いを
持ち続ける
だけでも
違う。

この問いの
答えは、
頭で考えては
ならない。

現れている
現実を
しっかり
観察することで

直観的に
わかるもの。

そういった
感受性を
もっと
養うべきだろう。

さて、

以上の基本を
よく理解した
上で、

私達は
堂々と
目標を持とう。

真本音の
目標を。

そして
まっすぐに
進もう。

目標を持ち
そこに向かう
だけで、
様々な混乱は
発生する。

当たり前の
こと。

しかし混乱の
大半は、

結果的に
まっすぐに
進むために

必要不可欠な
ものたちだ。

つづく

本能的に生きる

そりゃ、
エネルギーが
高まれば、

混乱も
起こるさ。

エネルギーを
持て余す
からね。

でも
それくらいの
方が
面白いじゃない。

ずっと
安定しながら
進むよりも。

我々人間は、
冒険が
好きなんだ。

混乱が
好きなんだ。

本当は。

進むための
混乱であれば、
本当は
自分から進んで
そこに
突っ込みたいのだ。

その本能を
喚起させる
ことだね。

人は
本当の意味で、

本能的

になれば、
前に進む。
勝手に。

他者が
人を変えよう
など、
おこがましい。

それよりも
本人の
本能に
任せることさ。

本能と本能は
ぶつかると
思ってるだろ?

確かに
ぶつかるよ。

混乱が
起こるよ。

でもさらに
徹底的に
本能的に進めば、

すべてが
調和し始める。

なぜなら
調和とは
イコール、
進化、だから。

混乱に自ら
飛び込んで行く
ような、
開き直りに近い
本能が
出ることで、

すべては
調和する。

私達は
思っているより、
まっすぐに
進めるんだよ。

つづく

組織サポートの根幹

ドーナツ型
だ。

真ん中が
空洞に
なっている。

周りに
エネルギーが
満ちている。

エネルギーは
黄色に
輝いているので、
良い感じだ。

ただ、
真ん中が
空洞。

これは
どうしたこと
だろう?

真ん中に
意識を向けると
文字通り
何もない、感じだ。

何もない・・・。

いや、
本当はここに
あるべきものが
ない、のだ。

何がない?

ここに本来
あるべきもの
とは?

一人の顔が
浮かぶ。

あぁそうか、
あの人だ。

あの人が
いない。

それは、
役職のない
ある社員さんの
顔。

そうか、
あの人こそ
この組織の
中心たるべき
存在なんだ。

役職も経験も
ない人だが。

しかし
チームや組織の
中心に
誰がいるべきか?
ということに
役職や経験は
関係ない。

本当は
中心にいるべき人
こそ、
役職をつけるべき
だろうが、

そのように
上手く一致している
組織は
ほとんどない。

こういう場合は
形からは
入れない。

組織の形を
すぐに崩すのは
一般的には
難しいから。

だから
本質から
変えていく。

その人に
中心としての
意識を
持ってもらう。

そのために、
どう働きかけるか?

真本音で
「私はここの
中心である」

決めている人は、

一つのきっかけで
発想も行動も
自然に「中心」と
なっていく。

が、
そのきっかけは
慎重に
創り出す必要が
ある。

さて、
どうするか?

・・・とね、
こんなことばかりを
私はいつも
している。

組織サポートの
根幹だ。

つづく

今、超重要な問い

ここに、
問いがある。

これまた
私達にとって

超重要な
問いだ。

・・・・・・

明日が
来る前に、

何が何でも
準備しておくべき
ことは?

・・・・・・

そして
もう一つ、

・・・・・・

明日、
まず最初に
必ずすべきことは?

・・・・・・

さぁ、
これを
3日連続で
続けよう。

とてつもなく
重要な
展開のために。

つづく

真の決断とは

物事を
完全に決める、

もしくは、

自分なりに
しっかり断定する、

ことは
大切だが、

決めつけ、
はいけない。

決断や
断定とは、

本来は、

あぁそうなんだ、
私は
こんなにも
決めているんだ!

私は
こんなにも
断定してるんだ!

と、
むしろ自分自身が
一番驚くくらいの
もの、

それこそが
本当の決断であり
断定だ。

なぜなら
それは、
真本音だから。

真本音
とは、

自分が
頭の理解や
理由づけなどによって
物事を決める

ということは
しない。

それは

最初から
決まっているもの

だ。

つまりは、

真実であり、

真理であり、

摂理とも
言える。

それくらい
事実として
ここにある
答え、だ。

だから
誰よりもまずは
自分自身が
びっくりする。

そういった
決断や断定と、

決めつけ、

対局にある。

決めつけは、
決めつけだ。

自分の視野の
狭さによる
単なる思い込み
である。

それは
本人が思っている
以上に
実は、弱い。

何かあれば
すぐに
ひっくり返る
ものだ。

これは
こうに違いない、

自信を持って
思うことは、

決めつけである
可能性が
高い。

全部とは
言わないが。

気をつけた
方がいい。

決めつけで
進むのでは
なく、

あくまでも
真本音の決断を

私達は
大切にしよう。

つづく

すぐ揺れる?

ガッシリと
根を張ったように
立っている。

あぁ、あの人は
揺るがない。

幹は太く、
まっすぐだ。

あの人は
揺るがない。

だけど、
枝が風に
揺れている。

枝の先の
細い部分が
踊るように
揺れている。

大樹のような
その人は、
こう言った。

「私はいつも
揺れ揺れ
なんです。
自分にどうしても
自信を持てません」

・・・よくあること。

根も幹も
しっかりしている
人ほど、

表面上の
小さな心の揺れに
敏感だ。

それは、
敏感になっても
大丈夫だから
敏感なのである。

ちょっとした
擦り傷を
「痛い!痛い!」

痛がる。

それは
健康の証。

それだけ
敏感な自分で
いられるのだ。

敏感だから、
揺れるから、
自分は弱い、
自分は小さい、

思うなかれ。

小さなことも
感じとり、
しっかり揺れる
のは

大きさの証だ。

かと言って、
自信など
持つ必要もない。

「自信がない」
で、
いいよ。
そのままで。

ただ、
やるべきことのみ
ちゃんと
やろう。

今日やることは
今日やる。

明日やることは
明日やる。

揺れようが、
自信がなかろうが、

やる。

それだけ
だね。

痛がりながら
進むのは
実に人間らしい。

人間を
味わっている
ということだね。

そのままで
いい。

つづく

感性の研ぎ澄ませ方

常に
自分の意識を

四方八方に
向け続ける

練習をしよう。

四方八方
に、
世界全体を
感じるように。

一日の
できるだけ長い時間
それを続ければ、

感性が
ぐんぐんと
研ぎ澄まされてくる。

直観が
よく働くように
なる。

そして何より、
自分の視座や
視点が
より、豊かになる。

一つの物事を
一つの方向からしか
見ないから、

私達は
迷う、

360度、
ありとあらゆる
方向から
それを見る。

観る。

すると全く
異なる景色が
展開し、

全く異なる
発想が
生まれるだろう。

もしこれに
慣れてきたら、

さらには
「時間軸」についても
同様のことを
してみよう。

過去、今、未来
という
時間軸に
私達は、いる。

今、という
この瞬間のみ
ならず、

過去にも
未来にも
ずっと
意識を向け続けて
みよう。

これまた
面白い発想が
浮かんでくる。

自分の内側で
思考のみを
するのも
時には良いが、

思考の世界から
自分自身を
外に出してあげて
ほしい。

特に
人生の大切な
分岐点に
あるときは、

思考だけで
答えを出すのは
実に
勿体無いことだよ。

つづく

物事がスムーズに進む、とは

物事が
スムーズに進む、
というのは、

波風が全くなく
ずっと平穏に進む
ことではない。

物事が
スムーズに進む、
というのは、

起こるべき混乱が
起こるべき
最善のタイミングで
起こり、
しっかりその一つ一つを
乗り越えて行けている
という状態だ。

つまり
無駄な混乱が
ない。

必要不可欠な混乱
のみが起こる。

しかも
絶妙のタイミングで、

ということだ。

それは
そうだろう、

混乱がない
という状態は、
単なる惰性、
もしくは、衰退の
象徴的現象だから。

何をどうやっても
混乱は起こる。

起こらないと
おかしい。

それがこの
3次元世界の
宿命だ。

新たな進化、
深化、
調和のためには、

混乱が
不可欠。

いつも言っている
通り、

部屋の大掃除を
しようとすれば、
一時的に
部屋が混乱するのと
同様だ。

混乱のない
進み方とは、

何かを
誤魔化しているか、
何かを
後回しにしているか、

どちらかだ。

私達は
混乱の世の中に
生まれてきて、
混乱の中で
生きている、

決めている
私達だ。

とは言え、
自ら意図的に
混乱を起こすのも
良くない。

意図が入れば、
その混乱は
淀む。

私達が日々、
すべきは、

混乱が起きる
とか
起きない
とか

そんなことは
関係なく、

今日
やるべきことを
やる。

・・・という
だけのことだ。

しっかり
やるべきことを
やっていたら、

必然的な混乱が
ちゃんと起こる。

それこそが
脱皮の
チャンス到来だ。

私達は
混乱と共に
生きる。

混乱は
私達の
パートナーだ。

つづく

真のパートナーとは

一人では
できないことが、

二人では
できる。

・・・こんな
ことは
とても多い。

まずは
自分の

パートナー


見つけることだ。

真のパートナー。

・・・実在レベルで
結びつきの
ある。

すると当然で
あるが、

1+1=2
ではない。

それどころか
真のパートナーと
共に進めば、

1+1が
数百にも数千にも
なる。

さらに、
真のパートナーと
共に進めば、

次には
6人組ができる。

つまり、
二人ずつペアの
3組だ。

もちろん
6人でなければ
ならない、
ということでは
ない。

が、
6人というのは
実在レベルではまた
非常に大きな
シナジーを起こす。

数百、数千
だったものが、
それこそ無限大に
広がっていく。

そのため私は、
安易に
仲間を増やしたり
組織を広げたり
することを
あえて避けてきた。

真のパートナーと
真の仲間と
出会うために。

共に進む、
というのは
生易しいことでは
ない。

きっと
一人で進む方が
ずっと楽だろう。

しかしこれは
人生の
選択だ。

何のために
この人生を
送るのか?

自分の命を
どう使うのか?

それによる。

パートナー
探し、
仲間探し、
は、

妥協するな。

決して。

妥協しなければ、
必ず
出会えるよ。

つづく

今、必須の問い

一つの
問いに、

また
私達は
答えなければ
ならない。

自分なりの
最高の答えを

丁寧に
導き出そう。

・・・・・・

目の前に
迫ってきている
あの山を

越えるため
には

私は自分の
何を変える?

・・・・・・

丁寧に
スッキリした
答えが
見つかるまで、

妥協せずに

自分と
向かい合おう。

つづく

あれ、が来る

これまで
意識もしなかった
遠く。

彼方。

宇宙のずっと
奥、
向こう。

星と星の
間の暗闇。

そこに
スッと意識を
持ってかれた。

これまで
全く
意識していなかった。

その場所に、
意識を
持ってかれた。

最初はそこに
何か
蠢くような存在を
感じた。

最初は
気持ち悪いな、
という
印象だった。

が、
意識が接近
するにつれて、

その印象は
ガラリと
変わった。

そこには
「真実」が
あるな、と

思った。

実在の視点
で言えば、

この世界は、
すべて
「ここ」
にある。

距離や時間に
無限性を
感じるのは、
この3次元世界
のみ。

だから私は
いつも
「ここ」に
意識を向けていた。

それを
あえて
宇宙の彼方、
遠くの遠くの遠くの
場所に
意識を持って
行かれ、

そこで初めて
わかったのだ。

あえて
分離したままの
存在があるのだな、
と。

3次元の
「ここ」
には来ていない、

あえて
この世界から
分離をしたままで、

じっと遠くから
「ここ」を
見守る存在、
だ。

それは
神秘でも何でも
なく、

実在、
そのものだ。

その圧倒的な
存在感。

あのような
ものが、
この世界からは
離れたまま
だったのか・・・。

「ここ」が
不安定な理由が
わかった
気がするよ。

そして私は
このことを
ずっと以前から
知っていた。
本当は。

だから
「ここ」に来た。

あの彼方の存在は
なぜ
今になって
私を呼んだのか?

答えは
明瞭だ。

もうすぐ、
「ここ」に
来るからだ。

来ても良い
状態を、
私達はずっとずっと
整え続けてきた。

準備完了。

あとは
迎えるだけ。

・・・怖い話
ではないよ。

むしろこれで
ようやく
私達は
「普通」に戻れる。

大事な片割れが
いないまま
生きてきたような
ものだ。

片割れが
戻って、
ようやく健康体に
戻れる。

もうすぐだ。

しっかり
準備を
完了させておこう。

つづく

落ち着く環境とは

落ち着いて
物事を考える、

のに
最も適した
環境は
何だろうか?

答えは
その人その人で
異なるので、

自分にとっての
最善の答えを
しっかりと見つける
といい。

私にとっての
ベストは、
新幹線。笑

これは
別格。
次元が違う。

もし新幹線を
除くとすれば、

私にとって
重要な要素は

椅子

となる。

つまりは
座り心地の良い
椅子だ。

そのため
私の書斎の椅子は
座り心地を優先して
決めたものだ。

逆に言えば、
椅子さえ良ければ、
あとは
どんな場所でも
良いかもしれない。

街中にある
いわゆるチェーン店の
カフェなども
よく行く。

雑踏とか
人の話し声とか、

そういうのは
私は
気にならない、

どころか
むしろ
騒がしいくらいの
方が
集中できる。

静かに仕事を
したいときは
書斎で。

あえて
雑踏の中で
集中したい時は
カフェに行く。

ただしいずれも
椅子の居心地の
良いことが
条件だ。

とはいえ
特別な椅子が
必要というわけでも
ない。

普通に
シュッと
座ることができれば
それでいい。

あとは
いつでも自由に
私は
思考に集中できる。

もっと正確に
言えば、

実在を感じ取る
ことに
集中できる。

皆さんは
どうだろう?

良い集中の
ために、

何が必須
だろう?

「最低限」の
ものを
ちゃんと自分で
把握しておくことは
とても大事だ。

つづく

あなたの永遠の問い

あなたの
中の問い。

それを
見つけるのが
私の役目
でもある。

人にずっと
存在し続ける
問い。

その人に
とっては
永遠の問い
であり、

今、
の問い
でもある。

でもこれが
なかなか
浮上しないんだ。

日々を
真っ当に
生き続けなければ。

今のあなた
なら、
もうそれが
できている。

そろそろ
だろう。

あなたの
問いは
どこにある?

あなたの
最も
奥深い場所を、
まずは
探そう。

そしてそこに
意識を
向け続けよう。

その場所に
向かって
問い続けるんだ。

・・・

私のこの場所
には、

どんな問いが
眠っているだろう?

・・・

目を覚ませ、
永遠の
問いよ。

つづく

全てをかける時

さぁ、今から
頭をもたげるよ。

あえて
じっと
下を向き、
しかも
目も瞑って
きた。

目の前に
展開する
何ものをも

見ないように
してきた。

それも
これも

この一瞬を
大切にしたいから。

最大の
瞬発力を
発揮させたいから。

目を開けた
その瞬間の、

私自身の
素直な反応に

全てを
かけている。

そこに
余分なものは
なく、

不純物がゼロ
の状態での
反応。

ただそれだけを
求め、
自分を整えて
きた。

最初の
一瞬で
全てが
決まる。

さぁ、
頭を上げて
目を開けよう。

全ては
この時の
ために。

これまでの
人生と
ここからの
人生の
全てが
ここ、で
決まる。

つづく

大地視点の発想

前を見たり、

上から
俯瞰したり、

するだけで
なく、

たまには
下から
見上げるのも
いい。

自分が
大地になった
つもりで。

大地の
目線で、
今、ここで起きている
出来事を
見つめてみると、

どう
観える?

どう
印象が変わる?

何が
足りない?

何が
足りてる?

本当は、
もっと
大切にすべきことが
あるのではない?

本当は、
もっと
伝えたいことが
あるのでは?

共に
答えを出さねば
ならぬことが、

今ここ
だからこそ

あるのでは?

大地は、
大地だから、

すべての
土台だから、

よくわかるよ。

よく
見てるんだよ。

大地に
なってみると
わかるよ。

つづく

これは快楽だ

それはきっと
快楽、

表現しても
よいくらいの
感覚だ。

自分の本質
から
新たな形が
生まれる
その瞬間。

もしくは、

生まれよう
とする
兆候を感じる
瞬間。

それは、
産みの苦しみ
の後に
くる。

だから
しっかり
苦しまなければ
ならない。

大概、
その苦しみから
途中で
逃げてしまったり、

苦しみを
他の何かで
紛らわせたり
するので、

本当の形にまで
達しない。

するとその
独特の
快楽的感覚は
得られない。

もちろん
この感覚は、

自分一人だけで
得られる
わけではない。

むしろ、
人との協力、
協業、協調の中で
こそ、
生まれやすい
かもしれない。

そうだな。

これを
仲間と共に
得られることこそ、

人にとっての
至福なのかも
しれない。

特別なこと
じゃない。

むしろ
すべての人が
日常生活において
これをする
ために、

この感覚を
得るために

生きているのでは
ないか。

人間の本能の
深いところに
あるもの。

それを
ダイレクトに
感じられるその
感覚。

やっぱこれは
快楽だな。

つづく

素の自分を出すべきだ

1ヶ月前と
比べて、

今の自分の
巨大さは、
どう?

本質的な
巨大さ、
実在の
巨大さ、
のことだよ。

もし、

随分と
巨大になって
いるな、と

感覚的に
思えば、

きっと
そうだと思うよ。

であれば、
自分の巨大さを
活かそう。

巨大化を
続ける
その成長エネルギーを
活かそう。

こういう人は、
自分を
卑下することは
絶対に
やめた方がいい。

妙に
謙虚になったり
謙遜したり、

遠慮したり、

もダメ。

自分の意見が
あれば、
それをできるだけ
はっきり
くっきり
ダイレクトに
表明しよう。

周りくどい
言い方は
いけない。

わかりやすく
そのまま、に。

巨大化を
続ける者だけが
持つ、
独特の空気感が

調和を促して
くれる。

マウントを
とるためじゃ
ない。

調和のため
にも、
はっきり
表明するんだ。

濁りなく、

素直に、

素の自分を
出すんだよ。

つづく

壊すためにできる唯一のこと

腰が重く、
ドッと
倒れそうになる。

いかん。

ここで
倒れては。

と、
踏ん張る。

あまりに
キツいぞ、

この人は。

この人の
生き方は。

これで
立っていられる
のだから、
逆に
大したものだが、

もうしかし
限界だろう。

壊さねば。

この人の
生き方を。

・・・・・・

もちろん、
他人の生き方を
壊すことなど
できない。

壊せるのは
その人自身のみ。

それは
わかっていても、
それでも
やらねばならない
ことがある。

そんな時は

内側から

壊すしかない。

・・・・・・

その人の
真本音への
アプローチ。

真本音が
表面化するきっかけ
となる
言葉の数々を、

一つ一つ
慎重に
投げかける。

一つの言葉
による
波紋を
丁寧に確認
しながら。

・・・・・・

時間は
かかるかも
しれない。

時には
何ヶ月も。

しかし
ある瞬間に
その人の真本音は

浮上

を始める。

内側から
言いようのない
エネルギーと共に、

言いようのない
不安定が
その人を襲う。

人の心は、

外側に対しては
ある程度の
強さがあるが、

内側には
弱い。

内側からの
働きかけ、

つまりはそれは
自分自身による
働きかけ、

自分の魂からの
働きかけだ、

そういった
内側からの
刺激には
滅法弱い。

その人の
頑なだった
心は崩れ、
壊れていく。

が、
安心すれば
いい。

さらにその奥から、
本当の心が、
魂が、
浮上する。

本来の
その人そのもの
だ。

・・・・・・

壊すには
この方法しか
ない。

ここまで
他者が介入して
良いのか?

という
問いは、

もう
10年前に
消えた。

私達全員の
命の問題だからだ。

つづく

一日の終わりの体験

一日を
静かに
振り返るとき、

その時
その瞬間には
体験できなかった
ことを

改めて
体験できることが
ある。

本当はそこで
気づいていた
のに、
その自覚が
ないこと。

これが
私達には
あり過ぎる。

過去は
振り返らない、

言う人がいるが、

そいつは
ダメだ。

自分の体験は
もっと
一つ一つ
大切にした方が
いい。

一日の終わり
には、
必ず、その一日を
もう一度、
体験し直すこと。

その上で、
「明日」のことを
しっかり
考えること。

それが
丁寧に生きる
基本。

特に
思い出したく
ないことほど、
本当は
しっかり体験
し直した方がいい。

なぜなら、

そういった
出来事ほど
自分の偏った見方しか
できていないから。

本当は
その出来事は
自分の人生の
宝となるかも
しれないのだ。

宝が
目の前にあるのに、
それを
自ら捨ててしまう。

そんなことは
しないようにね。

つづく