
清冽で順調な
川の流れが、
たった一つの
岩が
あることで、
澱んで
しまう。
そこで
流れに混乱が
起きてしまう。
あの岩が
なければ、
清冽で純粋な
ままの流れなのに。
あの岩さえ
なければ。
・・・と、
私達は
考えがちだ。
では、
あの岩を
どう取り除こうか?
・・・という
発想も
重要なことは
多い。
が、
物事はそう
単純でもない。
あの岩が
もしなくなっても、
きっと
他の場所で
別の原因によって
流れは
澱むだろう。
あの岩が
すべて悪いのだ!
と
思うことで
物事は簡単に
なるけれど、
実はそうでは
ないのだ。
この川の
根本的なところで
あの岩を
発生させる、
という
現象を起こさせて
いるだけのこと。
本当は。
だから
根本が変わらない
限り、
どれだけ表面的な
原因を
取り除いても、
同じ問題は
必ず起こる。
・・・・・・
岩のせいに
できれば、
楽だ。
何かの
誰かの
せいにできれば
それでいい。
そういう
観点から、
私達人類は
歴史を
創ってきたのでは
ないか。
表面は
変われど、
根本は
変わらず。
だから
いつまで経っても
この地球上では
混乱の種が
芽生え続ける。
自分以外の
誰かのせいに
している
場合ではない。
この地球という
世界を
創り出している
のは、
私達自身だ。
自分自身だ。
・・・・・・
そう
目を転じたとき、
これまで
清冽に
見えていた流れは
あまりに
表面的なこと
だったのだ、
と
わかる。
だが、
残念ながら
今でも
ほとんどの人が、
その
清冽さを
信じたがっている。
信じたがっている
のだけど、
どこかで
疑っている。
不信の
上の
信。
だから
流れは余計に
澱む。
・・・・・・
対岸の火事
など
本当は
一つもない。
全部、
自分のこと
だ。
自分の生き方
が、
たまたま
対岸の火事
となって
現象化している
だけのこと。
あの人の
痛みは
本当は
自分自身の
痛みなのに。
その真実から
私達は
いつまで
目を逸らし
続けるのだろう?
あの人を
蹴落とせば
自分が
浮上できる。
なんて時代は
とっくに
終わった。
というより、
そんな真実は
最初から
一つもなかった。
それを
ここから
まざまざと
体感することに
なるだろう。
私達は。
・・・・・・
すべての中心は
私である。
・・・という
ことを、
もうそろそろ
受け入れよう。
あの、
遠くの彼方で
起きていることは、
私の為したことに
よる。
・・・と。
かといって
自分を
責めるのではない。
責めても
何も生まれない。
私達に
できるのは、
自分の生き方を
変える、
ことだ。
つづく