漕ぐように進んできたが

LINEで送る
Pocket

昔、学生の頃、
三重県の
鈴鹿山脈の山々を
よく歩いた。

その多くは、
ザックに岩を詰めて
の錬成山行だったが、
それでも私は
山を
楽しんでいた。

鈴鹿山脈は
それほど高い山では
ないので、
稜線に出ても
自分の背丈以上に
ある笹が
ブッシュとなって
繁りに繁り、

その中を
体当たりするように、
必死になって
笹を漕ぎ分けながら
私達は進んだ。

いわゆる
ブッシュ漕ぎ
というやつだ。

それが大変に
体力を
奪われた。

2回目の錬成山行で
ザックの重さが
35kgとか40kgに
なるくらいに
岩を詰め、
延々と登り、
延々とブッシュ漕ぎを
した時は、

笹ブッシュが
ふと途切れた
場所が
崖になっていて、

その時は本当に
ここから
落ちて死んだ方が
どれだけ楽か、

本気で考えたものだ。

今はそんな
鈴鹿山脈を
電車から眺め
ながら、
毎月、お客様の
ところに
通っている。

ふと
思うのだ。

私の人生は
あの
笹ブッシュ漕ぎの
ようだったな、
と。

足元に
ルートはあるの
だけど、
笹がずっと
行手を阻む。

体当たりして
体当たりして
時には
我をも失いながら
進んで、

ようやく
数メートル、
という感じ。

努力の割に
成果は
小さく、

しかし
その本質的成果
を出すことを
最上のこととし、

見掛け倒しの
成果だけは
逆に
絶対に出しては
なるものか、
と、

そこだけは
こだわって
やってきた。

笹ブッシュが
あるならば、

そこを行くしか
ないならば、

堂々と
行こうではないか、
というのが
私の真本音の
進み方だった。

真本音で生きる
以前の私は
かなり
小賢しいところが
あったので、
こんなブッシュ漕ぎ
からは逃れて、
もっと楽な道を
通り、
それなりの充実感で
満足していたの
だろう。

でもそれでは
山頂には
辿り着けないのだ。

なぜ今、
こんなことを
書いているのかな?

思うのだが、

ふと、
わかったことが
ある。

恐らく、
長らくずっと
続けてきた
ブッシュ漕ぎが、

そろそろ
終わりそうなのだな、
と。

いや、
私の顕在意識としては、
これから
もっともっと濃い
笹の波々に
突入しようか、と
考えているのだが、

でもどうやら、
ブッシュ漕ぎは
終わりそうな
気配なのだ。

終わったら
その後、
どうなるのかな?

笹ブッシュのない
風の心地良い
美しい稜線を
景色を楽しみながら
歩くことが
できるのだろうか?

まぁ変な
期待はせず。

ただし、
もう既に
言いようのない
開放感は
感じ始めてはいる。

新たな歩みが
始まることは
確かだ。

楽しみだ、
というよりも
ちょっと
神妙な面持ちだ。

私はブッシュ漕ぎが
嫌いなわけでは
ない。

むしろ
充実感を覚える
から、
自ら望んでいた
とも言える。

それとはまた
違った充実感を、
ここからは
得られるのかな?

グングン
進めるといいな、

思う。

つづく

コメントを残す

*