初めて
この世に生まれた
瞬間を
我々は
覚えていない。
母親から
切り離される
その瞬間を。
一人の個
として
分離される
その瞬間を。
赤ん坊は
自分と他人の
区別が
ついていない。
自分と
自分以外との
区別が
ついていない。
しかし
個として
すべてから
分離された、
という
事実は
確かにあるのだ。
そして
その
「誕生」の瞬間、
我々は
すべての記憶を
失くす。
いったん
すべてが
リセットされる。
なぜなら
それが
人生の意味
だから。
分離の区別が
わからずに、
しかし
それでも
日々を重ねる
ことで
徐々に
分離の区別を
知っていく。
自分と
自分以外が
別物であることを
知っていく。
分別が
ついてくる。
それを一般には
「成長」
と言うが、
それは
本質的には
この世の次元に
合わせて
自分の次元を
落としている
ということ
だ。
すべてが
分離している
世界に入り、
その次元に
自分を
合わせながら、
いったん
すべてを
リセットする。
実はこれは
人にとって
最も過酷なことでは
ないか。
その「過酷さ」を
我々は
全員
体験してきた。
最大の
過酷さから
始まるのが
この世の
人生だ。
だから
我々には
それをくぐり抜けた
逞しさが
根底に
備わっている。
逆に言えば
その逞しさを
備えることが
できなければ、
この3次元の
世界の
過酷な人生は
生き続けられない
のだ。
これほど
調和のない
世界は他になく、
しかし
その中で
我々は
調和を生み出して
いく。
言わば、
戦士
のようなものだ。
一人ひとりが
戦い続けて
いる。
人生とは
戦いである。
その事実と
対峙せずして
我々は
自身の道を
開くことは
できない。
「逃げ」
からは
残念ながら
何も生まれない。
我々の
真本音は
それをよく
わかっている。
だから、
真本音で生きる
とは
やりたいこと
だけを
やればいい、
という
生き方とは
対極にある。
どのような
現実に対しても
真に
自分らしく
向き合い、
道を開く。
・・・それが
真本音で生きる
ということだ。
この過酷な
人生に
あえて
立ち向かう
理由が
我々にはあるんだ。
理由、
つまりは
願い、
が
あるんだよ。
どれだけ
記憶を
失くしてもね。
つづく