今回も「自律」について、さらに深掘りします。
(→前回記事)
「私は私なりに一生懸命やっています。」
企業サポートをしていますと、こういった言葉を
よく聞きます。
しかし残念ながら、この言葉も
依存している人の典型的なセリフです。
自律している人は決してこのようなセリフは
言いません。
「一生懸命」によく似た言葉で
「真剣」
という言葉があります。
この二つはよく似ていますが、
本質が異なることは、何となくニュアンスとして
わかりますね。
もちろん、どちらも大切なことです。
自律している人は真剣です。
しかし、依存している人は真剣ではありません。
その違いは何でしょうか?
私はよく以下のような喩え話を用います。
「一生懸命」とは、
竹刀で必死に練習しているイメージです。
竹刀をブンブンと振り回して、
自分の能力向上のために努力しています。
もしくは、竹刀と竹刀を使った試合のようなもの。
勝つために、一生懸命に試合に取り組みます。
一生懸命に練習する人とそうでない人。
一生懸命に試合する人とそうでない人。
その二人がいたら、もちろん
一生懸命な方が、能力も実力も上がっていきます。
試合に勝てる頻度も高まります。
ですので、「一生懸命」は大事なことです。
しかし自律した人から言わせれば、
「一生懸命なんて、当たり前でしょ」となります。
わざわざそんなことはアピールすることではない、と。
「真剣」とは、
文字通り、真剣(本物の刀)で立ち合いをしているイメージです。
つまりそれは、命のやりとりです。
真剣と真剣で立ち合う時、
そこではほんのわずかな隙も見せられません。
竹刀の場合であれば、
エイヤッで、思い切って竹刀を振り下ろせば
よいかもしれません。
一か八か、でもよいかもしれません。
その結果、試合に負けたとしても、
それはそれで悔しいですが、次があります。
真剣の立ち合いとは、次がありません。
負ける、イコール、命を落とす、ということです。
ですから、エイヤッというような、
ただの勢い任せの一太刀を出すわけには
いきません。
真剣の立ち合いに出る前には、
当然のごとく、最高の自分に仕上げなければなりません。
そうでなければ、命を落とす可能性が高まるからです。
立ち合いでは、自分の集中力のすべてを使って
相手に集中します。
相手の呼吸、相手の思考、相手の空気感、
相手のわずかな動き、・・・。
すべてに意識を向け、
本当に必要な動きのみを自分はします。
不必要な動きは、命取りです。
自分自身の呼吸を整え、
自分のすべてのエネルギーをその場に集中させ、
自分が本当に必要だと思う動きのみをとります。
そのため、力は抜きます。
本当にいざという瞬間に、すべてのパワーを
込めるために、
心も体も自然体で、力を抜いています。
そして、「ここぞ!」という瞬間を待ちます。
ここぞ!という瞬間に、ここぞ!という一太刀を
振り下ろします。
それが「真剣」です。
つまり、ある意味、結果がすべてです。
負ける=死ぬ、だからです。
そこには、言い訳も努力もありません。
勝つか負けるか。
それだけです。
私達の日常では、もちろんこのような命のやり取りは
稀です。
毎日、真剣による立ち合いをしているようでは、
神経が擦り減ってしまい、それこそ寿命が縮まります。
しかし、先ほども書きました通り、
真剣な人とは、普段は力を抜いています。
本当に「ここぞ」という時に力を発揮します。
なぜならそれは結果を出すためです。
「私は私なりに一生懸命やってます」
という言葉が、いかに真剣な人から見れば
「変な言葉」として映るのか、
その理由がここにあります。
人生に言い訳は必要ありません。
人生に弁解は必要ありません。
言い訳や弁解が出た時点で
依存です。
私達人間には、真本音があります。
真本音には、人生の願いが詰まっています。
自分はどんな人生を創り上げたいか?
自分は人生において、何を成し遂げたいか?
そのために自分のどのような個性を活かして、
どのような役割を担いながら、それを果たしたいか?
それは私達の真本音が決めています。
自分が決めた「願い」を
自分が実現する。
そこに真剣な人は、
今、自分が何をすればよいか?
今、自分は何をしてはならないか?
に対して、とても真剣です。
そして、今自分のすることのみを
真剣に行ないます。
今、自分のすべきことをしない、のは
とても気持ち悪くてしょうがありません。
今、自分がしてはならないことをする、のも
とても気持ち悪くてしょうがありません。
だから、気持ちの良いことをし続けます。
すべき時にします。
しない時には完全に力を抜きます。
なので、いつもどことなく
「ゆとり」があります。
肩の力を抜き、自然体です。
それは自分を完全にコントロールできている
状態です。
ですから、真剣な人とは自律した人なのです。
自律とは真剣なのです。
コーチという視点で、私が平井さんを見ていて
最も変化したと思うのは、
平井さんが、「余分な行動をまったくしなくなった」
ということです。
それは日常の些細な振る舞いにも現れました。
例えば、
余分な一言を彼はまったく言わなくなりました。
以前の彼は、相手を茶化すような冗談を
よく言っていました。
恐らくそれは、場の雰囲気を和ませるための
彼なりのコミュニケーション手段でした。
しかしその彼の冗談が、
信頼をなくす要因の一つになっていました。
もちろん、彼本人はそれを知りません。
それが、自然になくなりました。
私はよく、「真剣性」という言葉を使います。
彼の真剣性が高まることにより、
彼は、余分な一言がなくなりました。
余分な行動がなくなりました。
余分な仕事をしなくなりました。
余分な時間の使い方がなくなりました。
結果として、彼には時間ができました。
いつもどの社員よりも忙しそうだった彼が、
今は、誰よりも「ゆとり」があるように見えます。
ゆとりのある目線で、彼はすべてを観察します。
そして、ほんのわずかでも心に引っかかることを
発見すれば、最善のタイミングと方法で、
それに対応します。
そんな彼の立ち振る舞いを見ていますと、
あぁこれが真剣性が高まるということなのだな、
とわかります。
真剣性が高まるということは
自律性が高まるということです。
自律とは、真剣です。
そして真剣な人、自律した人は
一緒にいて、心が和みます。
こちらも幸せな気持ちになれますね。
自分の人生に対して真剣かどうか?
すべてはこれに尽きると、
私は思います。
つづく