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以前の受講生さんから
久しぶりに
ご連絡をいただいた。
最近のご様子を
教えてくださる
実に楽しいメールだった。
その中に
とても印象に残る
言葉が二つあった。
どうやら来年の
抱負のようだ。
一つは
「とりあえずはやってみたいことを
片っ端から徹底的に中途半端に
やってみる!」
もう一つは
「迷いを持たずに
迷走しまくる!」
・・・とても素敵な
豊富だと思わない?
一見、矛盾したことを
言っているように
思うでしょ。
でも、実は
そうじゃない。
私はこの人からは
真本音の道を
楽しく進む一貫性を
ヒシヒシと感じる。
自分の
中途半端さ。
自分の
迷走。
そういったものを
この人は
あるがままに
そのままに
受け止めている。
そしてそれが
「今の自分」であり、
そんな今の自分を
徹底的に生きる
ことで、
自らの人生の目的を
見つけようと
されている。
素敵だなぁ〜、
と
思ったね。
こういう人が
増えると、
面白い世の中に
なるだろうな。
つづく
あがくのが
人間だ。
あがきたいときは
あがけばいい。
一番いけないのは、
中途半端さ
だ。
本当は
あがきたいのに、
そんなことは
大人気ないし、
無駄である、
と
自分に言い聞かせ、
自分を
抑える。
抑えるのであれば
もっと
徹底的に
抑えればいいのに、
迷いながら
抑える。
だから
中途半端になる。
残念ながら
「中途半端」は
何も生まない。
良くも悪くも
徹底的に
何かに取り組めば、
必ずそこで
得られるものはある。
ゴツゴツと
ぶつかりながら
進めばいい。
と
私は思う。
何でも上手くやろう
と
し過ぎてないか?
それでは
結果的には
上手くいかないな。
上手くやろう
は
中途半端を生む。
ゴツゴツと
ぶつかりながら
進めばいい。
つづく
人の放つエネルギー
は、
中途半端だと
キツい。
それは
エネルギー
というよりも、
単なる「圧」のように
感じられる。
せっかくの
エネルギーが
「人を圧するため」に
作用してしまう。
そうなると
周りの人達は
必然的に
イエスマン
になる。
人を圧するエネルギー
は怖い。
そのエネルギーからは
誰もが
逃げたくなる。
離れたくなる。
気がついたら
周りに誰も
いなくなっていた。
・・・イケイケどんどん
の人の多くは
そのような結末に
なりやすい。
すべては
中途半端なエネルギー
の作用だ。
・・・・・・
中途半端なエネルギー
は、
中途半端な志
から来る。
その志は
残念ながら
本当の志ではない。
多くは、
志のふりをした
自己顕示
であったりする。
もしくは、
志のふりをした
承認欲求。
要するに、
自己愛の形。
自分が可愛く、
自分のために
「まわりのため」の
ふりをしている。
ちょいと
言い方がキツい
かな。
でもあえて
事実のみを言えば
そういうことだ。
かつての私も
そうだったので、
よ〜くわかる。
・・・・・・
真本音の志。
これはみんな
持っている。
たとえまだそれが
明確でなかったと
しても、
そこに気づき
そこに向かえば、
その人からは
本来のエネルギーが
放たれるように
なる。
本来のエネルギーは
最初はまだ
微弱かもしれない。
しかしそれは
「中途半端」
ではない。
中途半端とは、
量のことでは
ない。
エネルギーの
質のことだ。
純粋な
エネルギーかどうか?
だ。
本来のエネルギー、
純粋なエネルギーは
もちろん時には
それが明る過ぎて
一見すると
人を圧してしまうかも
しれないが、
それはあくまで
表面的なこと。
本来のエネルギーとは
愛そのものでも
ある。
それは
実在のレベルでは
人をあたたかく
包み込む。
そんなエネルギーを
放つ人と
向き合うと、
私は一瞬で
その人とつながる感覚を
得ることができる。
もちろん最初から
そういったエネルギーを
発している人は
稀だ。
しかし
ある時ある瞬間に
突然、
中途半端なエネルギー
が
本来のエネルギー
へと
変換される。
それは
予測できない場合が
多い。
突如として
変質するのだ。
もちろんその
理由の大本は
真本音で生きる
ことだ。
・・・・・・
私が、組織において
「要(かなめ)」
と呼ぶ人達は、
そういった
本来のエネルギーへの
変質が
起こりやすい人の
ことだ。
そういった人は
どの組織にも
必ずいる。
社長が
「いや、ウチには
いないよ、絶対」
と言われても、
これまでいなかった
試しがない。
そういった
「要」になる人を
見つけるのが
「コーチ」である私の
役割だ。
今日、
ある会社の
思わぬ人が
「要」として
浮上した。
急浮上。
それがとても
嬉しかった。
人は
変わるものだ。
つづく
子どもは
永遠に親の保護のもとに
いるわけではありません。
必ず
親から独り立ちする
瞬間が来ます。
親から離れる
時が来ます。
『子が育ちますように』
この祈りは
誰もの心の中に
いえ、
魂の中に必ず
存在するものです。
この祈りに基づいて
生まれるエネルギーと
そのエネルギーに基づいて
生まれるあらゆる行動や
振る舞いのことを
『慈しみ』
と言います。
これについては
実は
私達人間の「本能」の成立にとって
あまりにも重要なものですから、
改めて時間をとって
ゆっくり書かせていただく
つもりです。
慈しみには必ず、
独り立ち、巣立ち、離れ、
そして、別れ
といったものがセットで
ついて来ます。
きちんと別れるべき時に
別れること。
離れるべき時に
手放すこと。
それは
真の慈しみの行為に
他ありません。
あの人のことが嫌いになった、
だから別れる
という単なる感情による
別れとは
それは本質的に異なる
ということは
誰もがわかるでしょう。
感情的な別れ、とは
反応本音による別れ。
慈しみの結果としての別れ、
とは
真本音による別れ。
どちらも寂しく
悲しいものかもしれませんが、
真本音の別れには
根底に必ず不思議な
すがすがしさが
湛えられています。
真本音で生きるということは
別れるべき人と
次々に別れ、
出会うべき人と
次々に出会う
人生となります。
よく言われることですが、
何かを手放すことで
新たな何かが
入ってくるというのは
真実です。
この3次元の世界に
おいては。
つまり、
感情のまま、もしくは
情に流されたまま、
別れるべき人と別れないことで
出会うべき人と
出会えなくなります。
・・・
何でしょう?
こうしてこの文章を
書いていますと、
様々な人達のお顔が
浮かんで来ます。
ほとんどが私の
クライアントさんですが、
今、多くの人達が
人生を次のステージへと
転換されようと
しています。
先日、
ある人が私に
言われました。
「なんか、この同じ体を
持ったまま、
生まれ変わろうとしている
気分です」
と。
まさしく、
そんな感じ。
そんな状態の人が
今、とても増えています。
今が4月だから
ということではない気が
します。
来年の今頃にちょうど
平成から新たな時代に
変わりますが、
その一年前に先んじて
人生の新たな時代に
入ろうとしている人が
多いのかな。
皆さんがちゃんと
新たな時代に入るためには、
ちゃんと
別れるべきと
別れなければなりません。
手放すべきを
手放さなければ
なりません。
中途半端なまま
先に進むことだけは
やめましょう。
先には進まない、
という選択も
もちろんありです。
その場合に、
別れは必要ありません。
行くか、
行かないか。
100か、
ゼロか。
どちらかの
選択にしましょう。
中途半端であること
だけは
やめましょう。
混乱や混沌とは
多くの場合、
中途半端さから
発生するものです。
本当は、
「距離感」についての
具体的な事例を
今回はご紹介しようと
思ったのですが、
あまりにいろんな人の
お顔が浮かぶものですから、
あえてその人達に向けて
今日はメッセージさせて
いただきました。
明日は
具体的な事例を
ご紹介できるかな?
つづく