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人間の
素晴らしいところは
やはり、
高い次元も
低い次元も
混在している
ところだろう。
どれだけ
成長しても
進化しても、
決して
低い次元の心は
なくならない。
そこにこそ
私は
人間の尊厳を
本当の尊さを
感じるのだ。
そう。
本当は、
高いとか
低いとか
ではないのだ。
すべての
存在を
あるがままに
存在として
そのまま。
・・・その
真理の体現が
人間ではないか。
この魂、
この心、
この体。
この小っぽけな
非力な
個体に
すべてが
詰まっている。
すべてが
収まっている。
収まっているが
収まっていない。
詰まっているが、
全然
詰まっていない。
閉ざされているが
すべてが
開放
され尽くしている。
その体現
こそが
我々人間だ。
そういった
意味で、
自分自身を
私達はもっと
誇りに思った方が
良いと、
四半世紀以上、
来る日も来る日も
人間の愚かさと
もちろん
自分の愚かさと
向き合い続けた
私は
思う。
そう思えるのは
私の心が
広いからではない。
一種の
開き直りだ。
かつ、
やはり
あるがままを
ある時に
諦めて受け入れた
からだろう。
とは言え、
人間の愚かさを、
私の愚かさを、
すべて許せるか
と言えば、
もちろん
許せるわけがない。
人間が
嫌いかと言えば、
大嫌いだ。
でも
一方で大好きでも
あり、
このわけの
わからなさこそが
人間だろ?
このままで
いいだろ?
これで
しょうがないだろ?
このまま
行くしかないのだよ、
我々は。
人間を
人間から変えようと
する必要はない。
そんなの
無理だし。
人間のまま
でいい。
このままで
いい。
だからこそ、
このままじゃ
嫌だと、
渾身の気持ちと
想いでもって
突き
進もうでは
ないか。
つづく
年齢が若い
からと言って
未熟なわけではない。
表面的な若さ
のみを見て、
この人は
まだ未熟だ
と
決めつけることの
危うさ。
最近よく
感じる。
成熟している
若者が
増えている。
これはもちろん
良い意味で
言っている。
サポートしながら、
私の方が
100倍も未熟じゃないか、
と
よく感じる。
最近は。
もちろん
そういう人ばかりでは
ないが、
しかし
私達は、
特に私と同じくらいの
世代の人間は、
人の見方を
そろそろ
根本的に
変えなければならない
と思う。
「人間」
は
変わったよ。
ここ数年で
大きく変わった。
良いことだよ。
変わったことに
気づかない、
もしくは
気づいていないフリを
しながら
行くのは
終わりだ。
「人間」
は
変わったよ。
そして
これからも
さらに
大きく
変わっていくよ。
「人間」を
これまでの人間と
同様に
見てはならない。
その私達の
目線が
時代を本当に
変えていくのでは
ないか。
「未熟」
なんて
決めつけるな。
ここからは
共に社会を
創っていくんだ。
つづく
私は
「たけうちなおと」
という一人の人間ですが、
私自身が
「たけうちなおと」
と思っているものと
真実の
「たけうちなおと」
は
異なるものです。
私は
私自身のことを
恐らくまだ
これっぽっちも
理解できていないでしょう。
ちなみに私は
特にこの16年間は
自分と
向き合って
向き合って
向き合い続けて
まいりました。
自分のことを
理解しよう
理解しよう
理解しようと
し続けてまいりました。
その中で
「真本音」という
確固たる存在と
出会うこともできましたし、
私自身の中の
無限とも言える
多くの「反応本音」とも
出会って来ました。
毎日休みなく
24時間
私は自分自身と
向き合い続けようと
して来ました。
それが私の使命であるし、
世の中における
役割であると
ずっと思って来ましたし、
今ももちろん
思っています。
そして、
その現場と現実の中で
得ることのできた
自分自身との向き合い方を
「セルフコーチング法」
として
体系化もしています。
その体系化されたものは
日々、
進化を続けています。
それは
机上の空論的な
ものではなく、
あくまでも
現場と現実の中で
発見された
「生」のものです。
それを
16年、ずっと続けて来た
私が断言します。
私は
今もって
私自身のことを
これっぽっちも
理解できていない、
と。
そして、
私が認識している
「たけうちなおと」
と、
真実の
「たけうちなおと」
は
異なるものである、
と。
それほど
私達人間とは
奥の深いものです。
というよりも、
自分で自分のことを
理解し切れないように
できているのが
私達人間であると
言ってもよいでしょう。
自分のことが
わからないのが
「人間」
なのです。
・・・・・・
しかしだからと言って、
自分のことを
理解しよう
とすることを
あきらめましょう
という話では
ありません。
むしろ、
逆です。
わからないからこそ、
永遠に
理解しようと
し続けるところに
私達が存在する意味が
あるのではないでしょうか。
理解できるかどうか?
ではなく、
理解しようと
し続けるかどうか?
それができている人は
それをしているという
そのプロセスそのものが
魂や心を
満たしてくれるのです。
逆に言えば、
私達人間は
永遠に
「わからない自分を
わかろうとする」
「理解できない自分を
理解しようとする」
ように
できているとも
言えます。
つまり、
「わからない」こと
「理解できない」こと
そのものに
価値があるという
ことです。
これが、
私は
人間の本質の一つ
であると
思います。
だから今日も私は、
自分のことを
理解しようと
し続けましたし、
明日も
そうするでしょう。
そして
その生き方が
私の魂と心を
満たし続けて
くれるでしょう。
さらに、
魂や心が満たされた私が
向き合うことで
私と向き合った方々の
魂や心も
満たされ始めるでしょう。
もちろんこれは
私だけに限られた
ことではなく、
自分を理解しようと
真剣に生きる人は
すべて、
周りの人達の
魂や心を満たすきっかけを
与えることができるでしょう。
・・・・・・
わからないものを
わかろうとするのは
人の本能の一つです。
その、
わからないものの
筆頭が
自分自身です。
ですから、
「私のことを一番
わかっているのは
私だから」
と思うこと自体が
もったいない。
あなたは
そんなもんじゃないよ!
と私は
お伝えしたい。
いや、
そうお伝えし続けているのが
私のサポートの
本質かも知れませんね。
そう。
あなたは
そんなもんじゃない。
あなたが
あなた自身だと
思っているその「あなた」は
単なる
幻想です。
思い込みです。
ちょっと言い方が
きつければ、
それはあくまでも
「あなたのほんの一部」
に過ぎない、
ということです。
その
「ほんの一部の自分」
に執着し、
その
「ほんの一部の自分」
を守るためだけに
人生の貴重な時間を
使ってしまうのは
もう
やめてしまいましょう。
それよりも、
未開発の
未発見の
あなた自身を
見つける旅を
しませんか?
それはそれは
楽しい
冒険の旅ですよ。
「冒険」は
今この瞬間から
もう、すぐに
始めることが
できますよ。
つづく