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人と人は
もっとわかり合えるはず。
そう信じて
努力をしている人ほど、
深い落胆を抱えて
いる場合があります。
まぁ、・・・
私もその一人かも
しれません。
こんなお仕事をして
いますので、
これまで本当に
様々な人間模様を
拝見してきました。
自分自身の心も
含めて、
人間の汚い部分も
随分と目の当たりに
しました。
人に裏切られたことは
たくさんあります。
私が人を裏切って
しまったことも
正直、あります。
特に昔は
たくさんの人を
傷つけてしまいました。
傷つけられたことも
ありますが、
傷つけたこともあります。
被害者としての
痛み。
そして、
加害者としての
痛み。
その両方を
体験しました。
それでも、
人と人は必ず
わかり合える、と
信じてきました。
信じれば信じるほど、
落胆も
大きかったです。
もちろん、
うれしい体験
幸せな体験も
数知れず。
やっぱ、人って
いいようなぁ、
という体験も
数知れず。
・・・・・・
今、
私は
人はわかり合える
と
信じているのでしょうか?
と、
私自身に問うと、
「わからない」
と返ってきます。
「時と場合による」
とも。
じゃあ、
人はわかり合える、
という信念を大事に
していけばいいのだろうか?
と問うと、
「そりゃあ、大事にできればいいけど、
無理にそう思い続けなくても
いいんじゃない?」
という極めて
いい加減な答えが
返ってきます。笑
そう。
「どっちでもいいじゃん」
というのが
本当のところです。
ただ私が信じているのは、
その人の
「真本音の言葉」
です。
いや、
信じている、
というわけじゃないな。
信じるも何も、
自然にこちらの心と
魂に
伝わってきちゃうんですよね。
真本音の言葉は。
信じなきゃ、
も
信じたい、
も
信じよう、
も
何もない。
自然に
伝わってきちゃうんです。
で、
こちらの心と魂が
ビリビリと
震えてしまうんです。
しびれるんです。
感動しちゃうんです。
こういう時です。
私がホントに
自然に、
普通に、
人間ってすごいよなぁ・・・、
思うのは。
で。
私は、単純に
その人の真本音の想いと
真本音の言葉と
真本音の行動が
より出やすくなるように
サポートする
だけなんです。
はっきり言って
あとはひょっとすると
何もしていない、
です。
自慢になりませんが。
でもそれをするだけで、
その人は
周りと調和を
始めてしまうんです。
そこに
私の意図は
ありません。
もちろん、
その本人の意図すら
ありません。
気がつけば、
本人も気づかない内に
調和が起きている
のです。
あえて、
「わかり合える」という
言葉を使えば、
「わかり合える瞬間」が
格段に増えて
いくのです。
・・・・・・
「信じる」
とは、
私は
「意志」だと思っています。
信じるかどうかは、
その人の意志。
そして
信じるかどうかは、
その人の自由です。
信じないからダメ、
とか
ホント、そんなこと
どうでもいい。
信じたいものを
信じればいいし、
信じたくないものは
信じなくていい。
ただ。
その人自身の
真本音度合いが
高まるといいな、と
ここだけは
私は強く
願っていますし、
祈っています。
わかり合えるかどうか?
それは
結果。
その原因は、
真本音の度合いが
高いか低いか?
それだけの
ことなんですね。
つづく
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・・・と、もし問われたら、
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ある日、
目が覚めたら、
すべての物事を
疑っている
自分がいた。
そんなご経験は
ありませんか?
これまでの自分の
道のり。
今の自分。
これからの未来。
大切な人達。
それらすべてに
疑いの眼差しを
向けてしまう。
そんな自分に
陥ったことは
ありませんか?
まったく自慢にも
なんにもなりませんが、
私は
数えきれないほど
あります。
そういった場合、
自分の心の中心は
「疑い」
となっています。
「疑い」という
理念のもとに
すべての物事を
見つめています。
中心がそうなので、
何に対しても
信じることが
できません。
この状態は
どういうことなのでしょうか?
なぜ、
こんなことに
なるのでしょうか?
以前の私は、
その状態に入ったら、
無理に自分に言い聞かせ、
「信じる自分」
を創り出そうとしていました。
私は信じる。
私は信じる。
私は信じる。
私は信じる。
・・・・
と、一日中、心の中で
唱え続け、
疑う自分を駆逐しようと
していました。
だって、
私は人をサポートする仕事を
しているのです。
人をサポートする立場の
人間が、
人を疑っていたら
仕事になりません。
目の前のクライアントさんにも
疑いの空気が
伝染してしまうでは
ありませんか。
なので、
必死でした。
しかし、
どれだけ自分に
言い聞かせても
信じる自分には
なり切れませんでした。
疑いという根底の上に
無理に
「信じる」自分を
形作っていますから、
とてつもなく不自然です。
しかも、
疲れます。
その状態で
コーチングなんてやろうものなら、
ヘトヘトで
立ち上がることも
できなくなりました。
ですから、
ある日、それを
あきらめました。
疑う自分を
自由にしたのです。
すると、
いろんな心の声が
聞こえてきました。
いや。
それは、
心の声などというものでは
ありませんでした。
それは、
阿鼻叫喚の叫び。
中には本当に
断末魔のような叫びも
ありました。
私は、
自らに襲いかかってくる
それらの叫びと、
それに伴う苦痛を
そのままにしました。
すると、
いろんなものが
観えてきました。
疑いには、
憎しみが伴って
いました。
それは、
誰か特定の人に対する
憎しみというよりも、
「人間」
そのものに対する憎しみ、
すべての人、
いや、
すべての物事、
世界全体に向けられた
憎しみでした。
そしてその根幹には、
自分自身に対する
憎しみが
観えました。
あぁ私は、
私のことをこんなにも
憎んでいるんだ。
あぁ私は、
世界のあらゆるものを
こんなにも
憎んでいるんだ。
そうわかると
涙が止まらなく
なりました。
いったいこの憎しみは
どこから来るのだろうか?
そんなことを考えながらも
そのままに
委ねていました。
すると、
その後に
「絶望」
がきました。
すべては
憎しみの対象であり、
すべては
信じるに足らない
ものであり、
すべては、
存在する価値の
ないものである。
私自身も
存在している価値は
ない。
生きている意味も
ない。
いてはならない
存在。
害でしかない
存在。
あぁこのままいけば、
私は自殺をするのではないか、
とも思いましたが、
それでも私は
そのまますべてを
委ねていました。
「無」
に落ちていく感覚。
うん。
もう落ちればいいや。
とあきらめました。
どこまでも
落ちればいいや。
・・・恐らく、
この時点で私の心は
「限界」を迎えたと
思います。
「限界」を迎えたのですが、
それでも委ねることを
やめませんでした。
最後の最後の
深い闇が
観えました。
しかしそれにも抗わずに、
落ちていこうと
あきらめた時。
その瞬間。
その、
闇だと思っていたものの
中心に
突如として
まばゆい光が
現れました。
私は茫然と
その光を見つめました。
すると、
その光と私は
一つになりました。
そこで
わかりました。
なんだ。
この光が
私か・・・。
どこまで落ちようと、
私自身が光であるならば、
私が消えることは
ないではないか。
私自身が光であるならば、
どこに行っても、
どこまで落ちても
関係ないではないか。
すると。
阿鼻叫喚、断末魔の
心の叫びが
さらに大きなボリュームとなって
鳴り響いてきました。
その瞬間に
ふと私は
違和感を覚えました。
君は、
誰だ?
私は、その叫び達に
問うていました。
あぁそうか、
君はどうやら、
私ではないな。
そこに気づいた時、
ザザザーっと
私の中から
何かが抜けていく感覚が
ありました。
嵐が
急激に去った感覚。
気がつくと私は、
「今ここ」に
いました。
急に
泥酔状態から
シラフに戻った感覚。
・・・これが、
私がエンティティを知った
最初の体験です。
私が私自身の心だと
思い込んでいた
疑いや、憎しみなどの
心達は、
実は、私の心ではなく、
エンティティでした。
ストレスの
濃度がある一定以上にまで
高まり、
実体化するくらいまで
濃くなった「念」の塊。
それがエンティティ。
実は、
私がこの状態に入った
数日前、
私はある、自殺願望のあった方の
コーチングをしたのでした。
その方はもちろん
自殺願望からは脱したのですが、
恐らく、そのエンティティは
その人から
受け取ったのでしょう。
エンティティとは、
疑い、
憎しみ、
絶望、
の塊です。
もしそういった心に
苛まれた時、
自分自身に問うてみて
ください。
これは本当に
私の心か?
と。
自分の心と
そうでないものとの
区別がつくだけで、
私達は
自分を救うことが
できるのです。
つづく