信頼関係

自分自身との信頼関係を結んでいますか?

私はよく

『自律』

という言葉を使います。

 

「自分を律する」という

言葉を見ると、

自分を縛るようなイメージ

があるかもしれません。

 

が、

私はまったく逆の意味

として捉えています。

 

自分を律することが

できるということは、

自分を完全に

コントロールできる

ということです。

 

言葉を換えれば、

自由自在に自分を

操ることができる

ということです。

 

つまりそれこそが

本当の

「自由」

ではないか、と

私は思います。

 

自由自在に

自分を操ることの

できる人というのは

世の中にいったい

どれだけいるでしょうか?

 

まず、

自分の心を

自分で操ることは

できますか?

 

できませんよね。

 

自分が本当に望む

行動を

望むままに

し続けることが

できますか?

 

できませんよね。

 

自分のちょっとした

振る舞い、

しぐさ、

表情など、

自由自在に

できますか?

 

できませんよね。

 

私達は

思っている以上に

自分を

自由自在に

できていないという

事実があります。

 

しかも、

人に依存している人は

どうでしょう?

 

あの人がなければ

私は立っていられない。

 

もしくは、

あの組織がなければ

あの仕事がなければ

あの人間関係がなければ

私は立っていられない。

 

・・・つまり、

何かに寄りかかりながら

生きていることを

依存と言いますが、

 

もちろん人は、

誰もが何かに

必ず依存していますが、

 

しかしその依存度が

高い人は、

依存している対象が

なくなってしまったり、

なくなってしまう可能性が

見えたりすると、

途端に

我を失ってしまいます。

 

そういった人が、

自分を自由自在に

コントロールできている

とは

到底言えないですよね。

 

「自分」

であるのにも関わらず、

私達は

その「自分」を

きちんとコントロール

できていないのです。

 

その原因の

最も大きなものが、

「自分の心を

コントロールできない」

からです。

 

・・・・・・

 

例えば、

誰かに対して

とても深い憎しみを

抱いてしまった場合、

その憎しみを

自ら解消することが

できるでしょうか?

 

何かに対して

とても深い後悔を

抱いてしまった場合、

その後悔の念を

自ら解消することが

できるでしょうか?

 

実は、

私達の心とは

「自分でコントロール

しようと思えば思うほど、

コントロールできない」

ものなのです。

 

これは、

他人に対しても

同じですね。

 

他人をコントロールしようと

思うと、

逆に反発が返って

きます。

 

コントロールされるのは

誰だって

嫌ですから。

 

自分自身も

同じです。

 

私達の心も

コントロールされることを

とても嫌います。

 

たとえ

コントロールしようと

しているのが

自分自身で

あったとしても。

 

私が、

「自分」と「私」を

区別して捉えた方が良い

と思っている理由が

ここにあります。

 

自分のことは

自分が何とでも

できる。

 

自分の心は

自分が何とでも

操ることができる。

 

・・・と思うのは

傲慢なんです。

 

もしそれが本当に

できていると

思っている人がいると

したら、

それこそ、

思い違いです。

 

恥ずかしながら、

昔の私が

そうだったんですが。

 

だから

私は自分が体を壊し、

それが心の問題で

あると知ったとき、

衝撃を受けたんです。

 

自分が自分の心を

まったく

コントロールできていない

どころか、

理解すらできていない

という事実を

目の当たりに

したからです。

 

傲慢に

なっちゃいけないですね。

 

傲慢は必ず、

足元をすくわれます。

 

・・・・・・

 

私達の心は、

コントロールしようと

思えば思うほど、

コントロール不能と

なります。

 

しかし、

理解・尊重しよう

とすればするほど、

結果的に

コントロールが

効くようになります。

 

いえ、

それはコントロールと

言うよりも、

「私」が「自分」と

調和している、

とか

協業している、

と言った方が

正確ですね。

 

私達は

自分自身と

信頼関係を

結ばねば

ならないのです。

 

なんか

変な表現だと

お思いでしょうが、

これこそが

最も大切なことです。

 

そして、

自分自身との

信頼関係を深めて

いくことこそが、

セルフコーチングの

真髄なのです。

 

つづく

 

自信がないからできない? 傲慢だねぇ

「ラポール」という言葉があります。

 

臨床心理学で使われる用語なのですが、

コーチングの世界では「信頼関係」と訳されます。

 

もともとは、「心と心がつながる」とか「心が通い合う」

という意味だそうです。

 

私は、いつもこれをあえて

「本能的信頼関係」

と表現しています。

 

人が人を信頼する多くの場合は、

何らかの理由があります。

 

例えば、

仕事ができるから信頼できる、とか、

約束を守る人だから信頼できる、とか、

器が大きいから信頼できる、とか、

物事を必ずやり遂げるから信頼できる、とか。

 

しかし「本能的信頼関係」とは、

そういった理由や根拠はありません。

 

何となく、この人いいな。

何となく、この人好きだな。

何となく、この人と一緒にいたいな。

何となく、この人と通い合いたいな。

何となく、この人と心を開いて話したいな。

 

そのように、明確な理由がないのに、

初対面で会ったその瞬間からそう思える時が

あります。

 

それを「本能的信頼関係」と呼んでいるのですが、

その原因のほとんどは、その人の放つ

「空気感」

です。

 

生田さんが、平井さんのことを

まるで別人に生まれ変わったようだ、と感じた

最大の要因も、

平井さんの発する空気感の変化でした。

(→前回記事)

 

もともと、「人間不信」とも言える冷たい空気感を

持っていた平井さんが、

「人間愛」とも言えるようなあたたかい雰囲気を

醸し出すようになりました。

 

そうなれた最大の原因は、

平井さんが自分自身を許すことができた

からです。

 

言葉を変えると、

平井さんが、自分自身とのラポールを構築できた

からなんです。

 

自分自身とのラポール。

 

私は極端に言えば、人生の8割は

これで決まると思っています。

 

自分のことを自分が信頼できるか?

 

です。

 

ですがこの信頼とは、あくまでも

本能的信頼であって、

私はこんな能力があるから自分を信頼できる、とか

私はこんな経験を積んできたから自分を信頼できる、とか

私はこんな個性だから自分を信頼できる、とか

そういった理由付きの信頼ではありません。

 

ただただ、心の底から

自分を信頼できるかどうか?

です。

 

残念ながら、そういった意味で

自分のことを本当に信頼できている人は

非常に稀です。

 

これはいわゆる「自信」とは

関係がありません。

 

むしろ私の経験から言えば、

自信のある人ほど、

自分自身への本能的信頼感が少ない

という傾向があります。

 

自分自身への本能的信頼感がないが故に

それを満たしたいが故に物事に頑張り

経験を積み、

「自信」を得てきている人が多いのです。

 

しかしどれだけ自信を得ても、

自分自身への本能的信頼は増えません。

本能的信頼が枯渇しているから

自信の持てる自分でい続けよう、とします。

 

そんな人が多いのです。

 

自分への本能的信頼を得ている人の多くは、

自信があるとかないとか、

そんなことは関係ない、という感じです。

 

そういう人は、よく自信のなさからくる不安を

感じ取ります。

ですから、自分は弱いなぁ、という自己イメージを

持っている人が多いです。

 

しかし、自信とはまったく別の次元で、

「確信」が湧いてきます。

 

その確信に基づいて、行動をします。

 

つまり、

自信と確信は、まったくの別物です。

 

確信に基づいて生きている人ほど、

自信のあるなしは、

関係なくなります。

弱い自分だろうが、強い自分だろうが、

関係なくなります。

どちらにしても、自分の行動や選択は

変わらないからです。

 

平井さんは言われます。

 

「以前よりも今の方が私は

自信がないと思います。

正確に言えば、自信のない自分を

あるがままに感じることができるようになりました。

あぁ、自信がないんだなぁ、私は、と。

しょうがないなぁ、私は、弱いなぁ、私は、

と思いながら、でも行動を変えることはしません。笑」

 

私は、これこそが

人の本当の強さ

だと思います。

 

自信があるからできる。

 

というのは、本当の強さではないと

私は思っています。

 

自信があるからできる。

自信がないからできない。

 

その次元で自分の選択をし続ける状態を

私は「傲慢」と呼んでいます。

「独りよがり」と呼んでいます。

「わがまま」と呼んでいます。

 

その次元から抜け出ることは、

すべての人が可能です。

 

その次元から抜け出て、

自分の確信によってのみ生きることで

私達は「自由」になれます。

そして、

本当に望む人生を創り出すことができます。

 

では、どうすればそんなことが

できるのでしょうか?

 

どうすれば、自分自身と

本能的信頼関係を結ぶことができるのでしょうか?

 

その答えは極めてシンプルです。

 

つづく

 

あなたは怒るべき人だ

真本音度合いが上がってから、

めっきり怒ることが少なくなった平井さん。

(→前回記事)

 

私は平井さんに訊いてみました。

 

「平井さん、今の平井さんは以前に比べて

かなり気が長くなったように見えますが、

ご自分では変化は感じていますか?」

 

「あっ、やはりそうですか。

自分では特に意識していないのですが、

腹が立たなくなってきたのは事実です。

こんなに腹を立てない自分でよいのだろうか、と

少し不安になるくらいです。

本当はもっと社員に厳しくしないといけないのではないかと。

でも、腹が立たないからしょうがないですね。」

 

「それによる社員さんの変化は?」

 

「そりゃもう、以前に比べれば随分と私に

意見を言うようになりましたよ。

まぁこれは、たけうちさんにコーチングスキルを

教えていただいたのが一番大きいと思いますが、

私が簡単には怒らなくなったのも大きいかな。」

 

「それは良いことだと思いますか?

社員さん達の仕事の質はいかがですか?」

 

「いや、もちろん良いことだと思っていますよ。

昔に比べると、社員の本音はとてもよくわかるように

なりました。

それに、信頼関係も昔とは大違いじゃないかな。

今から振り返ると、昔は信頼関係もどきでしたね。

社員の主体性とか仕事の質は間違いなく

上がってますよ。」

 

「では、怒らない方がいいと?」

 

「いやでもね、たけうちさん。

そうは言っても、私はね、もの凄く腹の立つ瞬間は

今でもあるのですよ。

その時はもう逆に、私は私を抑えられなくなります。

ついつい、思ったことをそのまま相手に

伝えてしまうんですよ。

これはいいのかなぁ?」

 

「伝えた結果、どうなりますか?」

 

「多分ね、その伝え方は以前よりもダイレクトだと

思うんですよ。

だから、以前よりもきついんじゃないかなって。

でも、そんなきつい言い方をしているのに、

社員はちゃんと受け止めてくれます。

それどころか、どれだけ私が怒っていても

意見を言い返してくる社員もいるんです。

これはどういうことでしょうね?

社員が強くなったのかな?」

 

「平井さん、

それを“真本音の怒り”と言うんですよ。」

 

“真本音の怒り”。

 

それは、まったく淀みのない怒り。

 

相手のためだけを純粋に想い、

自然発生する怒り。

 

真本音度合いが高まった人には共通して見られる

一つの現象です。

 

真本音の怒りには、

根底に「あたたかさ」があります。

それは意図をした「あたたかさ」ではありません。

 

「あたたかさ」の土台の上で、

きつい言葉達が相手にダイレクトに向かっていきます。

 

それを受けると、相手の人は

大きく混乱します。ショックを受けます。

頭は真っ白になるケースが多いです。

しかし、決してその言葉達を拒絶することはありません。

 

いえ、一時的には思わず拒絶するかもしれませんが、

その言葉の一つ一つは、その人の胸に

しっかりと宿ります。

 

そして、ジワーッとその人の胸に

沁み込んでいきます。

 

要するにそれは、

愛のある怒り、なのです。

 

ですから私は常に、

真本音度合いの高まった人に対しては、

「自分の怒りを抑えないでください」

とお願いしています。

 

真本音の怒りは、必然的に必要に応じて

発生します。

その怒りを抑えることは、

マイナスにしかなりません。

真本音の怒りは開放してこそ、

すべての物事が進展します。

 

逆に。

真本音度合いがまだあまり高くない状態での怒り

があります。

それは、反応本音の怒りです。

 

反応本音の怒りは、単なる反応です。

そして、自分の思惑とか、自分のストレス解消とか

様々な淀みが含まれています。

一般的に言われる怒りとは、この反応本音の怒り

のことを言います。

 

この怒りを相手にぶつければ、

当然のごとく、相手も反応します。

怒りと怒りのぶつかり合いになります。

もしくは、相手の立場の方が弱い場合は、

相手が我慢し、こちらに迎合します。

 

真本音の怒りと、反応本音の怒りは、

表面上では同じように見えても、

本質はまったく異なるのです。

 

真本音度合いが高まれば、

反応本音の怒りは激減します。

その代わり、真本音の怒りのみが

自然発生するようになります。

 

そしてその真本音の怒りこそが、

人の成長を促したり、組織の活性化につながります。

 

私達は人間。

 

豊かな感情があります。

 

それらの感情を単なる反応として使うのか、

それとも

自分の揺るがぬ願いの一つの表現として

発揮するのか。

 

それにより、

人生は大きく変わってきますね。

 

つづく