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- 分離
私の周りには、
子どものような人が
多い。
いや。
その言い方は
語弊があるな。
子どものような
純粋さを持った人が
多い。
・・・だな。
彼らは
未来を語るときに、
実に
キラキラした目で
語る。
未来がはっきりと
観えている
わけではない。
むしろ
暗中模索の人が
多いのだが、
しかしそうであっても
未来に向かう
眼差しは、
実に清々しい。
「未来の自分」
とすでに
つながっているのだ。
・・・・・・
私達の高い次元の
意識では、
「時間」は
分離していない。
過去も今も未来も
「一つ」
である。
「すべて」が
ここにある。
真本音度合いが
高まることで、
自らのそんな意識を
常に感じ取れるように
なる。
この世で生きている
私達の意識は
もちろん、
すべてと「分離」
している。
あなたと私は
別物だし、
目の前のパソコンと
私も別物だ。
空気と私も
別物だし、
自動車と私も
別物。
時間と私も
別物だ。
それが通常の
私達の意識であるが、
それとはまた
別のところで
「すべてと一つ」である
自分自身の意識が
ある。
それがいわゆる
高い次元の意識
なのだが、
そんな自分を
常に実感しながら、
分離している意識と
共に
生きるようになる。
それが
真本音度合いの高い
生き方である。
つまりは、
「すべてと一つの自分」
と
「すべてと分離した自分」
の
コラボである。
このコラボが
本当に面白い。
人生の醍醐味とは
ここにあるのでは
ないか。
・・・・・・
だから、
未来が観えなくとも
未来と一つである
自分が
ここにいる。
自分が未来で
創り出す現実は
具体的にはわからなくとも
でも、
未来のことは
よくわかっている。
自分が
何をすべきか?も
わからないのに、
よくわかっている。
わからないのに
よくわかっている
自分として、
今、ここで
未来に思いを馳せる。
そんな時
人は、
子どものような
純粋な瞳と表情に
なるのだろう。
・・・・・・
私にも
かなり壮大なビジョンが
ある。
現時点では
本当にそれが
成されるのか
さっぱりわからない。
具体的に
どうすればいいのか、
どんな状態を
創り出せばよいのか、
わずかしか
観えていない。
しかしそれでも、
「それができる」
ことは
確信、・・・というよりも
宇宙の真理くらいに
「当たり前」だと
思っているし、
今、私の周りにいる
人達は、
そんな私のビジョンに
直結する人達ばかりだ、
というのも
よくわかる。
そして
その輪はこれからさらに
加速的に
広がっていく
のもわかる。
わかってないけど、
よくわかる。
今ここに生きる
自分として、
ここからの一歩一歩を
これまで以上に
楽しみながら
進もうと思う。
つづく
人と向かい合って
いると、
その人と
自分との
区別がつかなく
なる時がある。
特に
1on1のコーチングを
しているときは
そうだ。
決して
その状態を
オススメするわけでは
ない。
むしろ
「調和」という
意味においては、
その人
と
自分
は、
きちんと分離
していて、
区別ができている
方が望ましい。
・・・のだが、
それでも
区別がつかなく
なる時がある。
そういった時は
そうなることに
意味があるのだと
ある意味
諦めて、
私はその状態に
委ねるように
している。
すると
当然であるが、
その状態だからこそ
の
言葉が
私の中から
浮かび上がって
くる。
その言葉の
数々は
決して多くはないが、
しかし
私の印象としては、
「言葉の放流」
に感じられる。
その言葉達は
私の中から
出るものであり、
かつ、
その人の
真本音が、
自分自身に対して
向けた
メッセージでも
ある。
そのメッセージは
時には
非常に厳しい
ものであるケースも
多い。
人と人の
コミュニケーション
というのは
実に奥深い
ものだ。
こんなに
区別がつかなく
なるのであれば、
いっそのこと
最初から
「一つ」であれば
いいのに、
と思うことも
あるのだが、
しかし私達は
「分離」していることに
また
大いなる意味がある。
高い次元では
「一つ」
でも
低い次元では
「分離」
している。
それが
「人間」という
とてつもなく
面白い存在。
そんな存在
だからこそ
できることが
あるのだろう。
やはりそれは
「進化」。
進化とは、
一つのものが
分離し、
また一つに
戻り、
また分離し、
また一つに・・・
という繰り返しに
よって
成されて行く。
分離している
ものが
一つになろうと
する
エネルギーを
「愛」
と言う。
分離していなければ、
愛は
生まれない。
愛を生み出すのが
私達「人間」
という存在だ。
ということを
区別のつかない
状態のまま
私は実感するのだ。
「一つ」を
感じるからこそ、
「分離」している
私のことを
その人のことを
愛おしく思う。
この
言いようもない
独特の感覚を
私は「コーチ」として
人として
これからも
大事にしていきたい。
つづく
いつも私が申し上げること
ですが、
私達が存在している
この3次元の世界は、
すべてが分離している
世界です。
分離すればするほど、
次元は下がるわけですが、
分離がいけない
ということではありません。
分離をしているからこそ
得られるものは
多いです。
学べることも
多いです。
例えば、
私とAさんは
別人です。
お互いに分離した存在です。
しかし
Aさんと向かい合っていますと、
ある瞬間に
「あっ、一つになれたな」
とわかるタイミングが
きます。
そうなると
その時点から
Aさんとのコミュニケーションは
極めて楽になります。
Aさんの意図や、
言わんとしていることや、
意図を超えた願いとか、
そういった
「あらゆるものが」
まるで手に取るかのように
わかるようになります。
ただし、
「わかる」といっても
それは言語化されたもの
ではなく、
あくまでも「感覚」
です。
感覚的に
「すべてをわかり合えた」
と思えるのです。
その状態は
しばらく続きます。
するとその時間は
実に創造性に富んだ
ものとなります。
直観や確信は
もちろん次々に
湧いてきますし、
今後の自分達の歩みにおける
大切なヒントを
見出せたりもします。
以前は私は
この状態を意図的に
創り出すことが
できませんでした。
でも今は
ほぼ毎回、この状態に
入れます。
とはいえ、
相手もいることですから
あくまでもAさんの心や
体の状態によって
対応を変えます。
Aさんの心が
反応本音やエンティティに
まみれてしまっているときは
「一つ」になるには
かなりのエネルギーを要しますので、
そういった場合は
あまり無理はしません。
大切なのはやはり、
まずは自分自身の
真本音度合いが高まること、
そして、
Aさんの真本音度合いが
高まること。
そうなればなるほど
簡単に
「一つ」になれます。
・・・・・・
相手と一つになれる
コミュニケーション。
これを私は
「真本音コミュニケーション」
と呼んでいますが、
この力をつけるための
最短の道が
セルフコーチング力を高める
ということなんです。
セルフコーチングというのは、
自分自身の様々な
心と向き合います。
それをまるで
他人のように
観察したり感じたり
対話をしたりします。
その客観性に慣れて
きましたら、
今度は、
客観的になれた自分に対して
「一つ」になることを
するのです。
えっ?どういうこと?
と思われるかもしれませんね。
自分の心と分離し、
客観性を高めた上で
また一つになる。
・・・じゃあ最初から
自分の心は自分なんだから、
一つなんだから、
わざわざそんなこと
しなくてもいいんじゃないの?
そう思われるかも
しれないですね。
でも、
違うんです。
最初から一つである自分自身の
心のままにいることと、
あえて分離して
また、意図的に一つになるのとでは
本質的にまったく
異なる状態になるのです。
なぜなら実は、
私達は本当は
最初は自分の心と
「一つ」になれているわけでは
ないからです。
「一つ」になっていると
思い込んでいますが、
実はそれは
「ズレて」います。
そう。
「ズレている」という表現が
最も正確です。
自分の心なのに
自分は心と
「ズレた」関係になっている
のです。
そのまま私達は
毎日を生きているのです。
ですので、
いったん分離し、
その上でしっかりと
「一つ」になる必要があります。
すると、
私達は私達自身の心を
「ありあり」と
感じ取り、理解することが
できるようになります。
あぁ私は、
こんなことを思っていたんだ、
こんなことを願っていたんだ、
こんなことで苦しんでいたんだ、
こんなことを喜んでいたんだ、
・・・というように
自分自身のことを、
初めて理解できるのです。
それを、
あるクライアントさんは
「自分とやっと出会えました」
と表現されました。
そうです。
私達の多くは、
まだ
「自分と出会っていない」
のです。
自分なのに
自分と出会わないままで
人生を進めているのです。
それって、
変ですよね。
健康な状態とは到底
言えません。
・・・・・・
以上のように、
セルフコーチングは
自分自身と
・分離したり
・一つになったり
を自由自在に織り交ぜながら
自己理解を進めます。
そしてその中で、
自分の
・真本音の意思と
・反応本音の意思を
区別します。
そして
・真本音の意思で動く
度合いを高めていきます。
それをすることで、
私達はより
「本来の自分らしく」
なれますし、
「自分の本当に望む人生」
を生きることが
できるようになるのです。
つづく
怖い。
恐怖。
この気持ちは、
「分離」によって
もたらされます。
「自分」と「周り」との
分離です。
「周り」を
「世界」と表現しても
よいです。
「自分」と「世界」の
分離。
「自分」は
自分だけでしか
ない。
周りとも世界とも
別物である。
「自分」は
自分。
これを
分離感と言います。
もちろん、
ほとんどの人が
この分離感と共に
生きています。
それにより、
人とは、
怖さや恐怖を抱くことが
当たり前であり、
それが
人というものである、
と、
みんな思っています。
私達がいるこの
3次元の世界は、
分離感によって
成り立っています。
・・・・・・
分離感は
私達人間にとって
極めて辛いものです。
しかし、
この3次元世界に
生まれた瞬間から
私達は
その分離感の
真っ只中に入ります。
赤ん坊が
生まれた瞬間に
大泣きするのは、
その分離感に
びっくりしているのだと
私は思います。
今まで、
お母さんと
一つだったのに、
いきなりそこから
分離した。
その
驚くべき感覚が
私達の人生の
第一歩です。
そして
その分離感と
私達は常に
闘いながら
生きてきました。
分離感の中でも
しっかり歩ける自分に
なろうと、
努力してきました。
分離感に
惑わされない自分。
分離感に
負けない自分。
そんな自分になることが
人としての
成長であると
信じて、
ここまで来ました。
しかし残念ながら、
分離感とは
克服するものでは
ありません。
どれだけがんばっても、
分離感は
分離感です。
克服できたと
思っていても、
それは単に
麻痺しているだけ。
人は、
分離感には
勝てないのです。
辛いものは
辛い。
怖いものは
怖い。
そう
あるがままに感じる
自分を
そのままに
受け止めることができて、
初めて人は
分離感から
自由になれます。
それは決して
分離感がなくなるわけでも
弱まるわけでも
ありません。
分離感は
そのまま。
怖いのも
そのまま。
でも、
そこから
解放されるのです。
それが、
真本音で生きる
ということであり、
高い次元の自分を
思い出すという
ことです。
・・・・・・
皆さんは、
場と
時と
一つになれた、
というご経験は
ありませんか?
最近は
若い人達にこういった
表現を使うと、
「あぁ、わかります、わかります」
と返ってくることが
実に多くなりました。
最近の若い人達の感性は
本当に凄いなぁと
思います。
「一つになる」
という瞬間が、
私達の人生には
必ずあります。
しかもその瞬間は
ここ数年で
一気に増えているはずです。
場と、時と、
一つになれている時、
私達は
その瞬間は、
分離感や恐怖から
解放されます。
何度も言いますが、
分離感や恐怖が
なくなるわけでは
ありません。
それがここにあっても、
どうでもいいことだと
思えるのです。
それくらいに
「一つになる」
という体験は
インパクトがあります。
しかしそれは
何も特別なことではなく、
私達がもともといた場所は
「すべてが一つ」
という世界ですから、
それを「思い出す」
ということで、
インパクトがあるのです。
私達の魂に刻まれた
記憶を呼び起こすからこその
インパクトです。
・・・・・・
船に乗って
航海をしている時、
船と海は
分離しています。
ですからもし
嵐が来た場合は、
転覆するのではないか、
という恐れが来ます。
しかし、
海も船も自分自身だとしたら
どうでしょうか?
しかも海は、
表面上は
嵐によって荒れていますが、
深海に潜れば、
そこは常に安定しています。
しかも、
さらに潜れば、
大地があります。
その大地とは
地球そのもの。
その地球とも
一つであるとしたら。
すべてが私
であるとしたら。
もちろんそれでも
恐怖が消えることは
ありませんが、
それでもその恐怖よりも
もっと大きな安定感を
私達は得られるのでは
ないでしょうか。
地球とも海とも
一つである自分。
それを思い出しながらも、
船として生きる人生を
楽しむ。
・・・これが
真本音で生きる感覚です。
高い次元を
思い出している
感覚です。
私達人間の実に
面白いところは、
どれだけ高い次元を
思い出しても、
低い次元が
なくなることはない、
すべての次元が
共存している
というところです。
これこそが
人間の魅力。
人間の
面白さ。
人生の
面白さ、です。
地球も海も
すべては自分ではないか、
という安定感と、
荒海に揺れる船としての
心細さの
共存。
これが
私達人間です。
この両方を感じながら
生きるのが
人としての
楽しさの本質です。
この本質を
存分に感じ取るために
私達が身につける
最も重要なスキルが
セルフコーチング法であると
私は思っています。
セルフコーチングとは
・自分と
・現実と
あるがままに向き合う
手法です。
これができることで、
高次元も低次元も
すべての自分と
共に生きることが
できるのです。
つづく
世界と自分は今、
どれだけ
「一つ」だろうか?
・・・このような問いを
考えたことはありますか?
もし今この問いを
自分に投げたとしたら、
どのような答えが
自分の中から返って来ますか?
私達の意識は
次元が低くなればなるほど、
すべてと分離していきます。
そして
次元が高くなればなるほど
すべてと「一つ」になります。
すべてと
「一つ」になっている自分と、
すべてと
分離している自分が、
共存しているのが
私達人間の心の中です。
様々な階層の次元が
共存しているのが
私達人間という生き物です。
今、
どの次元の自分を
前面に出して生きているか、
によって
人生の展開は
大きく変わります。
最近、
本当によく聴く声が、
「これまでの人生で
最大の試練に
ぶち当たっています」
という悲痛な叫びです。
外的な要因も
さることながら、
内面の自分がすべて
壊れてしまいそうなくらいに
揺れ動かされています。
我を失う、
という状態。
心の中の
大地震。
あらゆるものが
無に帰すような
恐怖。
まったく道の見えない
絶望感。
その中で
もがいている人。
もがくことすらできずに
茫然と佇む人。
そのような人が
増えています。
そのような時に
絶対にしてほしくないことが
一つあります。
それは、
「この試練には
どのような意味があるのだろう?」
と考えることです。
試練の意味を考える。
・・・それは一見すると
前向きな行為ですが、
私はそれを
現実逃避の第一歩であると
いつも実感します。
意味を考え
答えを見出す。
もしそれで簡単に答えが
見つかるのであれば、
その試練は
試練とは言えません。
あくまでも自分の範疇で
試練のふりをし、
悩んでいるふりを
しているだけのこと。
悩みながらも、
自分が進まない理由づけを
して人生をサボっている
だけのことです。
本当の試練の中にいる時、
その試練の意味は
決してわかりません。
もし無理に答えを
見出せば、
それは「間違った答え」です。
間違った答えに基づいて
試練を乗り越えようとすれば、
その試練の本当の意味から
結果的に逃げることに
なってしまいます。
本当の意味は
後からわかります。
その試練を乗り越え、
その試練が去り、
さらにその後の新たな道を
進む途上で初めて、
ある時ある瞬間に
必然的に「気づき」がきます。
その瞬間が来るまで
その試練の意味は
考えないでください。
ただ単に、
試練に身を委ねて
ください。
試練に身を委ねるとは
何もしない、
ということではありません。
試練と
対峙するのです。
向き合うのです。
武器は持ちません。
裸になるイメージで
あるがままの自分を
試練の前にさらします。
肩の力を抜き、
正面から試練を
見つめます。
観察をします。
その結果、
心は大揺れに揺れ、
我を失うかもしれません。
しかし
それでも良いのです。
それでも
身をさらします。
あえて言えば、
すべてを
あきらめる
のです。
開き直る
のです。
開き直りとは
すべてを手放した状態
です。
その状態に入れた時、
人は言いようのない強さを
発揮しますが、
それは意図をして
できることではありません。
私達にできるのは、
何があっても
あるがままの自分として
その試練に
身をさらそうと
し続けることです。
試練を乗り越えるか、
試練が去るまで、
それを続けます。
試練が永遠に続くことは
ありません。
試練から解放された時、
自分自身に
問うてみてください。
世界と自分は今、
どれだけ
「一つ」だろうか?
・・・と。
もし、
試練の前よりも格段に
「一つ」になれたかな、と
思えれば、
その後、必然的に
その試練の意味は
わかるでしょう。
なぜならそれは、
自分自身が次元を一つ
上がれた証拠だからです。
一つの次元が上がる
ということは、
景色が変わるということです。
新たな次元に立たなければ
見えない景色があります。
その景色を前にした時に
初めて、
その試練の意味は
明確にわかるでしょう。
人生というのは
その繰り返しですね。
つづく