叱る

子どもだって自律する

 

『子が育ちますように』

 

という祈りは、

すべての人の

本能の中心に

脈々と

流れ続けるものだ。

 

私は思う。

 

子は

親のその祈りを

受け、

自らを成長・進化

させようとする。

 

この祈りと想いが

すべての

原動力になっているように

私には

思えてならない。

 

もちろんこの祈りは、

実際の親子

だけに当てはまる

ものではない。

 

例えば、

私のクライアント企業様の

ある社長から感じる

社員さん達への想いは

これとまったく

同質のものだ。

 

・・・・・・

 

私は、5歳の息子と

できるだけ

向き合うようにしている。

 

彼と共に時間を過ごし、

彼との会話を続けていると、

時々、

彼の真本音からの

メッセージが届く。

 

その多くは、

 

「今は私を

自由にさせないでください。

ここでしっかり

私に何が大切かを

何をしてはならないかを

教え込んでください」

 

というものだ。

 

このメッセージを

受け取った時、

私はできるだけ

その通りに

応えることにしている。

 

これはダメ。

 

こうしなさい。

 

やめなさい。

 

こんな言葉が

多く飛び交う。

 

今の息子のテーマは、

 

「一つを決めて

一つをする」

 

である。

 

彼は本当に

発想力と行動力が

豊かで、

しかも様々なことに

興味関心が向く。

 

一つのことを

始めても、

すぐに別のことに

目移りしてしまう。

 

一つを

やりっぱなしで、

次のことに

向かってしまう。

 

そんな時に、

「きちんと今、決めたことを

最後までやりなさい」

と叱る。

 

「心を

落ち着かせなさい」

 

「人を大切にして

自分が今、

どう動けばよいかを

相手の気持ちになって

決めなさい」

 

という言葉も

毎日のように

かけている。

 

恐らく、

こういった話を聴けば、

「それは5歳の子に

すべき教育ではない」

という反対意見が

出るかもしれない。

 

5歳であれば

「もっと伸び伸びと

させてあげた方がいい」

と。

 

しかし私の息子は

徹底的に

伸び伸びと自由だ。

 

なぜなら彼は

真本音度合い100%で

生きているから。

 

彼はすでに

人生のあらゆることに

向き合い、

自らの意思と意図で

動いている。

 

つまりは

私の言葉で言えば、

自律している。

 

もちろん幼いが故に

できないことは

大人よりも圧倒的に

多い。

 

知らないことも

多い。

 

しかし、

そういった未経験が

故の行動範囲と、

自律できているかどうか、

はまったくの別次元の

話だ。

 

彼はもちろん

子どもだからこそ、

親に依存している。

 

親がいなければ

生活もできない。

 

しかし、

実は、依存と自律は

対義語ではない。

 

彼は

自らの意思と意図で

依存している。

 

つまり、

自律した心で

依存している。

 

そんな彼だからこそ、

きちんと

教えるべきことを

教えなければならない。

 

・・・・・・

 

なんて

偉そうなことを書いたが、

その彼への教育を

しているのは

ほとんどが私の妻

である。

 

妻と息子との

コミュニケーションを

見ながら、

私は多くを学んだ。

 

「子が育ちますように」

 

という祈りを

実行するとは

こういったことか、

と。

 

そして私はそれを

様々な企業様での

人の育成と

組織活性化の

参考としている。

 

親の子に対する

育成の仕方こそに、

すべての育成の

原点がある。

 

と、今の私は

思うようになった。

 

・・・・・・

 

まずは

真本音度合いを

高めること。

 

その上で、

しっかりと

指導すること。

 

これこそが

本質であると

今の私は思っている。

 

そして

これができるコーチを

増やしたいと

思っている。

 

つづく

 

本当に言葉を大切にすると、言葉は少なくなる

言葉とは

カタチです。

 

一つの記号とも

言えます。

 

ですから、

「山」

という一言をつぶやいたとしても、

この一言から想像される山のイメージは

人それぞれです。

 

しかし、

「山」

という言葉を聴くことによって

「海」ではないことはわかりますし、

思考や発想の方向性を

合わせることもできます。

 

「今週末、一緒に

山にキャンプに行かないか?」

と言われて、

「じゃあどんな水着で行こうかな」

と考える人はほぼ

いないでしょう。

 

しかしやはり方向性は

定まるものの、

詳細なイメージは

きちんと共有しなければ

誤解を生むことにもなります。

 

「山に行こう」と言われて、

すぐ近くの裏山をイメージする人も

いれば、

富士山に行くイメージをする人も

いるでしょう。

 

私達は、

言葉という「記号」を活用しながら

お互いの想いやイメージを

一致させようとします。

それが私達の普段の

コミュニケーションです。

 

ところが。

 

以上はあくまでも

3次元という限定された部分に

限って言えることです。

 

高い次元の私達の意識は

すべて

つながっています。

 

いえ、というよりも

「一つ」です。

 

「一つ」である我々は

本当はもともと最初から

すべてを共有している

とも言えます。

 

もちろん

人生経験も違いますし、

実際に頭の中で展開される

イメージも、

人それぞれ異なるでしょう。

 

しかし、

そういった表層的ではない部分で、

私達はまったく同じことを感じ、

まったく同じ想いを

抱いています。

 

ですから、

高い次元の意識を

発動している人達同士が会えば、

コミュニケーションにおける

「説明としての言葉」

は、ほぼ必要なくなります。

 

「山に行こうよ」

と言われれば、

「あっそうだよね。

私もそうしようと思ってた」

となりますし、

どんな山に行きたいか?も

ほぼ説明なしで

お互いに理解・共有できて

います。

 

これが仕事上で起こると、

なかなかに凄いです。

 

まず、

とてつもなく打合せ時間は

短くなります。

 

齟齬も誤解もなくなります。

 

ほんの一言二言

言葉を交わすだけで、

お互いにすべてを納得し、

自分のすべきことが

明確になります。

 

そしてその通りに動けば、

きちんと成果が

出ます。

 

とてつもなく

仕事が楽になります。

 

ここまで来ると逆に、

私は「言葉」の有り難みを

より強く感じます。

 

たった一言の

言葉という記号があることで、

各々がここまで感じ取ってきたことの

確認と今後の方向性が

一瞬で明確に、シンプルに

なるからです。

 

言葉っていうのは

ありがたいなぁ、と

いつもつくづく思います。

 

ですから私は

言葉をとても大切にします。

 

余分な一言は

決して言いません。

 

思ってもいないことを

口にしたり、

迎合のためのやりとりは

絶対にしないことに

決めています。

 

そうすると、

言い合いや自己主張ばかりの

コミュニケーションになってしまう

イメージがあるかもしれませんが、

高い次元の自分で動けば、

すべては

淡々と調和します。

 

こちらの想いと相手の想いが

「一つ」なのですから

当たり前と言えば当たり前です。

 

例えば上司と部下の関係で言えば、

上司が部下を何かの件で叱らなければ、

と思った場合、

そのお叱りの言葉を口に出す前に、

部下が自分で自分の過ちに気づき、

自主的にそれを直そうとします。

 

なんだ、結局叱る必要なかったな、

ということが、私の場合は

毎日のように起きています。

 

決して大袈裟な表現では

ありません。

高い次元のコミュニケーションとは

そういうものです。

 

高い次元の自分で生きることは

決して特別なことではない、

というお話を

以前いたしました。

(→人間である以上、誰もにもともとあるもの)

 

高い次元の自分として生きるのは

もちろん、

苦しいことでもありません。

疲れることでもありません。

 

まったく逆。

 

だからこそ

私達の中には

エネルギーが満ちてきます。

 

そのエネルギーを使って

自分が本当に望む現実を

創り上げることができます。

 

どうせ同じ人生を

生きるのであれば、

常にエネルギー満タンの自分で

いたくありませんか?

 

つづく

 

人間関係を壊すもの

平井さんの変化について、

さらに深掘りをしていきます。

(→前回記事)

 

「実は、私はあなたのことが嫌いでした」と

平井さんに告白した生田さんという部下がいます。

 

私は生田さんにお訊きしました。

 

「平井さんが最も変化されたのは

どこですか?」

 

生田さんは、じーっと考えた後で、

こう言われました。

 

「上手く言えませんが、

以前は、私は平井から全否定をされていたような

気がするんです。」

 

「全否定?」

 

「はい、そうです。

自分のすべてを否定されていたような。」

 

「どんな時に、そんな風に感じられたんですか?」

 

「多分、彼は全否定をしている気はなかったと

思います。

でも私は、彼のちょっとした一言一言に、

あぁこの人は私にいてほしくないんだ、

私のすべてが嫌いなんだ、という印象を受けました。」

 

「何か具体的なやりとりの場面を思い出せます?」

 

「う〜ん、一つ一つは本当に小さなことなんですよね。

でもその積み重ねで、私は平井のそばにいることが

本当に怖くなりました。

まぁ、いい大人ですし、仕事ですから、

そんなことは言っておれないのですが。

でも、会社に来て、平井の顔を見るのは

本当に嫌でしたね。」

 

実はこのようなケースは生田さんだけでなく、

とても多いです。

 

思い出せないくらいに小さな一つ一つの

積み重ねで、心を深く傷つけてしまうケースです。

 

「今はどうなのですか?」

 

「今はまったく変わりましたね。

大袈裟ではなく、私は平井という人間が、

一度、死んで生まれ変わったか、

体だけ同じで、中身がまったく別人と

入れ替わったか。

そんな感じがしています。

部下で年下の私が言うのもおこがましいですが、

平井を見ていると、人は変われるんだ、と

希望を持てます。」

 

生田さんの言われていることは

私にもよくわかります。

 

私は第三者ですから良いのですが、

もしこの人の部下になったら、

かなりキツイだろうなぁ、というのが

出会った頃の平井さんへの印象でした。

 

時折、彼からふっと漂ってくる空気感が、

とてつもなく冷たかったからです。

 

それを言葉で表現するのは難しいのですが、

あえて言えば、

「人間嫌い」

「人間不信」

の塊のような空気感です。

 

それが今はまったくない。

どころか、常に平井さんから感じるのは

「すべてを受け止めるあたたかさ」

です。

 

人間不信の冷たい空気感を持った人が、

ほんの些細なことでも人を叱ったり注意をすれば、

それをされた人は、

自分が全否定された、という印象を得ます。

 

それに対して、まったく同じ言葉で

注意を受けたとしても、

もし、あたたかい空気感を持った人からの

言葉であれば、

人はそこに愛を感じます。

 

管理職研修などで、

部下を上手く叱るにはどうすればよいでしょうか?

というご質問を、私はよくいただきます。

 

しかしそれは、言葉の言い回しや

テクニックではないのです。

 

自分が、「人間」というものに対して、

どのような空気感を発しているか?

で、ほぼすべてが決まってしまうのです。

 

そしてその、あたたかい空気感は、

「心を大きく持とう」とか

「自分は人格者であろう」とか

「もっと器を大きくしよう」とか、

そういった心構えレベルで出せるようになるものでは

ありません。

 

空気感を決めるものは、

「自己承認」

できているかどうか、です。

 

自分のすべてを、

自分が許せているかどうか?

です。

 

そして、

人が自分のことを最も許せなくなる

最大の要因は、

 

「自分の真本音を自分がないがしろにする」

 

ということなのです。

 

つづく

 

なんですぐに怒るの?

私達人間の心のパワーというのは

二つのタイプに分けることができます。

 

一つは、外発的なパワー。

もう一つは、内発的なパワーです。

(→前回記事)

 

外発的なパワーとは、

外(外部環境など)からの影響によって、

発生するパワーです。

 

例えば、とても嬉しいことがあった、とか。

誰かから褒められた、とか。

好きな仕事に就くことができた、とか。

要するに、

私達の日常の中で、起こる様々な物事(現象)によって

その反応として生まれるパワーです。

 

それに対して、内発的パワーとは、

外部環境によってもたらされるものではなく、

自分の内側から常に湧き上がるもの。

少し極端な表現を使えば、

自分の外部環境(状況・現象など)が

どのような状態であったとしても、

変わらずに湧き続けるもの、とも言えます。

 

単純に言えば、

自らの真本音に素直に生きる度合いが高まれば、

この内発的パワーも自然に高まります。

 

しかし、真本音度合いが低くなれば、

内発的パワーは下がり、

結果として、外発的パワーのみに頼る生き方になります。

例えば、

何か良いことが起きないと元気が出ない、

好きな人と一緒にいないと元気が出ない、

好きなことをしていないと元気が出ない、

みんなから認めてもらわないとやる気が出ない、

給料が高くないとやる気が出ない、

人間関係が良くないとやる気が出ない、

・・・などなど。

自分以外の何かの影響によって振り回される人生

となります。

 

ということは、逆に言えば、

内発的パワーが高まれば、

自ら、外部環境(状況・現象など)に働きかけ、

自ら、外部環境を変えられる可能性も高まるわけです。

 

私はいつもコーチングをする場合、

内発的パワーの高い人かどうか?

という視点を大切にします。

 

そして私のコーチングは、

内発的パワーと高めることをすべての基本

としています。

 

ただし念のために申し上げておきますが、

内発的パワーの高い人、というのは、

表面的に元気とか、勢いがあるとか、声が大きいとか、

そういったこととは無関係です。

 

むしろ(あくまで基本的な)傾向としては、

内発的パワーが高まれば高まるほど、

人は「静か」になります。

「落ち着く」といった方がよいでしょうか。

「安定感」が出るのです。

「自然体」と言ってもよいです。

 

そういった人は、

あぁこの人は、いざという時に凄いパワーが出るな、

という印象を感覚として得ることができ、

それがその人への本質的な信頼感につながります。

 

「この人は、なんか信頼できるな」

という印象は、そういった空気感によって

決まります。

 

あくまでも人の個性によって変わりますが、

全体的な傾向としては、

普段からギャンギャンと叫んでいるようなタイプの人は

内発的パワーの低さを、

大声を張り上げながら誤魔化している、

とも言えます。

 

自分の不安定さを、

元気なふりをして、誤魔化しているのですね。

そういった場合、

本人が、誤魔化していること自体に気づいていません。

自分は常に元気だ、と思い込んでいます。

 

私はコーチングをする際、

そういった人ほど、注意をします。

根底は、とても不安定だからです。

 

しかしどのような人であったとしても、

真本音度合いを高めることで、

内発的パワーは高まります。

ギャンギャン言っていた人も、

「あれ?最近あの人、静かだね」と

言われるようになります。

 

話を平井さんに戻しますが、

平井さんは、まさにそういったタイプでした。

 

平井さんに対して、

「私はあなたのことが嫌いでした」と宣言された

生田さんに私は訊いてみました。

 

「平井さんの、どんな行動が最も嫌いでした?」

 

「何考えているかわからないくせに、

すぐに怒るんです。

多分、自分が社長に叱られるのが嫌で

怒っていたと思うんですけど、

とにかく彼に怒られる時間は最悪でした。」

 

「今はどうですか?」

 

「怒る、ということはほとんどなくなりました。

怒られる場合も、以前は怒鳴られるのに近い感じでしたが、

今は、トツトツと納得するまで語り合うような感じです。

まぁある意味、今の方が数倍怖いですが。笑」

 

なぜあの人はすぐに怒るのか?

 

単純です。

その人の内発的パワーが枯渇しているから。

 

・・・という見方をすることも、

一つの視点としては面白いかもしれませんね。

 

つづく