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- 思惑
一つの方向に
まるで吸い込まれる
ように、
人生の展開が
進むことがある。
そっちに行くのは
まったく意図してないし、
むしろ
そっちに行くのは
気が進まないのに、
なぜか
その方向に
進んでしまう。
そんな時は
委ねてしまおう。
個人の
自分の
思惑を
手放してしまおう。
これは
迎合ではないし、
優柔不断でも
ない。
自分自身の
真本音と
顕在意識が
乖離してしまっている
だけのこと。
私達の顕在意識は
やはりどうしても
「クセ」
がある。
これまでの人生経験の
中で培ってきた
クセだ。
だから
反応本音レベルのクセ
が多い。
その「クセ」からすると
今は絶対に
右に進むべきだと
思うのに、
なぜか
展開はすべて
左に進んで行く。
いやいやいや
ここは右でしょ!
と思うのだが、
どうしても左に
進んで行ってしまう。
それは、
これまでの「クセ」を
超える時期に来ている
ということだし、
それを強い意志で
(つまりは真本音の意志で)
あなた自身が
進めようとしている
ということだ。
顕在意識レベルの
思惑や意図は
手放し、
自らの真本音の
意志に
委ねてしまおう。
そうして
新たな自分を
開拓しよう。
つづく
本当にやろうと
思っているのに
できないこと。
本当は
やろうとしていないのに
どんどん進んで
しまうこと。
本当は
どっちでもいいのに
決断を迫られること。
本当は
こっちがいい!と
思っているのに
その逆の展開ばかり
起こること。
・・・人生は
自分の意図通りに
進まないことばかりだ。
それを
意図に即して進むように
するにはどうすれば良いか?
ということを
皆、
考え過ぎではないか。
これは私の意見だが、
ここは
諦めた方がよい。
・・・・・・
面白いことに
ここを諦めると、
次々に想定外の調和が
起きてくる。
まったく意図通りに
物事が進まないのに、
自分の想定以上の
結果が出たりする。
自分の想像もしていなかった
素敵な展開が
起きたり。
そして気がつくと、
当初自分が
願っていたことは
いつの間にか
実現されている。
もちろんそれは
真本音の願いに
限ってのことだが。
・・・・・・
私達は
「上手くいかない」
と
思い過ぎだ。
かと言って
「なんだかんだと
上手くいっている」
と
無理に自分を納得させる
必要もない。
・上手くいく
・上手くいかない
という次元に
いなければいい。
上手くいっても
いかなくても、
それらを楽しもうと
すればいい。
と私は思う。
実は、
こういう面で言えば、
私の日々は、
上手くいかない
ことばかりだ。
ほぼ、
自分の意図や
思惑通りに
進まない。
とは言え、
頭の中では
「こうなるといいな」
という思惑は
いつも生まれる。
でも、
その通りにいった
ためしがない。
「ほらやっぱり
思惑通りには
いかないよな」
と、
事実を目の前にしながら
私はいつも
内心、苦笑いしている。
が、それも含めて
すべてを
楽しむことにしている。
委ねることに
している。
・・・・・・
ただし。
かといって
思惑や意図を考えることを
やめる
こともしない。
私は仕事の準備は
とてもしっかりとする。
コーチングも研修も
イメージングを
しっかりする。
その努力は決して
怠ってはならないし、
それをしない人が
「上手くいかない」と
嘆いていても、
そりゃそうだろ、
と思う。
意図通りに
いかないことが
わかっていても、
しっかりと自分の意図を
顕在化するのだ。
それをすると、
意図通りいかないこと
自体を
楽しめるようになる。
そして、
自分の意図を超えた
素敵な展開を
目の当たりに
できる。
そしていつも
純粋に思えるのだ。
人生ってのは
すげーなぁ。
人間ってのは
すげーなぁ。
ってね。
つづく
これまでの
延長線上の未来を
描くことは、
もういっそのこと
やめて
しまいましょう。
そこに
私達の
本当に望む未来は
ありません。
よくよく考えると、
人生が
きれいな比例直線
のように
進むことは
ほぼありません。
どこかで
これまでの流れが
断絶し、
どこかで
これまでとは
まったく別の
地点に飛んだり、
別の世界に
ワープしたり、
非直線的に
進みます。
要するに、
思惑通りには
進まないのが
人生です。
なぜなら
私達の真本音が
「思惑を超える」
ことを
望んでいるから
です。
非線形
の人生。
これが、
普通の人生です。
・・・・・・
どうせ
思惑通りに
いかないのであれば、
その
思惑通りに
いかないこと自体を
楽しみましょう。
思惑通りの法則に
則らない、
という法則を
そのまま受け入れる
ことで、
私達は
ある種の
次元の異なる
安定感を得ます。
何が
起きてもいいし、
何も
起こらなくても
いいや。
というところに
立ち、
すべての思惑を
手放し、
ただ
「ここ」
にいる。
そのような状態に
入ることで、
非線形の人生は
一気に
加速します。
反応本音のレベル
では、
それを
「怖い!」
と認識するかも
しれませんが、
それは
あくまでも
反応本音。
その反応本音すら
そのままに
しておきます。
つまり
心もそのまま。
何がどのように
動いてもいい。
という状態に
しておきます。
・・・・・・
ということは
つまり、
現実で、
何が起きても、
何も起こらなくても、
いい。
心の中も、
何が起きても
何も起こらなくても
いい。
という状態にします。
これを
私のよく使う言葉で
さらに端的に
言えば、
実在も
現象も
どうなっても
いいや。
・・・という状態。
実在も
現象も
あるがままで
いいや。
・・・という状態。
こうなることで
私達は
完全なる自由を
手に入れます。
非直線的で
非線形の
人生を、
まったく
思惑を持たずに、
完全に
コントロール
する状態と
なります。
そこに至って
私達は
知るのです。
なんだ、
すべては
「一つ」
ではないか。
すべては
「私」
であり、
すべては
「あなた」
ではないか。
私がこれまで
「思惑」と
呼んでいたものは、
全体の中の
たった一個の
細胞が、
全体から
分離された
とてつもなく狭い
視野の中での
とてつもなく
小さな意図に
過ぎなかったのだ、
と。
本当の意図は
ここにあった。
本当の意図は
「すべて」に
あり、
そして
「私」にあり、
さらに
「あなた」に
あった、
と。
言葉にすると
ややこしく
なりますが、
以上を
「感覚として」
完全に
理解している、
・・・というよりも
思い出している
意識を
『8次元の意識』
と私は呼んでいます。
・・・・・・
8次元の意識を
思い出したと
言っても、
低い次元の意識が
なくなることは
ありません。
すべてが一つである、
とわかっている
意識もあれば、
すべてが分離した
中で生きる意識も
あります。
すべての次元が
共存する
世界。
それが、
「人間」
です。
そんな「人間」が
繰り広げる人生
なのですから、
それが
面白くないわけが
ありませんね。
つづく
人生とは、
思惑通り・意図通りに
いかないように
できています。
なぜなら、
思惑通り・意図通りに
すべての物事が
進んでしまうと、
人生の意味そのものが
なくなるからです。
人生の意味とは?
様々な視点からの
答えがありますが、
最も根本的な視点から
言えば、
それは
「進化」
です。
私達自身の「進化」のために
人生はあります。
そのことを
最もよくわかっているのが
私達自身の「真本音」
です。
人生というステージにおいて
私達の真本音は
「進化のための一歩」
を踏み出し続けようと
します。
真本音度合いが高まる
ということは、
進化へのスピードが
高まるということです。
真本音度合いが低い
ということは、
進化へのスピードが
遅い、
もしくは
進化をまったくしていない
ということです。
そして人は、
進化を続けている時は
楽で
安定して
安心できます。
進化が止まっている時は
苦しく
不安で
不安定になります。
ですので、
人生が思惑通りに
進むようになると、
実は
私達は苦しくなるのです。
不安になり
不安定になるのです。
面白いでしょ?
・・・・・・
真本音度合いが上がると
自分の思惑は
ほぼ、すべて
外れるようになります。
思惑とはもちろん、
顕在意識レベルの思惑を
指しています。
私も、
真本音度合いが
高まれば高まるほど
自分の思惑が
外れるようになりました。
思わぬ展開、
というのが多く
なりました。
しかしその代わり、
自分の「願い」や「祈り」は
必ず実現するように
なりました。
思惑通りにいかないのに、
「願い」「祈り」は
必ず実現する。
これが
真本音度合いの高まった人の
人生展開の
特色です。
だから、
面白くって
しょうがない。
本当に
面白い。
へぇ、
こう来たか!
まさかこんな展開に
なるとは!
へっ?
こんな道があったの?
・・・みたいな
あまりに楽しく
劇的な展開が
多くなります。
ひょっとすると
以前の自分が
「これは奇跡だ!」
と思っていたことが
今は日常茶飯事で
起きているのかも
しれません。
思惑通りに
いかないということは、
自分の顕在意識の
範疇の発想では
到底収まりきれないような
展開がある
ということです。
それは多くの場合、
「想像以上に
面白い展開だ!」
ということです。
「想定以上に
楽しかった!」
ということです。
それこそ
「冒険」
です。
冒険とは
その途上においては
上手くいかないこと
ばかりです。
つまりは、
思惑通りにいかないこと
ばかりです。
しかしだからこそ、
その後の展開と
結果が
感動的になります。
そう。
人生に
感動が多くなる
のです。
それが
真本音で生きる
ということであり、
真本音度合いが高まる
ということです。
・・・・・・
セルフコーチング法とは
真本音度合いを高める
ためのものです。
真本音度合いの高まらない
セルフコーチング法が
もしあるとすれば、
それはもう
セルフコーチング法では
ありません。
そして
セルフコーチングを
すればするほど、
思惑通りに
進まなくなる
ということになります。
自分と向き合えば
向き合うほど、
思惑通りに進まなくなる
のです。
面白いでしょ?
でもそれこそが
「人生」の
本当の意味なのです。
セルフコーチング法とは
人生の本当の意味を
実感するためのもの、
人生の醍醐味を
より強く深く
感じ取るためのもの
とも言えますね。
・・・・・・
思惑通りにいかない、
ということは
それだけ
後悔が多くなる
ということになります。
人は、
後悔することを
嫌がります。
でも、
私達の真本音は
わざと後悔を
呼び起こすような展開を
自分にもたらすことが
あります。
それはやはり
「冒険」の
ためです。
それを通じた
「進化」のためです。
私にも
「後悔」は
いくらでもあります。
日々、
「後悔」を
量産し続けています。
しかし
「後悔」が来た時が
私にとっては
喜びの瞬間でもあります。
なぜならそれが
「冒険」の始まり
であり
「感動」の始まり
だからです。
ただし、
「後悔」にも、
良い後悔の仕方と
悪い後悔の仕方が
あります。
セルフコーチングとは
良い後悔をするためのもの
とも言えます。
後悔が起きた時の
セルフコーチングのやり方。
それを
次回から
ご紹介しますね。
つづく
自分自身の思考レベルでの
思惑や意図に捕らわれ、
それを達成するために
必死になって策謀を重ね、
焦りながらも結果を出そうとする。
・・・そんな疲れる人生から
私達は自分を解放することが
できるのです。
前回の記事で
私は上記のように書かせて
いただきました。
(→前回記事)
今回は、この件について、
もう少ししっかりと
書かせていただきますね。
「意図を持たずに生きる」
という言い方をしますと
誤解をされることが多いです。
そっか、意図を持たなくていいんだ。
何も考えずに行けばいいんだ。
・・・という誤解です。
逆です。
自分の意図に執着せずに、
自分の意図から自由になるためには、
とことんまで
意図を考えることが重要なのです。
意図から自由になるためには
意図をしっかり考える。
一見、矛盾しているようですが、
そうではありません。
例えば、
肩に力が入っている場合、
肩の力を抜く最も簡単な方法は、
「肩の力を抜こう」
とすることではなく、
「思いっきり肩の力を入れてしまう」
というやり方です。
とことんまで
肩の力を入れると、
フッと、力が抜けます。
その要領と
同じことなのです。
例えば、明日
大事な営業があるとします。
どうしても受注を
しなければならない。
果たして良いクロージングが
できるだろうか?
不安に苛まれていると
します。
そんな時に、
「不安になるな、不安になるな」
「気楽に行け、気楽に行け」
と、どれだけ自分に言い聞かせても、
余計にガチガチになる
だけでしょう。
そんな時は、
とことんまでクロージングの
イメージをするのです。
思いっきり自分の意図を
明確にし、
意図に基づいて、
「こうしたい」「こうなりたい」
「こんな展開になれたらいい」
という自分の思惑を
しっかりとイメージ化するのです。
イメージしてイメージして
イメージし尽くせば、
ある瞬間に、
フッと楽になります。
まぁこれだけイメージしたのだから
何とかなるだろう、
と自分の中で「完了感」が
生まれるのです。
そして次の日に、
実際にお客様にお会いする直前にも
前日のイメージをしっかりと
思い出します。
まぁこれだけイメージしたのだから、
やるだけのことはやったな。
そんな気持ちを持ちながら
お客様の前に出ます。
そして「今ここ」に意識を向ければ、
自分がイメージしてイメージして
明確にし尽くした「意図」が
どうでもよくなります。
意図やイメージを
ポンっと手放すことが
できるようになるのです。
するとどうなるか?
「今ここ」に
完全に集中することが
できます。
そして、
次にどんな一言をお客様に
投げれば良いか?など、
直観がどんどん働くように
なります。
その直観こそが、
真本音の意思です。
その真本音の意思に
委ねれば良いのです。
直観のままに
直観に素直に
行動をするのです。
それが
「自分に委ねている」
状態です。
私達人間には
考える力があります。
考えることを放棄するのは
単なる怠慢です。
怠慢な人には残念ながら
直観は生まれません。
考え尽くすからこそ
直観は生まれます。
思考とは
直観の呼び水なのです。
ただし、
上記のように、
よく考え、よく意図を持ち、
その上で意図を手放し、
直観に委ねる、
ということを続けていますと、
考えたりイメージをするのに要する時間は
どんどん少なくなります。
考えなくても
直観のみが、
次々に湧き起こる状態に
なっていきます。
そうなると本当に
楽ですね。
しかしその境地まで行くには、
よく考える、
ということが必須なのです。
つづく
前回、「自分に委ねる」ということについて
書かせていただきました。
(→前回記事)
今回も、もう少しこの件について。
「自分に委ねる」ことのできる人は
ある時には突拍子もない行動に
出たりします。
ただしその「突拍子のなさ」は、
本人がそう思う、
というだけのことであり、
周りがどう見るか、ということでは
ありません。
つまりは、
これまでの本人の思考と行動パターンを
大幅に逸脱するからこそ
「突拍子もない」と本人が感じる
ということですね。
そういった意味での
突拍子のない行動を取る時、
本人の顕在意識は
ドギマギしています。
それはそうです。
これまでにないパターンの
動きを取るわけですから。
しかしそのドキマギを
横に置いて、
何の躊躇もなくその行動を
取ることで、
私達は自然に
「肚が据わる」
という状態に入ります。
「開き直る」
と言ってもよいかもしれません。
この状態は、
真本音が選択している行動
でなければ生じません。
反応本音レベルの
突拍子のない行動では、
開き直るどころか、
心も体も浮ついてしまいます。
顕在意識では
「おいおい、大丈夫かぁ」
となっていても、
周りから見れば、
実に落ち着き、確信に満ちた
表情や空気感を
醸し出す状態が、
開き直っている状態です。
この状態に入れば、
道は必ず開かれます。
しかも、
なんでこんなに簡単に開くの?
というくらいに
スムーズにすべての事が
運びます。
実在レベルでは
凄いエネルギーが発生し、
それがモロに
すべての人に波及し
強い影響を与えているのです。
こちらが、一つ動けば、
10の成果が上がる。
・・・というくらいの印象を
本人は覚えるでしょう。
そして一度これを体験すると、
これが
「当たり前」
となります。
突拍子もないと思っていた
自分の行動が、
「普通の行動」となります。
ますますその人は
肚が据わります。
こうして人は、
自分の幅を広げていきます。
これが
自由になる
ということです。
さて。
突拍子もない行動に
慣れてきますと、
基本的に、突拍子もない行動
自体が本人の中からは
なくなってしまいます。
すべてを淡々と
決めた通りに行動するだけ
の自分。
しかも自分で何かを意図するのでなく、
ただ、自分に委ねているだけ
という感覚です。
すると今度は、
余分な行動が激減します。
いえ、正確に言えば、
これまでは本人にとっては
それらはすべて
必要な行動である、と
思い込んでいたのですが、
何となく、
どうでもよくなってしまうのです。
結果、
どうでもいいと思うことは
すべて行動しなくなります。
すると、
じっとしている時間が
増えます。
何もしない時間が
増えるのです。
そして、
本当に必要だと思う行動のみ
何の迷いもなく、
何の淀みもなく
実行に移します。
しかもそこに
思考レベルの思惑や意図はなく、
ただ、
そう思う自分に委ねるだけ
という感覚。
しかしそれをすれば、
その一石だけで、
波紋は大きく深く広がり、
物事が想定以上のスピードで
展開していく。
そうなるともう、
生産性は
大袈裟ではなく
10倍以上になるのでは
ないでしょうか。
自分自身の思考レベルでの
思惑や意図に捕らわれ、
それを達成するために
必死になって策謀を重ね、
焦りながらも結果を出そうとする。
・・・そんな疲れる人生から
私達は自分を解放することが
できるのです。
束縛からの解放
というのは、
「結果を出さなくてもいい」
とか
「責任を負わなくてもいい」
ということではなく、
むしろ、真逆です。
束縛から解放されて
本当の意味で自分に委ねることの
できる人は、
「出すべき結果をきちんと出し」
「負うべき責任をきちんと果たす」
ことが自然に
できるようになるのです。
現実が思うようにいかないので
あれば、
意図を持ち過ぎです。
意図に
執着し過ぎです。
執着では
結果は出ません。
これからの世の中の潮流においては
ますますその傾向が
高まります。
自分の真本音の想いに
素直に、
その時その瞬間に現れる
真本音の意志に
そのまま身を委ねる。
そんな生き方(行き方)を
一歩ずつでも
実行してみてください。
つづく