私はかつて、

情にもろい

人間だった。

 

情に揺らされ、

情に流された。

 

私達は人間なので、

もちろん

情はある。

 

それは

大切にすべきもの

だし、

自然に大切にしようと

している人も

多いだろう。

 

しかし、

情を大切にする

ことと

情に流される

ことは

根本的に違う。

 

昔の私は

情に流されることで

随分と

人生の遠回りを

してしまった。

 

恐らく

「コーチ」をする

ということに関して、

ここが

最大の難関の一つ

かもしれない。

 

「コーチ」が

情に流されると、

コーチングそのものが

「根本的に」

おかしくなる。

 

コーチングを

すればするほど、

クライアントさんの

真本音度合いが

激減していく

結果となるのだ。

 

・・・・・・

 

私は

よく泣く。

 

年齢を重ねるごとに

その傾向が

高くなっている。

 

とはいえ、

人前で泣くことは

ほとんどない。

 

でも

一人になった時に

クライアントさんの

苦しみや感情と

「一つ」となってしまい、

さめざめと

泣き続ける。

 

なんて

可哀想なんだろう、

と泣くこともあれば、

 

なんでこの人はこんなに

苦しい目に遭わねば

ならないんだろう、

と泣くこともある。

 

もちろん

嬉しくて泣くことも

多いが、

苦しみはさらに

多い。

 

私は夜中に

一人で

いつも泣き、

 

そして、

その上で

毅然と

クライアントさん達と

向かい合う。

 

そして私は

一切、

情には流されない。

 

一切、

である。

 

・・・・・・

 

私が人として

願うのは、

 

(「祈るのは」

と言った方が

よいかもしれないが)

 

一人ひとりが

真本音で生きる

ことである。

 

情に流される

ということは、

反応本音に流される

ということと

イコールの場合が

多い。

 

だから言葉を

換えれば、

 

私は一切、

その人の反応本音

には

流されない。

 

恐らく、

死んでも

流されないだろう。

 

それは

コーチングの場

だけではない。

 

プライベートでも

すべて同じ。

 

両親だろうが、

妻でだろうが、

子供にだろうが、

 

その人が

真本音で生きる

ことを阻害するもので

あれば、

一切そこには

流されない。

 

例えば、

その人が

苦しみの状況を

「自力で」

乗り越えようと

真本音で決めている

のであれば、

 

私はその

真本音を尊重し、

一切の

援助もヘルプも

しない。

 

だから

私のことを

とてつもなく

冷たい人間だと

思っている人は

多いのではないか。

 

しかしどう思われようが、

私がこの部分で

揺らぐことは

死ぬまでないだろう。

 

・・・・・・

 

以上を

私が本当に覚悟

してからである。

 

私自身の

人生も、

 

私のする

コーチングも、

 

すべてが

調和を始めたのは。

 

特に

コーチングにおいての

クライアントさん達の

道を開く度合いは

次元を変えた。

 

だから私は

「コーチ」になろうと

している人に

 

これを求める。

 

情に流されるな。

 

情に流された

サポートを

するな、

と。

 

情に流される

ことと、

 

愛を注ぐ、

 

ということは

根本的に異なる

どころか、

真逆の行為に

なることが多い。

 

「コーチ」に

なろうとする人は

 

ここに逃げずに

立ち向かってほしい。

(→【コーチ探し、始めます】)

 

つづく