刹那的な興奮のみを
求めて生きる人は
残念ながら
真本音の悦びを感じることは
滅多にないでしょう。
もちろん、
刹那的な興奮が
いけないわけではありません。
しかし
それは多くの場合
4次元の喜びです。
4次元とは
「我欲」。
自分だけが嬉しければ
それでよし、
とする私達の心です。
私が
「我欲の次元」
と呼んでいるこの4次元は
実在(心の中)の世界においては
最低次元に当たります。
念のために申しますが、
我欲がいけないわけでは
ありません。
それに、
どれだけ高次元の自分に
なれたとしても、
人の心の中から我欲が、
つまりは4次元の意識が
消え去ることは
あり得ません。
我欲があってこその
私達であり、
我欲があってこその
人間であり、
いつも申していますが、
高次元から低次元まで
様々な意識を持つことにこそ
私は、
人間の尊厳と
存在意義を感じます。
我欲は我欲。
それ自体が
良いとか、悪いとか、
そういったことではなく、
我欲は我欲。
ただそれだけの
ことです。
ただし、
この4次元の意識には
私達の真本音は
ありません。
4次元の意識達は
とても儚く、薄く、
すぐに消えてしまうもの。
実在の世界においては
最も弱い存在です。
だからこそ、
我欲のみの喜びとか、
刹那的な興奮のみを
求めて生きる人は
心が脆弱になっていきます。
安定がなくなります。
揺らぎが大きくなります。
心の振れ幅が
大きくなり、
常に何かに怯えながら
生きることになります。
その状態において、
真本音の悦びを
感じることは相当に
難しくなるのです。
・・・・・・
逆に、
「我欲」を否定する人も
います。
実は、
我欲を否定する意識は
我欲と同じ次元に
属します。
何かを否定する、
とは
その時点でその「何か」と
同じ次元であり
同レベルなのです。
昔の私も
我欲を否定していた時期が
ありました。
そして自分は
高尚な人格者であろう
とし続けていました。
その結果、
我欲にフタをし続け、
我欲がそこにたくさん
あるにも関わらず、
我欲をないものとし、
自分が綺麗だと思う心のみに
光を当てて生きていました。
その結果、
体を壊してしまったのですが、
あの時の私は
今思い返しても
非常に不自然でした。
不自然な生き方を
している人は、
その反動が凄いです。
我欲を否定し続けている人は
何かのきっかけで
自分で抑え付けていた我欲が
一気に溢れ出てしまうことが
あります。
いえ、
何かのきっかけがなくても、
抑え続けている我欲が、
どんな時も、
その人の持つ空気感として
滲み出続けることになります。
本人は
我欲を否定しているのに、
我欲の空気感が
滲み出るのです。
そして周りの人達は
その空気感を敏感に
察知します。
何となく、あの人、
嫌だな。
と周りの人は
そんな印象を持ち、
しかし本人は
自分がそのような空気感を
出しているとは
思いもよりません。
そんないびつな人間関係を
日々、創り出してしまう
という結果になります。
いびつな人間関係は
いびつな人生に
直結しますね。
・・・・・・
自分は特別な人間だ、
と思うのも
我欲です。
かと言って、
自分は皆と同じでありたい
というのも我欲です。
そんなこと
どちらでもいいじゃないですか。
最初から私達には
高次元から低次元まで
様々な意識が
あるのです。
大事なのは
自己統合です。
高次元から低次元の
すべての自分が
同じ方向を向いて
パワーを集約する時、
私達は素晴らしい展開を
現実世界に起こすことが
できます。
「俺がやってやったぞ!」
でもなく、
「所詮、僕には無理だ」
でもなく、
ただただ淡々と
生きていく。
それが最も自然
なのですが、
しかしその
「淡々と生きる」
ということは、
高次元の自分にしか
できないことなのです。
「淡々」という言い方をすると
情熱も何もないような
印象になるかもしれませんが、
真の「淡々と」というのは、
安定の象徴です。
安定とは、
その根底に
莫大なエネルギーがなければ
実現し得ないものです。
本当の意味での
「淡々と」を実現できている人は
エネルギーの高い人
なのです。
エネルギーが高い、
とは
心も魂も満ち足りている状態
です。
そうなった時に初めて、
私達は
私達自身の我欲も
許すことができるのです、
本当の意味で。
高次元の自分が
現れれば現れるほど、
低次元の自分も
大切にすることが
できます。
低次元の自分を
否定し拒絶するのは
低次元の自分だけです。
つまり、
本当の意味で
人間らしく生きるためには
高次元の自分を
思い出す必要がある
ということですね。
つづく