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本当は、
不安定なのは
良いことだ。
思いっきり
不安定になる
ということは、
思いっきり
不安定になれるだけの
土台がある
ということだ。
土台が強固に
なればなるほど、
存分に
不安定になれる。
それが
私達の心の
真実だ。
ところが、
私達の多くは
この不安定さが
すべてであると
思い込む。
そして
不安定であることを
恐れすぎ、
不安定の波に
完全に呑まれてしまう。
溺れてしまう。
海に海底が
あるように、
どれくらい不安定な
心にも
海底が(大地が)
ある。
その心の大地を
常に
感じ取れるように
なれば、
どのような不安定も
安心して
観ていられる。
不安定さを
そのままに
しておける。
その
心の大地のことを
私は
『真本音』
と
呼んでいる。
・・・・・・
「大地」には
意志がある。
願いがある。
大地の願いを
叶えるために
大地は様々な
「不安定」を
自らに与える。
それは
不安定の中に
自分を溺らせる
ことが目的ではない。
自らを
「進化」させることが
目的だ。
「大地」は
進化を望んでいる。
「大地」は
常に
自らを進化させようと
思っている。
「固定」から
進化は生まれない。
「混沌」から
進化は生まれる。
だから
混沌(不安定)は
決して悪いことではない。
むしろ
そのまま受け止めれば
いい。
どれだけ混沌が
起きようとも、
自らは
大地にしっかりと
立ち、
ただただ
混沌を見つめれば
いい。
そのうちに
混沌そのものを
楽しめるようになるだろう。
・・・・・・
荒れ狂う海を
鎮めようと
してはならない。
海はそのままに
自らは
海底(大地)に
立てばいい。
すると、
海が荒れ狂って
いるからこそ、
そんな状態だから
こそ、
いや、
そんな状態でしか
できないことが
あるのだ、
と理解できるだろう。
不安定の
今しか
できないことが
ある。
それを
するんだ。
それをするためには
大地に立つ
しかない。
つづく
混乱。
そして、
混沌。
これらは、普通、
誰もが
嫌うものだ。
混乱するよりは
スムーズに進みたい。
と、普通は
思うだろう。
もちろん私も
そうだ。
ただ、
私はあえて
混乱や混沌を
その人や
その組織に
もたらすことを
大事にしている。
ちょっと極端に
言えば、
混乱・混沌をもたらす
人が「コーチ」である。
くらいに
思っている。
もちろんそれは
良い混乱
であり
良い混沌
だ。
「良い」とは
つまり、
「進化へとつながる」
ということ。
結果として
これまでよりも
次元を高めた
「調和へとつながる」
ための
混乱であり
混沌だ。
・・・・・・
混乱・混沌を
恐れる人は
結果として、
その心の内では
混乱・混沌が
大きくなる。
という傾向を
私は企業サポートの
現場で、
いやというほど
見てきた。
例えば、
人間関係を上手く
収めよう、
と
いつも努力している
人ほど、
表面上の関係を
繕うだけで、
心の内面では
そこにいる皆の中に、
日々、
混乱・混沌、
そして怒りや苛立ちが
増幅する、
という現実を
創り出してしまう。
しかも本人は
それに気づかない。
しかし、
望んでいない
出来事が
日々、
次々に起こってしまう。
自分は毎日
こんなにも
頑張っているのに、
なんで
悪いことばかりが
起こるのだろうか。
と、
その人は
悩んでいる。
実は自分が
すべての原因で
あることに
本当に
気づいていない。
混乱・混沌への
恐れは、
ますますの
混乱・混沌の増長と
共に、
麻痺すらも
起こす。
だから私は
わかりやすく
混乱・混沌が
起こりやすい状況を
創っていく。
いや、
そう書くと大変
おこがましいな。
私が創る
のではない。
私はただ、
「自業自得」が
働きやすい状態に
サポートする
だけだ。
真本音度合いが
高まれば、
自業自得が
起こりやすくなる。
自業自得と言うと、
悪い印象が
あるかもしれないが、
私はこれこそが
健康な状態
だと思っている。
調和に向かう
ことをすれば、
ちゃんと物事が
調和し、
不調和に向かう
ことをすれば、
ちゃんと物事は
不調和していく。
この状態が
できて初めて、
人は
健康的に進化を
始めるからだ。
子どもの育成
と同じ。
悪いことを
すれば
叱られるし、
良いことを
すれば
褒められる。
それを
親が行なうのでは
なく、
「現実」が
わかりやすく
行なってくれる。
これが
自業自得が機能
している状態だ。
自業自得が
機能するように
なれば、
必然的に
これまで
誤魔化し誤魔化しで
来たことが
そうはいかなく
なる。
次々に
不調和が起こり、
混乱・混沌が
増えてくる。
しかしそれは
本当に
一時的なものだ。
混乱・混沌の
おかげで、
自分が何を
修正し、
何をさらに進めれば
良いか?
が
よ〜くわかる。
それがわかれば、
日々、
面白いように
現実は
調和していく。
こういったことを
意図せずに
意図的に
もたらす
(意味、わかっていただけるかな?)
のが
「コーチ」だと
私は思っている。
つづく
「静かなほど、
エネルギーは高い」
これは、
私が今のお仕事を
20年以上続ける中で
実感するようになった
一つの原則だ。
ここで言う
「静か」
とは、表面上のことでは
ない。
例えば先日、
新宿駅を歩いていたら、
行き交う人混みを
観ながら、
とても静かだな、
と感じた。
この感覚
わかるだろうか?
これをもし
「よくわかります」
という人がいたら、
その人はほぼ間違いなく
「コーチ」に
向いている。
それはともかく、
あえて言うならば、
「行動が静か」
でも
「心が静か」
でもなく、
最も的確な表現で
言えば、
「魂が静か」
ということに
なるだろう。
心が静か
なのと、
魂が静か
なのは
根本的・本質的に
異なることだ。
この区別は
とても大事で、
私が人や組織を
サポートさせていただく
時に、
まずもって
最も大事にしているのが、
クライアントの皆さんの
魂は今、
ちゃんと静かになる方向に
進んでいるだろうか?
ということだ。
そしてある時に
突然、
その人の魂
(もしくは、その組織の魂)
が、
とても静かになる
瞬間がある。
それは
何かの「予兆」を
表している。
現実のレベルで
何かが
起こるのだ。
・・・・・・
魂が静かに
なった上での
現実の変化は
実際に何が起ころうとも、
それは
とても素晴らしいことで
あり、かつ
とてもその人(その組織)に
とって
必要なことである、
という事実が、
ある時から
わかるようになった。
たとえそれが
「混乱」であったと
しても。
ちょっと極端な例で
恐縮だが、
例えば、社員さん達が
会社を大量に
辞めてしまう騒動が
起きたとする。
その時に私は、
静けさのもとに
起きたのか?
それとも
騒がしさのもとに
起きたのか?
を観極める。
静けさのもとに
起きたことであれば、
それはその会社に
とっては、
脱皮や進化のために
どうしても必要な
ことだった、
という判別をする。
もちろん、
辞めていった社員さん達
の人生にとっても
である。
逆に、
騒がしさのもとに
辞めていったのであれば、
それは
その組織に何らかの
解決すべき問題点が
ある、
という判断をする。
ここをもし間違えると
とんでもないことに
なる。
言うなれば、
「加速のために」
起きたことなのか?
「問題があって」
起きたことなのか?
の判別である。
この観極めは
「コーチ」には
必須の感性だ。
例えばもし、
社員さん達が
「加速のために」
辞めていったとしても、
社長さんは多くの場合、
とてもガックリきているし、
いったい何が
問題だったのだろう?
と深く悩むことになる。
そこを、
「社長、ここは
悩むべきところでは
ありません。
このままさらに
グングン進んでください」
と、
言えるかどうか。
これを確信を持って
言える人を私は
「コーチ」と
呼んでいる。
ちょっと極端な
例であるが。
・・・・・・
もっと
端的に言えば、
・悩むべきところか?
・加速すべきところか?
の判別をつける
ということだ。
これは残念ながら、
当人には判別が
とてつもなく難しい
のだ。
第3者的視点を
持つ者にしか
できない、と
言っても
言い過ぎではない。
世の中は
これから
ますます「混乱」と「混沌」が
多くなるだろう。
そんな時こそ、
その表面的に現れる
「混乱」と「混沌」の
本質を観極めることの
できるコーチが
私は必須であると
思っている。
つづく