子どもの頃の
ような
無邪気さで
大人になってからも
生き続けるのは
難しい。
そりゃそうだ。
いろんな経験を
積むからね。
無邪気な自分に
戻れよ、
と言っても
それは無理な
ことだろう。
でも。
一つ確かに
言えるのは、
子どもの頃の
無邪気さは、
あなたの中には
確かに
まだ
存在している
ということ。
存在しているけど
出さない
だけのこと。
出さなくなった
理由は
人それぞれ
だろう。
人生経験に
よるものだろう。
でもやっぱり
それは、
ちゃんと
そこにある。
本来、
人生経験とは
自らの
選択肢を広げる
ためにある。
しかし
多くの人達は、
経験を積めば
積むほど、
経験に
縛られ、
自らの選択肢を
狭めていく。
しょうがないことだと
思うけれど、
やはり
もったいないことだ。
ではなぜ
そうなるか?
原因は
至って単純だ。
要するに、
自分と
きちんと
向き合って
いないからだ。
一つの経験や
体験に対して、
自分自身の心を
しっかりと
見つめていない。
本当は
見つめていれば、
一つの物事に
対して、
実に様々な自分が
(自分の心が)
発生するのが
わかるだろう。
それらすべてを
反応本音
と言う。
発生した
様々な反応本音を
あるがままに
見つめれば、
自分という人間は
なんて豊かな
存在なのだろう、
と
誰もが実感できる
はずだ。
と同時に、
どのような
物事に直面しても、
何があっても、
揺るがずに
変わらない
自分自身も
確かに存在する
ということを
感覚として
得ることが
できるだろう。
それを
真本音
と言う。
つまり、
ちゃんと自分と
向き合い続ければ、
自らの
真本音と
反応本音の
両方を、
経験を積めば
積むほど
より理解することが
できる。
そういう人ほど、
自分を
自然に好きに
なれる。
いろんな
嫌な部分もあるが、
自分という人間は、
可愛らしいもんだ
と
思えるようになる。
すると
自分以外の
すべての人に対しても
同じように
捉えられるように
なる。
そういう人は
無邪気に
なっていく。
もちろん
良い意味でね。
経験を積む前
の無邪気さと、
経験を積んでも
積んでも
滲み出る無邪気さ。
両方とも
本物の無邪気さ
だけど、
後者を醸し出して
いる人を
拝見すると、
やはり私は
感動するね。
人としての
豊かさを
体現しているから。
おかげさまで
私の周りには
そういう人が
とても多い。
おいおい、
もうちょいと
大人になれよ、
と
冗談めかして
突っ込みたくなるほど、
みなさん
無邪気だ。
かといって
多くの人は
企業経営者なので、
ちゃんと
責任を負いながら
生きている。
人間って
凄いもんだな、
と
いつも
思えるね。
つづく