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人というものに
対する理解を
深めることは
できるが、
人を理解しきる
ことなど
到底できない。
ということは
ちゃんと自覚した方が
いい。
人は
理解しきれない
もの。
だからこそ
理解しようと
し続ける。
それが
謙虚さの基本だと
思う。
私の場合、
この基本を
本当の意味で
身につけるまでに
随分と長い人生を
費やしてしまった。
だから
以前の私は
自分が本当は
人間嫌いであったことを
知っているようで
まったく理解して
いなかった。
人間嫌いな私が
人間が好きなふりを
している。
・・・これが
私だった。
しかし、
人とは
理解しきれないものだ
と
本当にわかった時から、
どうやら
途端に人のことが
好きになったようだ。
そして面白いこと
だが、
自分が人のことを
好きになったんだ
という事実も
だいぶ長い間、
私は自分のことなのに
理解できていなかった。
人は
美しい夕焼けの
景色のようなもの。
あぁ綺麗だな。
の一言で
終わることもある。
どれだけ綺麗でも、
毎日同じ角度から
同じ眺めを見続ければ、
それが当たり前
になる。
あーいつもの
景色ね。
になる。
でも
しっかりと目を
凝らして観察すれば、
一日一日
まったく異なる
陰影や色や光や
風や空気や気配が
そこにはある。
いや、
そういった現象的な
ものの一切を
超えた、
実在
が
そこにある。
実在は
変わらないものだが、
ずっと
変わり続けるもの。
だからその景色は、
「今この瞬間」
にしかあり得ない。
一刻一刻
すべて
異なるもの。
それらのすべてを
理解しきるなど
人の顕在意識には
到底、不可能だ。
だから私達は
その奥深さに
畏敬の念と共に、
深く
惹き寄せられ
続ける。
毎日、
人と向き合えば
向き合うほど、
それがたとえ
同じ人であったと
しても、
ちゃんと
向き合い続ければ
続けるほど、
人が
わからなくなる。
理解が
深まれば深まるほど、
さらに
わからなくなる。
その神秘を
感じ続けることも
また、
人生の醍醐味
ではないか。
つづく
人はなぜ
後悔するのでしょうか?
後悔にも
様々なものがあります。
次元の低い後悔も
あれば、
次元の高い後悔も
あります。
次元が低いからダメ
という話では
ありません。
高くても低くても
後悔ときちんと
向き合いながら進むことは、
間違いなく私達に
進化をもたらします。
ただ・・・。
一つ、しっかりと
お伝えしなければ
ならないことがあります。
それは、
後悔には
「真本音の後悔」
もある、という
ことです。
・・・・・・
「真本音の後悔」
とは、
正確に表現すれば、
「真本音が
もたらしている後悔」
と言えば
よいでしょうか。
どういうことかと
言いますと、
一言で言えば、
「後悔のその奥に
願いあり」
ということです。
つまり、
真本音レベルの非常に
強い願いがあり、
その願いに気づくための
後悔の経験であった、
と。
その後悔が
あったからこそ、
自らの真本音の願いに
気づくことが
できた、
と。
願いに気づくための
重要な経験としての
後悔。
ということです。
しかも、
そういったもので
あればあるほど、
後悔の念は
深く、強く
なります。
ある意味、
立ち直れなくなるくらいの
魂が慟哭するかのような
後悔。
それが、
真本音のもたらす
後悔です。
ところが、
そういった強い後悔からは
どうしても私達は
逃げたくなります。
その後悔と
向き合うことは
非常に辛いことです。
そこでその後悔から
逃げ続ける一生を
続ける人も多いです。
でもそれは、
自らの真本音の願い
に気づくチャンスを
逸していることになります。
何のために
自分の人生が
あるのか?
自分は
何に向かって
生きていけばよいのか?
その大事な大事な
答え、
人としての
幸せをもたらしてくれる
答えに
気づくチャンスを
逸していることになります。
・・・・・・
では。
後悔との向き合い方。
後悔についての
セルフコーチング法の続き
をいきましょう。
(→【後悔する自分を責めてはならない】)
後悔の出来事の中でも
自分が特に
どのポイントにおいて
深く後悔しているか?
を特定するところまで
きました。
それが特定できたら、
次にまた
とても大事な質問を
「後悔の念」に対して
投げます。
それは、
「君は私に
何を伝えたいの?」
もしくは、
「君は私に
何をわかってもらいたいの?」
という問いです。
これも、
自分自身の「後悔の念」を
理解しようとする
質問です。
理解しようとすることで
自分自身との
信頼関係を深めていきます。
この問いに対しての
答えとは、
多くの場合
反応本音レベルのもの
です。
例えば、
「もう俺は嫌なんだよ。
逃げたいんだよ!」
とか、
「俺がこんなに苦しんで
いることを
知ってもらいたいんだよ!」
とか、
「俺はもう、
あいつとは一緒に
やっていけないんだよ!」
とか。
そしてここから先は、
まるでカウンセラーになった
気持ちで、
自分の後悔の念と
向かい合ってください。
「それは
どういうことなの?」
「もう少し
詳しく教えてくれる?」
「どんな理由から
そう思うの?」
「そう言いながらも、
本当は私に
何を伝えたいの?」
「本当に、一番
解消してもらいたい
苦しみは何?」
「私に直してもらいたい
ことはある?」
「私にしてもらいたい
ことはある?」
「君はどうすれば、
もっと楽になれる?」
「君は本当は
何を望んでいるのだろう?」
「君は何のために、
私の両肩に乗っかっている
と思う?」
「君の切実な
願いとは何だろう?」
・・・などなど。
すべてが
「理解しよう」
とするための質問
です。
大切なのは、
返ってくる答えに対して
いっさいの
評価・判断をしないこと。
つまりそれは
否定をしないことは
もちろんですが、
肯定もしないこと
です。
否定も
肯定も
なし。
「知ろう」と
するだけです。
「あなたのことを
もっとよく知りたいんだ」
という意志を
その後悔の念に
向けていきます。
「愛」
という言葉がありますが、
愛のファーストステップは
「理解しよう」
という意志です。
私は、「愛」というのは
「エネルギー」だと
思っていますが、
「理解しよう」という
意識を向けることで、
そのエネルギーは
発生し、相手に
伝わります。
これは、
他者との人間関係でも
まったく同じですね。
・・・・・・
「理解しよう」という
愛のエネルギーを
受けることで、
後悔の念はさらに
浄化されるでしょう。
ポイントは、
その「後悔の念」が
最も伝えようとしていること、
わかってもらいたいと
思っていることを
ピンポイントで
特定・理解することです。
そこが特定できれば、
後悔の念は
ほぼほぼ浄化されます。
両肩がかなり
軽くなるのを
感じるでしょう。
そうなったところで
初めて、
いよいよ
「真本音」の
登場です。
つづく
後悔の念とは、
私達の頭の中ではなく、
体のどこかに
溜まります。
それが
「念」
というものです。
(→【体が感じているものとは?】)
セルフコーチングとは、
体のどこかにある
その「念」と
ダイレクトに対話を
します。
まるでそれが
他人であるかのように
向き合いながら、
対話をします。
対話の基本は
「問うて、待つ」
こと。
そして
自然に浮かんだメッセージを
「素直に伝える」
ことです。
例えば、
後悔の念が
両肩に溜まっていたと
します。
両肩に意識を向けると、
まるで黒い大きな岩が
乗っかっているような
重みと苦しさを
感じたとします。
その「岩」の重みを
しっかりと
あるがままに
感じ取ることが
スタートです。
感じながら
実況中継をすると
良いでしょう。
「この重みは
かなりキツイですねぇ。」
「重いだけでなく、
首の根元辺りに
痛みも来ていますねぇ。
まるで鋭利な刃物で
えぐられるような
痛みが時々、
ググッと来ますねぇ。」
「それからこれは
何でしょうか?
時折、何とも言えぬ
気持ち悪さも
ありますねぇ。
これは何でしょうか?
まるでナメクジがまとわり
つくような、
ヌメヌメとした
何とも言えない気持ち悪さ、
これはなかなかですねぇ。」
「あぁ、この黒い岩は
悪意のような気もしますね。
人の悪意の塊の
ようでもあります。
これはどんな悪意
なのでしょうか?」
・・・などなど。
実況中継を始めると、
単なる「重み」を
さらに観察し、
さらに詳細に感じ取ることが
できるようになります。
ここが
ポイントなのです。
詳細に感じることが
できればできるほど、
それは
「客観性」
となります。
この「客観性」が
大事です。
まるで他人のように
自分と
向き合うためにも。
・・・・・・
さて、このような
「重み」を両肩に感じたと
します。
両肩に乗っかっている
黒く大きな「岩」。
それが、
あなたの「後悔の念」
です。
この「念」に対して、
あなたは
何を問いかけてみたい
ですか?
ここで大事なのは、
その「念」に対して
評価判断をし、
説得を試みようとか、
その「念」を
取り除こうとか、
消去しようとか、
しないことです。
これは
通常の人間関係と
同じです。
それをネガティブに捉え、
それを除去しようと
すればするほど、
「反発」が大きくなります。
つまり、
そういったことをすれば、
その「岩」はさらに
大きく重いものに
成長してしまいます。
では、
あなたはその「岩」に
対して、
どのようなコミュニケーションを
取りたいですか?
・・・・・・
まず大事なポイントは
「理解しよう」
とすることです。
「理解しよう」
とはつまり、
「知ろう」
とすることです。
通常の人間関係でも
「理解しよう」
という向き合い方は、
信頼の芽を
育みます。
ですから最初は
次のような「問い」に
なるはずです。
「あなたはなぜ、
そこにいるの?」
もちろんこれは
責めるような口調で
伝えてはいけません。
あくまで、
「理解しよう」
「知ろう」
とするつもりで
尋ねます。
すると、
人によって様々な
返答があると思います。
例えば、
「後悔しているからに
決まってるだろ!」
という責め口調で
返ってくることもあるでしょう。
もしくは、
「助けてほしいんだよ」
とか
「悲しいんだよ」
とか
「寂しいんだよ」
とか。
すがってくるような
返答の場合もあるでしょう。
そこをさらに
「理解しよう」とする
会話を続けます。
「何をそんなに
後悔しているの?」
とか、
「何がそんなに
悲しいの?」
など。
より具体的に
その「念」の中身を
知ろうとします。
ここを
評価判断せずに
行なうことがポイント
です。
ただ「あるがまま」を
知ろうとしてください。
その問いの結果、
例えば、
「Aさんからの信頼を
完全に失っちゃっただろ。
それを後悔してるんだよ」
と返って来たら、
「Aさんの信頼を失ってしまった
私自身の行動や振る舞いで
最も後悔していることは何?」
などのように、
さらに具体的に
後悔ポイントを特定
していきます。
「どの瞬間に、
一番悲しみを感じたの?」
とか
「その悲しみを誘発した
私自身の行動や振る舞いは
何だっただろう?」
とか。
問いかけ方は
様々です。
まるで他人と会話を
しているかのように
臨機応変でよいですから、
あまり固く考えずに、
「理解しよう」
「知ろう」
とするコミュニケーションを
続けます。
すると、
「あぁ、なるほど、
私はここで一番、
後悔をしていたのか!」
と合点のいく
ピンポイントを特定
できるはずです。
「ここが一番、
嫌だったんだ」
という
最大の後悔ポイントです。
これを
自分自身が理解
できたその瞬間に、
後悔の念は
大きく浄化されるはず
です。
その時点で、
両肩の重みが随分と
軽減されるのを
感じるでしょう。
さて、
会話はまだまだ
続きます。
つづく
私は
「たけうちなおと」
という一人の人間ですが、
私自身が
「たけうちなおと」
と思っているものと
真実の
「たけうちなおと」
は
異なるものです。
私は
私自身のことを
恐らくまだ
これっぽっちも
理解できていないでしょう。
ちなみに私は
特にこの16年間は
自分と
向き合って
向き合って
向き合い続けて
まいりました。
自分のことを
理解しよう
理解しよう
理解しようと
し続けてまいりました。
その中で
「真本音」という
確固たる存在と
出会うこともできましたし、
私自身の中の
無限とも言える
多くの「反応本音」とも
出会って来ました。
毎日休みなく
24時間
私は自分自身と
向き合い続けようと
して来ました。
それが私の使命であるし、
世の中における
役割であると
ずっと思って来ましたし、
今ももちろん
思っています。
そして、
その現場と現実の中で
得ることのできた
自分自身との向き合い方を
「セルフコーチング法」
として
体系化もしています。
その体系化されたものは
日々、
進化を続けています。
それは
机上の空論的な
ものではなく、
あくまでも
現場と現実の中で
発見された
「生」のものです。
それを
16年、ずっと続けて来た
私が断言します。
私は
今もって
私自身のことを
これっぽっちも
理解できていない、
と。
そして、
私が認識している
「たけうちなおと」
と、
真実の
「たけうちなおと」
は
異なるものである、
と。
それほど
私達人間とは
奥の深いものです。
というよりも、
自分で自分のことを
理解し切れないように
できているのが
私達人間であると
言ってもよいでしょう。
自分のことが
わからないのが
「人間」
なのです。
・・・・・・
しかしだからと言って、
自分のことを
理解しよう
とすることを
あきらめましょう
という話では
ありません。
むしろ、
逆です。
わからないからこそ、
永遠に
理解しようと
し続けるところに
私達が存在する意味が
あるのではないでしょうか。
理解できるかどうか?
ではなく、
理解しようと
し続けるかどうか?
それができている人は
それをしているという
そのプロセスそのものが
魂や心を
満たしてくれるのです。
逆に言えば、
私達人間は
永遠に
「わからない自分を
わかろうとする」
「理解できない自分を
理解しようとする」
ように
できているとも
言えます。
つまり、
「わからない」こと
「理解できない」こと
そのものに
価値があるという
ことです。
これが、
私は
人間の本質の一つ
であると
思います。
だから今日も私は、
自分のことを
理解しようと
し続けましたし、
明日も
そうするでしょう。
そして
その生き方が
私の魂と心を
満たし続けて
くれるでしょう。
さらに、
魂や心が満たされた私が
向き合うことで
私と向き合った方々の
魂や心も
満たされ始めるでしょう。
もちろんこれは
私だけに限られた
ことではなく、
自分を理解しようと
真剣に生きる人は
すべて、
周りの人達の
魂や心を満たすきっかけを
与えることができるでしょう。
・・・・・・
わからないものを
わかろうとするのは
人の本能の一つです。
その、
わからないものの
筆頭が
自分自身です。
ですから、
「私のことを一番
わかっているのは
私だから」
と思うこと自体が
もったいない。
あなたは
そんなもんじゃないよ!
と私は
お伝えしたい。
いや、
そうお伝えし続けているのが
私のサポートの
本質かも知れませんね。
そう。
あなたは
そんなもんじゃない。
あなたが
あなた自身だと
思っているその「あなた」は
単なる
幻想です。
思い込みです。
ちょっと言い方が
きつければ、
それはあくまでも
「あなたのほんの一部」
に過ぎない、
ということです。
その
「ほんの一部の自分」
に執着し、
その
「ほんの一部の自分」
を守るためだけに
人生の貴重な時間を
使ってしまうのは
もう
やめてしまいましょう。
それよりも、
未開発の
未発見の
あなた自身を
見つける旅を
しませんか?
それはそれは
楽しい
冒険の旅ですよ。
「冒険」は
今この瞬間から
もう、すぐに
始めることが
できますよ。
つづく
私には、
私のことを真に
理解してくれて、
私にとっての真の
仲間であると
思える人が
何人いるだろうか?
こんな問いを自分自身に
投げたことはありますか?
随分前の私は、
この問いへの答えは
「0人」
でした。
『真本音』と出会う前の
時代の私です。
もちろんそれまでに
親友と言える友人とも
随分と出会ってきました。
その当時には
すでに妻も子供も
いました。
共に必死になって仕事をする
職場の仲間もいました。
師匠だっていました。
しかし、
私のことを本当の意味で
理解してくれているかどうか?
と問うと、
あぁ、そんな人は
一人もいないんだ。
という事実に気がついて
愕然としました。
そしてこう思いました。
それが人間なんだ、と。
それが
人生というものだ、と。
所詮、我々は
孤独なのだと。
自分のことを本当に
理解できるのは
自分だけなのだ、と。
みんな、
そうなのだ、と。
・・・もちろんそれは、
その当時の私の
単なる思い込みです。
なぜなら、
今の私には
真の仲間と言える人、
真に私のことを理解して
くれている人、
が本当にたくさん
いるからです。
下手をすると、
出会ったその瞬間、
目と目が合った
その瞬間にもう
そう思える時も
何度もあります。
それこそ、
思い込みではないか?
と言われそうですが、
いいえ、
それは真実です。
なぜなら今の私は
『実在』
を感じ取ることが
できるからです。
今、こうしてこの文章を
書いている私は、
自宅の書斎に一人で
います。
今、深夜の3時です。
ところが、
目を閉じると、
実に多くの人達の
「気配」
を感じます。
これも
思い込みでは
ありません。
「実在」です。
つまり、
実際にここに存在する
ものです。
ちなみにこれは
霊感とは違います。
私には
霊感はありません。
ただ私は
「実在」を
感じ取ることができるように
なったのです。
ですので、
常に私は仲間達と
こうして共にいることが
できます。
現象(現実)のレベルでは、
(3次元のレベルでは)
遠く離れていても、
実在のレベルでは
距離も時間の差異も
ありません。
だから常に
一緒にいるのです。
共に
同じ願いを持ち、
同じ方向を向き、
同じ試行錯誤を
している仲間達。
この「実在」を感じ取る
という力は、
もちろん私だけに特有の
ものではありません。
誰もが普通に
感じ取れるものです。
つまりこれも
「普通の生き方」の
一つです。
えぇ?
そんなの普通じゃないよ。
と言われそうですが、
いえいえ、
これこそが私達人間誰もが
もともと持っている
コミュニケーションの力の
一つです。
『実在コミュニケーション』
・・・とも私は呼んでおり、
これは「真本音コミュニケーション」
の形の一つです。
真本音で生きることで
こうした力を開花することが
誰もができます。
実在コミュニケーションが
できるようになれば、
「直観力を高めよう」どころの
話ではなくなります。
「直観」が
通常の思考と同じか
それ以上に普通の状態に
なります。
もう本当に
迷わなくなります。
いえ、
正確には迷うことはありますし、
迷うこと自体に
生きる上での大きな意味が
ありますが、
迷いそのものを
本当に楽しめるようになります。
心の調子が良いとか
悪いとか、
関係なくなります。
心の調子が悪い時は
人間である以上
私にもあります。
特に毎日、多くの方達の
ストレスを受け続けていますので、
その影響もあり
ストレスの塊みたいなものに
心が閉ざされてしまうことも
しょっちゅうです。
絶望感。
倦怠感。
孤独感。
怒り。
憎しみ。
時には、狂気。
・・・
様々な反応本音達に
心が閉ざされることは
この仕事をしていれば
本当に毎日です。
でも
それが一体、
何だと言うのでしょうか。
心の状態が
絶望的に悪くなったとしても
ただ、
それだけのことじゃん。
・・・というように
心の状態の良い悪いに
捕らわれない
自分になれるのです。
どんな心になっても
おおらかな気持ちで
それを楽しみながら
観察できる自分。
真本音という大地に
立てていることによって
そうなれるのですが、
私が本当に
そうなれたのは、
実在コミュニケーションが
できるようになってからかも
しれません。
ですのでこれも
すべての人に
できるようになってほしいな、と
私は願うのです。
「実在」のことを書くのは
ある意味勇気の要ることですし、
恐らく誤解も生じるでしょうが、
でもそれでもこのブログでは
そこに挑戦したいな、と
思っている私が
ここにいます。
さて、明日から
どんな文章を
私は書くのでしょうね?
つづく
言葉とは
カタチです。
一つの記号とも
言えます。
ですから、
「山」
という一言をつぶやいたとしても、
この一言から想像される山のイメージは
人それぞれです。
しかし、
「山」
という言葉を聴くことによって
「海」ではないことはわかりますし、
思考や発想の方向性を
合わせることもできます。
「今週末、一緒に
山にキャンプに行かないか?」
と言われて、
「じゃあどんな水着で行こうかな」
と考える人はほぼ
いないでしょう。
しかしやはり方向性は
定まるものの、
詳細なイメージは
きちんと共有しなければ
誤解を生むことにもなります。
「山に行こう」と言われて、
すぐ近くの裏山をイメージする人も
いれば、
富士山に行くイメージをする人も
いるでしょう。
私達は、
言葉という「記号」を活用しながら
お互いの想いやイメージを
一致させようとします。
それが私達の普段の
コミュニケーションです。
ところが。
以上はあくまでも
3次元という限定された部分に
限って言えることです。
高い次元の私達の意識は
すべて
つながっています。
いえ、というよりも
「一つ」です。
「一つ」である我々は
本当はもともと最初から
すべてを共有している
とも言えます。
もちろん
人生経験も違いますし、
実際に頭の中で展開される
イメージも、
人それぞれ異なるでしょう。
しかし、
そういった表層的ではない部分で、
私達はまったく同じことを感じ、
まったく同じ想いを
抱いています。
ですから、
高い次元の意識を
発動している人達同士が会えば、
コミュニケーションにおける
「説明としての言葉」
は、ほぼ必要なくなります。
「山に行こうよ」
と言われれば、
「あっそうだよね。
私もそうしようと思ってた」
となりますし、
どんな山に行きたいか?も
ほぼ説明なしで
お互いに理解・共有できて
います。
これが仕事上で起こると、
なかなかに凄いです。
まず、
とてつもなく打合せ時間は
短くなります。
齟齬も誤解もなくなります。
ほんの一言二言
言葉を交わすだけで、
お互いにすべてを納得し、
自分のすべきことが
明確になります。
そしてその通りに動けば、
きちんと成果が
出ます。
とてつもなく
仕事が楽になります。
ここまで来ると逆に、
私は「言葉」の有り難みを
より強く感じます。
たった一言の
言葉という記号があることで、
各々がここまで感じ取ってきたことの
確認と今後の方向性が
一瞬で明確に、シンプルに
なるからです。
言葉っていうのは
ありがたいなぁ、と
いつもつくづく思います。
ですから私は
言葉をとても大切にします。
余分な一言は
決して言いません。
思ってもいないことを
口にしたり、
迎合のためのやりとりは
絶対にしないことに
決めています。
そうすると、
言い合いや自己主張ばかりの
コミュニケーションになってしまう
イメージがあるかもしれませんが、
高い次元の自分で動けば、
すべては
淡々と調和します。
こちらの想いと相手の想いが
「一つ」なのですから
当たり前と言えば当たり前です。
例えば上司と部下の関係で言えば、
上司が部下を何かの件で叱らなければ、
と思った場合、
そのお叱りの言葉を口に出す前に、
部下が自分で自分の過ちに気づき、
自主的にそれを直そうとします。
なんだ、結局叱る必要なかったな、
ということが、私の場合は
毎日のように起きています。
決して大袈裟な表現では
ありません。
高い次元のコミュニケーションとは
そういうものです。
高い次元の自分で生きることは
決して特別なことではない、
というお話を
以前いたしました。
(→人間である以上、誰もにもともとあるもの)
高い次元の自分として生きるのは
もちろん、
苦しいことでもありません。
疲れることでもありません。
まったく逆。
だからこそ
私達の中には
エネルギーが満ちてきます。
そのエネルギーを使って
自分が本当に望む現実を
創り上げることができます。
どうせ同じ人生を
生きるのであれば、
常にエネルギー満タンの自分で
いたくありませんか?
つづく