「ラポール」という言葉があります。
臨床心理学で使われる用語なのですが、
コーチングの世界では「信頼関係」と訳されます。
もともとは、「心と心がつながる」とか「心が通い合う」
という意味だそうです。
私は、いつもこれをあえて
「本能的信頼関係」
と表現しています。
人が人を信頼する多くの場合は、
何らかの理由があります。
例えば、
仕事ができるから信頼できる、とか、
約束を守る人だから信頼できる、とか、
器が大きいから信頼できる、とか、
物事を必ずやり遂げるから信頼できる、とか。
しかし「本能的信頼関係」とは、
そういった理由や根拠はありません。
何となく、この人いいな。
何となく、この人好きだな。
何となく、この人と一緒にいたいな。
何となく、この人と通い合いたいな。
何となく、この人と心を開いて話したいな。
そのように、明確な理由がないのに、
初対面で会ったその瞬間からそう思える時が
あります。
それを「本能的信頼関係」と呼んでいるのですが、
その原因のほとんどは、その人の放つ
「空気感」
です。
生田さんが、平井さんのことを
まるで別人に生まれ変わったようだ、と感じた
最大の要因も、
平井さんの発する空気感の変化でした。
(→前回記事)
もともと、「人間不信」とも言える冷たい空気感を
持っていた平井さんが、
「人間愛」とも言えるようなあたたかい雰囲気を
醸し出すようになりました。
そうなれた最大の原因は、
平井さんが自分自身を許すことができた
からです。
言葉を変えると、
平井さんが、自分自身とのラポールを構築できた
からなんです。
自分自身とのラポール。
私は極端に言えば、人生の8割は
これで決まると思っています。
自分のことを自分が信頼できるか?
です。
ですがこの信頼とは、あくまでも
本能的信頼であって、
私はこんな能力があるから自分を信頼できる、とか
私はこんな経験を積んできたから自分を信頼できる、とか
私はこんな個性だから自分を信頼できる、とか
そういった理由付きの信頼ではありません。
ただただ、心の底から
自分を信頼できるかどうか?
です。
残念ながら、そういった意味で
自分のことを本当に信頼できている人は
非常に稀です。
これはいわゆる「自信」とは
関係がありません。
むしろ私の経験から言えば、
自信のある人ほど、
自分自身への本能的信頼感が少ない
という傾向があります。
自分自身への本能的信頼感がないが故に
それを満たしたいが故に物事に頑張り
経験を積み、
「自信」を得てきている人が多いのです。
しかしどれだけ自信を得ても、
自分自身への本能的信頼は増えません。
本能的信頼が枯渇しているから
自信の持てる自分でい続けよう、とします。
そんな人が多いのです。
自分への本能的信頼を得ている人の多くは、
自信があるとかないとか、
そんなことは関係ない、という感じです。
そういう人は、よく自信のなさからくる不安を
感じ取ります。
ですから、自分は弱いなぁ、という自己イメージを
持っている人が多いです。
しかし、自信とはまったく別の次元で、
「確信」が湧いてきます。
その確信に基づいて、行動をします。
つまり、
自信と確信は、まったくの別物です。
確信に基づいて生きている人ほど、
自信のあるなしは、
関係なくなります。
弱い自分だろうが、強い自分だろうが、
関係なくなります。
どちらにしても、自分の行動や選択は
変わらないからです。
平井さんは言われます。
「以前よりも今の方が私は
自信がないと思います。
正確に言えば、自信のない自分を
あるがままに感じることができるようになりました。
あぁ、自信がないんだなぁ、私は、と。
しょうがないなぁ、私は、弱いなぁ、私は、
と思いながら、でも行動を変えることはしません。笑」
私は、これこそが
人の本当の強さ
だと思います。
自信があるからできる。
というのは、本当の強さではないと
私は思っています。
自信があるからできる。
自信がないからできない。
その次元で自分の選択をし続ける状態を
私は「傲慢」と呼んでいます。
「独りよがり」と呼んでいます。
「わがまま」と呼んでいます。
その次元から抜け出ることは、
すべての人が可能です。
その次元から抜け出て、
自分の確信によってのみ生きることで
私達は「自由」になれます。
そして、
本当に望む人生を創り出すことができます。
では、どうすればそんなことが
できるのでしょうか?
どうすれば、自分自身と
本能的信頼関係を結ぶことができるのでしょうか?
その答えは極めてシンプルです。
つづく
平井さんの変化について、
さらに深掘りをしていきます。
(→前回記事)
「実は、私はあなたのことが嫌いでした」と
平井さんに告白した生田さんという部下がいます。
私は生田さんにお訊きしました。
「平井さんが最も変化されたのは
どこですか?」
生田さんは、じーっと考えた後で、
こう言われました。
「上手く言えませんが、
以前は、私は平井から全否定をされていたような
気がするんです。」
「全否定?」
「はい、そうです。
自分のすべてを否定されていたような。」
「どんな時に、そんな風に感じられたんですか?」
「多分、彼は全否定をしている気はなかったと
思います。
でも私は、彼のちょっとした一言一言に、
あぁこの人は私にいてほしくないんだ、
私のすべてが嫌いなんだ、という印象を受けました。」
「何か具体的なやりとりの場面を思い出せます?」
「う〜ん、一つ一つは本当に小さなことなんですよね。
でもその積み重ねで、私は平井のそばにいることが
本当に怖くなりました。
まぁ、いい大人ですし、仕事ですから、
そんなことは言っておれないのですが。
でも、会社に来て、平井の顔を見るのは
本当に嫌でしたね。」
実はこのようなケースは生田さんだけでなく、
とても多いです。
思い出せないくらいに小さな一つ一つの
積み重ねで、心を深く傷つけてしまうケースです。
「今はどうなのですか?」
「今はまったく変わりましたね。
大袈裟ではなく、私は平井という人間が、
一度、死んで生まれ変わったか、
体だけ同じで、中身がまったく別人と
入れ替わったか。
そんな感じがしています。
部下で年下の私が言うのもおこがましいですが、
平井を見ていると、人は変われるんだ、と
希望を持てます。」
生田さんの言われていることは
私にもよくわかります。
私は第三者ですから良いのですが、
もしこの人の部下になったら、
かなりキツイだろうなぁ、というのが
出会った頃の平井さんへの印象でした。
時折、彼からふっと漂ってくる空気感が、
とてつもなく冷たかったからです。
それを言葉で表現するのは難しいのですが、
あえて言えば、
「人間嫌い」
「人間不信」
の塊のような空気感です。
それが今はまったくない。
どころか、常に平井さんから感じるのは
「すべてを受け止めるあたたかさ」
です。
人間不信の冷たい空気感を持った人が、
ほんの些細なことでも人を叱ったり注意をすれば、
それをされた人は、
自分が全否定された、という印象を得ます。
それに対して、まったく同じ言葉で
注意を受けたとしても、
もし、あたたかい空気感を持った人からの
言葉であれば、
人はそこに愛を感じます。
管理職研修などで、
部下を上手く叱るにはどうすればよいでしょうか?
というご質問を、私はよくいただきます。
しかしそれは、言葉の言い回しや
テクニックではないのです。
自分が、「人間」というものに対して、
どのような空気感を発しているか?
で、ほぼすべてが決まってしまうのです。
そしてその、あたたかい空気感は、
「心を大きく持とう」とか
「自分は人格者であろう」とか
「もっと器を大きくしよう」とか、
そういった心構えレベルで出せるようになるものでは
ありません。
空気感を決めるものは、
「自己承認」
できているかどうか、です。
自分のすべてを、
自分が許せているかどうか?
です。
そして、
人が自分のことを最も許せなくなる
最大の要因は、
「自分の真本音を自分がないがしろにする」
ということなのです。
つづく