責める

自分を責め続けたなぁ

 

そういえば

昔の私は、

 

いつもいつも

毎日毎日

ほんのわずかでも

材料を見つけては

自分自身を

責め続けていたなぁ。

 

何があっても

全部自分のせい。

 

自分が悪い。

 

自分に原因があり、

自分が直すしかない。

 

だから

今の自分ではダメだ。

ダメだ。

ダメだ。

 

もっと成長せねばダメだ。

ダメだ。

ダメだ。

 

こうあるべきだ。

 

こうすべきだ。

 

・・・と、

いついかなる時も

自分をがんじがらめに

していた。

 

責め続け、

自分を弱らせ、

ふらふらになっている

ことこそが

人生の修行であり、

 

それが人の成長だと

思っていた。

 

辛い人生

だったなぁ。

 

・・・・・・

 

恐らく、

その生き方のせいで

私のエネルギーは

98%くらいは

自分を責めることで

消費されていた。

 

あとのたったの2%で

前に進んでいた。

 

そんなんで

ちゃんと進めるわけが

ない。

 

はっきり言って

自分を責め続ける

というのは

自己満足でしかない。

 

しかし

そんなことはわかっていても

それでもしてしまう。

 

真面目な人ほど

そうかもしれない。

 

自立しよう。

 

自律しよう。

 

そう真面目に思う人ほど

その傾向が出るのかも

しれない。

 

物事を自分事として

捉えること自体は

大事なことだが、

 

それと、

自分を責めること

とは

まったく別のことだ。

 

・・・というのは

理屈ではわかって

いるんだけどね。

 

・・・・・・

 

今、私は

自分を責めるということは

ほとんどなくなった

と思う。

 

いつから

こうなれたのかな?

 

どうして

こうなれたのかな?

 

と考えると、

いろんな理由が

思いつく。

 

が、

本当に「このままじゃいけない」

「自分を責めていてはならない」

と思えたのは、

ある一つの事実を

知ったからかな。

 

何かと言うと、

 

自分を責める人は

知らず知らずのうちに

他人を責めている。

 

・・・という事実だ。

 

自分を傷つける人は

知らず知らずのうちに

他人を傷つけている。

 

・・・という事実だ。

 

これは

明確な事実。

 

自分だけを責めて

他人は責めていない

という人は

きっと一人もいない。

 

自分を責める度合いと

他人を責める度合いは

正比例する。

 

自分自身に

していることが、

そのまま

他人との関わりに

反映される。

 

これが真実だ。

 

だから私は

必死で自分を

愛することにした。

 

自己愛じゃないよ。

 

本当に自分を愛する

とは

どういうことか?

真剣に考えるようになった。

 

その後だな。

 

私が、『真本音』と

出会ったのは。

 

愛を突き詰めると

「真本音で生きる」

ということに

たどり着いた。

 

そして

真本音で生きることで

自分を愛せるように

なった。

 

すると

他人も愛せるように

なった。

 

それまでの自分は

「愛」をまったくもって

わかっていなかったことが

わかった。

 

そしてようやく

自分を責める

その苦しさから

抜け出せるようになった。

 

自分を責める

には

かなりエネルギーが

必要だ。

 

そのエネルギーを

すべて

愛に転換できれば

 

人生は本当に

変わるね。

 

つづく

 

うるさくないか

 

自分を

鎮めよう。

 

もし

心の中が、

 

心の底が、

 

うるさくなったら、

騒がしくなったら、

 

物事の判断を

してはならない、

 

という

合図だ。

 

自分を

鎮めよう。

 

静謐な状態で

次の一歩を

決めよう。

 

もし

自分が鎮まらない

のであれば、

 

今のあなたの

生き方には

何か問題がある。

 

恐らく、

日々、

本当にすべきことを

していない。

 

自分が

鎮まらない最大の

原因は、

 

自分を責める

自分がいる

 

のだ。

 

すべきことを

せず、

してはならないこと

ばかりを

してしまう、

 

そんな自分を

心の奥底で

責め続けている

のだ。

 

だから

鎮まらない。

 

その場合は

一度、

「反省」

が必要だ。

 

自分の生き方を

ちゃんと

見つめ直し、

「やり直し」を

しようと、

覚悟することだ。

 

それをすれば、

自分を責める自分

「責め」をやめる。

 

そして

静謐が

訪れる。

 

その状態で

次の一歩を

決めよう。

 

あなたは

本当に

すべきことを

やっているか?

 

この問いに

静かに向き合える

自分で

いられるか?

 

人生に

「振り返り」と「反省」

必要だ。

 

一日の終わりに、

今日の自分を

しっかりと

見つめてみよう。

 

心が

鎮まったら、

一日を終えよう。

 

そして

鎮まった自分として

次の一日を

始めよう。

 

つづく

本当の自分と出会う方法

私達の心の中には

自分の観たくない反応本音が

たくさんあります。

 

自分が知りたくない

反応本音のパターン(クセ)も

たくさんあるでしょう。

 

それを観て、

知ってしまったら、

自分のことを

嫌いになってしまうかも。

いや、

嫌いになるだけならまだましで、

自分のことを否定したり、

自分の過去の振る舞いを

後悔したり、

自分を責め続けることに

なるかもしれない。

 

過去の変えることのできない

後悔の事実達を

フラッシュバックしながら

生きていかねばならないかも。

 

・・・そんな恐れが

ほとんどの人にあるでしょう。

 

だから、

観たくないものには

フタをして、

前向きに生きていこう。

 

・・・これも多くの人が

無意識に行なっている

ことです。

 

しかし残念ながら、

こういった生き方は

自分の心をさらに

深刻にするだけです。

 

なぜなら、

フタをしているだけで、

本当は自分のことを

自分はよくわかって

いるからです。

 

自分を責めたくないから

フタをする。

しかし、

フタをしたその中で、

その人は自分をもう

責め続けているのです。

 

しかも、

自分を責めていることに

自分が気づいていない、

という状態ですから

「そこに気づけよ!」

と自分に苛立ちながら、

さらにその「責め」を

増幅させてしまうのです。

 

自分のことを

観ない。

 

その事実だけで、

人は自分を

責めるのです。

 

ですから、

一番楽な生き方とは、

一つ一つを

ちゃんと観察すること。

 

後悔するなら

後悔するでもいい。

 

一つ一つを

ちゃんと後悔しながら

進むこと。

 

一つ一つを

ちゃんと反省しながら

進むこと。

 

一見、その方が

深刻な人生になりそうですが、

それが本当にできている人は

だんだんと自分に対して

「おおらか」に

なっていきます。

 

自分ときちんと

向き合っていることを

自分が一番よく

わかっているからです。

 

そういう人は

自分のことを

自然に許せるように

なります。

 

確かにその行為は

酷かった。

するんじゃなかった。

でも、しょうがない。

私も人間だ。

間違いはある。

次はそうならないように

注意しよう。

 

・・・そんな感じに

なっていきます。

 

そしてそれをさらに

続ければ、

そんな間違う自分を

「可愛らしいな」

と思えるようになります。

 

もちろんそれは

自己満足とは違った

状態です。

 

自己満足の「可愛らしいな」は、

自分の観たくないものに

フタをした状態で

無理にそう思い込もうと

している状態です。

 

しかし、

自分と向き合い続けることで

自然に生まれる

「可愛らしいな」は

愛の一つのカタチです。

 

これができる人は

他人に対しても

同じ目線を向けることが

できるようになります。

 

人のことを

許せる自分になれます。

 

そこにあるものを

そのまま観る。

 

観るだけでよいのです。

 

それをどうこう

しようとしない。

 

それが

『存在承認』です。

 

存在承認を

し続けることで、

私達は初めて

ある一つのことに

気づくでしょう。

 

その気づきとは、

頭で理解する気づきではなく、

感覚として覚える

気づきです。

 

実感する気づき

です。

 

それをあえて

言葉にすれば、

次のようになります。・・・

 

すべての自分の心を

観続ける自分。

 

すべてを

存在承認し続ける

自分。

 

あれ?

 

この観続けている

この自分は

誰だ?

 

すべてを客観的に

観ているこの、

ここにいるこの

自分は

何者だ?

 

私は、

誰だ?

 

・・・ということです。

 

何度も書きますが、

理屈ではなく、

実感として

体感として

それを感じ取ります。

 

すべてを観つめている

その主体である

自分自身の存在を

ある瞬間に

ありありと自覚するのです。

 

そうです。

 

その主体こそが

『真本音』

です。

 

本当の

自分です。

 

つづく