私が人生において

初めて自分の「脱皮」を

自覚したのは

18歳の時です。

 

北アルプスにある

常念岳という山を

登っている途上でした。

 

かなり急峻な山で、

その時は50kgのザックを

背負っており、

しかも天候も悪く、

一歩一歩を踏み出すことに

全力を集中させて

いました。

 

ところが、

急に天候が

良くなったのです。

 

覆われていたガスが

晴れ渡り、

青空が

見えました。

 

と同時に、

まったく閉ざされていた

視界が広がり、

目の前に

槍・穂高連邦の

雄姿がドッカ〜ンと

姿を現しました。

 

と同時に

私自身の人生の

視界も

急に広がったのです。

 

目の前の現象と

心の中の実在が

一致するという、

今思えば

非常にわかりやすい

シチュエーション

でした。

 

これまで

非常に小さな視界の

中でしか

発想していなかった

私の思考は

一気に開放され、

 

とてつもなく

晴れやかな気分に

包まれながら、

 

私の中には

二つの問いが

生まれました。

 

「私はなぜ、

ここにいるのだろうか?」

 

「私の人生には

どのような意味が

あるのだろうか?」

 

です。

 

私はこの後、

その思索に耽りながら、

山を登り続けました。

 

疲れは完全に

吹き飛び、

これまたとてつもなく

幸せな時間でした。

 

今でも

ありありと

思い出せます。

 

・・・・・・

 

私達は、

自分自身の視界を

閉ざしてしまうような

「何か」を

常に抱え込んで

生きています。

 

その荷重が

限界を超えた時、

 

私達はそれを

一気に放り投げ、

身軽になります。

 

それが私の言う

「脱皮」というもの

ですが、

 

きちんとした

「脱皮」のためには

その荷重を

しっかりと背負い、

かつ、

感じ続けなければ

なりません。

 

荷重から

逃げたり、

目を逸らしていれば、

荷重は増えるばかりで

永遠に

脱皮はできないのです。

 

そしてついには

荷重によって

押し潰されてしまい、

 

押し潰されて

倒れ込んだままで

人生を終えてしまう

人もいます。

 

自分が今、

何に苦しんで

いるのか?

 

それを私達は

しっかりと自覚する

必要があるのです。

 

脱皮のためにも。

 

自分の人生の

ためにも。

 

そして、

自分の大切な

人達のためにも。

 

・・・・・・

 

真本音度合いが

高まると、

まず、

自分のその荷重に

気づく人がいます。

 

その人は

言います。

 

「真本音を大切に

し始めたら、

苦しくなりました」

 

と。

 

いえ、

それは

「苦しくなった」

のではなく、

 

「自分が苦しんで

いることを自覚した」

 

のです。

 

要するに、

麻痺が取れた

のです。

 

人は

麻痺を取ることを

極度に恐れますが、

 

しかしやはり、

麻痺のままでいる

ことは、

最もオススメできません。

 

なぜなら、

麻痺は

自分自身の苦しみを

増大させるだけでなく、

自分の周りの人達にも

苦しみや不調和を

与え続けるからです。

 

麻痺している人は

自分の気づかないところで、

周りの人達を

傷つけ続けます。

 

本人の気づかない、

ちょっとした一言、

ちょっとした空気感、

ちょっとした振る舞いに

よって、

周りを傷つけ続ける

のです。

 

麻痺していても

苦しいからです。

 

結局は

苦しみは変わらず、

その苦しみから

逃れるために、

その人は自分以外の人を

知らず知らず

傷つけ続けます。

 

そういった人が

いかに多いことか。

 

・・・・・・

 

人生は

苦しいか?

楽しいか?

 

もちろんそれは

両方です。

 

しかし、

苦しみと楽しさは

相反するもの

ではなく、

 

しっかりと自分の

苦しみと

向き合える人は、

 

本当の意味での

楽しさを

得ることができるのです。

 

つづく