2025年 1月 の投稿一覧

ここからの進み方

闇に包まれて
何も
見えなくなっても

ここからは
もう

焦る必要は
ない。

何も
見えないの
なら、

待てば
いい。

無闇に
動き回らない
こと。

待てば
ちゃんと
出口は
観えるように
なる。

観えてから
動くこと。

観えれば
すぐに
動けるよ。

・・・・・・

待てど暮らせど
来ないものが

この
世の中には

多くある。

しかし
それでも
待つこと。

時間切れに
なることは
もう、ない。

たとえ
ギリギリ
だったにせよ、

それは
必ず、
現れる。

・・・・・・

表面は
荒れても

根本は
どんどん
健康になっている。

現象は
荒れても

実在は
より
安定してくる。

これが
今の世の中の
状態。

自分の道を
間違わず
進もうとする人は、

待てば
いい。

観えれば
進む。

観えなければ
待つ。

この
シンプルな
在り方、

進み方。

その代わり、
観えた瞬間に
躊躇しない
こと。

こう動こう!
という
衝動に
身を委ねれば
いい。

力を入れる
ことはない。

ただ流れに
身を任す
だけだ。

つづく

これからが私達の本領

目まぐるしく
移り変わる
天気のように、

今年の「現実」
は、
移り変わって
いくだろう。

しかしそれは
今年に限った
ことではなく、

来年以降も
ずっと。

年々、激しさを
増し続ける
だろう。

私達は
そうした時代に
生まれてきた。

その事実を
嫌が上でも
体感することに
なる。

でも
これもいつも
言うことだが、

全て承知で
私達は
ここにいる。

ようやく
私達の
本領発揮の時代
となる
わけだ。

・・・・・・

どれだけ
現実=現象の
移り変わりが
あっても、

根底はずっと
安定している。

根底の安定を
感じ続けられる
人ほど、
間違いなく
道を進めるだろう。

そして
根底の安定を
感じられる人
とは、

自分自身の
根底の安定を
常日頃から
感じ続けられる
人だ。

つまりは
真本音で
生きている人。

真本音で生きる人
は、
自分の表面の
不安定、

つまりは
反応本音の不安定
を、

そのままに
しておける。

心の表面が
どれだけ激しく
揺れ動いても、

それは
それ。

そのままで
いい。

・・・となれる。

そして
心の状態によらずに
常にどこか
安定しながら、

今日すべきことを
ちゃんと
今日やる
ことができる。

そういう人は
世の中全体の
不安定を
前にしても、

しっかり自分の
道を
歩き続けられる
わけだ。

やはり全ては
自分事。

自分の生き様
が、
あらゆることの
基本となる。

・・・・・・

人生は
短い。

自分一人で
やれることは
限られている。

だから
躊躇している
暇はない。

やろうと
思うことは
全てやる。

これまでも
そうしてきたが、

さらに
加速させて
いく。

あるがままの
自分を

そのまま

出して
いく。

つづく

真本音の睡眠

ゆっくり
目を覚まし、

全身
伸びをし、

起き上がる。

朝の空気を
感じながら。

ほとんど
寝ていないが
関係ない。

私は今日も
すべて
リセットされている。

一日の始まり方
こそ
その一日を決める
もの。

そう気づいて
からは、

一日の始まり方
を良くするために、
一日の終わり方
を大切にするように
なった。

まずは、
自分自身が
真本音で

もう寝よう

と、思うまでは
寝ない。

私の場合だが、
時には
睡眠を2時間とか
1時間しか
とらないことが
ある。

それはもちろん
仕事が終わらない
ということも
あるのだが、

真本音が
寝させてくれない、
のだ。

長く寝れば良い
というものでは
ない。
あくまでも
私の場合は。

その日その日の
適正な
睡眠時間があり、

明日は
何時何分に
起きたいか?
というのがある。

それに合わせて
眠りに入る時間を
決める。

真本音で
決めているから、
最も良い眠りの
入り方と、

最も良い深さの
睡眠がとれる。

そして必然的に
目覚めが

最高

となる。

私の場合、
休日とか平日とか
関係ない。

いつも気持ちよく
一日が終わり、
気持ちよく
一日が始まる。

もちろん日々、
悲しいことや
辛いことは
ある。
生きていれば。

でも
その時の自分が
できる
最大の心地よさで

一日を終え
一日が始まる。

人間は
なぜ眠るか?

私はやはり
一日が、
一つの人生である
ように思う。

しっかりと、
今日という人生を
始め、
終える。

これを繰り返すことで
人生全体が
調和する。

自分を大事に
する、
一つの大きな要素は
ここにもある。

つづく

一つの祈りだ

直滑降、
急降下。

どこまで
落ちるか?

どこまで
堕ちるか?

中途半端は
ダメだ。

とことん
堕ちるところ
まで。

必ず
底は、ある。

底まで
行けば、
あとは
浮上するだけ。

そこまでは
堕ちることに
手を抜くもんか。

・・・・・・

実は、
底まで堕ちても、

もっと
堕ちたい


願ってしまう。

でももう
底、なのだ。

堕ちようにも
堕ちる術は
ない。

もう、ここが
底なのだ。

すぐに堕ちる
人は、
堕ちること
自体を
望んでいる。
本当は。

堕ちている
ことで
安心するから。

浮上をしたり、
幸せを
感じ始めると
とても不安に
なる。

この浮上は、
この幸せは、
すぐに
失われるのでは
ないか、と
思うから。

そしてその
不安に
耐えられなくなり、
自ら
堕ちていく。

その連続。

昔の私の
人生は、
まさにその
連続だった。

堕ちようにも
堕ちない
という
あの、底での
状態が、

私にとっては
不安定の
根源だった。

・・・・・・

しかし
堕ちては浮上し、
堕ちては浮上し、

繰り返している
うちに、

人生の時間は
どんどん
過ぎていく。

気がつけば
同じ場所で
同じことを
ずっとしている。

そのループから
抜け出さなければ
自分の人生の
願いは
絶対に叶わない。

生まれてきた
意味そのものが
失われる。

そう気づいても
なかなかその
ループからは
脱け出せ
なかった。

・・・・・・

私をその
ループから
救い出して
くれたのは、
一つ。

それは
「祈り」
だった。

私は必死に
祈った。

自分のことを、
ではない。

自分以外の
誰かの
ことを。

世の中の
ことを。

世界の
ことを。

そして、
目の前の
その人の
ことを。

私は、
一つの
祈りだ。

これが当時の
私の
口癖だった。

口癖と
言っても、
口には
出さず、

心の中で
これをずっと
呟き続けた。

あらゆる人、
あらゆる存在と
祈りながら
向き合った。

いや、
祈り、として
向き合った。

一つ一つの
日常生活の
振る舞いを
すべて
祈り、として
行なった。

これを
何年も続けて
ようやく
脱け出せた。

私は
私を
救った。

というよりも、
祈りが
私を
救ってくれた。

・・・・・・

今の世の中に
祈り、は
あるか?

ある。

むしろ、
増えている。

本人が
自覚せぬまま、
無意識に
ずっと心の奥で
祈り続けている
人たち。

私は、
そういった人を
敏感に察知する。

初めて
お会いした
瞬間に
わかる。

祈りが
私を救って
くれたから、

祈りで
自分を救おうと
している人の
ことは、

敏感に
わかるんだ。

口に
出さなくとも
いい。

密かに
呟けばいい。

ただ、

自分を救う、
イコール
人を救う、

そういった祈りが
もっと
世の中の隅々まで
行き渡れば
いいな、と
思うよ。

つづく

「2」の年だ

ここにある、
というよりも

右斜め前方
上の方に
ある。

それが
「ここ」。

外れちゃって
いるんだ。

だから
変な感覚だ。

ここにいる
けど
ここに
いない。

外れちゃって
いるんだ。

でも今は
それで
いい。

そのまま
進む。

前のめりな
感じ、
それこそが
今は、いい。

・・・・・・

ようやく、
「0」が
できた。

それが
一昨年。

それが
「1」
となった。

これは
大きい。

これが、
昨年。

そして
今年は
「2」の年
となる。

これも
大きいのだ。

これが
上手くいけば
来年は
「4」となり、
再来年は
「8」となる。

そのように
進めるか
どうか?

それが
かかっている
のが、
2025年。

だから
前のめりくらいが
ちょうどいい。

身を引き締めて
行きますよ。

つづく