「願い」について
書かせていただいています。
反応本音の願いとは、
達成することで完了する願い
です。
それに対して、
真本音の願いとは
永遠に願い続ける願い
です。
・・・という言い方もできます。
永遠に願い続ける、とは
ゴールがない
ということです。
ゴールがないということは
一見すると
満たされることがない、
という印象を持つかもしれません。
しかし
満たされないものを満たす
願いこそが
反応本音の願いです。
つまり、
満たされるまでは
満たされない
ということですね。
それに対して
真本音の願いにはゴールは
ありませんが、
ゴールがなくても
満たされている
のです。
なぜなら、
真本音の願いとは
その願いを持つこと自体で
満たされるからです。
そしてさらに、
その願いに向かって
一歩ずつ進むだけで
その一歩一歩で
満たされるからです。
満たされるからと言って
じゃあ終わりにしよう
とはなりません。
満たされても
満たされなくても
さらに進みたくなるのが
真本音の願いです。
そして、
最初から満たされているけれども
一歩ずつ進めば進むほど
さらに満たされ感は
増していきます。
100%だと思っていた
満たされ感が
進めば進むほど、さらに
高まります。
120%にも、200%にも
1000%にも
100万%にも。
実際に私のクライアントである
ある社長さんは、
真本音の願いに気づいてからの
ご自分の経営の満足度について
「100万%です」
と笑いながらお答えに
なりました。
100万%です、とは
言いながらも、
それでも、
まだまだ足りない表現かな、
と思ってしまいます。
要するに、
数字で表すことができないレベルの
満たされ感が
あるのです。
私はこれを
「魂の満足」
と表現します。
心の満足と
魂の満足は
まったく次元の異なる
ものです。
魂の満足は
それを得ることで
歩みが止まるものでは
ありません。
それを得ることで
ますます
前に進もうという意欲と
エネルギーが
湧いてきます。
内側から。
私はそれを
「内発的モチベーション」
とも呼んでいます。
それは
私達の魂からもたらされる
動機付けです。
さて。
魂に動機付けされた人は
どうなるかと言いますと、
まずは、
「出会い」が変わってきます。
真本音の願いは、
他の人の真本音の願いと
共鳴します。
いえ、
それは「共鳴」と言うよりも
「共振」
と言った方が正確でしょう。
共振し合った人同士が
必然的に出会い、
出会った瞬間から
それは「共感」を生みます。
出会ったばかりで
まだお互いのことを
ほとんど何も知らないのに、
なぜか
お互いのことが
理解し合える。
何の説明も解説も
必要とせずに、
ただ一緒にいるだけで
もう、
わかり合えている「感覚」
がある。
そのような出会いが
多発します。
自分が
真本音の願いで生きているか
どうか?
をチェックする最も
簡単な方法が、
そういった出会いが今、
増えているかどうか?
をみることです。
最近、出会い自体は多いけど、
本当に共振し合える人は
どうだろうか?
そんな視点で
観てみてください。
何かを説明しなければ
わかり合えない人が多ければ
それはその人が悪い
のではなく、
自分自身に問題があります。
満たされないものを
満たすための動きを
自分はしていないか?
と、自分に問うてみてください。
もちろん私達は人間ですから、
満たされないものを満たす
ための動きはすればよいです。
しかし同時に
それにより、私の魂は
本当に悦んでいるか?
とも問うてみてください。
以前のブログにも
書かせていただきましたが、
真本音と反応本音は
どちらが正しいか?ではなく、
「つながり合う」関係です。
つまり、
真本音という上司が
反応本音という部下を
「活かす」
という関係です。
満たされないものを満たそう
とするその願いの奥に、
魂の願いが宿っているか?
を問うてみてください。
その問いに対して
理屈で答える必要は
ありません。
自分自身に問うた時に、
スッキリと迷いなく
あぁ何となく今の私は
自分の魂の願いを大切に
できているな、
と思えれば、問題はありません。
思えなければ、
もう一度、心を静かにして
内省をしてください。
満たされるとか
満たされないとか、
そういったこととは関係なく、
私が願い続けていることは
何だろうか?
と、静かに自分に問い、
静かに自分と
向かい合ってみてください。
さて、
では真本音の願いを見つける
最も簡単な方法とは
何でしょうか?
その辺りのことを
次回以降に書かせて
いただきます。
つづく