自由とは
何だろうか?
ずっとこの問いと
共に
私は生きてきた。
最初にこの問いが
浮かんだのは、
確か、19歳の時。
ということはもう
33年間も
この問いと共にいる。
もともと人類は
自由ではなかった。
だから
「自由になりたい」
という
渇望が湧いた。
自由でない状態
から
自由になることが、
我々人間にとっては
自由だった。
でもそれは
あくまでも
「現象」のレベルでの
話であり、
反応本音のレベルでの
話だ。
本来の自由とは
何だろうか?
・・・・・・
「脱皮」と
私が呼んでいる
大きな段差を超える
成長は、
それを超えることで
間違いなく
その人を
一つ
自由にしてきた。
私自身の経験も
そうであるし、
私のクライアントさん達も
みんなそうだ。
階段を一つ上がれば
一つ
自由になった。
ではその
「一つ」
とは何だろうか?
・・・・・・
「一つ」
とは
一つの枠を外す
ことだろうか?
いや、
なんかちょっと
違う気がする。
もっとそれは
別のことだ。
一つ
自由になる。
一つ
自由になる。
やはりこの表現が
妙にぴったりくるのだが、
やはりその意味は
わかるようで
よくわからない。
・・・・・・
では、
二つ
自由になることは
あるのだろうか?
この問いには
即答できる。
ない、
と。
私達は
どれだけ大きな脱皮を
しても、
たとえ段差を
二つ三ついっぺんに
飛び越えても、
それでも
一つ
しか
自由にはならない。
それが
人間だということが
何故だか
とてもよくわかる。
それが
人間の宿命だと。
・・・・・・
一つずつ
自由になっていく。
何がどうあっても
一つずつ
自由になっていく。
それが
人の道であり、
その道を進むことを
私達は
望んでいる。
しかし残念ながら
一生をかけても
一つも
自由になれなかった人も
多い。
しかしたとえ
そうだとしても、
それでも私達は
一つずつ自由になろう
とする。
人間の本能なんだろうな、
と思う。
今、
バタバタと
私の周りの人達が
一つ
自由になっている。
今日も昨日も
一昨日も
そうだった。
みんな
一つ
自由になっている。
自由とは
何だろうか?
その問いと共に
私はその様子を
ただただ
眺めている。
つづく