自由

完全なる自由

 

何もない

広い空間に

一人でいると、

 

いくら自由でも

不安になるだろう。

 

むしろ

狭い部屋に

閉じ込められて、

 

「この中なら

自由だよ」

 

と言われた方が

余程、楽だ。

 

私達人間には

そういうところが

ある。

 

制約のある中

でこそ、

自由を謳歌できる。

 

しかし

完全なる自由は

不安であるし、

 

実際、

何をして良いのか

さっぱり

わからなくなる。

 

ところが

みんな

自由を望む。

 

「自由」をただ

漠然と

捉えながら。

 

「不自由でないこと」

が、自由である

と。

 

だから

一度、しっかりと

自分に問うてみよう。

 

私は何から

解放されたいか?

 

もし

解放されたら

私はどうしたいのか?

 

解放の先に、

私が望むことは

何だろうか?

 

・・・・・・

 

実は

私自身のことで

言えば、

 

私も昔は

制約の中での自由

の方が

落ち着く人間だった。

 

しかしどうも

今はもう違うようだ。

 

完全なる自由を

私は楽しむ。

 

真本音度が

高まると、

 

ある時ある瞬間から

どうも

そうなるらしい。

 

そしてそうなると

逆に、

 

今、状況的に

どのような不自由が

あったとしても、

 

そんな状況の

中でも

完全なる自由な自分

でいられるのだ。

 

さて、

これはどういった

ことだろうか。

 

あなたは

本当は

どんな自由を

得たい?

 

つづく

 

自由かどうかは

 

本当に自由な

自分になろう

すればするほど、

 

それを阻害し、

縛りくる存在が

 

自分自身である

 

ということが

よくわかる。

 

自由とは

何か?

自分で定義し、

 

その定義によって

自分を

縛る。

 

望む自由を

自分で設定し、

 

その設定によって

自分を

縛る。

 

やっと自由に

なれた!

思った瞬間から

 

その自由に

縛られている。

 

自由とは

どこにもない

ではないか。

 

思うのだが、

しかし

 

そういった

諸々の外にこそ

 

自由はある。

 

つまり、

自由とは

我々には自覚

できないもの

なのかもしれない。

 

私の経験のみ

にはなるが、

 

側から見ていて

本当に自由だな

と感じる人は、

自分のことを

「自由だ」

とは語らない。

 

自由かどうか、

という

もうその次元に

いないのだ。

 

「私は自由です」

と語る人には逆に、

私はよく

不自由を覚えた。

 

ひるがえって、

今の私は

自由なのだろうか?

問えば、

 

正直、

よくわからん。

 

どっちでも

いい。

 

・・・と

思うようになった

ので、

ひょっとすると

自由に

近づいているの

かもね。

 

ただし、

 

やはり私の

探究テーマは

「自由」

だ。

 

自由とは何か?

人生の

実践現場を通じて

探究し続けたい。

 

その意志は

変わらない。

 

この意志は

自由にさせておいて

あげたい。

 

つづく

 

源泉

 

みんながもっと

自由になれると

いいな。

 

真の自由

に。

 

環境による

不自由があるから

自由になれない、

というのではなく。

 

逆に

環境による

自由があるから

私は自由だ

というのではなく。

 

環境、

つまりは

自分以外のあらゆるもの

によって

もたらされる自由

ではなく。

 

いかなる環境に

おいても

 

自ら

 

生み出せる

自由。

 

真の自由とは

そういったものだ。

 

真の自由で

ある人は、

 

力の源を

得ている。

 

だから、

真の自由な人ほど、

束縛を

楽しむ。

 

自由になれない

環境を

楽しむ。

 

楽しむ、とは

ちょっと短絡的な

表現かも

しれないが、

 

楽しむ、とは

自身の力の源から

エネルギーが

展開できている

状態。

 

それを

という視点から

表現すると、

 

楽しむ

 

となる。

 

だから結構

奥の深い感覚

なんだ。

 

自由な人は

何でも

楽しめる。

 

だからこそ

逆に

自分がどれを

選ぼうか、と

 

自らの本当に

望む選択が

できる。

 

だから、

 

あの人は

望む選択ができるから

自由だ。

 

ではなく、

 

あの人は

真に自由な人だからこそ

望む選択ができる。

 

ということだ。

 

自由とは

すべての源。

 

誰もが

本当は

戻れる場所。

 

つづく

 

自由

 

問いを。

 

あなたにとって

自由とは

何だろう?

 

自由は

本当に

手に入れたい?

 

自由を

手に入れたあなたは

どうなる?

 

そもそも

本当は今すでに

自由ではないかい?

 

自由の反対は

不自由なの?

 

不自由の反対は?

 

自由はあなたに

何をもたらし、

何を失わせる?

 

あなたの人生に

自由は必要?

 

あなたは

自由に

何を与える?

 

あなたは

自由を

どう育てる?

 

それは

あなたの人生に

どんな意味を

もたらすだろう?

 

 

・・・これらを

とてつもなく真剣に

自由に

考えてみるといいよ。

 

つづく

 

人は自由になれる?

 

自由に生きる、

 

ということの

一つの重要な

要素は、

 

自由に決断できる、

 

ということだ。

 

しかしその

「自由に決断」

とは

どういうことだろうか?

 

私達は一見、

自由に見える時でも

 

実は様々な

束縛の中にある。

 

「今日、一日

自由に何をしても

いいよ」

 

と言われても、

本当に自由に

私達は

行動できるだろうか?

 

よくよく考えると、

こうしてこのように

ここで生きている

ということ

そのものが

束縛ではないのか?

 

・・・というような

方向に意識が向かうと、

 

心はどんどん

虚無の方向に行く。

 

虚しくなって

くる。

 

このように

思考をすること

自体も、

束縛かもしれない。

 

自分を束縛している

ものを

列挙し始めたら、

 

恐らく

キリがないだろう。

 

そう。

 

私達は皆、

束縛の中にいる。

 

無数の束縛の

中で

生きている。

 

それが

人生であり

人間だ。

 

自由に決断

できている!

 

たとえ感じたと

しても、

 

それは、

ただ単に

自分では気づいて

いない

まだ自覚できて

いない

束縛の中で

決断しているに

過ぎない。

 

という

事実がある。

 

まずはここを

ちゃんと

受け入れないと、

私達は

自由にはなれない。

 

自由になる、

とは

束縛を外すこと

ではない。

 

自由と束縛は

実は

まったく関係のない

ものだ。

 

実にたくさんの

束縛に中にいても

私達は自由に

なれる。

 

逆に、

仮に束縛のすべてを

取り払うことが

できたとしても、

それだけでは

私達は自由になれない。

 

自分の不自由を

環境のせいにする

人は多いが、

 

それは

観点がズレている。

 

環境のせいで

不自由になる

ことはない。

 

実は、

 

私達はもう最初から

「すべて」を決めている。

 

あらゆる束縛の

中で、

しかしその

決めていることを

決めている通りに

進もうとしている。

 

そして、

 

決めていることを

決めている通りに

進めている時にこそ、

 

私達は

「自由」を感じる。

 

だから

ひょっとすると、

 

真の自由とは

真の束縛

なのかもしれない。

 

自由に決断する

というのは、

 

真の束縛の通りに

決断する、

 

ということ

なのかもしれない。

 

つづく

 

一つ自由になる

 

自由とは

何だろうか?

 

ずっとこの問いと

共に

私は生きてきた。

 

最初にこの問いが

浮かんだのは、

確か、19歳の時。

 

ということはもう

33年間も

この問いと共にいる。

 

もともと人類は

自由ではなかった。

 

だから

「自由になりたい」

という

渇望が湧いた。

 

自由でない状態

から

自由になることが、

 

我々人間にとっては

自由だった。

 

でもそれは

あくまでも

「現象」のレベルでの

話であり、

 

反応本音のレベルでの

話だ。

 

本来の自由とは

何だろうか?

 

・・・・・・

 

「脱皮」と

私が呼んでいる

大きな段差を超える

成長は、

 

それを超えることで

間違いなく

その人を

 

一つ

 

自由にしてきた。

 

私自身の経験も

そうであるし、

私のクライアントさん達も

みんなそうだ。

 

階段を一つ上がれば

一つ

自由になった。

 

ではその

 

「一つ」

 

とは何だろうか?

 

・・・・・・

 

「一つ」

とは

一つの枠を外す

ことだろうか?

 

いや、

なんかちょっと

違う気がする。

 

もっとそれは

別のことだ。

 

一つ

自由になる。

 

一つ

自由になる。

 

やはりこの表現が

妙にぴったりくるのだが、

 

やはりその意味は

わかるようで

よくわからない。

 

・・・・・・

 

では、

 

二つ

 

自由になることは

あるのだろうか?

 

この問いには

即答できる。

 

ない、

 

と。

 

私達は

どれだけ大きな脱皮を

しても、

 

たとえ段差を

二つ三ついっぺんに

飛び越えても、

 

それでも

 

一つ

しか

 

自由にはならない。

 

それが

人間だということが

何故だか

とてもよくわかる。

 

それが

人間の宿命だと。

 

・・・・・・

 

一つずつ

自由になっていく。

 

何がどうあっても

一つずつ

自由になっていく。

 

それが

人の道であり、

その道を進むことを

私達は

望んでいる。

 

しかし残念ながら

一生をかけても

一つも

自由になれなかった人も

多い。

 

しかしたとえ

そうだとしても、

それでも私達は

一つずつ自由になろう

とする。

 

人間の本能なんだろうな、

と思う。

 

今、

バタバタと

私の周りの人達が

一つ

自由になっている。

 

今日も昨日も

一昨日も

そうだった。

 

みんな

一つ

自由になっている。

 

自由とは

何だろうか?

 

その問いと共に

私はその様子を

ただただ

眺めている。

 

つづく

 

殻は破るもの

 

卵の中は

卵の中で、

 

そこには

自由な世界が

あるんだ。

 

無限の青空が

ある。

 

そこを自由に

飛び回っている。

 

ずっと

そこにいることも

当然できる。

 

卵の殻を破る

ということは、

 

その自由さを

手放すこと

でもある。

 

卵の殻を破る

というのは、

 

苦しいこと

なんだ。

 

ずっとそこで

自由でいても

いいのに。

 

でも私達は

本能的に、

 

殻を感じてしまったら、

 

そこを

出たくなって

しまう。

 

その自由が、

実は

殻の中の自由

だと

わかってしまったら、

 

そこがどれだけ

居心地が良くても、

 

そこに居続ける

こと自体に

違和感を得てしまう

のだ。

 

それが

私達の本能だ。

 

しょうがない。

 

だから、

 

どうせなら

その本能に

素直になればいい、

私は思う。

 

一度、苦しみに

入ることが

わかっていても、

 

それは

産みの苦しみくらいに

辛いことが

わかっていても、

 

それでも

私達は

行こうとする。

 

その尊さ。

 

それに素直に

なればいい。

 

もちろん、

 

いったんは

苦しくなるが、

 

それでも頑張って

殻を破れば、

 

そこにはまた

新たな自由が

ある。

 

その自由は

これまでの自由とは

次元が違う。

 

これまでの自由は

実は不自由で

あったと、

 

身をもって

知ることになる

だろう。

 

それをまた

私達は

 

本能的によく

知っているもんだからね。

 

だから

行くしかないっしょ。

 

今は、

 

その殻を破る時だ。

 

つづく

 

今こそさらに自由に

 

もっと自由に。

 

物理的な制約が

ある時ほど、

 

もっともっと

心を自由にすると

いい。

 

現実に縛られると、

私達はついつい

心をも自ら

縛る。

 

そして

自由を失う。

 

私達の住む世界は

外在的世界と

内在的世界の

二つがある。

 

外在的世界、

つまりは現実の世界

における不自由さと、

 

内在的世界、

つまりは心の中の世界

における不自由さを

わざわざ一致させる

必要はない。

 

もちろん、

外在的世界での現実は

大事にすべし。

 

それを拒絶しても

何の意味もない。

 

しかし私達の人生は

内在的世界と

外在的世界の

コラボである。

 

二つの世界を

不自由にしてしまう

のではなく、

 

内在的世界(心の中)は

常に

自由であるとよい。

 

そして

内在的世界の自由と

外在的世界の不自由を

コラボさせることで、

 

最善の一歩

 

を決めて行く。

 

それにより、

外在的世界に

一歩ずつ、一つずつ

道が開かれて行く。

 

・・・・・・

 

しかし、

「自由」という言葉を

使うと、

 

いつも誤解を

与えてしまうのも

確かだ。

 

多くの人が、

「自由」と聞けば、

 

反応本音レベルの自由

を思い描いてしまう。

 

しかし残念ながら

それは真の自由

ではない。

 

それは自由というよりも、

何か一つのその場の

気持ちに

執着しているだけ、

という状態だ。

 

むしろ執着とは

不自由の象徴だ。

 

真の自由とは

人生に対する真摯な

姿勢から

初めて生まれる。

 

真の内在的自由を

得るためには、

人生に対して

真摯であらねばならない。

 

だから今こそ、

人生をしっかりと

考えるといい。

 

これまで充分に

考え尽くしてきた、

と思う人も、

 

いや、

そういう人ほど。

 

もう一度、

ゼロから

自分の人生を

考え直すといい。

 

きっと

これまでにない発想

が生まれ、

さらに心の中、

つまりは内在的世界は

豊かに広がる。

 

それはつまり、

内在的世界の自由度が

増した

ということなんだよ。

 

つづく

 

もっと自由に進め

 

「こうすれば

上手く行くな」

 

と、

頭の中に浮かんだ

あらゆる発想を、

 

私はいつも

すべて

捨てる。

 

それを持っておくと

ロクなことがない

からだ。

 

それを持った途端に、

私は自分の意図

の通りに

物事を進めようと

してしまう。

 

そこに待っているのは、

想定外のことが

決して起こらないという

つまらなさ、

 

 

想定内のことすら

上手く行われないという

失望、

 

 

何よりも、

常に自分が何かに

縛られ続けているという

窮屈さ、

 

などである。

 

結局は

自分の意図が

いつの間にか

自分を縛っている

ということなのだが。

 

要するに

自分が自分を

縛っている。

 

そのような人生では

面白いはずがない。

 

自由な

はずがない。

 

私は決して

自分の意図で

自分を縛るような

不自由なことは

しない。

 

・・・・・・

 

意図をすべて

手放す。

 

捨てる。

 

自分の思惑の

道筋を

消去する。

 

すると、

 

今この瞬間を

完全に

自由に生きる自分

 

のみが残る。

 

その自分は

目の前に展開する

「現実」達を

 

ただあるがままに

見つめる。

 

ありありと

「現実」の「本質」が

自分の中に

入ってくる。

 

すると、

何かを思い出すかの

ように、

 

次の自分の

一手

(つまりは行動や

振る舞い)

 

わかる。

 

「わかる」と言っても

「わかったから

そうしよう」

というように

思う時間すら、

そこにはない。

 

そう解釈する前に

勝手に自分は

その通りに

動いている。

 

するとそこに

「調和」が

生まれる。

 

・・・・・・

 

以上のような

そういった生き方、

行き方

の出来ている人は

増えているのではないか。

 

これを天然で

行なっている

若者も増えている。

 

真本音度合いを

高める、

ということは、

このような生き方に

なるということだ。

 

それは

先ほども書いた通り、

 

自分自分を

拘束しない生き方

であり、

 

自由な生き方

である。

 

そういった生き方を

する人が

これからの世の中を

引っ張っていって

ほしい。

 

そういった生き方を

する人の輪を

広げていって

ほしい。

 

それが、

世の中全体

社会全体の

調和度を一気に高める

最短の道だ。

 

つづく

 

淀んだコミュニケーションはもうしない

 

実は、こう見えて、

私は

自分の喋りたいことの

10分の1も

喋ってはいないと

思う。

 

普段の会話でも、

コーチングのような

サポート現場でも、

結構、

喋りたいことや

伝えたいことは

心の中に

たくさん浮かんで

来るんだよ、

本当は。

 

でも、

それを口に出そうと

すると、

喉が詰まってしまうんだ。

 

そして、

自分の意図とは

まったく違う言葉が

私の口が

喋り出すことも

実に多い。

 

しかし、

大概その言葉こそが、

その場には相応しい

最善の言葉

だったりする。

 

あぁ、さっきの私の

言おうとした言葉を

言わなくてよかったな、

 

勝手に口が動いて

くれて

よかったな、

 

と、

ほぼ、毎日、毎回

思っている。

 

こういう話を

聴けば、

ひょっとすると

「たけうちさんって

結構、不自由なんだなぁ」

という印象を

持たれるかもしれない。

 

いやいや、

逆だ。

 

私はとても

自由だ。

 

自由だからこそ、

これができると

思っているし、

 

いつもこうなる自分を

自由なヤツだなぁ、

自分で思うのだ。

 

・・・・・・

 

だいたいだね、

私が私の意図通りに

喋ろうとする言葉の

ほとんどには

 

「迷い」

 

がある。

 

100%とはちょっと違う

言葉達だ。

 

もちろん

本音で思っていることを

私は喋ろうとするので

あるが、

 

それは恐らく、

ちょっと淀んだ本音だ。

 

99.9%以下の

本音達だ。

 

だいたい、

意図した気持ちってのは

そんなもんだ。

 

これを私は

 

『反応本音』

 

と呼んでいる。

 

反応本音の言葉は

私の口からは

決して出ない。

 

出そうと思っても

出ない。

 

きっと私の真本音が

止めているのだろう。

 

・・・・・・

 

さて、その

 

『真本音』

 

だが、

これは

100%の意思であり、

言葉達だ、

とも言える。

 

それは

「わがまま」とは

真逆だ。

 

なぜ、100%になれるか?

と言うと、

相手と(もしくは、世界と)

繋がっているからだ。

 

繋がりを感じた上での

言葉達なので、

そこには

迷いや淀みが

ない。

 

だから

とてつもなく

スッキリと言葉達が

口をついて出て来るのだ。

 

そんな言葉のみによる

コミュニケーションは

もちろん、

調和しか生まない。

 

これを私は

『真本音コミュニケーション』

と呼んでいるが、

 

これができるようになると、

人生が本当に

楽になる。

 

自由になる。

 

自分の意図、

なんていう

ちっぽけで狭い世界から

放たれた、

 

大きな自分として

ここにいられるのだ。

 

・・・・・・

 

私の使命の一つは、

この

真本音コミュニケーション

のできる人を

増やしていくことだ。

 

これは

特殊な能力ではなく、

人類であれば

本当は誰もが

持っている力、

 

しかしみんなが

忘れてしまっている

力だ。

 

まずは、

人をサポートする

立場の人達が

これができないとね。

 

自由な人が

サポートして初めて、

みんなが真に

自由になれると

思うんだ。

 

つづく

 

なぜ縛るんだ?

 

今、

自分を縛っている

ものは何か?

 

という視点で

自分自身を

客観的に見つめることを

オススメする。

 

縛っているものが

悪いわけではない。

 

それを

なくそうという

話でもない。

 

ただ、

それを自覚する

ことが大事だ。

 

私は今、

〜〜に縛られている。

 

その結果、

このような影響を

受けている、

分析できると

尚、良い。

 

・・・・・・

 

自分を縛るものが

皆無な人は

いない。

 

生きる、ということは

何かに縛られる

ということでもある

からだ。

 

そして

自分を縛っている

ものには、

必ずメリットが

ある。

 

メリットがあるからこそ、

私達は

縛られることを

容認している。

 

例えば

ある社長は、

自分が

「経営」に縛られている

ことに気づかれた。

 

正確に言えば、

「これまでの世の中の

経営の仕方」

にだ。

 

だから、

「本当は私はこんな

経営をしたい」

という願いがあったが、

それを無意識に抑え、

世の中のやり方に

倣っていた。

 

それにより

相当のストレスと

迷いを持ちながら

ここまで来たのだが、

 

しかしその道のりには

彼なりの

メリットがあった。

 

彼はもともと

直観型の人間で、

あらゆることを

自分の直観を信じて

推進して来たのだが、

 

経営においては

それを封印した。

 

しかしそのおかげで、

「戦略」と「仕組み創り」

という力を

彼は得ることができた。

 

これが彼にとっての

メリットだった。

 

しかし彼は

もうすでに

「完了感」を得ていた。

 

つまり、

得るべき力は

もう得ることができた、

彼自身が満足

していた。

 

だからこそ彼は

直観型に戻った。

 

戻ったのだが、

これまで培った

戦略と仕組み創りの力が

活きた。

 

直観を戦略や仕組みに落とす

ことが

できるようになったのだ。

 

このように、

縛られているものを

自覚することで、

 

何のために自分は

縛られているのか?

わかるようになる。

 

そして、

それを今後、

どのように活かせば

良いか?

わかるようになる。

 

つまり、

次のステージへの

大事な布石となる。

 

・・・・・・

 

どうせ

縛られるのならば、

 

自らの意思と

願いに基づいて

自らを縛ろう。

 

それもまた

『自由』

ということでは

ないだろうか。

 

つづく

 

自由の前で茫然とするあなたへ

 

どうやら

多くの人達が

 

大海原に

 

自らの船を

漕ぎ出したようだ。

 

その大海原に

名前をつけるとしたら、

 

『自由』

 

ということに

なるだろうか。

 

しかし、大海原と

言うだけあって、

その世界は

果てしなく

広がっている。

 

これまで

自分の船を漕ぎ出すんだ!

がんばってきたのだが、

 

いざ、漕ぎ出してみると、

そのあまりの

世界の広大さに

茫然としているのでは

ないだろうか。

 

「自由」とは、

一見、とても居心地の良い

言葉であるが、

 

いざ、本当に自由になれば

途端に、

これまでとは別次元の

恐怖や不安が

襲ってくるだろう。

 

しかし私は

本当に心を込めて

伝えたい。

 

恐怖に負けるな!

不安に負けるな!

 

と。

 

ここまで来た

自らの意志と願いを

いつも思い出そう!

 

と。

 

・・・・・・

 

いくら大海原に

出たとは言え、

 

進み方は

これまでと同じだ。

 

目の前の

一つ一つの「現実」を

大切にすることだ。

 

大海原は

無限に広がっていても、

私達が一日に

できることは

限られている。

 

ステージが変わった

と言っても、

すぐにスーパーマンに

なれるわけではないのだ。

 

ここにいるのは、

これまでと同じ

自分だ。

 

ただ、

これまで心の中に

渦巻いていた

余分なものが

解消されている。

 

本来の自分の

願いが、

ここにあるはずだ。

 

だからこそ、

「自由」という大海原に

出られたのだ。

 

だからここからは、

願いを持って

進もう。

 

常に。

 

それだけが

これまでとの違いだ。

 

私達にできるのは、

今、ここにいる

自分を

大切にすること。

 

それはつまり、

今、ここにある現実を

すべて

大切にすること。

 

これまで続けて来た

仕事や

人間関係や

趣味や

あらゆることを

 

これまで以上に

大切にすること。

 

誠実に

向かうこと。

 

願いを持った自分

として。

 

それだけの

ことだ。

 

何かを意図的に

大きく変えなければ

ならないわけではない。

 

そうやって

しっかりと現実の

一つ一つに向かえば、

 

自然に

道が観えてくるんだ。

 

どこに

自分が舵を取れば

よいのか?が、

次第にね。

 

それが観える

までは、

 

一つ一つ丁寧に。

 

一つ一つ誠実に。

 

この「日常」を

大切にしよう。

 

つづく

 

自由、についてつぶやく

 

私の人生において

最重要のテーマの一つは

 

『自由』

 

だ。

 

自由とは何か?

 

本当の自由とは?

 

ということを

もう30年以上、

探究しているのでは

ないか。

 

自由について、

いろんな角度から

このブログでも書いて

いきたいのだが、

 

今日は

こんな角度は

どうだろう。

 

「自由を求めるならば、

枠を大事にしよう。」

 

・・・・・・

 

枠は大事だ。

 

この世は

「枠」だ。

 

私達は

「枠」の中に生まれ、

さらに

「枠」をはめられ続け、

 

生きている。

 

男性女性の区別も

「枠」だ。

 

名前も「枠」だ。

 

生まれた地域も

環境もすべて

「枠」だ。

 

一日が24時間というのも

「枠」だし、

重力も「枠」だし、

 

体が一個しかないのも

「枠」だ。

 

私達の思考さえも

「枠」と言えるかもしれない。

 

この世は

「枠」

しかないではないか。

 

自由とは、

それらの「枠」を

取り払うことだろうか?

 

いや、

そうではない

私は思う。

 

だって

「枠」はなくならないし。

 

それどころか、

「枠」があること自体が

この世の意味だし

意義だし

価値だから。

 

「枠」の否定は

むしろ

 

不自由の象徴

 

のように

私には映る。

 

それは、

この世界の否定

だからだ。

 

否定は

不自由だ。

 

かといって

肯定も

不自由だ。

 

肯定も否定も

どちらでもいいじゃないか、

 

というのが

本来だし、

そこはちょっと

「自由」な感じがする。

 

・・・・・・

 

「枠」を取り払おうと

する人は

多いが、

 

その姿はとても

不自由に

映る。

私には。

 

私は

こう思うのだ。

 

「自由」とは、

どのような「枠」の中でも

自由でいること。

 

わけわからんかな?

 

でもこれは

本質だと思っている。

 

・・・・・・

 

「私は自由に生きたいから、

好きなことしか

やらないんだ」

 

という人を見ると、

本当に不自由な人だな、

と思う。

 

なぜならそれは

 

「好きなことしかできない」

人生だから。

 

好きなことのできる

環境であれば

自由になれて、

 

そうでない環境で

あれば、

自由になれない、

 

ということでしょ。

 

これって完全に

環境に左右されている

人生だ。

 

つまりは、

人生のハンドルが

「環境」にある。

 

人生のハンドルが

「自分」にはない。

 

それを「自由」とは

到底言えないだろう。

 

どんな環境においても

自由に生きれる人が

「自由」な人だと

私は思う。

 

嫌いなことは

やらない。

好きなことだけ

やる。

 

のではなく、

 

すべてを

自分らしく自由に

できることが

「自由」ではないかな。

 

もちろん、

「嫌だぁ、やりたくない!」

という気持ちが

湧くだろう。

 

しかしその気持ちが

あることで

不自由になるなんて

弱過ぎないかい。

 

「嫌だぁ、やりたくない!」

という気持ちすら

あるがままにさせて

おけばいい。

 

自由にさせて

おけばいい。

 

でもって

ちゃんとやるべきことを

自分の意志と意思で

行なっていく。

 

これができている時

私達は

「自由」を手に入れている

のだと私は思うけど、

 

どうかな?

 

・・・・・・

 

その人が自由かどうか?

顔を見ればすぐに

わかる。

 

自由な人は

険しさがない。

 

不自由な人は、

どれだけ好きなことを

やっていても

必ず顔に

険しさが出る。

 

自由な人は、

絶対に

何かを否定はしない。

 

無理な肯定も

しない。

 

そんなものからは

自由になっているからだ。

 

好きは好き。

嫌いは嫌い。

 

自由は自由。

不自由は不自由。

 

やりたいことは

やりたいこと。

やりたくないことは

やりたくないこと。

 

以上。

 

となっている人が、

自由ではないか。

 

だから自由な人は

「枠」を本当に大事に

している。

 

それはこの「世界」を

大事にしていることと

イコールだから。

 

そこにあるものすべて

(つまりは、枠のすべて)

を大事に

しているんだ。

 

自由だから。

 

つづく

 

だいぶ自由になってきた

 

ふと、昨日、

ちょうど一年前のこのブログの

記事を読んでみた。

 

実は私は

自分の書いた過去記事を

ほとんど読み返さない。

 

だから、

ブログを毎日

お読みいただいている

クライアントの皆さんの方が

私よりも

ブログの内容に詳しかったり

する。(苦笑)

 

以前もあるクライアントさんが

「たけうちさん、

こんな文章を見つけたんですよ」

と、

コーチングセッションの最中に

その文章を私の前で

朗読された。

 

「へぇ、なかなか

いい文章ですね。

その人に会ってみたいですね」

 

と私が言うと、

 

「何言ってるんですか。

たけうちさんのブログの

文章ですよ」

 

と、

笑えない冗談のような

やりとりがあった。

 

まぁそれはともかく、

 

珍しくもふと昨日、

ちょうど一年前の自分の

文章を読み返して

みたのだ。

 

すると、

内容云々ではなく、

ある重要なことに

気づくことができた。

 

今の私は

一年前よりも

随分と自由に

文章を書いているな。

 

気づいたのだ。

 

・・・・・・

 

これ、

実は、とても重要な

ことだ。

 

私が躊躇なく

文章を書けるということは、

 

世の中全体の

真本音度合いが

高まっている

ということなのだ。

 

正直、

今の私が完全に

自由か?

と問われれば、

 

まだまだ

躊躇しながら

この文章も書いている。

 

不特定多数の方々が

読まれる文章なので、

当然と言われれば

当然なのだが、

 

私としては

いつも

自分の中にある文章を

そのまま表出している、

というよりも、

 

この文章を書くときは、

常に意識は

「外」に向かっており、

 

「外」との

無意識レベルでの

キャッチボールを

丁寧に行ない、

 

その結果としての

文章を書いている。

 

だからおかげさまで

よく、

「昨日のあの記事、

私のことでしょ」

クライアントさん達から

おっしゃっていただける。

 

それはとても

嬉しいことだが、

でもいつも

誰かを特定して

書いているのではなく、

 

世の中全体との

キャッチボールをしながら

書いている

イメージなのだ。

 

今日も、

そうなんだけどね。

 

そして

その結果として

私が自由に書けるように

なってきたということは、

 

取りも直さず、

世の中全体の

自由度合いが高まっている

ということだ。

 

それが単純に

嬉しい。

 

ただ、

まだまだだけどね。

 

・・・・・・

 

そう言えば最近、

やたらと私の頭の中に

 

「自由」

 

という言葉が

浮かんでくる。

 

自由度合いが

高まる

 

ということと、

 

真本音度合いが

高まる

 

ということは

私はイコールであると

思っているのだが、

 

しかし、

 

「自由」という言葉を

使うと、

とてつもない誤解を

与えることもある。

 

例えば、

最近よく

若い人達から聴く言葉

として、

 

「私は自由に生きたい。

だから

好きなことしかやらない」

 

というものがある。

 

しかしその言葉を

聴くたびに私は、

 

「あぁこの人は

不自由な人だなぁ」

 

と思ってしまう。

 

自由を

履き違えているのだ。

 

だから、

「自由」

ということについて、

 

このブログでは

これから頻繁に

扱っていきたいかな、

とも

思っている。

 

・・・・・・

 

世の中は

本質的な意味で

今、

 

自由度合いを

高めている。

 

・・・と実感している。

 

だからこそ

本来の自由が

広まるように、

 

そんな願いを込めて、

さらにこのブログも

続けていきたい。

 

つづく

 

自由への問い

 

言うまでもないことだが、

自由と無責任は

違う。

 

自由になるということは

その分だけ

責任を負うことでもある。

 

自分のすることは

ちゃんと自分で責任を

持つ、

というのが

自由の基本だ。

 

そんなことは充分に

わかっている

あなただからこそ、

あえて

伝えるんだ。

 

「もっと自由でいいよ」

 

・・・と。

 

責任を持つために

自分を抑える

のではなく、

 

その責任感のまま

もっと自分を

自由にしてほしい。

 

責任感のある

あなただからこそ

さらに自由になるのには

抵抗があるのかな?

 

でも、

あなたが自由に

なればなるほど、

 

周りも

自由になれる。

 

・・・イコール、

責任を持った

自律的な行動が

取れるように

なるんだ。

 

「自由」という言葉が

もしわかりづらいので

あれば、

 

あえて

「わがまま」

と言ってもいいよ。

 

あなたは

もっともっと

「わがまま」に

なってはどうだろう?

 

あなたの「わがまま」さは

周りを

本質的に

幸せにするんだよ。

 

・・・・・・

 

「自由」のための、

最も基本的な

自分自身への問い。

 

それは、

 

「今、私はここで

本当は何をしたいのだろう?」

 

今、

を大事にできる人が

人生のすべてを

大事にできる。

 

今、

を自由に生きる人が

人生を自由に

生きることができる。

 

今、

の自分にいかに

素直に

「動く」か?

 

自由とは、

行動が伴ってこその

もの。

 

心の中だけの

自由では、

 

意味がない、とは

言わないが、

 

それでは

不完全だ。

 

心の中の本当の想いと

行動を

一致させていくことが、

 

本来の自由だと

思わないかい?

 

つづく

 

苦しんだり、喜んだり

 

今日は冷たい雨が

降っていたね。

 

私は日帰りで

出張だったのだが、

 

電車を降りて

駅のホームで

少し震えながら

冷たい雨を

見ていたら、

 

今日という一日

とても愛おしくなった。

 

今日も昨日も

一昨日も、

何人もの人と会い、

向かい合ったが、

 

皆、それぞれに

辛さ

を持っていた。

 

その辛さとは

ほとんどの場合、

その人の

価値基準が

生んでいる。

 

これは

正しい。

 

これは

間違っている。

 

本当は

こうなることが

正解だと思うのに、

なんで物事は

こうなってしまうんだ!

 

という

憤りの苦しみ。

 

本当は

こうあるべきなのに

なんであの人は

わかってくれないんだ!

 

という

悲しみの苦しみ。

 

それは

物事や人に

向けられるばかり

ではなく、

 

自分自身にも

向けられる。

 

正しい。

 

間違っている。

 

ここは正しいが、

ここは違う。

 

なんで私は

こんなに

間違ったことを

してしまうんだ!

 

と自分を

責め続ける。

 

ほとんどの

人は、

自分の解釈に

よって

自分を

苦しめている。

 

それを

「幻影」と言い、

 

それは

本当の苦しみ

ではないのだが、

 

私達人間の

苦しみのほとんどは

その、幻影

である。

 

だからもう

そんな苦しみは

しなくていい、

ということを

言いたいのでは

ない。

 

そういった

私達人間の営み

そのものが

妙に

愛おしくなったのだ。

 

一日は、

解釈と共に

始まり、

 

解釈と共に

終わる。

 

人は

解釈によって

喜び、

解釈によって

苦しむ。

 

その世界

そのものを

愛おしく

思ったのだ。

 

冷たい雨だから

嫌だなぁ、

というのも

解釈。

 

雨の中

歩きたくないなぁ、

なんで

出張の日に限って

雨なんだ、

という解釈。

 

こんな日は

きっと

ひどいことが

起こるに違いない、

という解釈。

 

そう思っていたら、

素敵なことが

たくさん起こり、

逆にとても

嬉しくなった。

 

これも

解釈の成せる技。

 

人間って

面白いね。

 

正しいと

思うことは

受け入れて、

 

そう思えない

ことは

受け入れない。

 

それって

まったく

自由じゃない。

 

これをきっと

不自由

と言うのだろう。

 

本当の

自由とは、

 

正しいとか

間違っているとか

関係なく

すべてを

受け入れること。

 

受け入れる

とは

肯定する

ことではない。

 

ただ、

受け入れるだけ。

 

すべてを

受け入れて、

その上で

次の一歩を

決めること。

 

そういった人の

人生には

きっと

多くの選択肢が

観えてくるのだろう。

 

しかし

そうなれない自分が

ここにいて、

 

実際には

不自由な中で

毎日

苦しんでいる。

 

理屈では

わかっていても

どうにもならない。

 

人間って

大変だ。

 

でも、

面白い。

 

面白がるのが

受け入れる

ということかな?

 

なんか

全部ひっくるめて

愛おしくなった。

 

今日という

一日が

愛おしくなった。

 

うぅ〜、

さみぃ・・・。

 

つづく

 

100%、自分を縛る

 

少し前に

「自由」について

書かせていただいた。

→【自由とは何だろうか】

 

ここではまた

別の視点から

「自由」について

書いてみたい。

 

・・・・・・

 

「自由」とは

自分を縛ることである。

 

と書くと

驚くだろうか。

 

もしくは、

ひょっとすると

なるほど!

と思う人も

いるかもしれない。

 

自分を

完全に、100%、

縛ってみる

 

という体験を

私はオススメする。

 

今日は

何をするか?

 

今日は

何をしないか?

 

何を

どのような順番で

どれくらいの

時間をかけて

どのようにするか?

 

・・・等を、

一日の始まりに

完全に

決めてしまう。

 

そして

一分一秒

すべて決めた通りに

そのままに

動いてみるのだ。

 

もちろん、

仕事などでは

突発的にやらなければ

ならないことも

入ってくるだろう。

 

その場合は、

その時点で一度

立ち止まり、

もう一度、

計画をしっかりと

組み直せばいい。

 

そして、

「完全に自分を縛って」

自分をその通りに

動かすのだ。

 

・・・・・・

 

もし可能であれば、

それを

「一日」の単位ではなく、

 

「人生」

という単位で

行なってみてもよい。

 

自分の人生の

道のりを、

完全に決めてしまう

のだ。

 

もちろん

未来のことは

わからないことだらけだし、

現時点では

描けないことの方が

多いだろう。

 

しかしそれでも

描けるところまでは

しっかりと描き、

 

例えば、

10年間でこれを

しよう。

 

3年間でこれを

しよう。

 

この1年間で

これをしよう。

 

この3ヶ月間で

これをしよう。

 

今月は

これをしよう。

 

今週は

これをしよう。

 

今日は

これをしよう。

 

というように、

すべてを

「決めてしまう」。

 

そして、

それを外すことを

一切、

許さない。

 

完全に自分を

縛り、

「これ以外の選択肢は

ない」

と決めてしまう。

 

決めたことに

関しては、

一切の「迷い」を

許さない。

 

迷っても

迷った瞬間に

その迷いを

捨ててしまう。

 

とにかく、

自分が決めた通りに

自分を

完全に

縛るのだ。

 

・・・・・・

 

もしくは、

自分で自分を

縛るのではなく、

 

それを

他者にやってもらっても

いい。

 

「今日一日は、

完全に、あなたの

言う通りに

私は動くから、

私の動きをすべて

指示してください」

 

と、お願いし、

その人の言う通りに

本当に行動するのだ。

 

なんなら、

それを何日間か

続けてもいい。

 

・・・・・・

 

以上を

本気でやってみて

ほしい。

 

きっとそこに

「自由」

を感じるはずだ。

 

すべてから

解放された感覚を

得るはずだ。

 

中途半端では

ダメ。

 

100%やり切る

こと。

 

100%やると

決めること。

 

そうすれば

「自由」の感覚を

得られるはずだ。

 

よくよく考えると、

私は日々、

徹底的に

私自身を

縛り続けているのかも

しれない。

 

これができるように

なってから

私は本当に

「自由」になれた。

 

すべてから

解放され、

 

本来の自分

取り戻せたので

ある。

 

つづく

 

自由とは何だろうか

 

「自由」とは

何だろうか?

 

このテーマを最初に

自覚したのは、

もう16〜7年前だ。

 

当時、私は

師匠の会社の

雇われ社長をしていたが、

そこから飛び出し、

自分で一つの

会社を立ち上げた。

 

その時に

自分の中から

浮上してきたのが

このテーマだった。

 

以来、私は

このテーマをずっと

探究している。

 

・・・・・・

 

これについては

いろんな視点からの

いろんな答えが

あるだろう。

 

ただ、

私からみれば、

多くの人が

「勘違いの自由」を

欲しているように

思えてならない時が

ある。

 

それは

「状況に自由を

求める」

ということだ。

 

つまりは、

「自由な状況に

なりたい」

と思い、

その「状況」を手に入れる

ことを

「自由である」

と思い込んでいる

ことだ。

 

残念ながら

それにより私達が

本当に「自由」を

感じることは

ない。

 

いや、正確には

あるにはあるが、

それは一時的な

ものだ。

 

もうちょい、

わかりやすく

言おうか。

 

多くの人は、

 

「何でも自分の

思う通りにできる

状況にしたい」

 

と思い、

その状況を

実現できている

ことを

「自由になれた!」

と言う。

 

例えば、

「この会社では

自分は自由に

やれないから、

別の会社に行って

自由にやるんだ」

 

とか、

 

「独立をして

自分の好きなことを

やるんだ」

 

とか。

 

そしてその通りに

する人がいるし、

私はそれを

止めることもないが、

 

それでその人が

本当に「自由」を

手に入れることは

極めて稀だ。

 

なぜなら

その人の

「心が自由」

ではないからだ。

 

一つ言える

とても大事な

こと。

 

それは、

 

私達人間は、

どれだけ

「状況が自由」に

なっても、

本当の「自由」を

感じることは

ない。

 

「心の自由」

を手に入れない

限りは。

 

・・・・・・

 

「自由にできる

状況になれば、

私は自由に

なれる」

 

でも、

 

「自由にできる

状況になければ、

私は自由には

なれない」

 

というのは、

本当に「自由」

だろうか?

 

私は、

本当の「自由」とは、

 

「どのような状況でも

自由でいられる

自分でいること」

 

だと

思っている。

 

そこに必須なのが

「心の自由」

である。

 

どんな状況でも

「心が自由でいられる自分」

である人は

一生、「自由」で

いられるだろう。

 

そして、

私の表現を使えば、

 

「心が自由」

であることと、

 

「真本音に素直に

生きること」

は、

 

まったくの

イコールである。

 

私達は、

どのような状況でも

真本音に素直に

生きることが

できる。

 

「自由な状況

だから、

私は真本音で

生きることができる」

 

ということでは

ない。

 

それは

真本音ではない。

 

私達の真本音は

「状況」は

選ばないのだ。

 

この会社でも

あの会社でも

独立をしても

しなくても、

 

私達は

「今ここ」で

「いつでも」

真本音で生きる

ことができる。

 

その本質を

本当に理解できて

いる人は、

 

常に「自由」だ。

 

・・・・・・

 

以上のことを

しっかりと

理解できている人に

私は

「コーチ」に

なってもらいたい。

 

ここを理解

していないと、

「人を自由にできる」

サポートは

絶対に無理だからだ。

 

今の世の中は

残念ながら、

とても不自由だ。

 

みんな

自由を求めて

不自由に

生きている。

 

つづく

 

すべての意図を手放します

 

人や組織のサポートを

させていただく時に、

私がいつも

最も気をつけている

ことは、

 

私自身の意図を

まったく持たない、

 

ということです。

 

これは本当に、

まったく

持たないです。

 

私が意図を持ったら、

その時点で、

あらゆるサポートが

意味を成さなく

なるでしょう。

 

もちろん私は

クライアント企業の社長から

「こうしてほしい」

というご要望を

たくさんいただきます。

 

例えば、

「売上の上がらない

管理職を

売上を上げられる状態に

してほしい」

など。

 

当然のことですが、

「結果」を

求められます。

 

そして私も当然ですが、

「結果」を

とても大切にします。

 

「結果」が出なければ

意味がない

とすら思っています。

 

しかし、

だからこそ、

私は、私自身の「意図」を

すべて手放します。

 

・・・・・・

 

ご要望は

すべて受け取ります。

 

私自身に

しっかりと

インプットします。

 

ご要望そのものと

「一体化」

します。

 

その上で、

私は「意図」を

手放します。

 

「意図」を手放すことで

私は完全に

「自由」

となります。

 

その状態で私は

すべての方々と

向き合います。

 

すると、

私が向き合う方々も

徐々にですが

「自由」となっていきます。

 

「自由」とは、

「真本音が自由となっている」

状態を言います。

 

私は

皆さんの真本音を

「自由」な状態に

したいのです。

 

そのために、

まずは私自身が

「自由」になります。

 

すると「自由」は

目の前の人に伝播し、

その人の真本音も

「自由」となります。

 

・・・・・・

 

私の「自由」と

目の前の人の「自由」。

 

自由と自由が

向き合う状態。

 

この状態を

創り上げるのが、

まずは私の目指す

ところです。

 

人は

本当に自由になると、

二つの面白いことを

起こします。

 

一つは、

 

「自分のすべきことを

しっかりしよう」

 

となるのです。

 

迷いなく、

淀みなく。

 

そして

もう一つは、

 

「目の前のこの自由な人を

私は活用しよう」

 

となります。

 

その瞬間から、

「たけうちがその人を

コーチングする」

という場が

本質的に変化し、

 

「その人が

たけうちを活用する」

という場になります。

 

そうなったらもう

あとは、

その人の真本音に

委ねるだけ

です。

 

そうなるとその人は、

自分自身の真本音に

基づいて、

現実と向き合い、

現実に対して

必要な行動を起こし、

自分が望み、かつ

周りも望む結果を

自ら生み出すようになります。

 

私がどうこう

引っ張る必要は

まったくありません。

 

勝手にその人が

現実を創っていくのです。

 

ということはつまり、

私は私の「意図」を

挟む余地が

どこにもないのです。

 

私が何かの思惑を持ち、

その方向に

引っ張る必要は

まったくないし、

それをすればするほど、

それは

「その人自身の場」ではなく

「たけうちコーチの場」

になってしまいます。

 

そして当然ですが、

もしそうなってしまった場合、

望む結果は

出るはずがありません。

 

・・・・・・

 

中途半端な自由は

ただのわがままに

なります。

 

それは

反応本音レベルの

自由です。

 

それは実は

本当は自由ではなく、

わがままという名の

束縛でしかありません。

 

人は

本当に自由になれば、

そして

本当に真本音で生きれば、

自分が

すべきこと、

周りから求められていること、

に対して、

本気で応えようとします。

 

束縛されて

そうしようとするのではなく、

自由な状態で

本気でそうしようと

思うのです。

 

なぜなら私達人間は、

「自分だけの幸せ」

よりも、

「自分も周りも幸せになる」

ことに

本質的な悦びを感じますし、

 

「自分が起点となって

周りが幸せになっていく」

ことに

無上の悦びを

得るからです。

 

それが

人の本質。

 

私はその本質を

どこまでも

大切にしたサポートを

したいのです。

 

つづく

 

自由な生き方をする、とは

 

私達は自由です。

 

・・・なんて断言をすると

皆さんの心の中には

どんな気持ちが

発生しますか?

 

自由であるわけ

ないだろうが。

 

とか、

 

心の自由になれても

現実は自由には

なれないよ。

 

とか、

 

自由であろうとすることは

大事だけど、

実際にはそれは無理だ。

 

とか。

 

否定的な心の声が

出てくるケースが

多いのではないかな?

 

もちろん私の心にも

否定的な声は

発生します。

 

人がどれだけ

不自由か。

 

みんながどれだけ

不自由の中で

もがいているか。

 

そういったことを

いやというほど

見てきましたしね。

 

でも、

 

私達は自由です。

 

と一言つぶやいた時に、

心の中のほんのわずかでも

一つの部分が、

 

そりゃそうだよ、

当たり前だよ。

 

と、応えていませんか?

 

もしそういった部分を

感じることができたら、

そこがあなたの

真本音です。

 

・・・・・・

 

私達の真本音は

自由です。

 

自由であるが故に

きちんと

目の前の現実を

大切にします。

 

自由であるが故に

現実を尊重しながら

「現実的な一歩」

を進もうとします。

 

現実を尊重する

ということは

「今を尊重する」

ということです。

 

今を、

現実を、

尊重することは

自分を縛ることでは

ありません。

 

いろんな選択肢があり、

どの選択をすることも

できる、

という自分がいて、

その上で、

現実を尊重した選択を

する。

 

これが、

真本音で生きる

ということです。

 

ですから

私達の真本音は、

悪い意味での

無茶はしません。

 

悪い意味での無茶

とは、

本人が

「絶対無理だ」

とわかっていて進むこと

です。

 

真本音の道は

「絶対無理だ」と思いながら

進む道ではありません。

 

「ここを行くのは

当たり前」

 

「ここを行くのが

最も幸せ」

 

「ここを行くのが

私の人生」

 

であると、当然のように

思える道が

真本音の道です。

 

その道を

当然のように

進んでいると、

 

時々ですが、

周りからは、

 

「あの人、

無茶するよなぁ」

 

と見られたりします。笑

 

しかし本人は極めて

当たり前の選択を

しながら、

当たり前に進んでいる

だけなのです。

 

当たり前の道を

当たり前のように

進めることをまた、

自由、

と言います。

 

・・・・・・

 

どのような現実の

中にあっても、

 

私は自由ですよ。

 

と当たり前のように

言える人が増えると

いいなぁと

私は思います。

 

そういった人が

増えて行くと、

組織は調和しますし、

世の中も

調和していきます。

 

本当の「自由」と

「調和」は

同義語です。

 

一人一人が

「自由」になることが

社会の「調和」に

直結します。

 

そのために私は

今日も明日も

コーチとして

がんばります。

 

つづく

 

自分を救えるのは自分だけ

 

私は私の人生を

歩みたいと

思っているのに、

どうしても

私ではない意思を

尊重してしまう。

 

本当は

こうしたい!

と思うのに、

そうではない選択や

行動をしてしまう。

 

そのうちに、

私が本当は

何を望んでいたのか?

という

自分自身の気持ちすら

わからなくなる。

 

そして、

今、抱いているこの

気持ちが、

本当の自分の気持ちなのか、

それとも

本当は自分が

望んでいないことなのか、

 

その区別すら

つかなくなる。

 

区別がつかないままに

日々、

流れていってしまう。

 

途中で、

まぁいいか、となる。

 

深く考えないでおこう、

となる。

 

そして気がつけば、

妥協ばかりをしていて、

しかし

妥協している自分を

見ること自体が

怖くて。

 

自分とまったく

向き合わないように

なる。

 

そして、

人生に対して

無気力に

なっていく。

 

いや。

 

無気力だと

自覚すればまだ

まし。

 

自分が無気力で

空虚感の塊に

なっていることすら

気づかなくなる。

 

いつの間にか

「自分」が

もう、ここには

いない。

 

ここには

私の体はあるけど、

心らしきものは

あるけど、

 

私の本質は

一つも

ない。

 

私は

どこに行って

しまったのだろう?

 

私は

本当に

生きているの

だろうか?

 

私とは

何だろう?

 

まぁ

いいか・・・。

 

・・・・・・

 

とても

傲慢なことであるとは

重々にわかっては

いるのですが、

 

私は、

人を救いたい。

 

自分と、

自分の人生を

失ってしまっている

人を

救いたい。

 

企業現場の中にいると

どうしても

そんな想いが

湧き上がってきます。

 

本当に

傲慢だと

わかっているのですが。

 

とはいえ、

私が他の人を

救えるはずが

ありません。

 

それも

わかっています。

 

その人を救えるのは

その人自身です。

 

でも

多くの人が

自分の救い方を

知らない。

 

知らなさ過ぎる。

 

私に

人を救うことは

できないけれども、

自分の救い方を

伝えることは

できる。

 

であれば、

それをどんどん

伝えていこう。

 

そう思うのですが、

これもやはり

傲慢でしょうか。

 

でも少なくとも

私は、

私を救うことが

できました。

 

もちろん

多くの人達の

援助と支えが

ありました。

 

その人達の

たった一人でも

もし出会えなかったら

私が私の人生を

取り戻すことは

できなかったでしょう。

 

でも

そういった事実を

すべて自覚した上で

やはり

思うのです。

 

私を救ったのは

私自身である

と。

 

そう。

 

これだけは

絶対的な

真実。

 

自分を救えるのは

自分だけ

なんですね。

 

・・・・・・

 

私は、毎日、

そう、

本当に、毎日、

私のクライアントさんに

お伝えしています。

 

「自分の思った通りに

生きてください」

 

と。

 

特に、

真本音度合いを高めた

クライアントさんには

口を酸っぱくして

伝え続けています。

 

様々な経験を

積んだ人ほど、

自分で自分を

縛ってしまいます。

 

私はそういう人が

自由になればいいと

本当に思っています。

 

真本音度合いの高い

人が、

自由になれば。

 

そこには間違いなく

調和が生まれます。

 

しかし、

「自由になっては

ならない」

「わがままは

絶対にダメ」

という「解釈」から

自分で自分を

縛ってしまうのです。

誠実な人ほど。

 

それは

誠実ではない!

今は、

あなたが

わがままに

自由に

振る舞うことこそが、

誠実なんだ!

 

と、

私は本当に毎日

全力でお伝え

しています。

 

・・・・・・

 

セルフコーチング。

 

自分と

向き合う方法。

 

無理に自分と

向き合うのではなく、

自然の摂理に則った

やり方で

自分と向き合い、

 

自分を理解し、

 

次の一歩を

決めて、

 

行動する。

 

「調和」と

「自由」は

本当は、

同義語です。

 

それを日々の中で

実感するための

セルフコーチングの

手法。

 

それを私はやはり

多くの人達に

お伝えしたい。

 

本当に今、

そう思います。

 

・・・・・・

 

ようやく、

セルフコーチング系の

発信ができることに

なりました。

 

新しい講座も

開講します。

 

電子書籍という

形をとりましたが、

動画もご覧に

なれます。

 

ぜひその

動画をご覧

いただきたいですね。

 

これからいよいよ

本格的に

始動します。

↓↓↓

『人生を真剣に生きたいあなたへ』

 

つづく

環境を愛しているかい?

 

私は

クライアントさんが

自由になるための

サポートを

させていただいています。

 

しかし

「自由」という言葉を

使えば、

残念ながらよく誤解が

生じます。

 

誤解の中で

最も大きなものは、

 

「私は自由な人生がいい。

でも、今のこの環境にいては

自由になれない。

だから、

環境を変えたい!」

 

というものです。

 

今の環境では

自由になれないから

環境を変える。

 

・・・これって

自由でしょうか?

 

環境を変えなれければ

自由になれないのだと

したら、

その時点でその人はもう

不自由な人生を

生きています。

 

・・・・・・

 

23歳の時。

 

私は旅をしました。

 

世界で10指に入る

最貧国の一つと言われる国を

旅しました。

 

そこで私と同じ

23歳の若者と

出会いました。

 

その国の人達は

ほぼ、

真面目に働いて

いませんでした。

(あくまで私の印象です。)

 

しかしその若者は

朝6時から夜中の12時まで

働き尽くめでした。

 

私は彼と一週間でしたが

生活を共にしました。

 

私は彼の生き方に

驚愕していました。

 

周りの誰もが

働いていないのに、

なんで彼だけが

これだけ懸命に

働くのか?

 

彼は自分の事業を

起こしていましたし、

ボランティア活動も

していました。

 

病気の人がいると

聞けば、

その人のもとに

駆けつけていました。

 

彼は毎朝4時に

起床し、

毎朝必死に

お祈りを捧げていました。

 

一週間経ち、

私が彼のもとを去る時、

思い切って彼に

訊いてみたんです。

 

なぜ、

そんなにも懸命に

働くのですか?

他は誰も

がんばっていないのに・・・。

 

すると彼は

びっくりするような

純粋な目を

私に向けました。

 

そして

びっくりするような

笑顔。

 

で、あえて

片言の日本語で

私に伝えたのです。

 

「私はこの国を

愛しています」

 

「私はこの国を

みんなが幸せになれる

国に変えたいのです」

 

この一言は

恐らく私のその後の

人生を

大きく変えました。

 

・・・・・・

 

この環境では

自由でいられる。

 

でも、

この環境では

自由ではいられない。

 

・・・これこそ、

不自由だと

思いませんか?

 

どのような環境でも

自分の本当の想いに

素直に

生きていける。

 

そういった人こそが

本当に自由な人であると

私は

学ばせていただきました。

 

私達の真本音は

環境を

選びません。

 

状況を

選びません。

 

どんな時も

どんな環境でも

どんな状況でも

揺るがずに

そこにあるのです。

 

それが

私達の

真本音です。

 

つづく

 

大事なものほど手放してみよう

「自由」と「手放す」

というのは、

ある意味、

同義語かもしれません。

 

もちろん

イコールではありません。

 

しかし、

本当に自由な人には

執着がありません。

 

手放すべきものを

手放すべきタイミングで

すぐに手放すことが

できます。

 

逆に、

そういう人は、

何を手放してはならないか?

について

とても冷静です。

 

手放すべきものと

手放してはならないものを

常に落ち着いて判断し、

その通りに実行することが

できます。

 

そういう人は概して、

とてもあたたかい雰囲気を

持っています。

 

そして、いい意味で

無邪気です。

 

一緒にいて、

癒されます。

 

なぜそうなれるか?と

言いますと、

そういった人は

実在レベルでは

すべてに満たされている

からです。

 

実在レベルでは

すべては一つである

という感覚が

大きいのです。

 

現象レベルで

何かを手放しても、

それはただ距離を離すという

だけのことで、

実在レベルでは

一つであるし、もしくは

共に在るのです。

ということを

感覚としてよくわかって

いるのです。

 

むしろ、

距離を調整することこそが

実在レベルでのあらゆるものの

存在感を

より高め合うことができる

ということも

よくわかっています。

 

「もうあなたと会うことは

やめにします」

「もうあなたと一緒に

仕事をすることはやめます」

「もう離れて暮らしましょう」

 

・・・というようなことを

言いながらも、

それをすることで

お互いのつながりや存在や

そして愛が

さらに深くなることを

知っているのです。

 

・・・・・・

 

私達が手放せるものの中で、

ある意味

最大のものは、

「人生」

かもしれません。

 

「人生を手放す」

 

もちろんそれは

自殺ということでは

ありません。

 

自分の人生を一度、

完全に手放して

しまうのです。

まずは

実在レベルで。

 

つまりは、

心の中で。

 

私は私の人生を

完全に手放せたな。

 

・・・と100%思えることで

初めて観えてくることが

あります。

 

例えば、

自分は自分の人生に

いかに執着していたか?

とか。

 

実は私はこれまで

何度もこれを

しています。

 

私の場合

そこで発見したのは、

人生の願いやビジョン、

そして、

使命に対して

依存している自分自身でした。

 

自分の真本音に

依存している自分であり、

自分の真本音に

執着している自分

でした。

 

もうその時点で

真本音

ではなくなってるんですけどね。

 

もちろん私達は

人間ですから、

執着があるのは当たり前です。

 

執着をゼロにすることは

難しいでしょう。

 

しかし、

執着が執着であることを

知ることが大事であり、

それが執着であるという

自覚のないまま進むことは

できれば避けたいですね。

 

・・・・・・

 

今、あなたにとって

最も大事だと思える人を

一人選んでください。

 

その人を

手放してみてください。

 

もちろん、

心の中だけで結構です。

 

でも、

完全に手放してみて

ください。

 

できます?

 

できないですよね。

 

そりゃ簡単には

いきません。

 

でも、

「手放せた!」

と確信できるまで

がんばって

やってみてください。

 

もちろん

心の中だけです。

 

するとそれが

ゼロリセットとなり、

その人との

新たな関係がスタート

するかもしれません。

 

その人との関係において

これまで思いもよらなかった

発想が

浮上するかもしれません。

 

同じように、

今の自分の仕事に

対しても

心の中で完全に

手放してみてください。

 

何をどう

感じますか?

 

どうしてもそれは

手放せない、

ということであれば、

それはまず間違いなく

執着です。

 

本当は私達は

自分にとって

真に大事なものであればあるほど

手放すことができるのです。

 

しかしもちろん、

その執着を無理に取り払う

必要はありません。

 

でも、

その執着がどのようなものかを

しっかり観察し、

自覚することは大事です。

 

その執着が

あなたの人生の足を

様々な場面で

引っ張っているかも

しれませんから。

 

以上は、

現実を本当に動かすわけでは

ありませんので、

「遊び」の範疇です。

 

でも、

「遊び」だからこそ得られる

発見もあります。

 

「遊び」だからこそ

一度、

真剣にやってみることを

お勧めします。

 

つづく

 

その願いは、自由をもたらす?

てんでバラバラな記事を

書いているように

思われるかもしれませんが、

ここのところのこのブログの記事の

すべての根底に流れている

テーマがあります。

 

それは、

「自由」

です。

(→【あなたは自由に生きていますか?】)

 

自由とは何か?

 

自由を阻害するものは何か?

 

真に自由になるために

必要なものとは何か?

 

真に自由になるために

どうすればよいか?

 

これらの問いが

すべての根底にありつつも、

様々な視点から

書かせていただいています。

 

もう一度、この辺りで

それを思い出していただくと

よいかなと思いました。

 

今回も

そんな視点からの

お話です。

 

さて。

 

人間とは何でしょうか?

 

・・・と問われたと

します。

 

私は、

人間と向き合い続ける

お仕事をさせていただいて

いますので、

毎日のようにこの問いと

向かい合っています。

 

これまで、様々な視点から

様々な答えを

見出すことができましたが、

この問いに関しては、

「これがベストアンサーだ」

という結論は出さない方が

よいと思っています。

 

その方が

もっともっと人間探究を

楽しめます。

 

その前提のもとで、

その問いについての

ある視点からの一つの答え

(あくまで私が実感した答え)

を申し上げます。

それは、

人間とは、

 

『願いのカタチ』

 

である。

・・・ということです。

 

「願いが服を着て歩いている」

のが人間である、と。

 

ただしその願いには

いろいろな願いが

あります。

 

私の言葉で表現すれば、

真本音の願いもあれば、

反応本音の願いも

あります。

 

どのような願いだとしても、

私達人間は、

 

「願いの一点」

 

を決めています。

 

つまり、

今の自分は、

今日の自分は、

どの「願い」のために

生きるか?

ということを無意識に

決めています。

 

そしてそれを

自分の「中心」として、

すべての言動を

無意識に

自分で決めています。

 

願いの一点を決めずに

日々を生きている人は

私が実感する限りでは

一人もいません。

 

ですから、

次の問いが非常に

重要だと思うのです。

 

「私は今、

どのような願いの一点を

中心にして

生きているのだろうか?」

 

ここが、

反応本音の願いだとしたら、

その人の心の中には

残念ながら

ストレスが湧き続けます。

 

真本音の願いだとしたら、

その人は

中心からパワーが

湧き続けます。

 

そういった

単純明快な法則が

あります。

 

反応本音の願いとは、

「満たされないものを

満たそうとする願い」

です。

 

ですのでそれは、

「枯渇した中で湧く願い」

です。

 

枯渇した中で

湧きますから、

多くの場合それは結果として

周りの人から

「何かを奪う」

願いとなります。

 

そういった人と一緒にいると、

単純に、

パワーを奪われ続けます。

 

あの人と一緒にいると

疲れる。

 

あの人と一緒にいると

苦しい、辛い。

 

あの人と一緒に

いたくない。

 

そんな印象を持ってしまう人の

中心には

そういった「枯渇した中で湧く願い」

が設定されています。

 

そして、

周りからパワーを奪い続けて

いることを、

一番よくわかっているのは

その人自身です。

 

ですからその人は

無意識のレベルで

自分を責め続けます。

つまり、

罪悪感というやつです。

 

罪悪感とは、

自分で自分を

傷つける行為と同じです。

 

ですからずっと

ストレスが湧き続け、

その人自身も

パワーが減退します。

 

つまり、

パワーを奪っているのに、

自分からもパワーが

奪われ続ける、

という状態に入っています。

 

で、ますます枯渇し、

ますます人からパワーを

奪おうとします。

 

その悪循環。

 

それを引き起こしてしまうのが

反応本音の願いを

中心に置く生き方です。

 

それに対して

真本音の願いとは

それ自体が

自分自身にパワーを

与えます。

 

願いが叶っているかどうか?

ではなく、

その願いを持つこと自体で

パワーが宿るのです。

 

そしてそのパワーは

周りに伝播します。

 

真本音の願いを

中心に生きている人と

一緒にいると、

誰もが元気になります。

 

あの人ともっともっと

一緒にいたいな、と

本能的に思うようになります。

 

さて、

どちらが

自由な人生となるでしょうか?

 

言わずもがな

ですね。

 

では、

真本音の願いとは

どんなものか?

を、もう少し詳しく見て

いきましょうか。

 

つづく

 

本当は決めていることがあるでしょ?

自分の人生の道が

最初から決まっていたとしたら、

皆さんはそこに

不自由さを感じますか?

 

決められたレールの上を

進む人生なんてまっぴらだ!

と思いますか?

 

それとも、

自分で自分の人生のレールを

決めることができるのであれば、

それは自由だな、と

思いますか?

 

人生は変化します。

 

人生は自分一人で

進められるものでは

ないからです。

 

状況は刻一刻と変化し、

自分に降りかかる現実も

刻一刻と変化します。

 

想定外のことが起こるのは

普通のことで、

想定外であることが

想定内だと言っても

よいくらいなのが、

この世における人生です。

 

自分が予測した通りの

人生を最後まで

歩み通したという人は

まず、いないでしょう。

 

人生は予測不能で、

自ら、状況を見ながら

一歩ずつ

創り上げていくものです。

 

予測不能で

想定外で

右往左往することを、

あえて一言で

「試行錯誤」

と表現するとします。

 

すると、

人生は試行錯誤の連続である

と言うこともできます。

 

しかし。

 

その試行錯誤のすべてが

もともと自分が

決めていたことであると

したら・・・。

 

皆さんは、

どのようにお感じに

なるでしょうか。

 

人が本当に

自由に生きる、とは、

その、あらかじめ決めていた

試行錯誤を

その通りに生きることである、

としたら、

どう、お感じになるでしょうか。

 

未来は、

本当に観えませんか?

 

もちろん、

観えませんね。

 

でも、本当に

未来は観えませんか?

 

本当の本当は

観えるのでは

ありませんか?

 

それが私達人間

ではありませんか?

 

未来が観えるからこそ、

私達には

「確信」が働くのでは

ありませんか?

 

未来が観えるからこそ、

根拠のない自信が

湧き起こることが

あるのではありませんか?

 

私達はもう、

すべてを知っている。

 

自分の道も。

 

自分の未来も。

 

人の道も。

 

人の未来も。

 

すべてを知った上で、

ここにいるのでは

ありませんか?

 

道が決まっていることは

自由ですか?

 

それとも

不自由ですか?

 

すべてが決まっている上での

試行錯誤は、

無駄だと思いますか?

 

抵抗がありますか?

 

それともそれを知ることで

楽になりますか?

 

未来がわかることで、

私は、

人生の99%以上の醍醐味は

失われると

思っています。

 

だから私は

未来を知りたくは

ありません。

 

ですので、

未来がわからないように

しています。

 

でもその一方で

思うのです。

 

「未来をわからないようにする」

という自分の意思を

外してしまえば、

きっとすべてがわかってしまうの

だろうな、と。

 

すべて、

自分自身で行なっている

ことなのだろうと、

どこかでよくわかっています。

 

私は人生を

楽しんでいます。

 

思わぬ出会いがあり、

思わぬ展開があり、

自分の想定外の現実が

起こることを、

心の底から

楽しんでいます。

 

そうやって

人生を味わっています。

 

それが人としての

幸せだからです。

 

そうです。

 

意図して、

そうしているのです。

 

私だけではありません。

 

すべての人が

そうです。

 

人生は

苦しいですか?

 

人生を

早くやめてしまいたいですか?

 

私は本気で

そう思ったことは

何度もあります。

 

でもそれも含めて、

私は人生を

味わっているのだと、

ある時に

気づいたのです。

 

人生という

ステージの上で

演じる自分。

 

それを監督として

ステージの外側から

見つめる自分。

 

両方の自分が

いませんか?

 

物語は、

最初から決まっている。

 

しかし、

演じているステージ上の自分は

それを忘れるくらいに

没頭している。

 

それが、

人生ではありませんか?

 

すべてをわかった上で

自分自身を見つめる

自分がいます。

 

それを

『真我』

と呼ぶ人もいます。

 

真本音とは、

「真我の意思」

と言ってもよいのかも

しれません。

 

人は

真我の意思を思い出せば、

すべてが変わり始めます。

 

「自分を変える」

ことよりも、

「真我の意思を思い出す」

方が、100倍も楽です。

 

私のさせていただいている

サポートとは、

要するにそういうことなんだと

最近、つくづく思います。

 

つづく

実は最も楽なのは、根本を変えること

自然の摂理という視点から

観たとき、

私達は、大河の流れに

身を委ねるということが

人として大切なことであり、

それが「自由」につながることである

ということを

昨日、書かせていただきました。

 

流れに身を委ねることで、

今度は

私達自身が自らの

流れを創り出すことが

できます。

 

自らの流れ。

 

・・・それは

「循環」

です。

 

私達が「生きる」ということは、

私達自身が何かを

「発想」

し、

その発想に基づき、

「行動」

し、

その行動によって何らかの

「結果」

を得る、ということです。

 

「結果」という言葉を

「現実」という言葉に

置き換えることもできます。

 

発想して、

行動して、

結果(現実)を得ることを、

一言で

「経験」

と言います。

 

「経験」により、私達は

次の「発想」をします。

 

「経験」により

次の「発想」に影響が

及びます。

 

そしてその「発想」により、

それがまた次の

「行動」につながります。

 

発想、行動、結果(現実)、

そして、

次の発想、行動、結果(現実)

そして、

次の発想、行動、結果(現実)

・・・・

この「循環」を私達は絶え間なく

続けています。

 

ところが

「循環」には、

その「循環」そのものに

力が宿ります。

 

「循環」を回すうちに、

慣性力が働き、

私達が意図しなくとも

ある時から勝手に

その「循環」が回り続けるように

なります。

 

それはまるで、

自転車を漕ぎ出したら、

スピードに乗った後は、

勝手に自転車が前に進むのと

同じようなものです。

 

すると、その

勝手に回り出した「循環」が

その人の人生のパターンと

なります。

 

それが固定観念を

生みます。

つまり、

「これが人生というものだ」

という固定観念、

「これが私という人間だ」

という固定観念です。

 

その固定観念が

その人にとっては

「真実」となります。

 

するとその人は

ある時からその「真実」に

基づき、

さらにその「循環」を

同じように回し続けるように

なります。

 

こうして、

その人の人生や

個性が

形作られていきます。

 

でもこれは果たして、

「自由」

と呼べるものでしょうか?

 

自ら生み出した流れ、

自ら生み出した循環。

 

その中から

出ることができない・・・。

 

年齢を重ねるということは

そういった自分なりの人生、

自分なりの真実を

固定化させることである、

という思い込みも

世の中には蔓延しています。

 

年齢を重ねるに従って、

私達はどんどん

自らの創り出した循環のパターンに

呑み込まれていく。

 

これはやはり、

自由ではないですね。

 

人生を変える

ということは、

本当は、

実に容易いことです。

 

自ら創り出している循環を

変えるだけのこと

なのですから。

 

ほんの一つの発想、

ほんの一つの行動を

変えるだけで、

人生は劇的に

変わっていきます。

 

その事実を

あまりにも多くの人が

知りませんし、

信じていません。

 

しかし、

信じていないものを

「信じなさい」

と言って、

他者がその人を変えることも

ほぼ、不可能です。

 

洗脳というものも

ありますが、

あれは、本当は

本人が洗脳されたがっている

という理由があります。

 

それも本人の選び出している

循環の中の

一つの現象に過ぎません。

 

私達は結局は

自らの意志で生きています。

 

もちろん、

あまりに理不尽な環境に

生まれ、

自らの意志、という概念すら

わからない人も

世界中にはたくさんいます。

 

でも、

それでもやはり私達は

自らの意志で

自らの循環を創り出して、

その中で生きています。

 

その循環を変えることが

できるのは

本人だけです。

 

それこそが

人の真実。

 

ですから

循環を変える方法は

たったの一つです。

 

本人が

「変えよう」

とすることです。

 

いえ、

正確に言えば

「変えよう」と思っているうちは

まだその循環に

捕らわれています。

ですから、

なかなか変わりません。

 

私が

私自身の経験と、

多くの方々と向き合いながら

実感することができた、

循環を変えるための

最大最善の方法があります。

 

それは、

 

「循環の原点を変える」

 

ことです。

 

原点を変えても実は、

循環そのものは

これまでと同じように

回り続けます。

 

しかし、

原点が変わることで

本人が気づかないうちに、

つまり

本人が「変えよう」としなくても

ある時は、徐々に

ある時は、劇的に

循環は変質します。

 

もちろん

「原点を変える」こと自体は

その人の意志です。

 

実は・・・。

 

表面上の循環を

変えることよりも、

原点を変える方が

簡単なのです。

 

一番簡単なところを

変える。

 

それが「原点」。

 

原点を変えることで

知らぬ間に循環が変わる。

 

・・・これが私のサポートの

本質です。

 

ではその

「原点」とは何か?

 

「原点」を変えるとは

どういうことか?

 

について、

次回以降に書かせて

いただきます。

 

つづく

 

自由は摂理の中でこそ

本当の自由を手に入れる

ためには、

委ねることです。

 

流れに委ねる

ことです。

 

私達人間は、

自然の摂理の中で

生きています。

 

自然が人を生んだ

とも言えますし、

人が自然を選んだ

とも言えます。

 

人と自然は

イコールです。

 

まずはその

厳然たる事実が

あります。

 

人と自然がイコールで

ある以上、

自然の摂理を無視することは

私達人間からあらゆる自由を

奪います。

 

私達は、

船に乗っている存在

であると

イメージすると

わかりやすいでしょう。

 

私達の目の前には

悠久の時を流れる

大河があります。

 

その大河の流れに乗り、

上流から下流へと

流れて行くことを

進化と言います。

 

進化の先には

無限に広がる海が

あります。

 

私達は

海にたどり着きたい

のです。

 

それが人の本能であり、

人という存在が生まれた

意味でもあります。

 

私達は船を

持っています。

 

船は、

大河の流れに乗らなければ

進むことはできません。

 

岸にいても

永遠に進むことは

できません。

 

岸にい続けることが

自由である、と

叫ぶ人もいますが、

同じ場所にいることを

私達人間は

本当に望まないのです。

 

私達は

旅する存在。

 

進む存在。

 

流れに乗って

前に進むことで初めて

その船は

活きてきます。

 

中には

流れに逆行することが

自由であると

言い張る人もいます。

 

しかし

どれだけ踏ん張ろうとも

船は、

上流から下流へとしか

移動できません。

 

それを

不自由というのは

あまりに勝手です。

なぜなら、

船に乗ることを選んだのは

私達人間なのですから。

 

大河の流れは

非常に気持ちのよいものです。

 

心地よい風を受けながら、

力を抜けば

自然に船は

動き出します。

 

風景も徐々に

変わっていきます。

 

時には

急流もあるでしょう。

 

それはちょっとした

刺激であり冒険です。

 

緩急を織り交ぜながら

船は進みます。

 

大河に委ねることで

船は気持ちよく

進み続けます。

 

大河に委ねることで

その船は

安定します。

 

その船の上で

私達は何をしても

良いのです。

 

変わりゆく風景を

楽しみながら、

私達は船の上で

自由に自分の役割を

全うします。

 

船の上にいるからこそ

活きるのが

人間です。

 

人間とは

そのような存在として

生まれたのです。

 

人間としての喜びを

素直に感じようとする

その生き方が、

私達に

「本当に私は自由だなぁ」

という実感をもたらします。

 

そして・・・。

 

大河の流れは

時に、

変化します。

 

実は、今日、

2018年4月1日をもって

流れは大きく変化しました。

 

進む方向は

変わりませんが、

流れが

これまでとは別次元

と言っても良いほどに

速くなったのです。

 

その「速さ」に

ついていけるように

私達はこれまで

準備を続けてまいりました。

 

準備が整った

ということもあり、

大河は

その流れを

一気に速めました。

 

最初はちょっと

怖いかもしれません。

 

でもすぐに

慣れるでしょう。

 

そして以前よりも

このスピード感の方が

何倍も気持ちが良いと

わかるでしょう。

 

なぜなら、

私達には

私達の望むスピードが

あるからです。

 

実はまだ

そのスピードまでには

達していません。

 

しかし、

大きく、その望むスピードに

近づいたのは

確かです。

 

真本音で生きる人が

一気に増えてきた

その結果です。

 

大河の流れを

速めることのできた私達を

まずは、

誇ることにしましょう。

 

よくやったな、と

自分を褒めましょう。

 

そしてこの新たな

スピード感に

委ねましょう。

 

そうすれば、

さらに私達は

自由になれます。

 

流れは速まり、

船はさらに

盤石なものとなりました。

 

私達はさらに

自由になれます。

 

ですから、

自由にやりましょう。

 

自由に

やってください。

 

つづく

 

嫌いになるのは悪いこと?

私達人間には誰しも、

好き・嫌い

があります。

 

嫌いなものがあった場合、

それを

「好きになろう」

とする人がいます。

 

例えば、

嫌いな人がいたとしても

その人のことを

好きになろう、

とします。

 

そういった生き方をしている人を

見ると、

私は素直に、いいなぁ、と

思います。

 

が、その生き方を

無理にし過ぎている人にも

これまで多く出会いました。

 

無理にし過ぎることで、

その人は自分の中の

「嫌い」

という気持ちにフタをして

しまいます。

 

そんな気持ちはないのだと

自分で自分をごまかして

しまいます。

 

その上で、

「好きであろう」

としますので、かなり心に

無理が生じ、

その無理無理感が

おかしな空気を生みます。

 

その空気感は実は

誰もが感じ取っていて、

その人の

「好き」

は、実はとても不自然なものだと

誰もが薄々わかってしまいます。

 

「好きになろう」

という気持ちは大切ですが、

「好きであらねばならない」

までいってしまうのは

苦しいです。

 

そういった人を観ると私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

ちょっと極端に言いますが、

私は思うのです。

 

嫌いなのものは

嫌いでよいではないか。

 

・・・と。

 

「好きだ」

「嫌いだ」

という、自分から湧く

素直な気持ちは

人間として当たり前のものなので、

それはそれでよいではないか、

と。

 

そこを否定することは

人間そのものを否定して

しまっている気がします。

 

ただし、・・・ですが。

 

「嫌いなものは嫌いだから、

そこは避けて通る」

とか、

「嫌いな人とは接しない」

とか、

「嫌いなものはすべて

拒絶する」

とか、

そういった人も私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

そこには

「選択肢」

がないからです。

 

「嫌い」

だから、

関われない。

 

「嫌い」

だから、

離れずにはいられない。

 

「嫌い」

だから、

受け止められない。

 

というのは、

その選択肢でしか

生きられないということです。

 

つまり

「嫌い」なものに

翻弄されている。

 

自分以外の何かに

翻弄されている。

 

・・・ということ。

 

それは、

人生のハンドルを

自分以外の他の何かに

握られているということと

イコールです。

 

一つの視点から言えば、

私は、自由とは

「選択肢の多さ」

にあると思っています。

 

つまり、

選択肢が多ければ多いほど

自由である、と。

 

どのような環境においても、

どのような状況においても、

自分の選択肢を

たくさん創ることのできる人こそが

自由ではないか、と。

 

「嫌いだから、関われない」

というのは、

たった一つの選択肢しか

ありません。

 

その選択肢以外の選択肢を

得られるようにすることが

より自由になるということでは

ないでしょうか。

 

それを「問い」として表せば、

次のようになります。

 

もし何か嫌いなものに遭遇した

として、

 

「嫌いなことはわかった。

では、その嫌いなことに

私はどのように関わろうか?」

 

ということですね。

 

その関わり方に

多くの選択肢があればあるほど

自由です。

 

選択肢が多い、

ということはそれだけ

「最善の選択」

をしやすいということです。

 

選択肢が少ないと、

そこには

「妥協」

が発生しやすいです。

 

「妥協」とは

自分が本当は納得していない

答え。

 

「最善」とは

理想とは違いますが、

今の状況においてはこれが最高だな、

と自分で納得できている

答えです。

 

妥協の道ばかりを

行く人は

自由ではありません。

当然ですが。

 

最善の選択のできる人が

自由なのだと

私は思います。

 

真本音で生きる度合いが

高まると、

単純に言えば、

その、最善の選択の度合いが

高まります。

 

つまりは、

今、自分は何を

最善と思っているか?

が、

すぐに明確になります。

 

そういった人生は

楽ですし、

自由ですね。

 

つづく

 

絶対に自由になれない方法とは

昨日、お書きしたように、

ここしばらくは

「自由」

というテーマで記事を

書いてみたいと思っています。

(→前回記事)

 

が、

まずは最初に明確に

申し上げますね。

 

私の言う自由とは、

 

『真本音の自由』

 

ということです。

 

まぁ、

私の言う自由、という

書き方をすると

まるで私の理論のようですが、

そうではありません。

 

私が語ることのすべては

私が考えた理論では

ありません。

 

物事の本質、

つまり、

当たり前のことしか

言っていません。

 

一人の人間が考えた主張

ではなく、

かなり格好良く言えば、

「真理」

を私なりの表現でお伝え

しているだけのことです。

 

「真理」

というのは、

一部の人だけが理解していること

ということではなく、

「本当はみんながわかっていること」

です。

 

顕在意識のレベルでは

普段は意識していないけれども、

本当はみんなよくわかっていて、

その視点の話をすれば、

あぁそうだよね、

それが普通だよね、

と、当たり前のように感じること

ということです。

 

私はそういったことしか

お伝えできないですし、

それ以外のことをお伝えするのは

私の役割ではないと

思っています。

 

ですから、

「教える」

のではなく、

「思い出していただく」

というのが、

私の活動の本質です。

 

そういった意味で

もう一度申しますが、

自由とは、

「真本音の自由」

であり、

真本音が自由でなければ、

何がどうあっても、

私達人間が

本当の意味での自由を感じる

ことは

あり得ないのです。

 

なぜなら真本音とは

「本当の自分自身」

だからです。

 

本当の自分自身が

「自由だな」

と感じなければ、それはもう

自由ではありません。

 

では、

本当の自分自身とは何か?

ということになるのですが、

そっちの視点からの話になると

難しくなってしまう可能性があるので、

別の視点から

お話を進めることにします。

 

まず皆さん。

 

皆さんの自由を

阻害しているもので

最も大きなものの一つは

何だと思いますか?

 

これは

いろんな角度からいろんな答え

が出そうな質問です。

 

あえて私がここで

お伝えしたい答えは

次のようなものです。

 

私達の自由を

阻害している最大のもの。

 

それは、

 

「自由への渇望」

 

です。

 

言葉を換えれば、

 

「自由を阻害しているものへの不満」

 

とも言えます。

 

さらに言葉を換えれば、

 

「自由になりたい心の叫び」

 

です。

 

今、自分は

自由ではない。

 

自由でないから

自由になりたい。

 

なんで

自由になれないんだよー!

 

どうすれば

自由になれるんだよー!

 

という、

心の叫び達が、

実は

自由を阻害しています。

 

まずはこの

叫び、達を

浄化・成仏させてあげないと

いけないですね。

 

これは要するに

「反応本音の叫び」

です。

 

反応本音とは、

外部環境からの影響を受けて、

その反応として生まれる

私達の本音です。

 

その多くは、

・何かに満たされていない

・だから満たしたいと思う

という実にシンプルな理由から

発生します。

 

例えば、

・今の私は自由じゃない

・だから自由になりたい

というわけです。

 

これを理論的に捉えて、

・では、今の自分は何が自由じゃ

ないんだろう?

・どうすれば、そこから自由に

なれるんだろう?

とやっていくと、

実は、

おかしくなります。

 

この発想をして、

そこで生まれた答えを

実行に移して、

例えば、すべてを実行できたとしても

永遠に自由を得ることは

できないのです。

 

自分の中に発生する

反応本音に

どれだけ対応しようとも

私達は

自由になれないからです。

 

私達が自由になるには、

反応本音に対応すること

ではなく、

自らの真本音を

自由にすること

です。

 

さぁ、ではまずは、

反応本音の自由への叫びを

浄化・成仏させましょう。

 

その方法は

次回で。

 

つづく

 

あなたは自由に生きていますか?

私達には

自由意志があります。

 

自由に何でもしてもいいよ、

と言われたら、

自然に浮かんでくる

やりたいこと、があります。

 

その時その瞬間に

それは常に

浮かび続けています。

本当は。

 

ところが多くの人は、

日常において

自由ではない日々を送っています。

つまり、

何らかの制約を感じながら

日々の生活をしています。

 

ですので、

自分自身の自由意志に

フタをしてしまっています。

 

フタをしないまでも、

そこに意識を向けずに

生きています。

 

結果として、

自由意志は本当は

あるんだけれども、

そこに気づかない状態

が続きます。

 

そしてそのうちに、

自由意志とは何なのか?

自分の制約がなくなったら

いったい自分は何を望むのか?

について、

 

「考えたこともありません」

「まったくわかりません」

 

という返答になります。

 

もしくは、

自由という言葉を聴くと、

「そんなのは無理だ」

「現実的ではない」

と思ったり、

「自由に伴う責任がウザい」

と思ったりして、

自由を敬遠する傾向となって

現れることもあります。

 

いずれにしても、

自由意志から離れてしまっている

そんな人が

多いのが今の世の中です。

 

要するに、

全然、自由じゃない

のです。

 

ほとんどの人が。

 

もちろん、

現実世界の中で

何の制約もない状態

というのは稀有でしょう。

 

物理的にすべてから

自由になる

というのは現実的では

ありません。

 

しかし、

心の中まで

自由を失ってしまっても

よいでしょうか?

 

心の中まで

自分で自分を縛りつけ、

果たしてそれで本当に

生きている

と言えるのでしょうか?

 

よく、こんな声も

聴きます。

 

「自由な発想をしてしまうと、

現実の不自由さとの

ギャップを感じてしまい、

それがストレスになるんです」

 

・・・と。

 

しかし、実は、

心の中の自分を縛りつけてしまう

ことで発生するストレスの方が、

現実とのギャップを感じるストレスよりも

圧倒的に大きいのです。

 

私がこのブログで

よく書かせていただいている

エンティティ。

つまりは、

ストレスがある一定以上の濃度に達し

実体化したもの、

は、

心の中の不自由さによって

発生するのです。

 

私達は

生まれた直後は

皆、自由です。

 

もちろん体は不自由で

想い通りに動きませんが、

心は自由です。

 

幼児期も多くの場合は、

皆、心の中は

自由です。

 

それが、

私達人間の本来望んでいる

心の在り方です。

 

しかし

大人になるとは、

心に制約をはめることである

と私達は思い込み、

自由からいかに遠ざかるか、

遠ざかった状態で

いかに上手く生きていくか、

という力をつけることが

人としての成長であると

思い込み過ぎてしまいました。

 

今の社会の歪みの

根本原因の一つは

ここにあると、

私は日々、実感しています。

 

実は・・・。

 

正直に申しますが。

 

私は、

私ほど自由な人は

いないのではないか、と

日々、思っています。

 

本当にたくさんの人達と

向き合ってまいりましたが、

私から観れば、

ほとんどの人が

不自由に観えます。

 

ただ、

私が長くサポートさせていただいている

クライアントさん達は

違います。

 

私の密かな

コーチとしての目的は

クライアントさんに

本当の意味で自由になっていただく

ことなんです。

 

まぁ、ここで書いてしまった以上

「密かな」では

なくなってしまいますが。

 

でも、本当にいつも

そればかりを願って

サポートしています。

 

ですからクライアントさん達は

どんどん自由になり、

私と同じくらいに

自由になっていきます。

 

すると、

私との共鳴・共振が

起こります。

 

人は、

本当の意味で自由になると、

非常に深い

共鳴と共振を

起こします。

 

それは

「調和」

と言えるものです。

 

その「調和」は

「進化」を起こします。

 

とは言え、

以前の私は恐らく

世の中の誰よりも

「不自由」だったと思います。

 

絶望的な不自由さの

中でずっと生きていました。

 

そう考えますと、

どう観ても、

私は、今が一番、幸せです。

 

こんなことを書くと

傲慢に思われるかも

しれませんが、

私はすべての人が

私と同じような自由を

得られるといいなぁ、と

思っています。

 

特に、

組織のリーダーや

組織の要となる人達が

本当の自由を得られれば、

その組織全体に

「自由の調和」が

巻き起こります。

 

それは非常に

幸せな状態です。

 

私は世の中全体が

そうなるといいなぁと

真剣に思っています。

 

そこで、

次回からは

「自由」をテーマにした記事を

書かせていただこうかなと

思います。

 

そして、

本当の意味で自由になるための

セルフコーチングの手法

なども

いくつかご紹介できればな

と思っています。

 

お楽しみに。

 

つづく