自分であって
自分でないような
気がする発想の
その奇抜さを
以前の私は
深刻に捉え過ぎて
いた。
なんで
こんな発想を
するのだろう?
私らしくない・・・。
と。
そんなことは
どうでも良いでは
ないか。
たとえ、
どこかのタイミングで
どこかから自分に
インプットされただけの
ものを、
そのまま
横流しのように
アウトプットしたのだと
しても、
それが
自分の内側から
浮上するのであれば、
それが
誰の発想か?
などは
どうでもよく、
それよりも、
この発想がどうして
今ここで
浮かんで来たのだろう?
ということを
楽しめばいい。
私達の人生は
インプットと
アウトプットの
循環的連続によって
成り立っている。
人は
インプットし、
それを
忘れ、
忘れながらも
どこかの瞬間で
それを
アウトプットする。
しかもその時には
それにちょっと
自分の色が
加わっている。
そのアウトプットを
自分以外の誰かが
そこで
インプットするかも
しれない。
人から人へ
渡っていくそれらの
発想は、
いろんな色と
統合、融合されながらも
場合によっては
まったくの別物へと
変貌していく。
そういった
循環的連続が
そこかしこに存在し、
大きな目で
見ても、
そこかしこで
統合、融合されている。
それが
社会というもの
ではないか。
自分の中から
出てくるものの
正体を
深刻に突き止めることも
時には
必要だろうが、
それよりも、
今のこのタイミングで
紛れもなく
自分自身から
生まれ出る
ものを
一つ一つ
噛み締めながら
楽しもう。
これが、
人間を楽しむ
ということは
ないか。
つづく