苦しみながらの主体性なんて・・・

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一日一日を

自らの意志で始め、

自らの意志で終える

ことは

とてつもなく大切なことだと

思う。

 

何となく始め

何となく終わる

日々が一年続くのと、

 

自ら始め

自ら終える

日々が一年続くのとでは、

 

恐らく

一年後の未来の

「開き方」

は雲泥の差になるだろう。

 

よく言われることだが、

「時間」は我々に

等しく与えられている。

 

しかしその密度は

人によってまったく違う。

 

密度が濃ければ良い

という短絡的なものでは

ない。

 

密度を濃くすることも

薄くすることも

自由自在であることこそが

大切だ。

 

そのためにも

自らの意志で

生きること。

 

そしてその意志を

高められる

最も効果的な方法が、

 

一日の始まりと終わり

自らの意志で決める

ことだ。

 

・・・・・・

 

「ウチの社員は

主体性がないから・・・」

 

多くの社長さんが

悩んでいる。

 

「だから仕事に

主体性を持たせてほしい」

 

というご依頼を

よくいただくのだが、

 

残念ながら

「仕事のみ」に主体性を

持たせることは

ほぼ、不可能だ。

 

「人生」に対する

主体性を持てて初めて、

「人生の一部である仕事」

への主体性も

高まっていく。

 

本当に主体的な人

は、

仕事もプライベートも

すべて充実している。

 

何かを犠牲にして

何かを成り立たせる

のが

これまでは当たり前

だったかもしれないが、

 

しかし

ここからの時代は

もうそれでは

無理だ。

 

何かを犠牲にしている

というその時点でもう、

その人は

「本来の主体性」とは

異なる状態にいる。

 

・・・ということを

多くの人達がもう

気づき始めている。

 

私の表現で言えば、

 

反応本音の主体性か?

真本音の主体性か?

 

ということになるのだが、

しかし本来

反応本音の主体性

というのは存在し得ない。

 

主体性とは

自らが「主」になっている

ことなので、

真本音なくして

それはあり得ないのだ。

 

しかし

反応本音の主体性を

本来の主体性だと

信じて、

苦しみながら生きている人は

多い。

 

主体性とは

苦しいものでは

ないはずなのに。

 

・・・・・・

 

みんな

ちょいと

苦しみ過ぎだ。

 

「主体的であらねば」

・・・なんて、

そんなものは

主体性ではない。

 

主体性とは

もっと自然なもの。

 

それを思い出すと

いい。

 

そのための

第一歩が、

 

一日を自らの意志で

始め、

一日を自らの意志で

終える。

 

ということだと

私は思う。

 

つづく

 

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