時々、
とんでもないくらいの
人の苦しみを
私は受け取る。
その人のコーチングを
終え、
駅に向かって歩いている
その時に、
その苦しみを
そのまま感じてしまうと、
立っていられなく
なる。
しかし街中なので
倒れるわけにも
行かず、
私は必死に
その苦しみと
対峙する。
阿鼻叫喚
と言える苦しみも
あれば、
絶望
と言える苦しみも
ある。
私はそれを
ただあるがままに
感じ取る。
何の評価も判断も
しない。
ただただ
そのままを感じ取る。
その人は
この苦しみと
ちゃんと対峙している
だろうか?
していないの
だろうな、きっと。
だからこそ
ここまでの苦しみに
育ってしまうのだ。
苦しみとは、
逃げれば逃げるほど
増す。
そして限界を超えると
麻痺をする。
麻痺をすれば
苦しまなくてもよいので、
さらに
その苦しみから
目をそらす。
すると、
本人の気づかないところで
それは増長を
続け、
結果としてそれは、
何らかの病気という
形で現れたり、
重篤な心の病として
現れたりする。
私の体質は、
その人のその苦しみを
そのまま感じ取ることが
できるので、
それがヒントとなり、
すぐさま
そうならないように
対処はできる。
対処はできるのだが、
逃げ癖を身につけた
その人は、
やはりまたもや
逃げるようになる。
そんな人が
多いのは
悲しい事実である。
・・・・・・
これまで
あらゆる苦しみと
対峙してきた。
命に関わる苦しみも
数知れず。
しかしそんな中で
一つ、
事実として
明確にわかったことが
ある。
それは、
その人の苦しみは
その人自身が
乗り越えることが
できる、
ということだ。
乗り越えられない
苦しみを
もつ人は、
一人もいない
のだ。
人は、
自分に乗り越えられる
苦しみしか
自分に
与えないのだ。
しかし、
実際には
乗り越えられない人が
いる。
その原因は、
「逃げる」
からだ。
苦しみから逃げれば
逃げるほど、
本当は乗り越えられる
その苦しみを
妄想によって
より大きなものに
してしまう。
ちゃんと対峙すれば
何とかなるものを、
本人が
何とかならないもの
として思い込み、
そして
崩れていく。
だから私は
言い続ける。
「逃げるな」
と。
「見つめろ」
と。
「向き合え」
と。
そうすれば、
何とかなるんだ。
つづく