苦しみ

ちゃんと苦しんだか?

 

私は

苦しみと共に

進みたいのだな、

よく思う。

 

人間の苦しみを

感じ続けたいのだ、

と。

 

もっと楽に

進めば良いのに、

と思う自分も

当然いるのだが。

 

苦しまない

人はなく、

 

誰もが苦しみに

呑まれ、

進めなくなるという

経験を

積んでいる。

 

むしろそういう

経験を積まないと、

「進む」ということの

本質も

掴めないのだろう。

 

苦しむために

苦しむのではなく、

 

進むために

苦しむ。

 

自己満足のための

苦しみではなく、

 

進むために

本当に苦しいこと、

越えるために

本当に苦しいこと、

と対峙する。

 

苦しみに

鈍感になるのでは

なく、

 

むしろ

敏感なままで

進む。

 

ますます敏感に

なろうとまで

する。

 

そういった人を

私はどうしても

応援したくなる。

 

自分がそうだった

から、

というよりも

やはりそこにこそ

私は

人間らしさを

感じるのかもしれない。

 

苦しみには

必ず

「もと」

がある。

 

苦しみのもと。

 

これまで

自分のも含め

本当にたくさんの

「もと」と

対峙してきた。

 

対峙どころか

一体化まで

した。

 

私=苦しみ

にもなった。

 

そういうことを

重ねて初めて

 

本当に

 

実感したことが

ある。

 

苦しみは

「現象」

だ。

 

・・・ということ。

 

「幻影」

と言っても

いい。

 

でも、

だから意味がない

とか

言いたいわけではない。

 

むしろ

幻影だからこそ

苦しいのだ。

 

幻影だからこそ

きっとそこに

価値がある。

 

苦しみという

幻影と共に

人は歩く。

 

幻影なので

それは

自分で創り出して

いるものだ。

 

だから、

自分の苦しみは

自分自身だ。

 

自分が創り出した

幻影と、

どう関わるか?

 

どう向き合うか?

 

幻影だからこそ

向き合わねば

ならない。

 

ちゃんと苦しまなければ、

幻影を超える

こともできないだろう。

 

幻影の世界。

 

現象の世界。

 

私達はそこに

いる。

 

現象の私達

なのだ。

 

それをつくづく

実感できた時、

 

初めて

その奥に

 

実在の自分を

感じ取れるんだ。

 

つづく

 

苦しいかい

 

産みの苦しみ

という言葉が

あるが、

 

新たな何かが

生まれる直前は

大概、苦しいものだ。

 

しかしその苦しみには

対峙しなければ

ならない。

 

逃げるわけには

いかない。

 

しかし逆に、

 

対峙する意味のない

苦しみもある。

 

そこ、

苦しむところじゃ

ないよ。

 

・・・と

アドバイスさせていただくことは

実はとても多い。

 

本来、対峙すべき苦しみ

からは逃げ、

 

対峙する必要のない苦しみ

に執着し続ける。

 

これをすることで

人生は

ますます苦しいものに

なっていく。

 

人生に苦しみは

つきものだ。

 

楽に生きる、

とは

つまり、

 

ちゃんと苦しみを

選択せよ、

 

ということだろう。

 

そして、

私達人間が

顕在意識のレベルで

最も苦しみを感じるのが、

 

冒頭に書いた

産みの苦しみだ。

 

これは

苦しい。

 

しかも

足元から自分が

失われるような

心細さと不安定感も

ある。

 

だからみんな

そこから

逃げようとする。

 

そこから逃げる

ために、

まったく別の苦しみに

向かう人もいる。

 

今、

あなたが苦しんでいるのは

産みの苦しみ

の可能性が高い。

 

なぜならあなたは

進んでいるからだ。

 

進もうと

しているからだ。

 

新たな自分が

産まれる予兆。

 

そこから

逃げてはならない。

 

本当にそれと

対峙しようと

覚悟をすれば、

 

長くはかからない。

 

対峙する覚悟は

苦しみを

耐えられるもの

にしてくれる。

 

ここで逃げれば

一生、苦しむ。

 

ここは

一点突破だ。

 

つづく

 

苦しみを語る

 

いつも私は

人の苦しみについて

考える。

 

人は

苦しむ生き物

だ。

 

それを完全に

自らの中から

排除することは

極めて難しい。

 

その苦しみの

多くは、

その人自らが

生み出しているもの。

 

苦しみとは

現象そのものなので

実在としてのそれは

存在しないのだが、

 

しかし

その現象が

苦しい。

 

実在のない

もの。

 

ただ、

感覚のみが

現象として発生

するもの。

 

それが

苦しみだ。

 

だから、

本当は苦しみなどは

ないのだよ、

言われることも

ある。

 

実在の意味に

おいては

その通りなのだが、

 

しかしここは

現象の世界なのだ。

 

現象として在る

ものは在る

のだ。

それもまた

現実。

 

しかもその

現象(苦しみ)は、

 

人から人へと

伝播もする。

 

8割方

今の苦しみが

自分の苦しみだと

しても、

 

あとの2割は

他の人から

受け取ったものであり、

他の人の苦しみを

まるで自分の苦しみの

ように

感じ取っている

ものだ。

 

ところが、

その8割と2割が

逆転することが

ある。

 

人の苦しみを

受け取り

その感覚によって

苦しんでいるのに、

 

その苦しみと

自分の「記憶」の何らかの

現実とを

自分で勝手に結びつけ、

 

あぁこの苦しみは

あれが原因の苦しみだ、

 

自分で勝手に

結論を出して

 

本当は自分の苦しみ

ではないのに

苦しみ続けている人が

いる。

 

自分の苦しみの8割方を

そういうことをしている

人もいて、

実はとても多い。

 

いずれにしても

苦しみとは

苦しいことなので、

私達は

そこから逃げ出したい。

 

だから

苦しみには

背を向ける。

 

だから余計に

苦しみの正体を

知らないままに、

 

人は

苦しみ続けている。

 

・・・・・・

 

今、

私はとても

頭が痛い。

 

その痛む箇所に

意識を向けると、

 

それは

今日コーチングをした

クライアントのAさんの

ものだとわかる。

 

内容までは

さすがにわからない。

 

しかし

どのような類の

苦しみかは

わかる。

 

そして

どれだけの大きさの

苦しみか、も。

 

私はそのAさんの

苦しみと向き合いながら、

それを浄化しながらも、

Aさんの次のサポート

の方向性について

検討をする。

 

こんなことをもう

20年も毎日毎日

休みなく

続けている。

 

だからよくわかる。

 

Aさんはこのままで

いると、

間違いなく

病気になるな、と。

 

人の苦しみは、

それがある境界を

超えると、

3次元化する。

 

つまりは、

物質化する。

 

心が

物理的なものに

変化するのだ。

 

それが

病気となって

現れる。

 

医学的にそんなことが

証明されているか

どうかはわからないが、

 

これは私が

サポート現場でいやでも

実感し続けている事実

だ。

 

だから

病気になる前に

何らかの手を

打たねばならない。

 

どうしようかな?

 

・・・・・・

 

私は

人の宿命について

いつも考える。

 

宿命と苦しみは

セットだ。

 

宿命が苦しいもの

だという

意味ではない。

 

でも多くの人が

自分自身の苦しみと

向き合い、

それを越えようと

するときに、

 

自らの宿命を

受け入れる。

 

そこから初めて

「自由」は

始まるんだ。

 

つづく

 

苦しいな

 

時々、

とんでもないくらいの

人の苦しみを

私は受け取る。

 

その人のコーチングを

終え、

駅に向かって歩いている

その時に、

 

その苦しみを

そのまま感じてしまうと、

 

立っていられなく

なる。

 

しかし街中なので

倒れるわけにも

行かず、

 

私は必死に

その苦しみと

対峙する。

 

阿鼻叫喚

と言える苦しみも

あれば、

 

絶望

と言える苦しみも

ある。

 

私はそれを

ただあるがままに

感じ取る。

 

何の評価も判断も

しない。

 

ただただ

そのままを感じ取る。

 

その人は

この苦しみと

ちゃんと対峙している

だろうか?

 

していないの

だろうな、きっと。

 

だからこそ

ここまでの苦しみに

育ってしまうのだ。

 

苦しみとは、

逃げれば逃げるほど

増す。

 

そして限界を超えると

麻痺をする。

 

麻痺をすれば

苦しまなくてもよいので、

さらに

その苦しみから

目をそらす。

 

すると、

本人の気づかないところで

それは増長を

続け、

 

結果としてそれは、

何らかの病気という

形で現れたり、

 

重篤な心の病として

現れたりする。

 

私の体質は、

その人のその苦しみを

そのまま感じ取ることが

できるので、

それがヒントとなり、

すぐさま

そうならないように

対処はできる。

 

対処はできるのだが、

逃げ癖を身につけた

その人は、

やはりまたもや

逃げるようになる。

 

そんな人が

多いのは

悲しい事実である。

 

・・・・・・

 

これまで

あらゆる苦しみと

対峙してきた。

 

命に関わる苦しみも

数知れず。

 

しかしそんな中で

一つ、

事実として

明確にわかったことが

ある。

 

それは、

 

その人の苦しみは

その人自身が

乗り越えることが

できる、

 

ということだ。

 

乗り越えられない

苦しみを

もつ人は、

 

一人もいない

のだ。

 

人は、

自分に乗り越えられる

苦しみしか

自分に

与えないのだ。

 

しかし、

実際には

乗り越えられない人が

いる。

その原因は、

「逃げる」

からだ。

 

苦しみから逃げれば

逃げるほど、

 

本当は乗り越えられる

その苦しみを

妄想によって

より大きなものに

してしまう。

 

ちゃんと対峙すれば

何とかなるものを、

本人が

何とかならないもの

として思い込み、

 

そして

崩れていく。

 

だから私は

言い続ける。

 

「逃げるな」

と。

 

「見つめろ」

と。

 

「向き合え」

と。

 

そうすれば、

何とかなるんだ。

 

つづく

 

痛いものは痛い

 

全身が

引き裂かれるような

感覚だ。

 

とても

生きていられる

状態とは思えない。

 

しかし

目の前のその人は

生きて、

しかも笑っている。

 

なんという

鈍感。

 

・・・・・・

 

私は、

目の前の人の

抱えているストレスを

そのままに感じ取るという

身体的な特徴を

持っている。

 

先天的に持っている

のではなく、

コーチという仕事を

続けるうちに、

自然に養われてきた。

 

受け取ったその感覚と

向き合うことで、

その人へのサポートの

大きな指針となった。

 

ストレスは、

大きければ大きいほど、

その本人は

気づいていないという

傾向は確かに高い。

 

麻痺させなければ

立っていられない

からだろう。

 

下手をすれば

心がおかしくなって

しまう。

 

身体に大きな負傷を

した時に感覚が麻痺し、

小さなすり傷の方に

痛みを感じる、

というのと同じなのだろう。

 

自己防衛の

一つかもしれない。

 

しかし私はいつも

思うのだ。

 

その鈍感は

本当に危険だ。

 

実際に

命の危険にまで

及んだケースも

いくつかある。

 

私がそのストレスの

大きさに気づかなければ、

いったいこの人は

どうなっていたのだろう、

ヒヤヒヤしたことは

数知れず。

 

我々はもっと

自分自身のことについて

もっと敏感になるべきでは

ないか。

 

といつも思う。

 

・・・・・・

 

苦しいことを

苦しいと感じる。

 

痛いことを

痛いと感じる。

 

これが健康の基本だと

私は思う。

身体も心も。

 

苦しいことを

苦しいと思っては

ならない。

そんなマイナス指向では

ダメだ。

などとは決して

思ってはならない。

 

苦しいことも

痛いことも

すべてわかった上で、

その上で

進んでいくのが私達人間の

本分だ。

 

痛くても

あえてこのまま進むのか、

それとも

いったん止まって

対策を練るのか。

 

そういったことを

自らきちんと判断しながら

進むことが

自律の基本だろう。

 

自分の痛みから

目を反らすことこそが

現実逃避のスタートである

と私は思うよ。

 

つづく

 

苦しめすぎではないか

 

力を

抜いてみる。

 

呼吸にのみ

意識を

向けてみる。

 

自分の

存在のみに

なってみる。

 

すると

逆に、

自分には

いかに

「余分なもの」

たくさん

へばりついているか?

わかってくる。

 

その多くは、

自分の心

というよりも、

 

人から

受け取った

もの達だ。

 

自分への

蔑み。

 

人への

妬み。

 

悲しみ。

 

憤り。

 

そして、

絶望。

 

最近は

特にこういったものが

多い。

 

みんな、

苦しみの中で

生きている。

 

しかし

驚くほどに、

その苦しみに

 

本人が

気づいていない。

 

まずは

自分が苦しんで

いることを

知ることが

健康への

第一歩だ。

 

実は今、

あなたには

40度の熱が

あるんですよ。

 

と、

わざわざ

教えなければ

ならない。

 

当然だが、

苦しんでいることを

教えることは

とても辛い。

 

教えれば

大概、

その後は自覚

できるように

なるのだが、

 

今度は

その

「フタをしていた

苦しみ」

立ち向かわなければ

ならない。

 

だから

表面的には

さらに

苦しくなる。

 

でも、

自分が40度の熱を

発していることを

知らないままに、

 

自分が健康だと

思い込みながら

日々を過ごす

よりは

マシなのだ。

 

だって、

40度の熱を

出しながら、

毎日

フルマラソンに

出場しているような

人は多いから。

 

どうして

そんなに苦しみ

ながら

走らなければ

ならないの?

 

単純に

訊きたくなる。

 

40度の熱を出しても

フルマラソンに

出場することこそが

自分の成長であり、

 

人生の目的に

向かうことだ、

 

みんな、

思い込んでいる

ように

私には見える。

 

言っておくが

人生とは、

 

そんなに

辛いものでは

ない。

 

辛くしているのは

自分自身

だろうが。

 

その辛さは

必要の

ないものだ。

 

もっと

健全に

進まないか?

 

そのためには、

日々の

健康管理が

大事だ。

 

自分が

辛い

と感じていることを

ちゃんと自分が

把握して、

 

適切に

対処する。

 

そうすれば、

そんなに

辛いことは

起きないし、

 

そんなに

孤独にも

ならない。

 

あなたは

絶望的では

ない。

 

絶望に

陥っているのは、

あなた

自身だ。

 

ということを

ちゃんと

伝えたいね。

 

まずは

平熱に

戻ることだ。

 

自分を

平常に

戻すことだ。

 

そうすれば

道は

ちゃんと

観えてくる。

 

つづく

 

苦しみを乗り越えるのが人生か?

 

前を見て歩く

ということは、

 

前しか見ないで

歩く

 

ということでは

ない。

 

横も後ろも

斜めも、

すべてを見るから

こそ、

「前」がわかる。

 

すべての中から

選択する。

 

これが

自分を生きる

ということだ。

 

選択には

意志が必要

だ。

 

意志の根元

には

願いがあり

祈りがある。

 

自分自身の

それを

どれだけ尊重した

選択をするか?

 

それを私達は

人生を歩きながら

学んでいる。

 

進化の道

とは、

願いや祈りの

選択の道だ。

 

それを外した

選択を

し続ければ、

必ずどこかで

壁が来る。

 

明確な壁に

当たらなかったとしても、

必ず私達は

不安定になる。

 

一見、成功している

ように見えても、

その道を

進めば進むほど、

なぜだか日々、

イライラが募ったり、

悲しみや寂しさが

増したり、

絶望感に襲われる

頻度が増えたり、

結局は孤独では

ないか、と

呟いたり、

 

そんな傾向が

現れたとしたら、

 

こういうのが

人生であるし、

こういうのを

乗り越えるのが

私のテーマだ、

 

とは

思わないで

ほしい。

 

人生とは

苦しみへの道

ではない。

 

もし

様々な苦しみが

増すのであれば、

 

それは

あなたのその

道が違うのだ。

 

願いと祈りの

道ではない

のだ。

 

ただし

こう書くと、

「じゃあこの環境を

変えなければ

ならないのか」

とか

「仕事を変えよう」

とか

思われがちだが、

 

そういうことでは

ない。

 

「道」とは

「環境」とか

「何をするか」

ということ

ではない。

 

「生き方」のこと

を言っている。

 

今日の生き方、

今の生き方

のことを言っている。

 

今日という一日、

自分の

願いや祈りに

基づいた行動が

どれだけできたか?

 

自分の行動・振る舞いの

選択の一つ一つ

を言っている。

 

環境が変わっても

人は変わらない。

生き方そのものを

変えなければ。

 

今この瞬間の

生き方を

変えるだけで、

苦しみの道は

願いと祈りの道に

一瞬で

変わる。

 

本当に

一瞬で、ね。

 

つづく

 

そんなに苦しまなくていいじゃないか

 

人は皆、

孤独なのだろうか。

 

よく、そう感じる

ことがある。

 

いや、

私はと言えば、

確かにずっと

孤独だった。

 

誰も私のことを

本当には

理解してくれないだろう

と思っていた。

 

多くの人も

そう思っている

のではないか。

 

一日の仕事を

終えて

帰途についている時、

ふと

無性に泣けてくる

ことがある。

 

理由がわからずに

涙が流れるので、

慌てて

人目のつかないところに

逃げ込み、

そこで泣く。

 

よくあることだ。

 

泣きながら、

この涙は

私のものだろうか?

という

問いをいつも

投げる。

 

すると

ほとんどの場合は、

ではない。

 

先ほどお会いした

あの人のものだ、

わかる。

 

とてつもない

悲しみ。

 

それと共に

必ず湧き上がって

くるのが、

言いようのない

孤独感。

 

人はみんな

孤独なんだな、と

そんな時に

いつも思うのだ。

 

・・・・・・

 

これは私の

体質なのだと

随分前にすでに

諦めているのだが、

 

私は

私と向き合った人の

苦しみを

そのまま

受け取ってしまう。

 

そして、

その人が苦しんでいる

まったく同じ強さの

苦しみを

そのまま

感じ取ってしまう。

 

一日に

何人もの人と

向き合えば、

その人数分だけ

苦しみは倍増する。

 

時には、

全身が崩壊するのでは、

と思うくらいの

苦しみに

苛まれてきた。

 

以前は、これは

私の思い込みに

違いない、

と思っていた。

 

人に相談しても

誰もが

そう言った。

 

だからこんな思い込みは

やめよう、と

ずっと試行錯誤

してきた。

 

しかし

ある時から、

どう見ても

思い込みではない

ということが

わかるようになった。

 

その苦しみ達と

いつしか私は

真正面から

向き合えるように

なったのだ。

 

すると、

その人が今、

何に苦しんでいて、

どうすれば

その苦しみから

抜け出ることが

できるのか?

が、わかるように

なった。

 

そして

その通りのサポートを

すれば、

その人は必ず

解放された。

 

そういった経験を

何十人、何百人と

続けてきた。

 

それは私にとっては

時には

地獄のようで

あったが、

 

しかしその経験を

経て、

ようやくわかったのだ。

 

人は

もっと

楽に生きることが

できる、

と。

 

そして、

人は

もっと

楽に生きる

権利がある、

と。

 

みんな、

苦しみ過ぎだ。

 

その苦しみは

不必要だ。

 

もちろん、

進化や成長の

ために

必要な苦しみは

ある。

 

乗り越えるべき

苦しみは

必ず、ある。

 

しかし、それ以上に

不必要な

苦しみもあるのだ。

 

ということが

本当によく

わかった。

 

だから私は

もっと

すべての人が

楽に生きることが

できるとよいと、

祈る。

 

その祈りのために

生きることに

した。

 

それが

約8年前の

ことだ。

 

・・・・・・

 

私は一人の

人間だ。

 

人が人を

救うなんてことは

大変

おこがましいことだ。

 

そんなことは

よくわかっている。

 

でも、

私はその人の

苦しみを

そのままに

感じ取ってしまうのだ。

 

何とかしたい、

と思うのは

人として

当然だろう、

と、今は思えるように

なった。

 

必要な苦しみは

その人自身が

自力で

乗り越えれば

いい。

 

でも、

不必要な苦しみは

早く

手放そう。

 

本当に

そう思う。

 

その術を

私は探究し続けるし、

 

その術を

修得したコーチを

私は

たくさん育成

したいのだ。

 

つづく

 

苦しみの荷を降ろすには

 

私が人生において

初めて自分の「脱皮」を

自覚したのは

18歳の時です。

 

北アルプスにある

常念岳という山を

登っている途上でした。

 

かなり急峻な山で、

その時は50kgのザックを

背負っており、

しかも天候も悪く、

一歩一歩を踏み出すことに

全力を集中させて

いました。

 

ところが、

急に天候が

良くなったのです。

 

覆われていたガスが

晴れ渡り、

青空が

見えました。

 

と同時に、

まったく閉ざされていた

視界が広がり、

目の前に

槍・穂高連邦の

雄姿がドッカ〜ンと

姿を現しました。

 

と同時に

私自身の人生の

視界も

急に広がったのです。

 

目の前の現象と

心の中の実在が

一致するという、

今思えば

非常にわかりやすい

シチュエーション

でした。

 

これまで

非常に小さな視界の

中でしか

発想していなかった

私の思考は

一気に開放され、

 

とてつもなく

晴れやかな気分に

包まれながら、

 

私の中には

二つの問いが

生まれました。

 

「私はなぜ、

ここにいるのだろうか?」

 

「私の人生には

どのような意味が

あるのだろうか?」

 

です。

 

私はこの後、

その思索に耽りながら、

山を登り続けました。

 

疲れは完全に

吹き飛び、

これまたとてつもなく

幸せな時間でした。

 

今でも

ありありと

思い出せます。

 

・・・・・・

 

私達は、

自分自身の視界を

閉ざしてしまうような

「何か」を

常に抱え込んで

生きています。

 

その荷重が

限界を超えた時、

 

私達はそれを

一気に放り投げ、

身軽になります。

 

それが私の言う

「脱皮」というもの

ですが、

 

きちんとした

「脱皮」のためには

その荷重を

しっかりと背負い、

かつ、

感じ続けなければ

なりません。

 

荷重から

逃げたり、

目を逸らしていれば、

荷重は増えるばかりで

永遠に

脱皮はできないのです。

 

そしてついには

荷重によって

押し潰されてしまい、

 

押し潰されて

倒れ込んだままで

人生を終えてしまう

人もいます。

 

自分が今、

何に苦しんで

いるのか?

 

それを私達は

しっかりと自覚する

必要があるのです。

 

脱皮のためにも。

 

自分の人生の

ためにも。

 

そして、

自分の大切な

人達のためにも。

 

・・・・・・

 

真本音度合いが

高まると、

まず、

自分のその荷重に

気づく人がいます。

 

その人は

言います。

 

「真本音を大切に

し始めたら、

苦しくなりました」

 

と。

 

いえ、

それは

「苦しくなった」

のではなく、

 

「自分が苦しんで

いることを自覚した」

 

のです。

 

要するに、

麻痺が取れた

のです。

 

人は

麻痺を取ることを

極度に恐れますが、

 

しかしやはり、

麻痺のままでいる

ことは、

最もオススメできません。

 

なぜなら、

麻痺は

自分自身の苦しみを

増大させるだけでなく、

自分の周りの人達にも

苦しみや不調和を

与え続けるからです。

 

麻痺している人は

自分の気づかないところで、

周りの人達を

傷つけ続けます。

 

本人の気づかない、

ちょっとした一言、

ちょっとした空気感、

ちょっとした振る舞いに

よって、

周りを傷つけ続ける

のです。

 

麻痺していても

苦しいからです。

 

結局は

苦しみは変わらず、

その苦しみから

逃れるために、

その人は自分以外の人を

知らず知らず

傷つけ続けます。

 

そういった人が

いかに多いことか。

 

・・・・・・

 

人生は

苦しいか?

楽しいか?

 

もちろんそれは

両方です。

 

しかし、

苦しみと楽しさは

相反するもの

ではなく、

 

しっかりと自分の

苦しみと

向き合える人は、

 

本当の意味での

楽しさを

得ることができるのです。

 

つづく

 

真剣に人間を学びませんか?

 

苦しい体験をすることで

成長ができる

わけではありません。

 

苦しみを抱き続ける

からこそ、

私達は成長できるのです。

 

心が激しく

揺さぶられる過去と

対峙しながらも

「今」を進む人。

 

そんな人は、

揺れ動く心が

そこにあるにも関わらず、

とてつもなく

静謐です。

 

心は嗚咽しても

魂が

静かなのです。

 

そんな人と

向かい合うと、

こちらも

静かになっていきますね。

 

私は

そんな人を

どこまでも

応援したいなぁ。

 

・・・・・・

 

心と魂の

区別のつく

コーチが

増えるといいなと

思います。

 

心は

揺れて

いいんだよ。

 

揺れるままで

いいんだよ。

 

でも、

魂が揺れ、

魂が傷つくことは

やめようよ。

 

・・・そんな

ちょっとした助言の

できるコーチが

今の世には

必要です。

 

心は

そのままでいい。

 

たったその一言を

聴くだけで、

どれだけ私達は

救われることか。

 

・・・・・・

 

魂を大切にできる

コーチとは、

命を大切にできる

コーチです。

 

心の痛みから

逃れることで、

命を傷つけてしまう人が

います。

 

それを

止めるのは

残念ながら

本人には難しいのです。

 

そこは

ちょっとお節介でも、

傍にいる人が

止めなければいけません。

 

しかしそれができる人は

多くはありません。

 

私達はもっと

「人間」を学ぶべきでは

ないでしょうか。

 

「人間」を真剣に

学ぼうとする人に

私は

コーチになって

もらいたいな。

 

つづく

 

苦しみの三重苦の中にいませんか?

苦しみのない人生は

あり得ませんが、

自らわざと

苦しみをつくる必要も

ありません。

 

しかし

そういった人が

とても多いのも

事実です。

 

特に多いのが、

本当の苦しみから

目をそらすために、

別の苦しみを

自ら創り出す、

というパターン。

 

「ここで私は

これだけ苦しんで

いるのだから、

勘弁してください」

と、

その人は

無意識に訴えて

います。

 

誰に訴えているかと

言いますと、

自分自身に対してです。

 

しかし、

本当の自分自身は

それを

許しません。

 

「お前の苦しみは

そんなところには

ないだろう。

本当はお前は

ここで苦しんでいるのに。

本当の苦しみは

ここにあるのに。

その苦しみと

向き合ってこそ、

お前の人生は

先に進むのに。」

 

と、

本当の自分が

自分自身に

語りかけ続けます。

 

「本当の自分」とは

つまり、

その人の

「真本音」

です。

 

真本音が自らに

語りかけ続けているのに、

本人がそれを

無視し続ける。

 

しかし、

自らの真本音を

無視すること自体が

人として

最も苦しいことの

一つです。

 

本当の苦しみから

目をそらすために、

別の苦しみを

創り出し、

しかし、その別の苦しみに

向かう自分を

自分の真本音が

戒め続け、

しかしその真本音の

語りかけを無視することで

さらに苦しみが

増す。

 

・・・つまり、

「本当の苦しみ」

プラス

「別の苦しみ」

プラス

「真本音を無視する苦しみ」

という

苦しみの三重苦に

見舞われる状態。

 

この状態に

陥っている人が

とても多いのです。

 

ですから私は

いつも

お伝えすることに

なります。

 

人生はもっと

楽に

進むことができますよ、

と。

 

・・・・・・

 

「本当の苦しみ」

から

逃げないこと。

 

それが、

人生を楽に進める

最も重要な原則の

一つです。

 

「苦しみ」の中でも

代表的なものが

「後悔」です。

 

ですから

言い換えると、

「本当の後悔から

逃げないこと」

こそが、

人生を楽に進める

原則です。

 

そのためには

まずは

「後悔と向き合う」

ことです。

 

「向き合う」

とはどういうことか?

を昨日の記事で

書かせていただきました。

(→前回記事)

 

そして、

自分の本当の

後悔の念は、

自分の頭(思考)の中に

あるのではなく、

自分の体の中に

溜まっているのだ

ということを

一昨日の記事に

書かせていただきました。

(→前々回記事)

 

自分の体に溜まっている

後悔の念と

しっかりと向き合うこと。

 

まずはそれをすることで、

後悔の念の

浄化が始まります。

 

つまり、

その時点から

楽になり始めます。

 

「向き合う」

とは、

楽になること。

 

「逃げる」

「目をそらす」

とは

苦しみを増すこと。

 

という、

原理をまずは

しっかりと

理解してください。

 

これは

人間関係でも

同じことですね。

 

・・・・・・

 

さて。

 

セルフコーチングの基本とは

しっかりと向き合った上で

「問うて、待つ」

ことであると

お伝えしました。

 

自分に対して、

まるで他人のように

問いかけをして、

その答えを待つ。

 

この行為と共に、

もう一つ重要な

行為があります。

 

それは、

 

「自分自身に

語りかける」

 

ということです。

 

やはり、

自分とまるで

他人のように向き合い、

自分自身に

自ら

メッセージを

語りかけるのです。

 

それがもし

真本音からのメッセージ

であれば、

それは

あなたの全身に

ジワリと

沁み渡るでしょう。

 

・後悔の念が、体のどこに

あるかを特定し、

・その念と向き合い、

・その出来事のどこに

本当に後悔しているか?を

理解したら、

今度は、その後悔の念に

対して、

・自らメッセージする

のです。

 

そのメッセージとは、

頭で考えて創り出すもの

ではなく、

後悔の念を理解したことで

自然に自分の中から

浮かび上がってくる

メッセージが

良いですね。

 

ですから、

もし何もメッセージが

浮かんでこない場合は、

無理に

これをする必要は

ありません。

 

自然に浮かぶメッセージ

を、

そのままダイレクトに

自分の後悔の念に

伝えるのです。

 

多くの場合、

これにより、

その後悔の念は

一気に浄化されていきます。

 

ただし、

「浄化しよう」という

意図は持たないことです。

 

意図を持てば、

淀みます。

 

淀んだセルフコーチングは

効果を半減させます。

 

淀んだ言葉が

相手に伝わらないのと

同じです。

 

自分自身に対して、

本当に純粋に

思うところを

伝えるとよいですね。

 

さて。

 

ここまでの流れについて

さらに具体的に

どのように進めればよいか?

解説することにします。

 

それは、

明日以降の

記事にて。

 

つづく

 

圧倒的な答えを見つけよう

心の中にモヤモヤが

現れると私はいつも

チャンスだ!

と思います。

 

そしてそのモヤモヤが

最大化したその瞬間に

モヤモヤと

向かい合います。

 

それは時には

かなりの「苦しみ」を

伴っていることも

あります。

 

しかし

「苦しみ」が大きければ

大きいほど、

より強く

チャンスだ!

と思えます。

 

心の中の

苦しみ。

 

それは

逃げれば逃げるほど

辛いものとなります。

 

向き合えば

向き合うほど

それは開放され

楽になります。

 

楽になりながらも

その「苦しみ」や

「モヤモヤ」の中身が

観えて来ます。

もしくは、

聴こえて来ます。

 

私の場合、

それらは実は

私自身のものでは

なかった

というケースが

ほとんどです。

 

つまりは、

今日向かい合った

クライアントさんや

お客様から

受け取った「苦しみ」や

「モヤモヤ」である

場合が多いのです。

 

もちろんその「苦しみ」の

具体的な中身までは

わかりません。

 

しかし、

その人がどのような傾向の

「苦しみ」や「モヤモヤ」を

今、現在

抱えているのかを

理解することはできます。

 

そして

私はそれらと

100%向かい合い、

全身で感じ続けます。

 

100%それができると、

それらの「苦しみ」や

「モヤモヤ」は

きれいに浄化されます。

 

浄化の後に

残るのは

「答え」

です。

 

その「答え」とは

多くの場合、

その次の一歩として

その人が

何をすれば良いか?

もしくは、

私自身がその人に

どのようなサポートの

一手を行なえばよいか?

の答えです。

 

「苦しみ」と「モヤモヤ」が

大きければ大きいほど、

その「答え」も

圧倒的なものと

なります。

 

それを私は

『直観』

と呼んでいます。

 

心の中に

「モヤモヤ」を見つけた時、

そこには必ず、

「直観」が

潜んでいます。

 

ですから私は

チャンスだ!

と思うのです。

 

・・・・・・

 

「直観」とは

圧倒的な発想

であり、

圧倒的な答え

です。

 

それを私達が

得たとき、

私達は

突き動かされます。

 

理由づけや

理屈や理論は

そこには

ありません。

 

必要

ありません。

 

ただただ、

その答えの通りに

動きたくなります。

 

いえ、

考える間もなく

勝手に体が

動いてしまいます。

 

そこには

一切の迷いが

ないからです。

 

100%の答え

だからです。

 

私は、

「直観」と「直感」を

いつも区別して

表現しています。

 

一般的に書かれる

「直感」

とは、幅広いひらめきや

気づきを

表しています。

 

もちろんそれらは

宝物のように

大事なものです。

 

が、

100%でない答えも

含まれています。

 

ですから、

「直感」がどれだけ

働いても、

その通りに動くかどうか?

は、

時と場合ですし、

特にビジネスの世界では

「直感」に対して

その理由づけをしっかりと

した上で、

実行に移していく

というケースがほとんどです。

 

しかし

「直観」は

それとはちょっと

次元が異なります。

 

もう、

理由づけも根拠も

必要ないのです。

 

「答え」を得た瞬間に

動いてしまう。

 

その動きに

迷いは一切

ありません。

 

つまり一言で言えば、

「確信」。

 

根拠のない確信。

 

いえ。

 

本来、確信とは

根拠の必要ないもの

なのだと思います。

 

そういった

圧倒的かつ確信の

答え。

 

これを私は

『直観』

と呼んでいます。

 

・・・・・・

 

大きなモヤモヤの

その向こうには

「直観」

が待っています。

 

ということは

その「モヤモヤ」や

「苦しみ」に

向かい合わないことが

いかに

もったいないことか。

 

ところが実際には

そこに真正面から

向かい合おうとする人は

ごくわずかです。

 

どうしても人は

「モヤモヤ」から

逃げようとしてしまいます。

 

もしくは、

「モヤモヤ」を

上手く解消しようと

します。

 

その場合、

解消と言ってもそれは

本当の解消ではなく、

モヤモヤに

フタをしたり

麻痺をさせたりする

類のものです。

 

本当の意味で

向かい合い、

本当の意味で

浄化・解消し、

本当の意味での

直観の答えを

導き出す。

 

それができれば、

人はもっと

自由になれます。

 

自分らしく

なれます。

 

そして

望む人生を

自ら拓くことが

できます。

 

私はそれを

セルフコーチング力と

呼んでおり、

今、まさにこれが

世の中に必要な力であると、

それこそ確信に

至りました。

 

直観の答えを

見つけ出す

セルフコーチング法。

 

それをこれから

徐々にご紹介して

行きますし、

 

セルフコーチング法を

指導できるコーチを

育成したい、

とも思っています。

 

そのためのアクションを

今月から

始めます。

 

つづく

 

最も苦しい状態に入ると、人はどうなるか?

さて・・・。

 

今回は、

 

「15タイプ」

 

ということについて

書かせていただきます。

 

実は、これについて

こういった不特定多数の方々が

ご覧になるブログのような場で

書かせていただくのは

初めてではないかな、

と思います。

 

なぜならこの内容については、

人によってはかなりの

誤解や偏見を

生んでしまう可能性が

あるからです。

 

ですから、

これについては

これまでは口頭で

かなり慎重にお伝えする、

ということを大切にして

まいりました。

 

しかし、状況的に

そうも言っておられなく

なりました。

 

今年に入ってから、

私は様々な

「15タイプによる影響」

と遭遇してきました。

 

その頻度は、

昨年までの比では

ありません。

 

初めてお会いする企業様で

組織活性化において

かなり深刻なご苦労を

されている場合、

今はその根本原因のほとんどが

15タイプによる影響だった、

と言って差し支えないでしょう。

 

ですから一つの情報として

これについて書かせていただくことは

かなり有用ではないか、と

考えた次第です。

 

では、

「15タイプ」について

書かせていただきます。

 

前回の記事で、

「エンティティ」について

書きました。

(→前回記事)

 

「15タイプ」とは

そのエンティティを

普通の人の6倍以上

抱え込んでしまっている人の

ことを言います。

 

15タイプの「15」とは

「真本音度合い1.5%の人」

という意味です。

 

私は個人や企業様での

サポートにおいて、

「真本音度合い」を

かなり詳細な数値(%)として

把握します。

 

数値化することで、

きめ細やかなサポートが

できるからです。

 

ここではその詳細は

書きませんが、

「真本音度合い1.5%」

というのは、

人間としてこの世に存在できる

最低の数値であると

言ってよいでしょう。

 

つまり、

真本音度合いが1.5%未満では

私達の心と、そして魂は

存在できなくなるのです。

 

私達が「存在」するための

「生物」としての臨界点が

真本音度合い1.5%なのです。

 

その最低値まで

真本音度合いが落ちてしまっている

人のことを

「15タイプ」

と呼んでいます。

 

最低値ですので、

それはもう大変なことです。

 

割合としては、

滅多なことでは遭遇しない

タイプです。

 

私達人間は、通常、

真本音度合いが

高まれば高まるほど

人としての「幸せ」な感覚に

包まれます。

 

魂も心も満たされた

感覚となります。

 

その結果常に

ゆとりを持ち、

安定感や安心感を伴いながら

生きることができます。

 

15タイプとは

その真本音度合いが

最低ということですから、

人間としては

最も苦しい状態となります。

 

ところが・・・。

 

真本音度合いが1.6%までは

確かに苦しいのです。

苦しいことを

苦しいと感じるのです。

 

しかし最低値の1.5%にまで

落ちてしまうと、

苦しさの限界を超えて

しまうのです。

 

その結果として、

「麻痺」

が起こります。

 

いや、

麻痺だけならまだ

ましです。

 

かなり表現は悪いのですが、

あえて言えば、

覚醒剤を打ったような

状態となるのです。

 

昔、中学の理科の授業で

カエルの解剖を

したことがありました。

 

その時、解剖するカエルは

麻酔液の中に

全身を浸けられます。

 

そうなるとカエルは

恍惚とした表情となります。

 

その表情のまま、

解剖をされていくのです。

 

解剖をされながらも

恍惚としている

そのカエルの表情が

当時の私としては

かなりショックだった

覚えがあります。

 

それに近いです。

 

15タイプの人は、

その不自然な恍惚の中

で生きています。

 

ですので

表面上の雰囲気だけを見れば

非常に自信に溢れて

いる人が多いです。

 

ところが、

本質的には、そのような

苦しみの極致にありますので、

その人には

通常では考えられない

大量のエンティティが

発生するのです。

 

そのエンティティ量は、

私の体感で表現すれば、

普通の人の6倍以上

ということなのです。

 

私がこの15タイプについての

お話をなぜ公ではしないかと

言いますと、

これを聴いた人が

「あの人は15タイプではないか?」

と勝手に

疑心暗鬼になりながら、

人と関わるようになることを

危惧するからです。

 

ですので、あえて

書きますが、

かなりひどい表現でここまで

書きましたが、

それでも、15タイプの人も

ただの人間です。

 

悪魔でも妖怪でも

ありません。

 

人間である以上、

もちろん、15タイプに落ちて

しまったとしても、

再び、誰もが浮上します。

 

人は、

進化を望む生き物

だからです。

 

ただ、15タイプの人の

エンティティは

なかなかに凄いものがあり、

その影響によって

人や組織が

「我を失ってしまう」

状態になることがあります。

 

そんなケースが

最近、多発しているのです。

 

ということで、

次回以降、

15タイプの特色と

最近、企業や組織において

どのような影響が広がっているか

について、

書かせていただきます。

 

つづく

 

人の中心に何があるか?を知り、生き続けることができました

人の本能の中心には

「進化」

があります。

 

・・・ということを私はよく

言いますし、

このブログでも書いてきました。

 

では、

進化の中心とは

何でしょうか?

 

これを言語化することは

非常に難しいのですが、

現時点でこの世の中で

一般的に用いられている言葉の中で

最も近いものを選ぶとすれば、

 

『祈り』

 

となります。

 

「祈り」と書くと、

途端に宗教チックになったり

スピリチュアルな臭いがしますが、

でもやはり、

最も近い言葉はこれかな。

 

これまでのブログでも

何度も書かせていただきましたが、

私はもともと

ひどい人間でした。

 

いまだに、

かつての私以上に

反応本音やエンティティの凄い人に

出会ったことがありません。

 

かつての私以上に

執着の凄い人に

出会ったこともありません。

 

あのままの私でもし

進んでいたら、

私は間違いなく私の命を

絶っていたでしょう。

 

その場合、だいたいいつくらいに

それをしていたかも

今となってはリアルに

わかります。

恐らく10年以上前に

私は自分が自分でいることに

耐えられなくなっていたと

思います。

 

そんなにひどい私でしたが、

幸いなことに

自分の真本音を実感する

瞬間に出会えました。

 

それ以降、

私は私の人生理念を

「向き合う」

という言葉として設定し、

何があっても

どんな状況でも

自分自身と向き合い続けることを

誓いました。

 

激しい反応本音達。

 

目もくらむような

エンティティ達。

 

(エンティティとは、

ある一定以上の濃度に高まった

ストレスの集合体を言います。

日本語に訳せば、

「生き霊」となります。

そう書くと、怖いですが、

すべての人にエンティティは

あります。常に。)

 

それらと向き合うことは

吐き気をもよおすなどという

生易しいものでは

ありませんでした。

 

でも私はそれを

それこそ取り憑かれたように

毎日続けました。

 

その結果たどり着いたのが

「祈り」

でした。

 

私は私の中心に

確固たる「祈り」があることを

ついに自覚ました。

 

その「祈り」とは

言葉になるものでは

ありません。

 

しかし確かにそれは

「祈り」です。

 

「祈り」は永遠に

続くものです。

 

何かが達成されることで

成就するものでは

ありません。

 

しかしその「祈り」に

触れるだけで、

すべてが満たされる

気がしました。

 

私は

自分自身と「向き合う」のと

同じくらいの真剣さで

私以外の人々と

「向き合う」ことを大切に

しました。

 

多くの方々から

毎日、多くのストレスや

エンティティを

受け取りました。

 

これも私の宿命なのですが、

私ほど、

他者のストレスやエンティティを

自らの中に吸収してしまう人も

まだ一度も見たことが

ありません。

 

その人のエンティティを

受け取ると、

私はその人が苦しんでいるのと

まったく同じ苦しみの感覚を

覚えました。

その人が実際に

何に悩んでいるのか?までは

当然わかりませんが、

その人の苦しみそのものは

感覚として、その通りに感じるのです。

 

これが私の体質でした。

 

100人の研修を行なえば、

100人の苦しみを

私はいつも受け取って

きました。

 

それらとすべて

向き合い続けてきました。

 

向き合うことで

それらはすべて浄化される

のですが、

その浄化をするために

朝まで眠れなかった日など

数えきれないほどあります。

というか、

それが日常化していました。

 

私自身の苦しみ。

 

人間の苦しみ。

 

それらのすべてと

向き合い続けることが

私の宿命なんだと

完全に(良い意味で)諦めたのが

2007年のことです。

 

私には

何もできない。

 

人を救うなんてことは

当然できないし、

世の中をどうとかしようなどとは

おこがましい、の極致だ。

しかし、

私はただ

「向き合う」ことを

し続けよう。

私にできる最大の行為が

「向き合う」ことだ。

 

・・・そう決めて、

とにかく

「向き合う」ことに徹し、

それのみをしよう、と決め、

あとは自分の中から

あらゆる「思惑」や「意図」を

手放しました。

 

するとようやく

実感できたのです。

 

あぁそうか。

 

すべての人の中心に

「祈り」

はあるのだな、と。

 

それは決して言葉にすることは

できないけれども、

それを大切にした生き方の

できている人は

その人の心も人生も

満たされるのだな、

と。

 

「真本音」とは、

その人の「祈り」から

発せられる全意識です。

 

「祈り」に基づいた

生き方をするのか?

 

それとも

それを自ら裏切る

生き方をするのか?

 

それにより、

その人の人生の

「満たされ度合い」は

根底から変わります。

 

どれだけ

現象レベルでの成功を

手に入れても、

その人が自らの「祈り」に

沿わない生き方をしている以上、

その人が真に

満たされることは

永遠にありません。

 

であれば逆に、

自分の「祈り」に基づいた

人生を送ること。

 

「祈り」に基づいた

ビジネスを展開すること。

 

それができれば

どんなに良いだろう。

 

どんなに

幸せだろう。

 

これが私の

サポートのすべてです。

 

人が、

自らの、言葉にならない

「祈り」を実感し、

それを大切にした生き方や

仕事の仕方や

ビジネスの展開が

できるようになる姿は

私のエネルギーの源泉です。

 

そんな人を

一人、また一人と

増やしていきたいというのが

私がここにいる理由の

すべてかな。

 

つづく

 

なぜ私はこんなに苦しむのか

自分の人生で起こる

すべての現実は

すべて自分自身が

引き起こしているものであると

本当に自覚した人は

幸せです。

 

頭での理解ではなく、

肚での理解。

 

まったく本当にその通りだと

わずかな淀みもなく

そう理解できた状態を

『覚悟』

と言います。

 

人は、

覚悟を持つと

軽やかになります。

 

すべてから解放・開放された

感覚に満たされます。

 

それは言葉を換えれば、

『自由』

です。

 

ですから私は

「覚悟」と「自由」は

イコールであると思っています。

 

自分自身の人生に対して、

そして

すべての現実に対して、

人が

「覚悟」を持つ瞬間と

私は多く立ち合ってきました。

 

「覚悟」を持った瞬間の

その人の

晴れやかな表情を

どう表現すればよいでしょうか。

 

恐らくその瞬間とは、

人間としての幸せのすべてが

凝縮されているのだと

私には思えます。

 

その瞬間から

人は、

「逃げる」必要がなくなるから

です。

 

私達の魂を淀ませるものの

本質とは

「現実逃避」です。

 

いざとなれば

逃げればいい。

 

ここから

逃げ出したい。

 

逃げれば

何とかなる。

 

・・・そういった

「逃げ」への可能性を

心のどこかに秘めている内は

私達は

苦しみ続けます。

 

自分を救おうとするために

「逃げ」という選択肢を

私達は持つのですが、

実はその選択肢そのものが

自分を苦しめている

というのが人生のカラクリの

一つです。

 

かと言って、

「逃げを手放そう」

としてもいけません。

 

「逃げを手放そう」

とすればするほど、

「逃げ」に執着するのも

私達人間です。

 

「逃げを手放したフリ」を

している人も

私は数多く拝見してきましたが、

そういった人達は

本当に苦しそうです。

 

手放したつもりで

執着の度合いを高めている

からです。

 

私はよく、

「人はもっと楽に

生きることができる」

という表現を使います。

 

しかしその言葉を聴くことで、

すぐに「逃げ」に入る人も

います。

それにより、余計に苦しむ

ことになります。

 

ですので、

「人はもっと楽に

生きることができる」

という言葉は使うべきではないかな、

と思った時期もありました。

 

しかしそれでもやはり、

私は言わねばなりません。

 

人はもっと楽に

生きることができます。

 

そのためには、

逃げなければよいのです。

 

しかしそのために

「逃げ」をなくそう、とか

「逃げ」を手放そうと

してはなりません。

 

じゃあ、

どうすればよいのでしょうか?

 

実はその答えは、

私がこれまでずっと

このブログでお伝えし続けてきた

ことと同じです。

 

「逃げようとしている自分」を

あるがままに

観察する、ということです。

 

「観る」

ということです。

 

そして、その自分を

操作しようと

しないことです。

 

存在を承認する、

それだけのことです。

 

「逃げようとしている自分」と

真摯に

向き合ってみてください。

 

自分は

何から逃げようと

しているでしょうか。

 

それは

ほんの些細なことから

かも知れません。

 

もしくは、

人生を左右する大きな

ことかも知れません。

 

物事の大小は

重要ではありません。

 

逃げようとしている

その姿勢そのものが

本質です。

 

その本質を

きちんと観つめること。

 

観つめ続けること。

 

じーっと

観つめていれば、

ある瞬間から

そんな自分を可愛らしく

感じるはずです。

 

すべての反応本音は

本当は

可愛らしいのです。

 

可愛らしく

感じることができたら、

そんな「逃げる自分」に

伝えてあげてください。

 

「君は可愛いなぁ。

君はそこにいていいんだよ。

だって

それが人間じゃないか。」

 

その瞬間に

私達は解放・開放されます。

 

解放・開放されたときに

自分が立っている大地。

 

その瞬間の自分。

 

それが、私達の

『真本音』

です。

 

「真本音で生きる」とは

覚悟を持ち自由に生きる

ことなのです。

 

つづく

 

正義、って重いんだねぇ

私達人間のほとんどの苦しみは

幻影です。

 

幻影と言っても、

実際に起きている現実は、

現実です。

 

しかし本当は、

その現実が私達に苦しみを与えている

わけではありません。

 

現実とは

どこまで言っても

現実でしかあり得ません。

 

その現実をどう受け止めるか?

を私達は自ら決めています。

 

自ら、解釈をしています。

 

その段階で、

自らに苦しみを与えます。

 

例えば、

とても厳しい現実が目の前にあったとしても、

もし似たような経験が過去にあったとすれば、

その人の苦しみは減退するでしょう。

 

自分は過去に、このような現実を

乗り越えたことがある、

という経験は、私達の苦しみを

減退させます。

 

しかしだからと言って、

今の現実が変わるわけではありません。

 

私達の現実を受け止める解釈が

変わるだけのことです。

 

つまり私達は私達自身の解釈により

苦しみを増減させています。

 

「人生は苦しい」

と思う人の多くは、

自分でその苦しみを創り出している

だけのことです。

 

私達はそういった解釈の世界から

脱け出すことが

本当は誰もができます。

 

ただ、現実をあるがままに

感じ取るだけの日々の始まり。

 

するとその瞬間から、

現実はまったく違った世界を

私達に見せてくれます。

 

現実を、あるがままに感じ取ることが

できればできるほど、

私達は、自分自身がいかに自由であるか?

を知ることになります。

 

脱皮をするというのは、

現実をあるがままに捉えられない原因となる

強い解釈の衣を

一つ脱ぎ捨てることである、

という言い方もできます。

 

今、弓江さんは

「正義」という解釈を脱ぎ捨てようと

しています。

(→前回記事)

 

実在レベルで表現すれば、

弓江さんが脱ぎ捨てようとしている

「正義」は、

弓江さんの左足に絡みついています。

それを取り払えば、

弓江さんはその「正義」から自由になれます。

 

しかしそれが

なかなか取れません。

 

「どうすれば、

取り払えそうですかね?」

 

「木村リーダーに

取ってもらおうかな。」

 

「わかりました。

それはなかなか良いアイデアですね。

では木村さんに取ってもらいましょう。」

 

思わず、木村さんが言います。

「えっ、私にできますか?

どうすればいいんでしょう?」

 

「簡単ですよ。

今、弓江さんが言われた“正義”は、

単なるイメージではなく、実在です。

ですから木村さんにもわかるはずです。

意識を弓江さんの左足に

向けてみてください。

何か見えませんか?」

 

「見える、というよりも、

確かに何か異物があるような

感覚がありますね。」

 

「それで充分です。

木村さん、その異物は

どうすれば取れると思います?」

 

「えっ? ・・・そうですね。

どんなやり方でもいいですか?」

 

「もちろん、いいですよ。」

 

「私が、私の手ですくい上げても

いいですか?」

 

「できそうですか?」

 

「はい。」

 

そう言われた木村さんは、

弓江さんの左足の踵の近くに手を伸ばし、

一気にその「正義」をもぎ取ってしまいました。

 

「あっ、軽くなった!」

 

と弓江さんがびっくり。

 

「たけうちさん、

今、私の両手にその“正義”がありますが、

これ、どうしたらいいでしょう?」

 

「どうされたいですか?」

 

「たけうちさん、

受け取っていただけます?」

 

私は笑いました。

 

「しょうがないですね。

じゃあ、私がいただきます」

と言いながら、

私は、木村さんから弓江さんの「正義」を

受け取りました。

 

ド〜ンと腰の辺りが

重くなりました。

 

実はこういった展開、

しょっちゅうあるんです。

 

私はよく、

脱皮をした人の古い皮を

受け取ります。

そして浄化をします。

 

その古い皮があまりにも重く、

苦しいものであればあるほど、

私の場合は、腰に来ます。

 

まるでギックリ腰になったかのような

感覚が来るのです。

場合によっては

立てなくなってしまうこともあります。

 

それだけその古い皮は

その人にとって重いものであった

ということです。

 

これは「イメージ」の話ではありません。

あくまでも「実在」の話ですので、

こういったことが起こるのです。

 

そして、重い皮をもらうたびに、

私はいつも思うのです。

 

人間というのは、

こんなに重いものを抱えながら

生きているんだな、と。

 

つづく

 

本当は、自力で脱皮できればいいんだけど・・・

「脱皮」とは、

大きく「進化」すること。

 

そして「進化」とは、

より「自由」になることです。

 

ですから「脱皮」をすればするほど、

私達は、何かから開放されます。

人としての根本的な幸せを

感じるようになります。

 

しかし「脱皮」そのものについては

不安定さと恐怖心が

伴います。

 

これをたった一人で

乗り越えることのできる人は

なかなかいません。

 

通常は、

「今、自分は脱皮しようとしている」という

自覚はありません。

「脱皮」そのものの概念すら

ないでしょう。

 

何もわからない状態です。

 

ですから、

突如として襲ってくる不安定さと恐怖心を

何とか消そうとするのが

ほとんどの人です。

 

そしてそのための手立てを打ちます。

それにより実際に

不安定さと恐怖心を減退させることも

あるでしょう。

 

しかし、それをしてしまうと

「脱皮」は完了できません。

 

「脱皮」のチャンスを逸し、

「脱皮」をしないままに人生を進む

ということになります。

 

それはそれで一つの人生

かもしれません。

 

しかし、

脱皮のチャンスを逸し、脱皮せずに進む

というのは、

脱皮のチャンス以前の自分に比べて

苦しさが増します。

 

なぜならその人は

「なぜ、脱皮をきちんとしないんだ!」

と自分で自分を責め続けるように

なるからです。

 

もちろんそれは無意識に行われることですから

本人は認識していません。

しかし明らかに

以前よりもその人は人生における苦しみが増し、

その苦しみに耐えながら生きる

ということになります。

 

脱皮のチャンスを逸してしまったことによる

苦しみ。

 

これは私達が想像する以上に大きな

ものです。

 

できれば私はすべての人が、

この苦しみを味わわずに人生を

進ませる、

つまりは、きちんと脱皮を続ける人生を生きる、

・・・そんな状態になればいいなと

思っています。

 

極端に言えば、

それができるだけで、

世界はもっと平和になるのではないかと

私は思います。

 

脱皮には

的確なサポートが必要です。

 

本当は、サポートなしでも行ければ

よいのですが、

現在の世の中においては、

どうしても、サポートが必要です。

 

それが、コーチの存在意義の一つである

と私は思っています。

 

多くの人が健全に脱皮を続け、

世の中の次元がもう少し高まれば、

自力で脱皮できる人の割合も

もっと高まるのではないかと思います。

 

そうなるためにも、

今はコーチが、的確なサポート役が

必要なのだと思います。

 

木村さんと弓江さんは今、

二人コーチングのその場で、

自らの脱皮を完了させようとしています。

 

まずは、弓江さんが

今まさに脱皮しようとしています。

 

実在レベルの表現を使えば、

弓江さんは、これまでの古い皮をほぼ

脱ぎ捨て、

その皮は今、

左足に絡まっている状態です。

 

そしてその皮に意識を向けると、

それは、

「私の“正義”ですね」

と、弓江さんは自覚しました。

(→前回記事)

 

通常のコーチングでは、

「では弓江さん、その“正義”とは

具体的にどういったものですか?」

というような質問をするかもしれません。

 

しかし、脱皮時においては、

あえてそれ以上のことは訊きません。

“正義”という言葉に反映される

あらゆるもの、

というくらいのザクッとした認識で

充分なのです。

 

理屈では脱皮できません。

顕在意識はあまり

働かさない方が良いのです。

 

「弓江さん、

その左足に絡まっている“正義”を、

完全に取り去ることはできますか?」

 

弓江さんはしばらくの間、

左足に意識を向けていましたが、

「う〜ん、難しいですね。

どうしても取り払えません」

と、苦しそうに言いました。

 

「どうすれば、

取り払えそうですかね?」

 

すると彼女は、

面白いことを言いました。

 

「木村リーダーに

取ってもらおうかな。」

 

「えっ? 私ですか?」

と、木村さんは少しびっくりした表情。

 

「わかりました。

それはなかなか良いアイデアですね。

では木村さんに取ってもらいましょう。」

 

つづく

 

告白 実は私もまったく同じでした

「人の味」というテーマで

書かせていただいています。

 

人はどうすれば「本来の味」を出せるか?

「本来の味」を出すことで、何が起こるか?

 

そのようなことをご紹介するために、

ある中小企業幹部の平井さん(仮名)の例を

出させていただきました。

(→前回記事)

 

平井さんについてのお話はさらに続くのですが、

ここでどうしても、私自身のことを

書かねばなりません。

 

実は、以前の私も

平井さんとまったく同じ状態でした。

いえ、

平井さんなんて可愛らしいもの。

私はさらにさらに酷い状態に陥っていました。

 

だから私は平井さんの状態や、

もしくは、平井さんと同じような傾向にある人達の苦しみが

よくわかります。

 

そしてその苦しみから抜け出ることが

いかに大変で、しかし、いかに素晴らしいことかも

よくわかります。

 

私は今のこのお仕事を21年続けておりますが、

最初の6年は、尊敬する師匠のもとで修行をしておりました。

私にとっての師匠が、平井さんにとっての社長です。

私は師匠に取り憑かれながら

生きていました。

もちろんそれは、私の自業自得です。

 

師匠は経営者育成塾を運営していました。

私は師匠の後継者として、

経営塾の「先生」という立場となり、さらに

師匠の会社の雇われ社長もしました。

 

私は師匠そのものになろうと努力をし尽くしました。

どんな状態、どんな状況にあろうとも、

師匠と同じ判断、師匠と同じ決断、師匠と同じ言動

のできる自分を目指し、

恐らく、ほぼそれは達成できました。

 

と同時に私の心と体は限界を迎えました。

 

今でもありありと思い出します。

私の後ろには師匠が常にべったりと取り憑いていました。

もちろん「イメージ」です。

一人でいる時も、いつ何時も、24時間、

師匠がべったり背中に張り付いてしました。

私は、私を殺すこと、私を存在させないことに

私の生きるエネルギーのすべてを注いでいました。

 

しかも私はその時、

充実感を覚えていました。

これが私の使命であり、私の人生であると

信じ切っていました。

 

で、心と体がボロボロになりました。

 

心と体だけならまだしも、

当時様々なことが必然的に重なり合い、

私は仕事も家庭も、人生のすべてがボロボロになり

結果的にすべてを捨てることになりました。

 

恐らく、私は極度の鬱状態に入っていたと

今から振り返れば思います。

 

私は何度も死のうと思いました。

しかしその勇気も出ない。

 

するとそれからさらに苦しいことが立て続けに起こり、

それがきっかけで、私は「狂おう」と思い当たりました。

 

イメージで言いますと、

私の心の中に一つのライン(境界線)が見えたのです。

そのラインの向こうに行けば、

私は狂うことができる

とわかりました。

 

そのラインの向こうに行けば、

私の人生はその時点で終わるだろうな、と

わかりました。

恐らく、多くの人の迷惑もかけるだろう。

それもわかってはいたのですが、

もう私は逃げたくてしょうがありませんでした。

人生からも現実からも

逃げることばかりを考えていました。

 

死ぬ勇気がないのなら、

狂ってしまえばいい。

しかもそれは簡単。

あのラインの向こうに行けばいい。

 

私はある時、意を決して、そのラインを越えようと

しました。

するとその瞬間に、

私は後ろから何者かによって羽交い締めに

されました。(イメージです。)

 

ラインの一歩手前までは来れるのですが、

どうしても最後の一歩を踏み出せない。

そんなことが

何度も続きました。

 

しかしある日、もうどうしても耐えることのできない

出来事がありました。

 

私は本当にもう意を決して

そのラインを越えようとしました。

エイッとばかりに目を瞑り、そのラインを

飛び越えました。

 

と、その瞬間、

これまでとはまた違った凄い力で

私は後ろに引きずり倒されたのです。

(イメージです。)

 

私は思わず心の中で叫んでいました。

「誰だ! 私の邪魔をするのは!」

 

そして、その時初めて

後ろを振り返ったのです。

 

振り返った私の目に飛び込んできたもの。

 

それは、燦々と輝く太陽と青空のもとに

無限大に広がる「海」でした。

 

その海は、太陽の光を受けて、

ダイヤモンドのように七色の光を放ちながら

輝いていました。

その輝きが延々と広がっていました。

それを私は空から

見降ろしていたのです。

 

その「海」を見た瞬間、

それまで私の心を占めていた、あらゆる苦しみが、

ザザーッと一瞬にして流れ出て、

きれいさっぱりなくなってしまったのです。

 

私はしばらく呆然とその「海」を

眺めていました。

 

すると今度は、

大量の涙が溢れました。

 

涙を流しながら、私の頭はどんどんクリアになり、

「すべてのこと」が理解できました。

 

つまり、

自分がいったい何をこれまでしてきたのか?

自分は、何を引き起こしていたのか?

自分が今、本当にすべきことは何か?

本当にしたいことは何なのか?

 

それらの答えが、一瞬にして

すべてわかったのです。

 

答えといっても、それは言葉では

ありませんでした。

 

しかし、すべてがわかったのです。

 

私は、立ち上がりました。

さっきまでのモヤモヤが嘘のようです。

 

「こんなことをしている場合ではない」

私は一人、そう呟いていました。

 

人生を走らせなければならない。

そのために私は師匠のもとを飛び出したのだ。

そんな当たり前のことを

なぜ私はわからなかったのか。

私には人生でしようと決めていることがある。

それを一刻も早く始めなければ。

 

私の中からフツフツとエネルギーが

溢れてきました。

そのエネルギーによって私は

どんどんニュートラル(自然体)になりました。

 

ガンガン前に進もう、というエネルギーとは

異質のものでした。

ただ、すべてが満たされるエネルギー。

 

ただ、ここにいることだけで、

自分でいられることだけで、

すべてが満たされるエネルギー。

 

そして、私の目にはずっと「海」が

見え続けていました。

 

私はある意味、驚嘆していました。

 

私の心の中には、こんなにも大きく、広く、深く、

そして揺るがないものがあるのだ、と。

 

どんな状況でも揺るがないもの。

いえ、

揺るがない、という表現自体が薄っぺらです。

揺らぐとか揺るがないとか、そういった次元を超えた

ただただそこに在り続ける自分自身。

 

こういったものが

これだけ酷い自分という人間の中にもある。

ということは、

この「海」と同じものが、

すべての人達の心の中にあるのではないか。

 

そう確信しました。

 

そして、私はすべての人達の中にある「海」を

その本人が見つけ、

その「海」を常に感じながら生きるための

サポートをする。

それが私のすることである、と

今度は明確に言葉として認識しました。

 

これが、私のコーチとしての

本当のスタートとなりました。

 

私は、その「海」のことを後に、

『真本音』

と名付けることにしました。

 

すべての人の心の中心に

確かに存在する真本音。

 

それを掘り起こし、

真本音に基づいて生きるサポートをする。

 

その時から15年。

私はこれをずっと毎日、やり続けています。

 

平井さんへのコーチングも、

まったく同様。

 

私は平井さんの真本音を見つけるための

コーチングを始めました。

 

人は、自らの真本音をもとに生きることで、

本来の味を醸し出すことが

できるようになるからです。

 

つづく