チームパフォーマンスコーチ

勢いがついたら

 

勢いが

出てきた時ほど、

 

勢いだけで

進むことはやめよう。

 

勢いがあれば

あるほど、

 

今、目の前の

一歩を。

 

そこに誠実に。

真摯に。

 

静かに現実を

眺めよう。

 

勢いを

自らの純粋性に

変える。

 

勢いという

エネルギーを

鎮まる方向に

使う。

 

エネルギーが

高ければ高いほど、

それは容易だ。

 

そしてすべてが

より

クリアに観えてくる。

 

自分が次に

何をすべきかが

ハッキリとわかる。

 

そうしたら

タイミングを大事に。

 

勢いだけで

進めば、

このタイミングをいつか

外す。

 

そしてすっ転んで

勢いを失くす。

 

純粋にクリアに

現実を観察し、

 

タイミングを極めて

静かに

次の一歩を。

 

これをすれば、

さらに

勢いがつく。

 

そして勢いが

ついたら、

それをまた

鎮める方向に。

 

最速で進むには、

鎮まった自分が

必要なんだ。

 

つづく

 

変わってしまう自分

 

新しい自分を

受け入れる

度量を持とう。

 

しかしそれは

言うは易し、

行うは難し。

 

ほとんどの人が

新しい自分を

怖がる。

 

いや、

新しい自分そのものを

怖がるというよりも、

 

自分の変化を

怖がる。

 

その変化が

根本的であれば

あるほど。

 

それはしょうがない

ことかもしれない。

 

しかしその勇気を

持つ者は、

本人からしてみれば

まるで別人に

なるかのように

変化する。

 

しかし

側から客観的に

みれば、

その変化は

実に自然だ。

 

それは

変化というよりも

深化。

 

よりその人らしさが

滲み出る。

 

あぁ自然体に

なれたんだね。

 

・・・という

フィードバックになる。

 

側からみれば

そうなんだけど、

本人にしてみれば、

これまでの自分が

完全に破壊されたかの

ような、

そんなある種の

喪失感がある。

 

私がだいぶ前に

この最初の体験を

した時、

 

私は

落ち込まない私に

なってしまった。

 

それ以前の私は

ほんの些細なことを

気に留め、

すぐに悪い方へ

悪い方へと

物事の展開を考え、

 

・・・考え、というより

妄想しまくり、

 

一人で勝手に

落ち込んで

一人で勝手に

疲弊していた。

 

実際には

そのような不安なことは

起きないのに、

 

それは後になれば

いつも何事も

なかったのに、

 

それでも不安に

陥り、

心は疲れ果て、

いつも鬱々として

過ごしていた。

 

不安の中に

いる自分。

 

それが通常の

私であり、

 

それが私自身の

本質だった。

 

・・・と思っていた。

 

しかしそれが

ある時、一気に

変化した。

 

変化後の私は

落ち込まなくなった。

 

不安に

苛まれなくなった。

 

もちろん、

普通に安は出る。

 

そりゃそうだ。

現実世界で

生きているから。

 

でも、どうしても

妄想に入れなく

なった。

 

大抵のことでは

落ち込まなくなった。

 

落ち込もうと

思っても

どうしても

落ち込めないのだ。

 

だから私は

必死に努力して

妄想をし、

 

必死に努力をして

落ち込もうと

したんだ。

 

今から考えると

笑える話だが、

それくらいに人間というは

これまでの自分に

固執するらしい。

 

不安にならないと

不安なのだ。

 

落ち込まないと

落ち着かないのだ。

 

そんな状態が

ずっと続いて、

 

しかし

どれだけ努力しても

確固たる心の大地が

あり、

 

落ち込もうと思っても

落ち込めない。

 

不安になろうと

思っても、

どうしても心が

満ちてしまう。

 

エネルギーが

湧いてきてしまう。

 

ということが

続き、

ある時にとうとう、

 

あきらめた。

 

あぁもう私は

変わってしまったんだな、

と。

 

もうしょうがない。

無駄な悪あがきは

やめようかな、

と。

 

本当にあきらめた。

 

で、急にそこから

楽になった。

 

こんな感じ。

 

私達は、

どんなにひどい自分でも

これまでの自分に

執着する。

 

変わりたく

ないのだ。

 

でもそれは

あきらめた方が

いい。

 

あなたはもう

変わり始めて

いるから。

 

本来の自分に

向かってね。

 

つづく

 

珠玉の発想

 

ほんのわずかな

思いつき程度の

小さな小さな

発想だとしても、

 

それが実は

自分自身の深い願いから

生まれたものかも

しれない。

 

・・・という視点は

いつも

持っておいた方が

いい。

 

コーチングで

よくあることだ。

 

雑談のような

ちょっとした会話の

中で、

 

最近、こんなこと

思いまして・・・、

 

突然クライアントさんが

呟く。

 

でも呟いた途端に

 

まぁつまらない

ことなんですけどね・・・、

 

その人自らが

その発想を

投げ捨てる。

 

いやいやいや!

ちょい待って!

 

私が止める。

 

今のその発想、

ジンジン伝わって

来ましたよ!

 

と伝えると、

 

えぇ?そうですか?

 

と。

 

でもその発想を

しっかりじっくり

深堀りしていくと、

 

そんな場合は

大抵、

とんでもない展開に

結びつく。

 

ビジネスであれば、

それが新規事業に

つながったり、

 

時には

新会社につながったり

することもあった。

 

そこまで

行かなくても、

仕事のやり方が

大きく変わったり。

 

人生の流れが

変わったり。・・・

 

発想は宝物。

 

特に、

ほんの些細な

思いつきのように

自然に浮かんだものは、

 

珠玉の発想

かもしれない。

 

でもその珠玉を

みんな

自ら捨てている。

 

そんな勿体ない

ことはない。

 

だから私は

常々お伝えし続ける。

 

問いを持とう!

と。

 

ちょっとした

思いつきに対して

問いを向けよう!

と。

 

なぜこの発想は

出たのか?

 

この発想の根元に

何があるのか?

 

この発想を

育てると

どうなるのか?

 

さらにその先は

どうなりそうか?

 

そういった

ちょっとした

習慣づけ。

 

これが大事。

 

私達は常に

自らに

ヒントを出し続けて

いる。

 

自分の人生も

仕事も

よりよくするための

ヒントをね。

 

つづく

 

なぜここ?

 

なぜ私は

ここに

いるのだろう?

 

・・・この問いは

みんなもっと

大切にした方が

いい。

 

「ここ」

というのは、

例えば

 

今の職場とか

今の家族とか

今住んでいる所とか。

 

要するに

今自分が実際に

身を置いている

環境だ。

 

いや、

たまたまです。

 

・・・という

答えはなし。

 

あんな出来事が

あって

その後こんな

出来事があって、

その結果

ここにいます。

 

・・・というもの

なし。

 

もっと

本質的な答えを

見つめた方が

いい。

 

私達の人生に

「たまたまここにいる」

なんてことは

ない。

 

「たまたまこんな

経験をした」

というのもない。

 

すべて

自分が創り出した

現実だ。

 

たとえそれが

無意識だったと

しても。

 

「ここ」にいる

には

理由がある。

 

願いが

あるのだ。

 

いや、私は

ここになんか

いたくない。

私はちっとも

ここを願ってなんか

いない。

願いなんかない!

 

と言う人も

きっといるだろう。

 

いや。

 

それは違う。

 

「ここ」にいる

以上、

私達は自分の願いに

基づいて

「ここ」まで来た。

 

ここはあえて

断言しよう。

 

そしてこの

前提のもとで

 

もっと必死に

考えるんだ。

 

なぜ私は

「ここ」

にいるのか?

 

自分の本質を

しっかり

見極めようと

するんだ。

 

「今」は

この視点が

とても大事だ。

 

この視点を

持つことで、

 

この後の道が

大きく変わるよ。

 

つづく

 

感性の養い方

 

日々を自分なりに

真剣に生きているな、

思える人は、

 

もうちょっと

自分の感性を

信じても良いのでは

ないかな。

 

感性とか

感覚とか。

 

そういったものは

あやふやなもの

思われがちだけど、

 

実はそうではなく、

結局のところ

感性こそが

人生でも仕事でも

重要な指針の根底に

くることは多い。

 

感性の

基本は、

 

・しっくりくるか

・違和感があるか

 

の区別かな。

 

理屈上、

どう考えてもこっちの方が

いいなぁ

と思っても、

 

どうも

しっくりこない。

違和感があるような・・・。

 

と感じるなら

それはNOなんだ。

自分にとっては。

 

そんな場合、

 

私はNOだと

感じている。

 

という事実を

まずは

自分が大切にすると

いい。

 

そして

NOだと言う前提で

 

・・・そこはもう

NOという結果が

出たものとして

 

なぜNOなのだろう?

ということを

真剣に思考して

みる。

 

すると、

次々にいろんな

気づきがある。

 

自分の感性を

信じることで

思考が働くんだな。

 

もちろん

逆も然り。

 

なぜだかわからない

けど

とてもしっくりくる。

 

と感じるので

あれば、

それをYESであると

自分が自分で

認定して、

 

その理由を

しっかり考える。

 

こういったことを

日々、

続けていれば

 

感性は

どんどん養われる。

 

普段の生き方が

淀んだものである人は

これをどれだけやっても

意味はないかも

しれない。

 

でも、

自分なりに

私は真剣に生きてるな、

と思える人は

 

ぜひ自分の感性を

養ってほしい。

 

きっと

グングン伸びるよ。

 

つづく

 

対峙

 

心の中に

暗く大きく重い雲が

あるならば、

 

その雲を

無くそうとしては

ならない。

 

雲とは

対峙するのだ。

 

対峙、と言っても

戦うわけでは

ない。

 

ただ、

見つめる。

 

しっかり

見つめる。

 

あるがままを

見つめる。

 

それだけだ。

 

どのような雲が

現れても、

変わらない。

 

自分のスタンスを

変えない。

 

あらゆる雲と

対峙する。

 

そのままを

見つめ続ける。

 

これを

一つ一つ誠実に

行なう。

 

真面目に

続ける。

 

たったこれだけで

私達は

自分を生きる

ことができる。

 

雲と対峙

し続ける者は、

 

対峙している

この自分が

ガッシリと立ち続ける

大地を

感じ始めるだろう。

 

その大地は

対峙すればするほど

確かなものになる。

 

そして、

 

雲は雲。

 

それは

儚いものであり

弱いものであり

陽炎のように

消えてゆくもので

あり。

 

もしかすると

本当は

最初からそこには

存在しないもの

だったのかもしれない。

 

そんなことが

徐々に

わかるように

なってくる。

 

大地は最初から

そこにあり、

 

そこに自分は

立っている。

 

雲から逃げる者は

大地すら

わからなくなり、

 

雲と対峙する者は

大地そのものが

自分であることを

思い出し、

 

その眼差しは

愛となる。

 

そしてその眼差しで

他者を見つめることが

できるようになる。

 

すべて

始まりは自分

である。

 

自分の生き方

であり、

 

自分自身との

対峙の仕方で

ある。

 

つづく

 

望み

 

今の自分は

本当は

何を一番

望んでいるのか?

 

・・・これはとても

単純な問い

なのだが、

 

この問いを

自分自身に

毎日のように

真剣に

投げ続けている人は

 

いったい

どれだけいるだろうか?

 

自分の気持ちを

 

本当の気持ちを

 

自分が知らずして、

どのようにして

自分の人生を

生きることができるのか?

 

自分のことを

自分が理解せずして、

 

いったい誰が

自分を理解

してくれるのか?

 

「望み」。

 

自分のことを

よく観察する人は

いるが、

 

自分の望みを

観察する人

 

し続ける人は

 

びっくりするくらい

少ない。

 

毎日の現実に

ドップリと

浸かってしまえば

それも

やむを得ないかも

しれない。

 

自分を見つめる時間

など

確保する気力は

ないかもしれない。

 

しかし

それでも

わずかでも、

 

一日に最低

一回は、

 

静かに自分を

見つめよう。

 

自分の「望み」に

意識を

向けてみよう。

 

真剣に。

 

何よりも

真剣に。

 

つづく

 

その一度きり

 

人と人の

つながりを、

 

本当に大切に

したいのであれば、

 

落ち着いた自分で

いることだ。

 

落ち着いて

人と

向き合う。

 

それを

一つ一つ丁寧に

行なうことだ。

 

その人と

その場で

その瞬間にしか

 

とれない

コミュニケーションが

ある。

 

その人と

その場で

その瞬間にしか

 

出せない

答えがある。

 

その人と

その場で

その瞬間にしか

 

伝えられない

ことがある。

 

それは

一度逃すと

一生戻ってはこない。

 

それを

一度逃すことで

その後の流れを

取り戻すためには

非常に長い時間と

労力がかかる。

 

それだけ

人生の展開が

遅れてしまう。

 

一期一会

という言葉が

あるが、

まさしくその通り。

 

同じ人と

何度も会ったと

しても、

 

その時

その瞬間は

 

そのたった

一度だけ。

 

たった一度の

その人との

今。

 

それを

大切にすることが、

その人を

大切にすることで

あり、

 

その人との

つながりを

大切にすること

なんだ。

 

つづく

 

シンプルで複雑

 

人間という

ものは

 

複雑怪奇だ。

 

そこに目を

向ければ、

到底

信じられなくなる。

 

一方で、

 

人間という

ものは

 

シンプルだ。

 

そこに目を

向ければ、

とても

可愛らしく観える。

 

どの視点から

どう観るかによって

まったく

カタチを変える

人間という存在。

 

それが

私達だ。

 

オススメは、

 

まずは

シンプルな視点を

持とう。

 

シンプルに

自分を見つめ、

 

自分のシンプルさ

発見しよう。

 

そして、

 

そのシンプルさ

という視点から、

 

あらゆる

複雑怪奇を

観察する。

 

すると

すべてが

笑えてくる。

 

シンプルさを

忘れ、

複雑怪奇のみに

埋没すれば、

 

恐らく

一生そこから

脱け出せなくなる。

 

そして深まるのは

自己不信。

 

自己不信は

他者不信を

生み、

 

結局のところ

人生は

灰色になる。

 

そんなの

いやだろ。

 

私達は

シンプルだ。

 

複雑怪奇な

フリをしたって

ダメだ。

 

シンプルだから

こそ、

複雑怪奇で

いられるんだ。

 

そのカラクリ

を、

早く見極めよう。

 

つづく

 

本来の自分を知りたくば

 

自分のことを

もっと深く

知りたい!

 

という若者と

本当によく出会える

ようになった。

 

皆、勇敢だ。

 

多少、すっ転んでも

いいと

思っている。

 

だから

躊躇なく行動する。

 

そう。

 

自己理解を

深めたければ

行動するしかない。

 

止まっている自分は

決して

本来の自分では

ない。

 

止まったまま

あーだこーだ

考えていても

何の発見もない、

 

というのが

私達人間だ。

 

ただし、

ただ闇雲に行動

しても

意味はない。

 

本当にやりたい

ことを

本当にやりたい

ように

やる。

 

のだ。。

 

そのためには

本当にやりたいこと

が何か?

常に真剣でいることだ。

 

今、浮かんだ

この発想は

本当にやりたいことか?

 

今、やろうとしている

この行動は

本当にやりたいことか?

 

とにかく

真剣にそこを

見つめる。

 

そしてもし

わからなければ、

やってしまえばいい。

 

そこで

止まるのでは

なく。

 

本当にやりたいことを

やろうという

強い意志のもとでの

行動であれば、

 

多少、間違っていても

必ず何かを

得るだろう。

 

すっ転んでも、

痛くても、

ただ痛いだけでなく、

次につながるヒントは

得られるだろう。

 

ちょっと乱暴に

言えば、

 

周りに合わせた

行動では、

どれだけ行動しても

自己理解が進む

ことはない。

 

だってそれは

自分の意思では

ないから。

 

意思のないところに

得るものは

ない。

決して。

 

意思に基づいた

行動。

 

その連続の向こう

にしか、

本来の自分は

いない。

 

つづく

 

出会う前から

 

これから出会う

人達から

 

まるでメッセージの

ような

 

「意思」

のような

 

何かが届くことが

ある。

 

明確には

よくわからない。

 

感覚が

あるだけだ。

 

しかし私は

その感覚を

とても大事にする。

 

その感覚を得る

ことで、

今まさにやろうと

思っていたことを

やめてしまった

こともある。

 

あそこで

やめなかったら

きっとこの出会いは

なかったな、

後になれば

わかるのだが、

 

もちろんその時は

わからない。

 

わからないが

故に私は

感覚を大事にする。

 

違和感のあることは

だから

一切やらない。

 

出会うか

出会わないか。

 

これが人生に

与える影響は

あまりにも大きい。

 

出会いを大事に

するということは、

 

出会う前の自分も

大事にすることだ。

 

今のこの

一歩一歩。

 

これを大事にする

ことが

すべての出会いや

縁を

 

約束通りに

芽生えさせ

育むことになる。

 

出会いは

原因でもあるが、

 

結果だ。

 

出会えた!という

結果を呼ぶのは、

 

今の自分だ。

 

つづく

 

基本、何もしない

 

静かに

力を抜いて、

 

本当に

必要なだけ

 

ちょっとだけ

 

刺激を

入れる。

 

あとは

余分なことは

何もしない。

 

必要最低限の

エネルギー。

 

必要最低限の

言葉。

 

必要最低限の

反応。

 

・・・これが

コーチとしての

私の基本スタンスだ。

 

まるで

月の如く。

 

でもたま〜に、

 

噴火。

 

ダダダッと

一気に

マグマのような

メッセージを

注ぎ込む。

 

余分なことは

何もしない。

 

必要以上の

力は絶対に

込めない。

 

という前提の

もとでの

マグマの噴火は、

 

効く。

 

滅多にない

ことだけどね。

 

コーチとして

というだけでなく、

 

ひょっとすると

私は

すべてのコミュニケーションを

同じようにしている

かも。

 

これを

私以外の皆さんに

オススメして良いかどうか

はわからない。

 

でも私はこれで、

人間関係が

とても調和するように

なった。

 

ゆとりが

持てるように

なった。

 

人が

好きになった。

 

「会話」の醍醐味を

感じ取れるように

なったんだ。

 

つづく

 

せっかくの混乱だ

 

混乱の源は

静寂だ。

 

静寂が

あるからこそ、

安心して

混乱できる。

 

もし静寂が

なければ

混乱すらできない。

 

だから、

 

もし今、あなたが

大きく混乱している

ならば、

 

安心すると

いい。

 

しかし

かといって

その混乱から

脱け出てしまうのは

 

実に

もったいない。

 

せっかく混乱

しているのだから、

 

最後まで

徹底的に

 

混乱

し尽くそう。

 

混乱している

間に、

 

私達は

準備を整える。

 

準備完了

と共に

混乱は消えていく。

 

意図して

消すものでは

ない。

 

自然に浄化

されていくのが

混乱の本質だ。

 

一見すると、

 

目の前の現実が

混乱の源のように

思うかもしれないが、

 

それは違う。

 

もちろん

現実が混乱の

引き金になることは

ある。

 

現実に

翻弄し続けられる

こともある。

 

しかし

現実による混乱とは

表面的なものだ。

 

あなたのその

混乱は、

 

もっと奥深い

し、

 

根が深い

はずだ。

 

そういった混乱は

諦めるといい。

 

やはり

徹底的に

混乱し尽くす。

 

「私は混乱である」

くらいに

混乱と同化すれば

いい。

 

「一生、混乱として

生きてやる」

くらいに

開き直ればいい。

 

混乱よ

まだ行くな、と。

 

つづく

 

一つの無力な存在

 

大自然の前で

人は無力だ。

 

ということを

私は学生時代に

登山を通じて

いやというほど

知った。

 

私はもともと

人間嫌いだった

のだが、

 

その理由の

一つは

人間が無力だから

だ。

 

大自然の

素晴らしさ。

そして

人間の小ささ。

 

なんで自分は

人間などという

小っぽけな存在として

生まれてしまったのだろう?

という疑念。

 

私は私が

嫌いだったし、

 

それはきっと

私という存在そのもの

があまりに

無力なので

嫌いだったのだろう。

 

今も

人は無力だな

と思う。

 

しかし一方で、

人の無尽蔵さも

いやというほど

見てきた。

 

かと言って

人には皆、

可能性がある

とは

安易に言いたくない。

 

そんなに簡単な

ことではないと

思うのだ。

 

自分の無力と

向き合う。

 

自分の無力と

向き合う。

 

自分の無力と

向き合う。

 

私は自分が無力だと

思っていたが、

 

本当にそうなのだ、

つくづく諦めたのは、

もっと何年も

後のことだ。

 

それまでは

無力だと言いながら、

どっかで可能性を

信じていた。

 

でも、

本当に無力だと

思い知った時、

 

それを

受け入れて

無力そのものに

なった時、

 

そこで初めて

何かが

開けた。

 

何かが軽く

なった。

 

そこから私は

自分が何に

努力すれば良いかが

きっと

わかるようになったのだ。

 

無力な自分が

それでも

できること。

 

それは

何だろう?

 

という問いに

なった。

 

そしてそれを

コツコツと

ずっと一つずつ

積み上げてきた。

 

だから今は、

自分の無力さを

感じても

何とも思わん。

 

・・・いや違うな。

 

何とも思わん

ことはない。

かなり

落ち込む。

 

かなり落ち込む

けど、

その落ち込むこと

そのものが

 

どうってことは

ない。

 

無力だが

歩みは

止まらない。

 

可能性がある

などと、

安易には

言わない。

 

可能性は

ないかもしれない。

 

でも、

止まらない。

 

無力だろうが

可能性が

なかろうが、

 

それは

私が止まるための

理由には

ならないのだ。

 

つづく

 

創造力を高める方法

 

人は誰にも

創造力

がある。

 

何かを生み出す

力だ。

 

その、

本来備わっている力

を発揮するには、

 

しかしそれ相応の

訓練が必要だ。

 

今回は一つ、

その訓練法を

お伝えしよう。

 

・・・・・・

 

「創造」には、

皆、

 

「創造の源」

 

がある。

 

あなたにとっての

創造の源を

探し出そう。

 

と言っても

やることは簡単。

 

「光」を

イメージしてみて

ほしい。

 

「創造の源」とは

一つの「光」である、

わざと思い、

 

その「光」は

どこだろう?

あなたの体の周りを

探してみてほしい。

 

例えば、

頭の50cmくらい

上にあるな、とか

 

自分の背後、

3mくらいのところに

あるな、とか。

 

多くの場合、

体の中というよりも

外にあるはずだ。

 

ほとんどの人が

「創造の源」と

離れてしまっている

からだ。

 

人によっては

宇宙の彼方に光がある

くらい

かなり遠くかも

しれない。

 

場所を特定できたら、

その「光」に

意識を向けてみよう。

 

それは

どれくらいの強さで

どんな色で

光っているだろうか?

 

それがわかったら

あとは簡単だ。

 

その「光」に

じっと意識を

向け続けるだけだ。

 

無心で

何も思考せずに、

ただじっと

意識を向け続ける。

 

それをしていると

何らかの発想が

ふと

呼び覚まされるかも

しれない。

 

それが

あなたにとっての

「創造」だ。

 

ただし、

最初からすぐに

できるわけではない。

 

まずもって

無心で意識を向ける

ということ自体が

難しいだろう。

 

ちなみに私は

これ、

やろうと思えば

何時間でもできると

思う。

 

「創造の源」である

「光」は、

そこに意識を向ければ、

ずっと無心で

いられるのだ。

 

そして

無心でいられれば

いられるほど、

 

あなたの人生にとって

必要な何かが

そこから発想される。

 

毎日、少しずつでも

良いから

練習しよう。

 

この練習は、

実は、

創造力以外にも

様々な効用を見せてくれる。

 

あえてそれは

ここでは書かないので

 

ぜひ自らそれを

体験してみてほしいな。

 

つづく

 

ことりと動いた

 

風が吹き、

一枚の葉が

ことりと動く。

 

ほんの些細な

その変化に

 

しかしそれでも

空気は

ざわめく。

 

分子レベルでしか

認知されない

そのわずかな

ざわめきも、

 

確かに一つの

波動を起こし、

それは周りに

伝播する。

 

たとえたった

一個の分子が

動いたに過ぎなかった

としても、

 

たった一個の

分子の

その動きが、

 

核心をつく

ことがある。

 

あの風が、

 

あの一枚の

小さな葉の動きが、

 

この大きな波を

起こしたのだ、

いくら説明しても、

 

それはなかなか

信じてもらえない

だろう。

 

しかし

この世の多くの

出来事は、

 

些細から始まる

のだ。

 

その「真実」に

目を向けるとき、

 

愕然とする

ことがある。

 

「些細」と

「核心」の

調和・不調和。

 

これによって

この世は

満ちている。

 

なんと

不確かなもの達の

集合体か。

この世界は。

 

偶然でしか

成り立たないかの

ような世界。

 

そのあやふやさの

中に

私達は存在

している。

 

その恐怖。

 

これを誰もが

持っている。

無意識下に。

 

私はこの

恐怖の眼差しで

すべてを

見つめている。

 

何も信じることが

できないという

眼差しで

見つめている。

 

そこまで

堕ちて初めて、

 

「必然」とは

どういうことか?

 

その意味が

わかったのだ。

 

「流れ」はなぜ

起こるのか?

 

その綿密な仕組みを

理解できたのだ。

 

そして、

 

理解すればするほど、

さらに

わからないものが

浮上する、

この世界の奥深さと

 

そこに至る

羨望と。

 

そういったものが

ないまぜになって

私達はここに

存在している。

 

いったいどれだけの

風が

今、世界の内で

起きているのか?

 

そのうちの

どれだけが

核心を突いているのか?

 

その視野に

立ったらもう、

何もできない。

 

そうではない場所に

私達は立つしか

ない。

 

その場所に

たどり着くしかない。

 

そんな出会いが

日々、起きている

というのは、

 

これも一つの

必然だろうか。

 

つづく

 

ちょっとだけ

 

ちょっとだけ

これまでとは違う

場所に

移動すると、

 

ほんのちょっとだけ

のつもりが

随分と景色が

変わる。

 

これまで

正面から見えていたものが

 

ちょっと角度が

つく。

それだけで、

印象が随分と変わる。

 

私は最近、

この

 

「ちょっとだけ」

 

というのが

とても大事ではないか、

思い始めている。

 

まったく何も

しない、

 

まったく何も

変えない、

 

よりも

 

「ちょっとだけ」

やってみる。

 

「ちょっとだけ」

変化させてみる。

 

それにより、

何がどう影響されるか?

 

自分はどうなるか?

 

周りはどうなるか?

 

楽しんでみる。

 

これだけで

人生の楽しみ方は

数倍に増幅するのでは

ないか。

 

例えば、

 

今日の私は

いつもよりちょっとだけ

人との距離を

近づけてみた。

 

それだけで

周りの人達の反応が

とても面白かった。

 

自分の言動が

面白かった。

 

明日は

どうしようかな。

 

いつもより

ちょっとだけ、

余分な話を

してみようかな。

 

・・・こんな感じで、

 

ちょっとだけ

あなたは

何を変えてみる?

 

つづく

 

祈り

 

祈るしか

ないではないか。

 

人が人に

影響を与え、

 

人が人を

変える。

 

・・・そんな力が

自分にある

などと

勘違いするのは

傲慢の極みだ。

 

と、

 

悲しい結果を

何度も何度も

私は

体験した。

 

傲慢な自分を

反省するしか

ないのだが、

 

しかし

傲慢だとわかって

いても、

 

何とかしたい

ではないか。

 

目の前の人が

孤独に

陥っている。

 

孤独が故の

自虐的な

方向に進もうと

している。

 

それを

渾身の力で

止めたいでは

ないか。

 

傲慢と

言われようと。

 

身の程知らずだ

言われようと。

 

その人の

悲しさが

そのまま伝わって

くるのだ。

 

こんなにも

悲しいのに、

 

その人自身が

それを

知らない。

 

そっちは

ダメだって!

 

声を大にして

叫べば叫ぶほど、

 

その人は

その言葉を

拒絶する。

 

何とも

ならない。

 

この悲しみは

その人の

ものなのに、

 

私はまるで

私のもののように

受け取り、

嘆く。

 

傲慢だろう。

 

わかっている。

 

でも

何とかしたい

ではないか。

 

でも

何とも

ならんのだ。

 

私は無力だ

と思うし、

 

そう思う自分を

本当に

傲慢だと呆れる。

 

でも

もういいよ。

 

そんな心が

あるのが

私だから。

 

こんな悲しい目に

遭っても、

それでも私は

この仕事を

やめようとは

思わない。

 

これまでも

一度も思わなかったし、

 

今日も

思わなかった。

 

きっと

明日も

思わないのだろう。

 

どれだけ

何ともならんのだ

わかっていても、

 

それでも

何とかしよう

思ってしまう。

 

何者だ?俺は

自分を罵りながらも、

 

そんな自分を

止めようと

しない。

 

疲れるだけだと

わかっていても、

 

それでも私は

その人の

悲しみを

手放すことができない。

 

呆れた

ものだ。

 

自分に対しても

 

人に対しても

 

ホントに。

 

執着かな?

 

いや

違う。

 

これは

願いだ。

 

祈りだ。

 

祈りであれば、

 

祈るしか

ないだろう。

 

つづく

 

明日にでも

 

今、出せる

最大速を出す。

 

その状態でしか

見つからない

ものがある。

 

99%の

本気さでは

見つからない。

 

100%出して

初めて

開ける視野が

ある。

 

その視野こそ

新たな世界。

 

新たな自分の

いるところ。

 

常に

最大速を出さねば

ならない、

ということではない。

 

力を抜くときは

むしろ

抜かねばならない。

 

しかし

ここぞ!という

ときがある。

 

そこは

最大速だ。

 

最大速を

出せば

当然、

 

混乱する。

 

ゆとりはなくなり

視界は

狭まる。

 

一点集中しか

できない。

 

他には

手はまわらない。

 

それでいい。

 

それこそ

最大速。

 

だからこそ

ここぞ!

という時を掴むのが

大事。

 

一点。

 

まずはそれを

定めよう。

 

私はどの一点に

向かって

最大速で進むか?

 

これを

定めよう。

 

定めたら、

その時を待とう。

 

そのタイミングは

きっと

すぐに来るよ。

 

明日にでも。

 

つづく

 

理由は要らない

 

昔、

ある有名な書道の

先生が書かれた

 

『一』

 

という

大きな文字を

拝見した。

 

「いい『一』でしょう。

『一』という文字が

きっと一番、難しいんだ」

 

と、

それを見せていただいた

社長さんが言われた。

 

確かに凄い

と思った。

 

胸がすくような

爽快さ。

 

とても太く

とてもまっすぐ。

 

淀みがない。

 

きっと

シンプルだからこそ

難しいのだろうな、と

 

当時まだ20代の私は

思った。

 

そう。

 

確かにシンプルほど

難しいものは

ない。

 

・・・かも。

 

私達は

余分な装飾を

取り付けることで

何かをごまかそうと

している。

 

複雑にすれば

するほど、

ごまかしやすく

なる。

 

本当はシンプルな

ことを

複雑に表現することで

 

もっともらしく

なったり、

 

頭が良い気が

したり。

 

シンプルな

生き方。

 

シンプルな

言動。

 

それらは

シンプルな芯が

備わって初めて

可能になる。

 

シンプルは

難しいかもしれないが、

 

それでも

シンプルを

目指そう。

 

もう、

ごまかすのは

やめよう。

 

ごまかしで

何とかなる時代は

終わったのだ。

 

私達は

シンプルからは

かなり遠のいてしまったが、

 

でも私達の

根っこは

シンプルだ。

 

何か挑戦するなら

 

シンプルに

挑戦しよう。

 

そこに

ごまかしは

要らない。

 

成長するなら

シンプルに

成長しよう。

 

そこに

ごまかしは

要らない。

 

良い人生だった!と

人生の最期に

言いたいのなら、

 

シンプルに言える

自分になろう。

 

良い人生だった!

理由など要らない。

 

ただ、

シンプルに

 

そう思えれば

良いじゃないか。

 

そのためにも

今日を

シンプルに

生きよう。

 

つづく

 

真っ白から

 

「自己」が

ストーンとある場所に

落ちていく。

 

落ちると言っても

決して悪い意味

ではない。

 

収まるべき場所に

収まるという

感じだ。

 

ストーンと

落ちたあとは、

トントントントン・・・と

軽やかに弾み、

 

そして

静かに落ち着く。

 

落ち着くところに

落ち着いた「自己」と

向き合ってみると、

 

なんとそれは

実に巨大だった。

 

真丸な球体の

「自己」。

 

まるで

地球のようだ。

 

ただ、まだ

色はない。

 

真っ白。

 

でも美しい。

 

「君はどうして

出来上がったんだ?」

 

訊いてみる。

 

すると、

その中に

吸い込まれた。

 

中に入ると

とても温かい。

 

しかしそれは

マグマのようだ。

 

温かいが

無尽蔵のエネルギーを

感じ、

ちょっと怖い気もする。

 

ちょっと怖いが、

まぁこれくらいじゃ

なけりゃな、

 

とも思う。

 

手に負えないくらいの

エネルギーがなきゃ、

成したいことも

成せないだろう。

 

手に負えないくらいの

自分でなきゃ、

人生、面白く

ないだろう。

 

人生を進めることで

この「自己」は

いったいどんな色に

染まっていくのだろう?

 

これだけ

エネルギーが高い

のだから、

きっとあちこち

ぶつかるのだろうな。

 

しょっちゅう転んで

痛がるけど、

きっと懲りずに

進み続けるのだろうな。

 

無尽蔵のエネルギー

だけど、

 

最初はちょっと

ずつ。

 

ちょっとずつ。

 

徐々に徐々に

開放をしていこう。

 

転びながら

方向を定め、

 

ぶつかりながら

誠実さを

学んでいこう。

 

とにかく何があっても

真剣さ、真摯さ

だけは

失わないように。

 

そんな人生が

いいな。

 

では、

さて、

 

生まれるとするか。

 

つづく

 

新たな方へ

 

「新境地」

というものが

私達にはある。

 

これまでの自分が

まったく知らなかった

世界。

 

まったく知らなかった

自分。

 

まったく知らなかった

人生。

 

恐らく私達人間は

皆、

これをこそ

求めている。

 

今いるのとは

異なる未開の地。

 

今見える「彼方」の

さらにその先。

 

その存在を

感じる瞬間と、

 

その未開の地に

踏み出す瞬間。

 

きっと

私達の魂が

本当の意味で震えるのは

そんな時だ。

 

私達は

堂々と、

「新境地」に

向かおう。

 

その準備は

しっかりと

整えてきた。

 

できることは

すべて

できた。

 

あとは

予測をしても、

想像を重ねても、

 

まったく

意味はない。

 

何しろ

「新境地」

だからね。

 

生き方・行き方は

このままでいい。

 

ここまで

身につけた

この行き方でいい。

 

あとは、

これまでとは違う

次元の

爽快さでもって

 

全力で

突進するだけだ。

 

つづく

 

自己管理

 

自分の体の

少し後ろ上から

 

自分を見降ろして

みよう。

 

客観的に

自分ではないところから

自分を見つめてみよう。

 

どう観えるかな?

 

まず、

疲労度合いは

どうだろう?

 

エネルギーは

高そうか、

低そうか?

 

エネルギーは

ちゃんと

循環しているだろうか?

 

そして、

エネルギーとは

別の視点で、

 

自分は今、

静かだろうか?

騒がしいだろうか?

 

エネルギーが

高まれば高まるほど、

私達は本質的には

 

鎮まっていく。

 

エネルギーが低くなり

安定を失うほどに、

 

私達の心や体は

ギャーギャーと

騒がしくなる。

 

それを

空気感として

感じとってほしい。

 

さぁそして

もう一つ。

 

今の自分は

オープンだろうか?

 

閉じているだろうか?

 

自分を「世界」に

向かって

開け放つ。

 

オープンであれば

あるほど、

もちろん

エネルギー循環は

スムーズになる。

 

オープンであれば

あるほど、

自分の本来の色が

出る。

 

自然体となる。

 

以上のように

客観的に自分を

観て、感じて、

 

もし

自分があまりに

疲れているようなら、

 

ちゃんと

休息を取ろう。

 

自分の今の

生き方と

行き方に

 

無理はないか?

 

真剣に生きる

とは、

不必要な無理を

なくすこと。

 

どう

無理なく楽に

進んでいくか?

 

本当は

どこに自分のエネルギーを

集中して注げば良いか?

 

それらをしっかりと

認識しながら

進むこと。

 

それが「真剣」な

生き方・行き方だ。

 

それができているか

どうかを

私はいつも上記の

客観的視点から

チェックしている。

 

だからこのチェックは

毎日続けるといいよ。

 

つづく

 

激しい変化だ

 

あなたの中心核

には今、

何がある?

 

それが今、

目まぐるしく

変化し続けているのは

わかるかな?

 

もともと私達は

変化をし続ける

存在だ。

 

世の中の変化

よりも

百倍も千倍も

激しく変化する。

 

でもほとんどの人は

そんな自分自身の

変化を知らない。

 

昨日までの自分と

今日の自分は

同じであると

思い込んでいる。

 

それによって

せっかくの変化が

死んでしまう。

 

変化は悪いこと

ではない。

 

生きるために、

 

道を開くために、

 

とてつもなく必要な

柔軟性だ。

 

だから本当は

その変化に素直で

あるといい。

 

でも一方で、

私達の顕在意識は

その変化に

到底追いつけない。

 

目まぐるしい変化

変化に追いついけない

意識と、

 

この二つの

アンバランスを

併せ持つのが

 

私達人間だ。

 

だから人間に

完璧なはなく、

 

ゴールもない。

 

だから人間は

無限に

進化を続ける。

 

自分の変化を

感じ取れるように

なることが、

 

人としての

真の成長だ

とも言える。

 

目まぐるしく

凄まじい

自分の変化。

 

それを実感すると

ある意味

怖くなる。

 

と同時に

愛おしくなる。

 

変化が怖い、

などとは

言えなくなる。

 

だって

変化そのものが

人間だから、

 

とわかるから。

 

そして、

 

なぜそんなにも

変化し続けられるのか?

 

その単純な

理由に行き着く。

 

それは、

中心核のさらに

その中心核に、

 

未来永劫

変わらないものが

あるからだ。

 

永遠に

変わらない存在。

 

それがあるからこそ、

私達は、

安心して

変化を続けられる。

 

進化を

続けられるんだ。

 

変化を恐れている

場合ではない。

 

変化とは、

私達のことだ。

 

つづく

 

もっと巨大だぞ

 

安定した景色は

気持ちが良いけど、

 

安定し切った世界に

い続けると、

どこか

物足りなさを

感じ始める。

 

それよりも、

 

どこかに綻びが

あり、

 

どこかに不安定が

あり、

 

どこかに

この安定を根底から

壊す何かの兆しが

あると、

 

心のどこかで

何らかのスイッチが

入り、

 

ここではない、

次の何かの始まり

のような、

 

破壊の先の

創造のような、

 

未知の領域への

冒険心のような、

 

そんな刺激的な

震えが始まる。

 

その震えこそを

私達人間は

本能的に望んでいる。

 

「私はもうこれで

いいから」

 

「私は今のままで

満足だから」

 

「私は今のままずっと

生きていければいい」

 

・・・仕事柄、

そういった発言や

空気感をいろんな人から

私は浴びるのだが、

 

それらの安定を

喜ぶ気持ちの奥に、

 

私はいつもその人の

「妥協」

を感じ取る。

 

そしてその人が

蓋をして見ようとして

いない

濃いストレスを

感じ取る。

 

その度に

思うのだ。

 

人間は冒険を

したいのだ、

と。

 

実は、

完璧なる安定を

我々は誰も欲していない

のだと。

 

今の世の中は

本当に

何が起こるかわからない。

 

その中で

どうやってより安全に

進もうか、と

考える人は多い。

 

もちろん

大事なことだ。

 

でも、あえて

言わせてもらおう。

 

小さくまとまるな。

 

とね。

 

お行儀よく

行き過ぎるな。

 

とね。

 

不安定な時代こそ

本当の自分を

見つけるチャンスだ。

 

特にこの7月

からは、

不安定は極致に

達する。

 

だからこそ、

まとまるな。

 

開き直って、

堂々と

自分の道を行こう。

 

つづく

 

苦しいかい

 

産みの苦しみ

という言葉が

あるが、

 

新たな何かが

生まれる直前は

大概、苦しいものだ。

 

しかしその苦しみには

対峙しなければ

ならない。

 

逃げるわけには

いかない。

 

しかし逆に、

 

対峙する意味のない

苦しみもある。

 

そこ、

苦しむところじゃ

ないよ。

 

・・・と

アドバイスさせていただくことは

実はとても多い。

 

本来、対峙すべき苦しみ

からは逃げ、

 

対峙する必要のない苦しみ

に執着し続ける。

 

これをすることで

人生は

ますます苦しいものに

なっていく。

 

人生に苦しみは

つきものだ。

 

楽に生きる、

とは

つまり、

 

ちゃんと苦しみを

選択せよ、

 

ということだろう。

 

そして、

私達人間が

顕在意識のレベルで

最も苦しみを感じるのが、

 

冒頭に書いた

産みの苦しみだ。

 

これは

苦しい。

 

しかも

足元から自分が

失われるような

心細さと不安定感も

ある。

 

だからみんな

そこから

逃げようとする。

 

そこから逃げる

ために、

まったく別の苦しみに

向かう人もいる。

 

今、

あなたが苦しんでいるのは

産みの苦しみ

の可能性が高い。

 

なぜならあなたは

進んでいるからだ。

 

進もうと

しているからだ。

 

新たな自分が

産まれる予兆。

 

そこから

逃げてはならない。

 

本当にそれと

対峙しようと

覚悟をすれば、

 

長くはかからない。

 

対峙する覚悟は

苦しみを

耐えられるもの

にしてくれる。

 

ここで逃げれば

一生、苦しむ。

 

ここは

一点突破だ。

 

つづく

 

予感?実感?

 

本当に時たま

であるが、

 

私の中心に

ロウソクが

現れる。

 

暗闇の中の

一本のロウソク。

 

一筋の

小さな炎が

 

灯火のように

揺らめいている。

 

私はそれを

じっと眺める。

 

眺めるほどに

心が鎮まって

いく。

 

こういう時こそ

何も意図しない。

 

ただ

じっと眺める。

 

すると、

 

その小さな炎と

私が

自然に一体化する。

 

私の意識は

炎の中に入る。

 

中は

明るい世界だ。

 

しかし私は

あえて

何も観ないようにする。

 

ただ、

感じるだけにする。

 

それをしていると

その時々で

予感めいた発想が

浮かび上がる。

 

いや、

これは発想

ではないな。

 

何だろうか。

 

あぁそうだな。

そうなるんだよな。

 

思い出している

ような。

おさらいを

しているような。

 

今回は、

小さな炎の中で

私は

たくさんの仲間たちの

存在を感じた。

 

まだ

出会っていない

仲間たち。

 

これから出会う

仲間たち。

 

あぁこんなにも

大勢の人たちと

ここからさらに

出会っていくのだな、

と。

 

我ながら

素敵な人生だな

と思えた。

 

ただ、

 

いつものことだが、

こういった

予感めいたことを

感じても、

 

私は一切

期待をしない。

 

空想も妄想も

しない。

 

こうなるといいな、

想いを巡らせること

すらしない。

 

ただ、

 

あぁそうか、

そうなるんだな、

思えたその事実だけに

感謝する。

 

あとは

いつものように

生きる。

 

一日一日を

大切にし、

 

その日にしか

できないことを

 

ちゃんと

やり切る。

 

一つ一つ

丁寧に。

 

一つ一つ

魂を込めて。

 

つづく

 

今、とても大事な問い

 

あなたが

本当に

守らねばならないもの

とは

何だろう?

 

それを

守るために、

 

あなたが

本当に

手に入れなければ

ならない力は

何だろう?

 

この二つの問いを

 

50年スパン

 

の視点で

考えてみてほしい。

 

すぐに答えが

浮かんだら、

 

それはまだ

違う。

 

思ってほしい。

 

本当の本当の

答えが

他にある。

 

それを

ヒントだけでも

良いから、

 

見つけなければ

ならない

時だ。

 

つづく

 

本当に怖かった

 

一本の道は

見えているのに、

 

先は見えない。

 

見えないどころか、

行く手には

暗雲が立ち込めている

のがわかる。

 

黒くて暗くて

重い雲。

 

その下に

道は続いている。

 

この道は

私の進む道、

だとわかる。

 

しかしあの

不吉な重い雲は

怖い。

 

それでも私は

進めるだろうか?

 

一本道と

言っても、

柵があるわけでは

ない。

 

周りは平原だ。

 

だから

道を外れることは

簡単にできる。

 

元来た道を

戻ることだって。

 

でも

私の目指すものは

あの暗雲のさらに

向こう側にあるのだと、

 

それだけは

わかるのだ。

 

涙が出た。

 

怖いからだ。

 

震えた。

 

怖いからだ。

 

でも

私の体は

一瞬でさえ

迷わなかった。

 

速度を落とさず、

私は

暗雲に向かって

進み続けた。

 

予想通り、

暗雲は暗雲だった。

 

激しく

雨は降り注ぎ、

 

竜巻は起き、

 

雷に打たれた

こともある。

 

よく

生きていられるものだと

我ながら

感心した。

 

しかしどれだけ

酷い目に遭っても、

やはり私は

一本道を外れる

ことはなかった。

 

なぜならそれが

最短の道だと、

 

暗雲の中に

呑み込まれながらも

確信できたからだ。

 

そして

この酷さのすべてを

私は耐えることが

できるのだと。

 

なぜそう思えたのか

はわからない。

 

でも

きっとそれは

一本道そのものが

教えてくれたのだろう。

 

私は

今になって思う。

 

人間だから、

道を外してもいいだろう、

と。

 

道を外しても

きっとまた

この一本道には

戻ってきただろう、

と。

 

だってこの道は

私だから。

 

この道が

私だから。

 

私は私自身を

ただ

歩んでいるだけだ。

 

暗雲も

私だ。

 

最近、晴れ間が

増えてきた。

 

きっとここからは

晴天の清々しい道

となるのだろう。

 

でもその晴天も

私だ。

 

すべて

私だ。

 

私が行なっている

ことだ。

 

つづく

 

会話の楽しみ方

 

これは単に私の

好みかもしれないが、

 

余分なことのない

会話が

私は好きだ。

 

こう見えて私は

かなりの無口だ。

 

話をするときは

だいたい

聴き手にまわる。

 

恐らく、

こちらから話しかける

ことはほとんどない。

 

あったとしても

それは本当に

「話しかけたい」と

思うからしているのだ。

 

無理に話をし出して

無理に会話を

成り立たせようとする

ことは

まずもってしない。

 

だから

ビジネスパートナー達と

一緒にいる時も、

 

例えば一緒に

電車で移動している

時など、

 

お互いにずっと

無口なままだ。

 

なぜか

私との付き合いが

長くなればなるほど、

みんなも

無口になる。

 

だからずっと

黙ったまま。

 

で、時折、

ふとどちらかが

口を開く。

 

本当に自然に

話したくなったから

口を開いた

という感じ。

 

多くの人は

沈黙というのを

ちょっと嫌がったり

緊張したりするようだが、

 

私はほとんど

苦にしない。

 

むしろその「空白」を

楽しんでいる。

 

人生も仕事も

もしくは

芸術も、

 

空白が大事では

なかろうか。

 

空白を大事にし

空白を楽しむことで

 

味わいが増す。

 

人間関係も

会話も

同様。

 

と私は思っている。

 

人と人が

会う時間。

 

それはその場では

人生を共有している。

 

その時その場でしか

なし得ない会話が

ある。

 

こう書くと

硬くなってしまうが、

 

私達はもっと

自然体でいい。

 

本当に

語りたいことだけを

語ればいい。

 

語りたいことが

なければ、

黙っていればいい。

 

そしてその人との

その場を

 

空気を

 

楽しめばいい。

 

そうしていると

自然にふと

口が開く。

 

それはちょっとした

冗談かも

しれない。

 

意味のない一言

かもしれない。

 

でもその一言は

その時のその場が

自然に

もたらしたもの。

 

意味がある、ないは

別として、

 

そこに発生した

その「存在」を

 

これまた

味わい楽しもう。

 

これが私の

人間関係を大切にする

仕方かな。

 

つづく