未分類

怖いからこそ見つめよう

 

今、

問題の核心は

何か?

 

本当は、

このダイレクトな

問いに素直に

向き合えば、

 

ほとんどの問題は

8割方は

解決してしまう。

 

しかし私達には

その、

素直さ

がない、

 

場合が多い。

 

核心を観る

のが

怖いのだ。

 

だから

まずはそこから

目を背けることに

全力になる。

 

もちろん、

そうなっている自分を

自覚することは

ない。

 

自覚できたら

大したものだ。

 

だから私は

いつもいつも

この問いを

大切にしている。

 

今、

問題の核心は

何か?

 

・・・・・・

 

問題の核心は

恐怖感の

その先に

ある。

 

そりゃそうだ。

 

問題の核心

だからこそ

恐怖感が湧く。

 

つまり、

最も怖い方向を

見つめれば、

そこに

実にシンプルな

核心が

潜んでいる。

 

いや、

本当は潜んでなんか

いないのだが、

あまりの恐怖によって

そいつの前では

私達は

目を瞑ってしまうのだ。

 

全力で

目を瞑る。

 

で、

わからない

わからない

と言い続ける。

 

時には、

目を瞑っているその

まぶたの上に、

くっきりとした

キラキラの目を描いて、

 

ほら、

私、ちゃんと

目を開いているでしょ!

 

とアピールする

人もいる。

 

もちろんやはり

本人にその自覚は

ない。

 

逃げることに

必死だという

自覚が。

 

そういう人と

向き合うと、

あまりの恐怖感と

あまりの拒絶感に

私は

言葉を失う。

 

怖いものを

怖いと言えれば、

もっと楽になるのに。

 

本人は最も

楽ではない道を

邁進する。

 

まぶたの上に

描いた偽物の目を

堂々とこちらに見せ、

 

ほら、

私はこんなに真剣に

自分の使命に

向かっています、

 

と訴え続ける。

 

自分の人生を

邁進しています、

 

と。

 

・・・・・・

 

そのように

全力で逃げようと

する人は、

 

どうやら

私からのお墨付きを

もらいたいようだ。

 

つまり、

「たけうちさんが

いいね、って

言ったから、

私はこれで

いいんだ」

という

お墨付きだ。

 

このお墨付きを

ほしいが故に、

あえて私に相談

してくる人もいる。

 

しかし私は

決して

そのような「お遊び」

にお付き合いする

ことはない。

 

そのような

「お遊び」は

ダメですよ。

もっと

真剣に生きましょうよ。

 

というニュアンスの

空気感を

ほんのちょっとだけ

私は

その人に向ける。

 

すると多くの場合は、

とても残念なことに

一目散に

私の前から

去っていく。

 

私は別に

「もっと強くありなさい」

とは

一言も言っていない。

 

私はただ

「もっと真剣になろうよ」

伝えているだけだ。

 

真剣になる、

とは

自分の弱さを

知ることだ。

 

自分の恐怖を

知ることだ。

 

知ればいい。

 

だって

人は

弱いから。

 

でも、

自分の弱さを

素直に認めることで、

人は

一歩ずつ

強くなっていけるから。

 

完璧な人間など

いない。

 

何度も言うが、

私だって

人間として相当の

ヘナチョコだ。

 

でも私は

そのヘナチョコぶりを

知っている。

 

そこから

目を逸らさないように

している。

 

それだけで

いいのだ。

 

それだけで、

ちゃんと

進めるのだ、

私達は。

 

「あるがまま」を

見つめよう。

 

それができれば、

問題の核心は

すぐにわかるし、

 

そしてその核心は

実は、

結構、可愛いものだった

ということも

わかるのだ。

 

つづく

 

スクスクと育ってほしい

 

私は、

仕事のアポイントを

取るとの同じように、

家族とも

アポイントを

取るようにしている。

 

そして、

仕事も家族も

一度決めたアポイントは

必ず守る。

 

そうしないと

私のクセで、

どうしても仕事優先の

日々にしてしまうからだ。

 

私はできるだけ

平日の18時〜20時の

2時間は、

5歳の息子との時間を

取るようにしている。

 

彼の通う子ども園に

迎えに行き、

歩きながらいろいろ

語り合い、

夕食を一緒に食べ、

家で一緒に遊んだり、

ウルトラマンのDVDを

観たりする。

 

20時前には

息子のセルフコーチングの

時間を創る。

 

私のクライアント企業様の

社長さんから

送っていただいた

神棚がある。

 

その神棚に向かって

まずは手を合わせ、

一日の感謝をする。

 

そして、

どんな一日だったか?

を振り返る。

そして、

明日は

どんな一日にしたいか?

をイメージする。

 

もちろん

5歳の子どもの発想だから

他愛のないことが多いが、

しかしそれでも

これをすることで、

心や魂がスッと

落ち着くことがわかる。

 

20時を過ぎると

彼はもう就寝する。

 

私も少し休み、

そしてまた

仕事に向かう。

 

もちろん毎日

このようにできるわけでは

ないが、

可能な限り

そうしている。

 

・・・・・・

 

子ども園では

様々な子ども達が

いる。

 

彼らを観ていると、

みんなすでに

いろんなものを

抱えていることが

わかる。

 

子どもは純粋だ、

と思う人は多いと

思うが、

いやいや

そんなことはない。

 

子どもにこそ、

ストレスが多い。

 

しかも最近の子は

親のストレスを

肩代わりしている子が

多い。

 

以前にこのブログで

「エンティティ」

について

書いたことがある。

 

エンティティとは、

ストレスがある一定の

濃度以上になることで、

実体化したもの。

 

日本語では

「生き霊」

と訳されることもあるが、

要するに

人の「念」の塊であり、

ストレスの塊だ。

 

それは誰もが持っており、

人から人へと

伝染する。

 

最近は、

エンティティの濃い

大人達が増えている。

 

その大人達の

エンティティを

子ども達が

肩代わりするのだ。

 

それで苦しんでいる

子が多い。

 

・・・・・・

 

大人の人生の

不調和が、

子ども達に

ダイレクトに

影響している。

 

電車で

子どもを抱っこしながら、

自分のエンティティを

子どもに与え続けている

人は多い。

 

電車でもそうなのだから、

家ではもっと

すごいのだろう。

 

よく私は

子ども達と目を

合わすことがある。

 

子ども達は

私をじっと

見てくる。

 

その目から

伝わってくるのは

彼らからの

SOSだ。

 

私はもちろん、

目で励ますしか

できない。

 

これが今の世の

実態である。

 

子ども達が

スクスク育つことの

できない世の中を、

私達大人は

確かに創り上げている。

 

親は親の

人生。

 

子どもは子どもの

人生。

 

と言われたりも

するが、

そんなことはない。

 

親が子に与える

影響は

測り知れない。

 

親の今日の生き様が

そのまま

子どもに影響するのだ。

 

その自覚を

もっと我々は

持つべきではないか。

 

・・・・・・

 

子どもには

覚悟が

ある。

 

覚悟をもって

人生に

向かおうとしている。

 

特に今は、

そういった

真剣な子が

多い。

 

私は彼らの

真本音の想いの強さを

ヒシヒシと

感じる。

 

彼らのその想いを

私は

尊重したい。

 

尊重できる

世の中にしたい。

 

そのためにも

私は

大人達に

向かう。

 

今後の世の中に

こそ、

コーチが必要だ。

 

つづく

 

鏡を見つめよう

 

誰だって

溺れたくない。

 

でも、

人生の海に

溺れてしまう。

 

気がつけば、

足のつかない

深い場所にいて、

 

高い波が

押し寄せて来て、

 

必死にもがく

だけの状態に

なっている。

 

もがくのは

苦しくて、

エネルギーが

必要で、

周りが見えなく

なって、

 

ある意味、

一刻一刻の時間を

過ごすことだけで、

生きることだけで、

精一杯になってしまう。

 

あれ?

私はいったい

何をしにここまで

来たんだっけ?

 

という問い

すらも

忘れてしまう。

 

もがくだけ。

 

生きるだけ

の存在。

 

それが

「自分」

となる。

 

・・・・・・

 

海から出る

唯一の方法は、

 

海から出よう

 

しないことだ。

 

まずは、

ここは海なんだ、

認識すること。

 

深い海にいて

今の自分は

溺れていて、

 

ただただ日々、

必死にもがいている

のだという

自覚をすることだ。

 

そして、

ただただ

もがくだけの自分を

許すこと。

 

もがくのは

ダメだ!

とやってしまうと

ますます

深みにはまることになる。

 

時々、

 

「私は海から

出ることができました」

 

と言う人がいるが、

それはただ

海から出たという

幻想、妄想の

中にいるだけだ。

 

本当は

溺れているのに、

溺れていることを

認めず、

その事実にも

目を伏せ、

 

とてつもない

妄想力を

働かせている。

 

そして、

「こうすれば

海から出られますよ」

と、

他の人にも

妄想を勧める。

 

だから世の中には

妄想魔が

増えてしまった。

 

妄想は、

本人は気持ちいい

かもしれないが、

周りには

とても迷惑だ。

 

しかも

本人の気持ち良さも

ある時に

限界を迎える。

 

妄想から

覚めた時の

その人の絶望ぶりは

半端ではない。

 

・・・・・・

 

あなたは今、

溺れていますよ。

 

ということを

私はこれまで

いったいどれだけ多くの

人達に、

コーチとして

伝えて来ただろう。

 

ほとんどの人は

最初はそれを

認めたがらなかった。

 

何を言おう、

私自身も

昔はそうだったから、

その気持ちは

よくわかる。

 

私は

自分が溺れていることに

気づいた時は、

本当に

人生のすべてが

終わったと

感じた。

 

自分のすべてを

否定した。

 

やはり、

そうなってしまうことを

誰もが恐れるので、

溺れている事実を

認めるのは

難しいのだろう。

 

だからこそ

私は

淀みなく、

100%の純粋さを

持って

伝えることにしている。

 

あなたは今、

溺れているんですよ。

 

と。

 

こちらが

100%の純粋さを持って

伝えることで初めて、

その人には

ちょっとだけ

伝わる。

 

でもその「ちょっと」

こそが大切で、

あとはその人が

自ら

事実に気づいていく。

 

妄想している人に

とって

私はとても怖い存在の

ようで、

妄想を続けようとする

人は、

皆、私の前から

逃げていく。

 

こちらは

何もしていないのに、

ただただ

理由をつけて

逃げていく。

 

それは、

自分の人生から

逃げていくのと

同じことだ。

 

もっと

自分を大切に

してほしい、と

心から思う。

 

私は

何もしない。

 

ただ、

鏡として

一人一人と

向き合うだけ。

 

人は

鏡が怖いのかも

しれない。

 

でも、

今の世の中に

鏡は絶対的に

必要だ。

 

自分の人生から

逃げずに、

そして

鏡としての役割を

担おうと

本気で思う人との出会いを

私は望む。

 

そういったコーチを

私は

育成したいからだ。

 

つづく

 

ヘナチョコのおかげかな

 

コーチングの魅力を

一言で言うと

何ですか?

 

と問われたら、

私だったら、

 

「想定外」です。

 

と答えるだろう。

 

私自身が

コーチングと出会って

想定外の人生に

なったし、

 

私のクライアントさんの

ほとんどは、

私の想定外の

道を歩み始める。

 

これが実に、

実に、

嬉しいし、

幸せである。

 

人の育成というのは

とても難しく、

どうしても、

育成される人は

育成する人の

範疇に留まってしまう。

 

ところが

コーチングと出会って、

私はその

枠の外し方を

知ることができた。

 

私が

クライアントさんを

コーチングしていると、

 

「ちょ、ちょ、ちょっと

待った!」

 

と言いたくなる場面が

頻発する。

 

「それはちょっと

行き過ぎでない?」

 

とか、

 

「ちょっとそこまでやるのは

どうだろうか?」

 

とか、

 

そんな一言を

思わず口走ってしまう

ような

場面が頻発する。

 

実は以前の私は

それを実際に

口走ってしまっていた。

 

しかしそれにより

起こることは、

クライアントさんは

私の範疇に

留まってしまうという

事実だけだった。

 

今は、

どれだけ私の心の中で

「ちょっと待った!」

と言いたくなっても、

今は言わないように

している。

 

それにより、

私は

信じられないような

展開を

多く拝見できた。

 

その度に

本当に思うのだ。

 

人というのは、

やっぱすげーな、

と。

 

私は、

自分について言えば、

 

コーチング力は

確かにある、

 

と思うが、

 

人としては

ヘナチョコだ、

 

と思っている。

 

だって、

クライアントさんの方が

全然すごい。

 

私には到底

できないことを

どんどんやっちゃう。

 

その度に

私は自分の

ヘナチョコさに

溜息が出るのだが、

 

でも

ひょっとすると、

人間としてヘナチョコで

あるからこそ、

自分の範疇に留めない

コーチングができるのかな、

 

とも思う。

 

・・・・・・

 

私には

5歳の息子がいるが、

 

彼なんかは

生まれた時から

真本音の人生を

生きているから、

 

すげーなぁ、

 

と毎日思っている。

 

第一、

人生がとても

楽しそうだ。

 

彼を見ていると、

 

人生って

こんなにも楽しい

もんなんだ、

 

と感嘆する。

 

もちろん、

子どもには子どもの

悩みがあるはずだ。

 

しかし彼は

そんな悩みもすべて

味わっている。

 

「今日ねぇ、

○○君がパンチして

きたんだ。

すごい痛かった。

○○君の力って

すごいんだよ!」

 

と彼は

くったくなく笑う。

 

子ども園というところに

通っているのだが、

先生から聴くと、

外に散歩に行くときに

みんなが彼と

手をつなぎたくなり、

いつも取り合いになるらしい。

 

妻が朝、

彼を子ども園に連れて

行くのだが、

園内に入った途端に

何人もの子達が

彼に

突進してくるらしい。

 

「一緒に遊ぼう!」

と。

 

まぁ、

こういうことを書くことを

「親バカ」

と言うのだろうが、

 

彼が本気になって、

私の妻に、

「もっと子ども園に

いられる時間を

伸ばしてほしい」

と直談判している姿を

見ると、

 

どうやら彼は

私とはまったく別の

人生を歩んでいるのだ

と実感する。

 

私は

子どもの頃から

「できれば、

誰とも接したくない。

一人で生きていけるのなら、

一生、一人でいたい」

と思っていたので、

彼のあのオープンな

神経がわからない。

 

とても

羨ましいと

思う。

 

恐らくであるが、

私は

彼のことを100%

信じている。

 

そして、100%

尊敬している。

 

ひょっとすると

だからこそ、

彼は生き生きと

しているのかも

しれない。

 

そう思うと、

ヘナチョコの私で

よかったな、とも

思う。

 

・・・・・・

 

人には人の

個性がある。

 

私はずっと

自分のヘナチョコぶりが

我慢ならなかったので、

ある意味、

ずっとそこにフタを

して生きてきた。

 

しかし、

それをあるがままに

見つめ、

受け入れ、

むしろヘナチョコぶりを

楽しめるようになったのは、

 

自分自身の

真本音と出会って

からだ。

 

だから私は

今日も明日も明後日も、

真本音コーチングを

続ける。

 

すべての人が

自分の「あるがまま」を

受け入れ、

 

そして

「あるがままの自分」を

活かせるように。

 

そして私はやはり、

そんなサポートのできる

コーチを

たくさん育成したい。

 

つづく

 

現場でしか学べないことがある

 

企業様の継続サポート

をさせていただいていると、

ある時ある瞬間から

「風」

が吹き始めるのを

感じることがある。

 

昨日の企業様が

そうだった。

 

関わらせていただいて

そろそろ3ヶ月になろうとする

企業様だが、

研修の最中に

急に「強風」が吹き始めた

のを感じた。

 

それは、まずは

「突風」のように

来た。

 

あくまで

イメージではあるが、

急に吹いた風に

おっとっとと、

足元が揺らいでしまう

感覚だった。

 

少し

想定外だった。

 

嬉しい

想定外だ。

 

この「風」を感じる

ということは、

本質的な変化を始めた

人がいる

ということだ。

 

30名近い方々に

研修を受けて

いただいていたのだが、

私は皆さんお一人お一人に

注意を向けた。

 

すると数名の方に

大きな変化が

起き始めているのを感じた。

 

もちろんそれは

まだ、

表面化していない。

現象化・現実化

していない。

 

だから恐らく

ご本人も

自分の変化を

自覚していないだろう。

 

しかし

人の成長や組織の成長は

こういった

「本人にも気づかない変化」

から始まる。

 

こういったときに

私はいつも

思うのだ。

 

やっぱり

人にも組織にも

「コーチ」が

必要だな、と。

 

第3者の立場で

客観的に

「あるがまま」を

観察できる存在。

 

そういった立場から

でしか、

見つけられない「変化」が

あるのだ。

 

そしてその「変化の芽」

しっかりと育てていく

必要がある。

 

それができれば、

人の組織も

スムーズに成長して

いけるのであるが、

 

残念ながら多くの場合は、

「変化の芽」に

自らが気づかず、

そして

気づかないままに

その芽を自分で

踏んづけてしまう。

 

せっかく芽が出ても、

潰してしまう。

 

その連続を

し続けている。

 

踏んづけられても

それでも逞しく育つ芽も

中にはある。

 

しかし

そういった芽が

自然発生的に生まれるのは

奇跡に近い。

 

ほとんどは、

芽というのはとても

弱く、

小さく、

繊細だ。

 

そんな芽を

繊細に、大切に、誠実に

育てることが、

人や組織の変革の

第一歩だ。

 

しかしそれができるのは

残念ながら、

第3者的存在があって

初めて可能となる、

という事実が

現時点の世の中の

状態(レベル)である。

 

・・・・・・

 

最近の私は

自分一人では

企業のサポート現場には

出ないように

している。

できるだけ。

 

なぜなら私の

今の最大のテーマは

「後継者育成」

だから。

 

私と同じように

人や組織をサポートできる

「コーチ」を

目指している人を

一緒に「現場」に

連れていく。

 

もちろん、

クライアント企業様の

了承をいただいている

場合だけであるが。

 

そして未熟であってもその人に

現場で

コーチングやファシリテーションを

してもらう。

 

もちろん、

私がフォローしながら

であるが。

 

現場でしか

学べないことがある。

 

現場でしか

伸びない力がある。

 

何でもそうであるが、

特に、私の仕事は

その要素が高い。

 

私も、

現場で揉まれて来た。

 

現場にこそ、

あらゆる「答え」が

転がっている。

 

だから私はこれから

もっともっと

コーチの「現場育成」を

増やしていこうと

思っている。

 

・・・・・・

 

私の現場で発見し、

現場で培った

人と組織の活性化サポート

ノウハウを、

まずは講座形式でお伝えし、

講座の中で練習し合い、

 

その上で、

共に現場に出て行き、

現場の中で

本物の力をつけ、

 

そして、

ゆくゆくは

自立して私と同じような

お仕事ができるように

なっていく、

 

という、

現場実践型の講座を

これから

始めようと思う。

 

人数は少なくても

よいから、

 

たとえ

一人でもよいから、

 

本気で

私のようなお仕事を

自分ができるように

なりたい、

という人がいたら

始めようと思っている。

 

まだ

準備に取り掛かった

ところであるが、

早く

始めたいと

思っている。

 

つづく

 

本当に生まれるのはこれからだ

 

私達の

人生の目的は

「一点」

である。

 

たったの

一点

である。

 

あえて極端に言えば、

自分自身の一点を

果たすためだけに

私達は

この世に来た。

 

しかし最初から

一点が

見えるわけでは

ない。

 

一点を

まずは見つけることが

人生の

第一のゴール。

 

そしてその

第一のゴールにたどり着く

と同時に、

一点への道が

スタートする。

 

私はその瞬間を

「生まれる」

と呼んでいる。

 

これまた極端に言えば、

一点を見つけるまでは

私達は本当には

まだ生まれていない

のだ、

くらいに思っている。

 

実際に、

「私は私の人生を

生きている」

と実感できるのは、

一点への道を

歩み始めた人だけだ。

 

・・・・・・

 

とは言え、

一点が見つからない

ことを

恥じることはない。

 

それよりも、

一点を見つけることを

諦めたり

放棄することが

私は恥だと

思っている。

 

恥と言っても

誰かに対して

恥ずかしいと思う

ことではなく、

 

自分自身に対して

恥ずかしい

と思うのだ。

 

だって、

私達は

志を持って

ここに来たのだ。

 

自分だけの

一点を見つけ、

一点を果たそうと、

自分自身と約束を

したのだ。

 

その約束を

と言う。

 

一点に向かうことを

放棄することは、

その約束(志)を

自ら反故にする

ということだ。

 

だから、

恥ずかしいのだ。

 

・・・・・・

 

一点を見つけるまでは

様々な試行錯誤が

ある。

 

逆に言えば、

試行錯誤を抜きにして

それは見つからない。

 

上手くどこにも

ぶつからずに

進もう、

としているうちは

一点を放棄しているのと

同じだ。

 

ガツガツと

ぶつかればいい。

 

後悔すれば

いい。

 

反省すれば

いい。

 

その一つ一つを

丁寧に進むこと、

 

一つ一つと

向かい合い続ける

こと。

 

それによって必ず

一点は

見つかる。

 

・・・・・・

 

一点が見つかった人には

もう

迷いはない。

 

いや、

最初の一歩は

迷うかもしれない。

 

本当にその道を

行くのか?

自分で自分を試す瞬間が

ある。

 

そこを毅然と

乗り越えることで

迷いはすべて

払拭される。

 

あとは

進むだけなのだが、

そこからこそ、

様々な課題が

降りかかる。

 

しかし

一歩進めば、

一歩進んだ手応えが

あり、

課題に取り組めば、

その一歩一歩に

とてつもない充実感を

覚える。

 

今、

この段階に

入りつつある人が

増えている。

 

そして、

その直前にいる人も

増えている。

 

いずれにしても

人生の

重要な分岐点

である。

 

・・・・・・

 

私達は

心の中心に

一点を大切に

抱いている。

 

しかしそれは

セルフコーチングだけでは

見つからない。

 

きちんと現実に

向かい、

現実の荒波の中で

揉まれることでしか

見つからないように

できている。

 

というよりも、

そのように自分自身と

約束をしている。

 

私達は

自分を試す。

 

自分自身を試すのは

自分だけだ。

 

もう私は

一点を知り、

一点に向かう道に

入れる私になれただろうか?

 

それを

何度も試しながら、

ある時ある瞬間に

 

「よし、OKだ!」

 

と自分に

GOを出す。

 

すべての人が

そうなれるといい。

 

本当の自分の人生に

入れるといい。

 

「生まれる」ということを

皆が

実現できるといい。

 

つづく

 

現実と向き合っているかどうかの判断基準とは

 

なんでみんな

こんな苦しいままで

平気なんだろう?

と、よく思う。

 

心が麻痺しちゃってる

のかな。

 

私は

人と向き合うと

その人の苦しみを

そのまま感じ取ってしまう。

 

その人が

感じているのと

まったく同じように

感じてしまうのだ、

ということに

10年以上前に気づいた。

 

もちろん、

その苦しみの詳細は

わからない。

 

実際にその人に

何が起きているのかも

わからない。

 

でも、

苦しみの感覚は

ありありとわかるし、

それが、

悲しみなのか

怒りなのか

絶望なのか、

 

そして、

それをその人自らが

創り出しているのか、

それとも

誰かから受け取って

しまっているのか、

 

などはわかる。

 

時々は、

その人の

心の叫び声が

聴こえたりもする。

 

「助けてくれ〜!!」

 

と叫んでいる人は

いっぱいいる。

 

にも関わらず、

その人は表面上は

へっちゃらな顔を

している。

 

最初は

それは装っているのかな、

とも思っていたが、

どうも違うようだ。

 

多くの場合は、

自分で自分のその苦しみに

気づいていない

ようだ。

 

「気づかないまま

行けばいいじゃないか」

 

という意見も

あるだろうが、

やはり

そうはいかない。

 

苦しみが

ある限界を超えると、

それは

「病気」に

なってしまうから。

 

それは、

体の病気として

現れることもあるし、

心の病気として

現れることもある。

 

苦しみを

苦しみと

感じることの

健康さ。

 

それを私は常に

訴えている。

 

・・・・・・

 

現実と

きちんと

向き合っているか?

 

という

問い。

 

これを受けて、

向き合っていると

迷いなく答えられる人は

稀ではないか。

 

人は本当は

現実と

向き合えば向き合うほど、

楽になる。

 

しかし

現実には

苦しみの象徴が

たくさんある。

 

だから

目を背けたくなる。

 

目を背ければ

その時点で

現実逃避だ。

 

現実逃避は

多大なストレスを

生む。

 

この状態のまま

人が人を

サポートすることは

極めて難しい。

 

サポートする側の

人間は、

少なくとも

現実とはきちんと

向き合い続けており、

自ら発生させるストレスは

最小限であるのが

望ましい。

 

それができている人を

私は

「コーチ」

と呼ぶ。

 

・・・・・・

 

現実と

きちんと向き合っているか

どうか?

 

その最も簡単な

判断基準は、

 

「自分の家族と

きちんと向き合って

いるかどうか?」

 

・・・だ。

 

家族というのは、

やはり

大事だ。

 

その人の人生の

基盤になる。

 

家族との関わりは

人生との関わり

に反映される。

 

自分の家族と

向き合えていない人が

コーチをやると、

最悪のコーチングになると

言っていい。

 

表面上は

どれだけ素晴らしい

コーチングになったとしても、

根底が

あまりに脆弱に

なるのだ。

 

家族と向き合えていない

コーチは

その時点でもう

本物ではない。

 

・・・・・・

 

どれだけ

セルフコーチングをして

内面を整えたとしても、

 

自分の目の前にある

現実を整えずして

人生は

進まない。

 

その「現実」の

最も基本となるのが

「家族」

だ。

 

例えば、

両親。

 

例えば、

兄弟姉妹。

 

例えば、

妻、

もしくは、夫。

 

例えば、

子ども。

 

関係が

上手くっているかどうか、

ではない。

 

もちろん

上手くいっていることに

越したことはないが。

 

関係が

上手くいっていても

いっていなくても、

 

ちゃんと

向き合い続けているか

どうか、

だ。

 

つづく

 

コーチじゃないけどコーチだ

 

自分と向き合う、

ということと、

現実と向き合う、

ということは

完全に一致する。

 

私は

セルフコーチングを

提唱しているが、

 

セルフコーチングと

言うと、

心の内面ばかりに

意識を向ける印象が

どうも一般的には

あるらしい。

 

しかしそれでは

意味がないし、

逆に

内面に意識を向ける

だけでは

セルフコーチングなど

やらない方が

ましだ。

 

セルフコーチングは

自分をオープンに

するために行なう。

現実に対して

オープンになるために。

 

というよりも、

本当は

セルフコーチングを

正しくすればするほど、

人は自然に

現実に向かいたく

なるものだ。

 

9月から

『ザ・セルフ』という

セルフコーチング法を

学んでいただく

新しい講座を始めたが、

ご参加されている皆さんは

どんどん「現実」を

変えている。

 

拝見していて

実にすがすがしい。

 

セルフコーチング法さえ

きちんと教えていけば、

コーチという存在など

要らなくなるのではないか、

という

錯覚さえ抱いてしまう。

 

もちろん、

錯覚である。

 

・・・・・・

 

私には

お気に入りの美容師さん

がいて、

もうかれこれ10年近くは

彼に髪の毛を

カットしていただいている。

 

若い人だ。

 

初めて出会った時は

彼は確か27歳と

言っていた。

 

道端で、

彼の勤める美容室の

リーフレットが

配られていた。

 

それを手にとって

写真を見たら、

彼が小さく写っていた。

 

あっ、この人に

会いたいな。

 

と思い、

さっそくその美容室に

行った。

 

思った通り、

真本音度合いの高い人で、

若いくせに(失礼)

とても真摯な人だった。

 

彼の美容師としての

成長意欲は

とても高く、

私は彼と共に、

私も成長していこうと

決めた。

 

それ以来、

私の髪の毛は

彼の直観にお任せ

である。

 

彼の素敵なところは、

その能力もあるが、

それにプラス、

私の言うところの

「コーチ」としての

力にもある。

 

彼は、

私が話しかけて

ほしくない時は、

決して一言も

話しかけてこない。

 

私がちょっと

会話をしたいなと

思うと、

その瞬間に

気軽に話しかけてくる。

 

しかし

余分なことは

一切、言わない。

 

気軽だけど

シンプル。

 

実に

居心地が良い。

 

私はいつも

カットだけでなく、

彼に頭のマッサージを

依頼しているが、

彼にマッサージしてもらうと

「愛」を感じる。

 

そして、

目を瞑りながら

いつも私は

セルフコーチングをする。

 

すると、

仕事上のひらめきが

次々と

自然に起こってくる。

 

一人でいる時よりも、

彼と共にいる時の方が、

間違いなく

生産性が上がるのだ。

 

私は

こういう人のことを

「コーチ」

と呼んでいる。

 

私は、20年以上、

セルフコーチングを

探究してきたが、

それでも

彼のような「コーチ」が

そばにいると、

より発想が広がるのだ。

 

もちろん、

彼には

私は仕事の話は

ほとんどしない。

ほぼ、

雑談ばかりだ。

 

でもそれで

充分。

 

彼と話すだけで、

発想は広がり、

そして深まる。

 

そういった意味で

「コーチ」は

必須の存在だ。

 

・・・・・・

 

しかし今日、

私は彼に髪を

カットしてもらいながら、

彼に言った。

 

「コーチ」なんて

必要ない世の中に

なればいいと

思ってるよ。

 

・・・と。

 

その言葉に

彼はちょっと

驚いていたようだが、

私は本当に

そのように思っている。

 

「コーチ」の

必要のない世の中に

この世が進化したら、

どれだけ素敵な

ことだろうか、と

思うのだ。

 

それはつまり、

すべての人が

「コーチ」となれる

世の中のことだ。

 

「コーチ」なんて

名乗る必要のない

世の中。

 

人が人の想いや

可能性を

より広げ、高め、

深め合える、

そんなコミュニケーションを

取れる世の中に

なるといいな、と

本当に思う。

 

そのためにも

私は、

「コーチ」として

今日も明日も

がんばるし、

 

そのためにも

本物の「コーチ」を

育成したい。

 

つづく

 

前向き、前向き、って言うけどさぁ・・・

 

誤解を恐れずに

言うならば、

 

私は

「自己肯定」

という言葉がどうも

しっくりこない。

 

もちろん、

その意味は知っているし、

重要さもわかっている。

 

なくてはならないもの

だということも。

 

しかしどうしても

「肯定」

という言葉に

ひっかかる。

 

「肯定」という

言葉の裏には必ず、

「否定」が

セットだからだ。

 

自分を否定し続けていた

人が、

 

それではいけない。

自分をもっと

肯定しなければ。

 

と、決意して、

自己イメージを変え、

人生を新たに

歩み始める姿は

何度も目にしてきた。

 

しかし私は

「自己肯定」を

唱える人達には

どうしても

不安定さを感じてしまう。

 

「否定」を

「肯定」に

変えただけだからだ。

 

それは

「解釈」の変化

「視点」の変化

に過ぎない。

 

次元が

同じなのだ。

 

同様に、

「物事を肯定的に

捉えよう」

という人にも私は

不安定さを感じてしまう。

 

「物事を

肯定的に捉える」

のと

「物事を

否定的に捉える」

のは、

同じ次元だからだ。

 

同じ次元に

いるうちは、

「どっちが正しいか?」

という

闘いに過ぎない。

 

だから、

自己肯定に

努力している人が、

それでも

大きな失敗をしてしまうと、

途端に

自己否定に戻ってしまう。

 

「私には

素晴らしいところが

あるんだ」

と、努力して

思っていても、

それを覆す出来事が

あれば、

「やっぱり私は

ダメだった」

となるのだ。

 

「素晴らしいか」

「ダメか」

のせめぎ合い。

 

そこにいるうちは、

本質は

何も変わらないのだ。

 

安定度合いは

何も

変わらないのだ。

 

・・・・・・

 

「私は前向きに

生きることを

信条としています」

 

という人がいれば、

 

「後ろ向きな気持ちが

あるのが

人間の当たり前の

姿ですよ」

 

と私は伝える。

 

すると、

多くの人達が

とてもホッとした

お顔になる。

 

どんな心があっても

いいじゃないか。

それが

人間なんだから。

 

というメッセージを

これまでは私は

何千人、何万人の

人達に

伝え続けて来ただろうか。

 

「前向きか」

「後ろ向きか」

という世界から

解放されて初めて

人は、

自分自身の本当の

人生の道を

歩み始める。

 

どんな自分も

愛せるように

なるからだ。

 

「愛」とは、

「前向きさ」では

ない。

 

「人を愛する」

とは

「前向きに生きる」

ことではないのだ。

 

「前向き」も

「後ろ向き」も

どっちでもいいじゃん、

というところに

愛はある。

 

そこかしこに

すべてに

愛はあり、

それを知るものが

本当に

人を愛せるのだ。

 

・・・・・・

 

そんな話をした時に

ピンと来ない人が

いる。

 

そんな人は

コーチをやっては

ならない。

 

それよりも

もっと自分自身の人生に

真剣になった方が

よい。

 

自分と向き合うことに

真剣になった方が

よい。

 

これも誤解を恐れずに

言ってしまえば、

残念ながら今の日本には

「にわかコーチ」

が多い。

 

自分の人生と

自分自身と、

しっかりと向き合うことも

せずに、

人をサポートする

からだ。

 

それをもって

「私は人を愛する人生を

進んでいる」

と言う人もいるが、

それは残念ながら

「自己愛」

だ。

 

本当の愛

ではない。

 

そして残念ながら、

そういった人ほど、

「前向きに生きる」

ことが大切だ、と

口を酸っぱくして

言い続ける傾向にある。

 

ひどいことを

言うようだが、

なぜこうもはっきり

言えるかと言えば、

かつての私自身が

そうだったからだ。

 

おかげさまで

だから私はよく

叩かれた。

 

どこで叩かれたかと

言うと、

企業様で、だ。

 

自己愛の頃から

私は

企業のコーチを

していた。

 

企業のコーチを

する、というのは

自己満足のレベルでは

済まされない。

 

だから

自己満足、自己愛レベルの

コーチは

叩かれることに

なるだろう。

 

どれだけ叩かれても

どれだけ失敗しても、

それでもくじけずに

進み続ける。

 

私は、

人を、組織を、

サポートし続けるのだ、と

進み続ける。

 

その中でこそ、

自己愛から

本当の愛への

自己変革が

成される。

 

その成長度合いと

加速度合いが

人や組織に、良い影響を

与える。

 

「完璧な私になってから

私はコーチを始めます」

 

とか

 

「もっと成長してから

私は本格的にコーチ活動を

始めます」

 

という人もいるが、

それも自己満足であり

自己愛だ。

 

叩かれて、叩かれて、

それでも真剣に

自分と人に向き合い続ける。

 

その現場でしか

得られないものが

ある。

 

というか、

それしかない。

 

それが人生だ。

 

そんなこともわからず、

そんなところから

逃げてしまう人は、

コーチをやっては

ならない。

 

私はやはり、

本物のコーチを

育成したい。

 

真剣な

コーチを。

 

つづく

 

本物のコーチの育成に入ります

 

「自分らしくあろう」

という意志は

残念ながら、

強く持ち続けないと

消えてしまうことが

多い。

 

私達にはそれぞれ

役割があり、

その役割を真面目に

果たそうとする人ほど、

役割に

埋没する傾向がある。

 

例えば、

わかりやすいところでは、

「リーダー」

という役割。

 

この役割を担った途端に、

「リーダーであろう」

とする。

 

そしてその

「リーダーであろう」

という意志は

「自分らしくあろう」

という意志を

消してしまうことが

多い。

 

「あの人、

リーダーになってから

魅力なくなったよね」

 

という声を

これまでどれだけ多く

聴いたことか。

 

そして、

 

「私、リーダーになってから

仕事が全然

面白くなくなりました」

 

という声も。

 

役割意識が

自分らしさを

凌駕する。

 

どこにも

あることだ。

 

・・・・・・

 

「リーダーらしい自分」

になることよりも、

 

「自分らしいリーダー」

を目指すことの方が

 

圧倒的に

パワーが出るのが

私達だ。

 

その人本来の

魅力を、

リーダーという役割の中で

いかに発揮させるか?

 

ということであるが、

これをするためには

どうしても、

 

「セルフコーチング力」

 

もしくは

 

「コーチの存在」

 

が必須だ。

 

人は

自分のことが

わからない。

ましてや、

「自分らしさ」を

正確に自覚している人は

私は

これまでに一人も

見たことがない。

もちろん、

私自身も含めて。

 

「コーチ」とは

その人の

「鏡」

となる存在だ。

 

ただし、

ただの「鏡」では

ない。

 

その鏡は

ものを言う。

 

現実に映し出されている

もの、

つまりは

顕在化しているもの

だけでなく、

 

まだ、眠っているもの、

潜在しているものすら

映し出すのが

コーチという鏡だ。

 

コーチという鏡を

活用することで、

その人は

自分と向き合う術を

手に入れ、

結果的に

セルフコーチング力を

高めていく。

 

セルフコーチング力を

高めれば高めるほど、

自分理解が進むが、

 

その「自分理解」の

さらに上を行く

「鏡」であり続けることが

コーチには

必要とされる。

 

クライアントの

自分理解を100と

するならば、

常に、120以上を

映し出す鏡であることが

コーチの役割だ。

 

もちろんそのためには、

コーチ自身も

自分らしくあらねば

ならない。

 

誰よりも

自分らしく生きる人

こそが、

コーチという役割を

担うことができる。

 

「鏡」であるからには

自分を消さねばならない、

 

ということではない。

 

自分を極める人

こそが、

鏡になれるのだ。

 

そういうことで言えば、

コーチというのは

難易度の高い

役割であると

言わざるを得ない。

 

が、

自分らしく生きる

とはどういうことか?

の本質を

一度掴んでしまえば、

これほど面白い

職業もない、のだ。

 

私の義理の父は、

囲碁が大好きであるが、

先日、

「囲碁っていうのは、

初心者にとっては

難易度が高く、

非常に取り付きにくい

ものだが、

その代わり一度

その魅力を知ってしまうと、

もう、やめられなくなる」

と言っていた。

 

コーチも

それに近いものが

あるのかもしれない。

 

・・・・・・

 

私は

コーチを育成

する。

 

改めて、

そう決めた。

 

ただし、

本物のコーチしか

育成しない。

 

これまでは

ある意味、

「コーチ的なコミュニケーションを

取れるだけでも

いいですよ」

でやってきたように

思う。

 

しかしこれからは、

「本気でコーチになろう」

という人を

発掘し、

徹底的に育成する

ということを

やろうと思う。

 

本物のコーチ

というのは、

先ほど書いたように、

「鏡になれるかどうか?」

という要素が

必須であるが、

 

もう一つは、

「企業(組織)を

コーチングできるか?」

という要素も

必須であると、

私は考える。

 

つまり極端に言えば、

「企業をコーチングできない人は

コーチとは言えない」

と、私は最近、

考えるようになった。

 

この世は

経済で回っている。

 

その中心は

企業だ。

 

みんな、企業という

ステージで

必死に生きている。

 

そういった、

この世を回している

存在を

コーチングできない人は

コーチを

名乗ってはならない、

思うようになった。

 

それくらいに

シビアに

「コーチ」という存在に

これからは

こだわっていこうと

思う。

 

企業とは、

人間のルツボだ。

 

その企業に

果敢に

分け入っていける。

自分らしく。

 

そして、

そこにいるあらゆる

人達の

「自分らしさ」を

サポートできる。

 

しかも、

その企業の

組織としての課題解決や

求める成果まで

きちんとつなぐことができる。

 

そういった

本物の力を持った

コーチの育成に、

私は

全力を注ぎたい。

 

つづく

 

保護中: メンバーコンテンツ

このコンテンツはパスワードで保護されています。閲覧するには以下にパスワードを入力してください。