- ホーム /
- 真本音
真本音、真本音、と
もう16、7年言い続けて
いるので、
もちろん私は
真本音100%で
生きている。
ただ、100%になれたのは
わずか9年ほど前だ。
2010年3月のことだ。
ある企業様での
研修の真っ最中。
ちょうどミッションについて
講義をしている
最中だった。
皆さんの前で
喋りながら、
あっ、今、100%に
なれたな、
と明確にわかった。
そしてその瞬間に
よ〜く理解できた。
真本音100%になる
とは、
別人になることでも
特殊な自分になることでも
何でもない、と。
「普通の自分」
になることだ、と。
「本来の自分」
に戻るだけのことだ、と。
と同時に
わかったのは、
あぁそうか。
みんな、「本来の自分」では
ない状態で
生きているのだ、と。
余分なものを
いっぱいいっぱい
持ちながら
生きているのだ、と。
もっと
シンプルに生きれば
いいだけなのに。
余分な一言を言い、
余分な行動をし、
余分な寄り道をし、
余分な波紋を広げ、
余分な波に自ら
溺れてしまう。
今この瞬間の
ちょっとした
振る舞い。
ちょっとした
言動。
それらを
本来の自分として
シンプルにすれば
良いだけのこと。
ということが、
感覚で理解できた。
なんだ、
極めて普通のことじゃ
ないか、
と思えた。
そして、
誰もがそれは
できるはずだ、と
確信した。
だから私のサポート
とは、
皆さんが
「本来の自分」に戻る、
そのきっかけを
与えることなんだ、と
明確にわかった。
その時から私は
それ以上のことは
何もやっていない
気がする。
だって、
「本来の自分」に
戻れたら、
その人は
本来の人生を自然に
歩み始めるし、
その人の願いは
自然に
成就されていくから。
だから私は
その人の願い実現のサポート
をしている
わけではない。
あくまでも、
その人が
日々の一歩一歩を
本来の自分として
踏み出すための
サポートだ。
その人が
真本音100%になるための
サポートだ。
・・・・・・
真本音100%になってからは、
私の毎日は
極めて「普通」になった。
今日、やろうと思うことを
やる、
だけ。
今日、やらないと思うことは
やらない、
だけ。
一日一日を
淡々と過ごすだけなのだが、
なぜか
幸せ度合いは
毎日、とてつもなく
増していく。
それは
今でもそうだ。
状況も変わった。
意図したわけでは
ないのに、
次々と願いが叶うように
なった。
願いと言っても
大きな願いだけでなく、
日常のほんの些細な願いも
いつの間にか
一つ一つ着実に
叶っていく。
もちろん、
上手くいかないことは
ある。
失敗したな、
と思うこともある。
でもそれを
後悔することはない。
すべてが必要な
試行錯誤だと
よくわかる。
そこで得られるものが
必ずその後に
活かされる。
着実に
人生の願いに向かって
進んでいる実感が
毎日、ある。
先日、
私の仲間の一人から
「たけうちさんって
いつも飄々としてるでしょ」
と、
さもそれが当たり前の
ように言われたが、
私としてはまったく
自覚がなかった。
「飄々」なんて、
私の真逆の生き方だと
ずっと思っていた。
でもよく考えたら、
確かに
余分な力は入っていない
かもしれない。
昔はいつも
「肩に力が入り過ぎ」
と言われたもんだが。
・・・・・・
飄々としているのは、
私の本来の個性で
あって、
真本音100%になったから
と言って、
すべての人が
飄々とするわけではない。
その人には
その人の
本来の個性がある。
それが出るだけで、
周りの人達からは
「自然体」
と見られるのだろう。
私は
すべての人が
自然体で生きることが
できたらいいなぁ、と
本当に思う。
今の世の中じゃ無理だよ、
と思われるかも
しれない。
いやいやいや。
自然体とは、
環境には寄らないものだ。
どの環境でも
自然体でいられるのが
本来の自然体だ。
そして自然体とは、
「穏やか」
ということとも限らない。
怒ったっていい。
気が短くても
いい。
ただ、
自然体ではない状態で
怒ったり、気が短い人が
多いのが
今の世の中。
自然体であれば、
「すべて」と
調和する。
真本音100%とは、
自然体の生き方
だ。
つづく
本当は、
不安定なのは
良いことだ。
思いっきり
不安定になる
ということは、
思いっきり
不安定になれるだけの
土台がある
ということだ。
土台が強固に
なればなるほど、
存分に
不安定になれる。
それが
私達の心の
真実だ。
ところが、
私達の多くは
この不安定さが
すべてであると
思い込む。
そして
不安定であることを
恐れすぎ、
不安定の波に
完全に呑まれてしまう。
溺れてしまう。
海に海底が
あるように、
どれくらい不安定な
心にも
海底が(大地が)
ある。
その心の大地を
常に
感じ取れるように
なれば、
どのような不安定も
安心して
観ていられる。
不安定さを
そのままに
しておける。
その
心の大地のことを
私は
『真本音』
と
呼んでいる。
・・・・・・
「大地」には
意志がある。
願いがある。
大地の願いを
叶えるために
大地は様々な
「不安定」を
自らに与える。
それは
不安定の中に
自分を溺らせる
ことが目的ではない。
自らを
「進化」させることが
目的だ。
「大地」は
進化を望んでいる。
「大地」は
常に
自らを進化させようと
思っている。
「固定」から
進化は生まれない。
「混沌」から
進化は生まれる。
だから
混沌(不安定)は
決して悪いことではない。
むしろ
そのまま受け止めれば
いい。
どれだけ混沌が
起きようとも、
自らは
大地にしっかりと
立ち、
ただただ
混沌を見つめれば
いい。
そのうちに
混沌そのものを
楽しめるようになるだろう。
・・・・・・
荒れ狂う海を
鎮めようと
してはならない。
海はそのままに
自らは
海底(大地)に
立てばいい。
すると、
海が荒れ狂って
いるからこそ、
そんな状態だから
こそ、
いや、
そんな状態でしか
できないことが
あるのだ、
と理解できるだろう。
不安定の
今しか
できないことが
ある。
それを
するんだ。
それをするためには
大地に立つ
しかない。
つづく
たとえ今日で
人生が終わって
しまっても、
私には
後悔は一つも
ないだろうな。
いやいや、
やり残したことは
たくさんあるし、
これからやりたいこと
実現したいことも
たくさんあるし、
何よりも
家族もいるし、
仲間もいる。
いろんなことを
残して
去って行くのは
とても悲しいことだが、
でもやはり
「後悔」には
ならないだろうな。
え? いや、
ご安心を。
私はあとまだ少なくとも
27年は
生きるから。
でも、今日
ある社長さんの
コーチングをしながら
ふと
そう思えたんだ。
本当に私は
今、
「後悔」というものが
ない、と。
「ああしとけば良かった」
が、
一つもないのだ。
・・・・・・
もちろん
上手くいかないことは
たくさんあるし、
試行錯誤
ばかりだ。
でも、
ちゃんと
試行錯誤すべきを
試行錯誤して来た。
経験すべきを
経験して来た。
と思うんだ。
たとえ今から
タイムマシンで
過去に戻ったとしても、
今日までの記憶が
あるままに
過去に戻ったと
しても、
私はきっと
過去と同じ選択を
し続けるのだと
思う。
それが
「最善」
だから。
・・・・・・
な〜んて
本当に思えるように
なったのは、
この7〜8年
くらいかな。
でもこの7〜8年は
そういう日々が
続いている。
これが
真本音で生きる
ということだ。
もちろん
今も私は
未熟だ。
真本音で生きる
とは
「完成された人生を生きる」
ということではない。
「完成」などないし、
人間はずっと
未熟だし、
だからこそ
「進化」を
し続ける。
真本音で生きる
とは、
その「進化」を
存分に楽しむ生き方
だ。
最大に味わう生き方
だ。
だからこそ
「後悔」がない。
とはいえ、
「後悔のない人生を
生きよう」
などと
意気込む必要もない。
真本音で生きれば、
自然に
そうなるのだからね。
つづく
最近、多くの方々との
出会いがあり、
私のこのブログを
読み始めていただいている
人も増えているようだ。
大変、ありがたいこと。
こんなマニアックで
大衆受けの対極のような
内容のものを
読んでいただけるとは。
このブログでは私は
『真本音』
という言葉を
当たり前のように
使っているので、
この「真本音」について
改めて解説するような
記事を
今後は増やしていこうかと
思っている。
・・・・・・
「真」
という文字を辞書で
引くと、
・まこと、本当、本物、真実
・真理
・真剣なこと
・嘘偽りのない、真実の
・正確な、ぴったりでズレのない
・混ざりけのない
・美しい
・ありのまま
・自然のまま
などの言葉が並ぶ。
まぁ要するに
そういうことだ。
私の会社の社名は
そのまんま
『株式会社真本音』
なので、
初対面の人の多くは、
「真本音って何ですか?」
と訊いてくださる。
そんな時、私は
一言でお答えするように
している。
「本当の本当の本当の
本音です」
と。
すごく短絡的な表現だが、
このくらいが
面白い会話になるからだ。
「ということは、
本当ではない本音
というのもあるのですか?」
と、それこそ真剣に
訊いてくださる人も多い。
「はい。その通りです。
ご本人は
本当の本音だ、
と思っていても
実はそうではない本音
というのが
いっぱいあるんですね」
と、
大概の場合は
お答えすることにしている。
「でも、本当の本当の本当の
本音に基づいて
行動する人は、
とてつもないエネルギーが
出るんですよね」
というお話をすると、
この時点で
ご興味をいただける人と
そうでない人が
明確に分かれる。
ご興味をいただける
人とは、
ここからかなり
深い話に入っていける。
・・・・・・
人の育成や
成長に関して、
本当に真剣に
取り組んでこられた人は、
この「真本音」という
言葉に、
すぐに「ピン」と来てくれる。
ほとんど私が
何の解説もしないのに、
「真本音」という言葉を
知るだけで、
「なぁなるほど」
とおっしゃってくださる。
と同時に
その時点もう
目がキラキラされる。
そういう人は
本当に「現場」を大事に
され、
人といつも向き合いながら
試行錯誤を
続けている人だ。
そしてそういう人は
かなり具体的なご体験や
ご質問を
私に投げてくださる。
例えば、
「人が本当に真剣に
仕事に取り組むには
どうすればよいのでしょうか?」
という質問ではなく、
「弊社にこんな傾向の社員が
います。
そして、こんな時にこんなことが
あったのですが、
それをどうすれば良いか、
すごく悩んでいます。
これまではこういった手を
打ったのですが、
なかなか効果がなく、
・・・・」
というような
かなり具体的なご質問
となる。
こういったお話の方が
私はとても嬉しい。
具体的なお話や
リアリティのあるお話には
具体的でリアリティのある
お答えができるからだ。
もちろん私の答えが
すべて
ではないし、
私が正しい答えを
言えている保証などない。
でも、
人の育成や成長について
真剣に
意見交換ができる。
その真剣さが
お互いに確認できると、
これが
新たなご縁となって
発展する。
・・・・・・
「真本音」
というのは
私の造語だが、
しかしこれはどう見ても、
私が考えた言葉
のようには思えない。
この言葉のおかげで
私は随分と
素敵な出会いを
広げられた。
この言葉がなければ、
23年間も
この仕事を続けることは
できなかっただろう。
だから私は
この言葉にとても
感謝している。
この「真本音」について、
いろんな角度から
語っていく記事を
今後は増やしていこうかと
思っている。
つづく