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昔、
山に登っていた頃、
山の上で台風に遭うと、
それはそれはもう
ひどいことになった。
しかし、
台風は
あらゆるものを
吹き飛ばし、
さらって行く。
だから
台風が去った後は、
霞も塵もすべてが
なくなってしまったような
超純粋な濃い
青空となった。
台風は本当に
大変なのだが、
それくらいの
大きなものが来ないと
ここまでの純粋性は
実現できないのではないか、
と
よく思った。
人の心も
よく似ている。
心の中にも
台風が起こる。
それは私の表現で
言えば、
「脱皮」とか
「羽化」とか
そういった逸脱した
成長の手前で起こる。
本人にとっては
たまったもんじゃない。
立っているだけで
やっとの状態。
あらゆる余裕も
ゆとりもなくなり、
自分を失う。
人によっては
人生そのものを
捨てたくなることも
ある。
それくらいの
状況を経て初めて
たどり着ける場所が
ある。
・・・・・・
心の中に
台風が起きた時は、
できれば
その台風に
身を任せてしまって
ほしい。
間違っても
台風を無くそう
としてはならない。
もしくは、
台風がそこにあるのに
「ないのだ」と
必死に自分に
言い聞かせたり。
そういった「抵抗」は
してはならない。
それをしても
良いことは
一つもない。
せっかくの
「脱皮」や「羽化」が
成されなくなる。
台風の意味が
なくなってしまう。
心の中に台風が
起こるということは、
それだけのことが
起きても大丈夫な
自分になれた
ということ。
だからそんな自分を
信じて、
どれだけ不安定に
なっても
どれだけ自分を
失っても
どれだけ絶望に
落ちても、
ただただ
身を任せてほしい。
・・・・・・
この7月から8月に
かけて、
「脱皮」や「羽化」を
行なっている人が
多い。
ところが
それらの人達は今、
二つに分かれている。
「台風」に身を任せ、
すでに「脱皮」「羽化」を
完了させた人と、
「台風」に抵抗し続ける
ことで
未完了のままの人。
未完了の人はきっと
あまりに
苦しいだろう、今。
だからと言って
「台風」から逃げたり
抵抗してはならない。
あきらめて
ほしいのだ。
すべてを
あきらめれば
いい。
すべてを。
つづく
何を
あきらめて、
何を
あきらめずに
進むか?
「あきらめ」
がいけない
わけではない。
むしろ、
人生、あきらめ
が肝心だ。
あきらめるべき
ことに
執着をしすぎることで、
本当に大切な何かを
あきらめてしまう
ことがある。
私が
「脱皮」
と呼んでいる、
人間にとっての
大きなステップアップの
瞬間は、
何かを手放すことで
多くは
成される。
「手放す」とは
別の表現を
使えば、
「あきらめる」
ということだ。
あきらめるべきを
あきらめた時、
初めて
「絶対に
あきらめては
ならないこと」
が
わかる。
それについては、
何があっても
どんな状況に
陥ろうとも、
手放しては
ならない。
あきらめては
ならないのだ。
・・・・・・
私が
『真本音の願い』
と呼んでいるものは、
その内の
一つだ。
真本音の願いは
何があっても
あきらめては
ならない。
この現実世界は
結構厳しくて、
八方塞がりに
なることが多い。
特に、
経営においては
そうだ。
にっちもさっちも
行かなくなると、
そこで多くの人は、
「ここは
願いよりも
現実だ」
となってしまう。
そして
願いをあきらめ
現実への対応へと
走る。
もちろん
現実への対応は
必須だ。
自分が
折れなければ
ならないことも
あるだろう。
しかし、
「願い」だけは
手放しては
ならない。
ここで「願い」を
あきらめるからこそ、
その後の展開が
常に
現実に翻弄され続ける
ものとなる。
現実が、
理想通りに
進むことは
ほぼ、ない。
現実が、
思惑通りに
進むことも
ほぼ、ない。
しかし
忘れないで
ほしい。
そのような展開を
呼び込んでいるのは、
紛れもなく
私達自身の
真本音だ。
真本音は、
「必要な瞬間に
必要な試行錯誤を
経験する」
ことを
常に望んでいる。
試行錯誤をしない
ことが
「スムーズに進む」
ということでは
ない。
きちんとした
試行錯誤を
繰り返すことで、
結果として
「スムーズに進む」
のだ。
しっかりと
試行錯誤を
体験・経験・実感
すること。
胸に
「願い」を
抱きながら。
この繰り返しが、
真本音度合いを
圧倒的に
高めていく。
・・・・・・
「過去」という
原因によって
「今」という
結果が
現れる。
ならば、
「今」ここで
現実に翻弄された
一歩を進めば、
「未来」もずっと
翻弄され続ける
道となる。
どのような
現実が
起ころうとも、
それは
「過去の結果」と
あきらめて、
真本音の願いを
大切に抱きながらも、
「今」出せる
最大の一歩を
踏み出そう。
真本音の願いの
ない状態での
一歩を
「妥協」
と言う。
真本音の願いを
抱いた状態での
一歩を
「最善」
と言う。
たとえ同じ一歩でも
中身は
本質は
まったく異なる
一歩だ。
物事は
理想通りには
行かない。
でも
私達は
最善を尽くす
ことは
できるはずだ。
そしてその
「最善」
とは、
真本音の願いを
中心にした
生き方からこそ
生まれるものだ。
つづく
世界と自分は今、
どれだけ
「一つ」だろうか?
・・・このような問いを
考えたことはありますか?
もし今この問いを
自分に投げたとしたら、
どのような答えが
自分の中から返って来ますか?
私達の意識は
次元が低くなればなるほど、
すべてと分離していきます。
そして
次元が高くなればなるほど
すべてと「一つ」になります。
すべてと
「一つ」になっている自分と、
すべてと
分離している自分が、
共存しているのが
私達人間の心の中です。
様々な階層の次元が
共存しているのが
私達人間という生き物です。
今、
どの次元の自分を
前面に出して生きているか、
によって
人生の展開は
大きく変わります。
最近、
本当によく聴く声が、
「これまでの人生で
最大の試練に
ぶち当たっています」
という悲痛な叫びです。
外的な要因も
さることながら、
内面の自分がすべて
壊れてしまいそうなくらいに
揺れ動かされています。
我を失う、
という状態。
心の中の
大地震。
あらゆるものが
無に帰すような
恐怖。
まったく道の見えない
絶望感。
その中で
もがいている人。
もがくことすらできずに
茫然と佇む人。
そのような人が
増えています。
そのような時に
絶対にしてほしくないことが
一つあります。
それは、
「この試練には
どのような意味があるのだろう?」
と考えることです。
試練の意味を考える。
・・・それは一見すると
前向きな行為ですが、
私はそれを
現実逃避の第一歩であると
いつも実感します。
意味を考え
答えを見出す。
もしそれで簡単に答えが
見つかるのであれば、
その試練は
試練とは言えません。
あくまでも自分の範疇で
試練のふりをし、
悩んでいるふりを
しているだけのこと。
悩みながらも、
自分が進まない理由づけを
して人生をサボっている
だけのことです。
本当の試練の中にいる時、
その試練の意味は
決してわかりません。
もし無理に答えを
見出せば、
それは「間違った答え」です。
間違った答えに基づいて
試練を乗り越えようとすれば、
その試練の本当の意味から
結果的に逃げることに
なってしまいます。
本当の意味は
後からわかります。
その試練を乗り越え、
その試練が去り、
さらにその後の新たな道を
進む途上で初めて、
ある時ある瞬間に
必然的に「気づき」がきます。
その瞬間が来るまで
その試練の意味は
考えないでください。
ただ単に、
試練に身を委ねて
ください。
試練に身を委ねるとは
何もしない、
ということではありません。
試練と
対峙するのです。
向き合うのです。
武器は持ちません。
裸になるイメージで
あるがままの自分を
試練の前にさらします。
肩の力を抜き、
正面から試練を
見つめます。
観察をします。
その結果、
心は大揺れに揺れ、
我を失うかもしれません。
しかし
それでも良いのです。
それでも
身をさらします。
あえて言えば、
すべてを
あきらめる
のです。
開き直る
のです。
開き直りとは
すべてを手放した状態
です。
その状態に入れた時、
人は言いようのない強さを
発揮しますが、
それは意図をして
できることではありません。
私達にできるのは、
何があっても
あるがままの自分として
その試練に
身をさらそうと
し続けることです。
試練を乗り越えるか、
試練が去るまで、
それを続けます。
試練が永遠に続くことは
ありません。
試練から解放された時、
自分自身に
問うてみてください。
世界と自分は今、
どれだけ
「一つ」だろうか?
・・・と。
もし、
試練の前よりも格段に
「一つ」になれたかな、と
思えれば、
その後、必然的に
その試練の意味は
わかるでしょう。
なぜならそれは、
自分自身が次元を一つ
上がれた証拠だからです。
一つの次元が上がる
ということは、
景色が変わるということです。
新たな次元に立たなければ
見えない景色があります。
その景色を前にした時に
初めて、
その試練の意味は
明確にわかるでしょう。
人生というのは
その繰り返しですね。
つづく