私達にできることは、最善を尽くすことだ

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何を

あきらめて、

何を

あきらめずに

進むか?

 

「あきらめ」

がいけない

わけではない。

 

むしろ、

人生、あきらめ

が肝心だ。

 

あきらめるべき

ことに

執着をしすぎることで、

本当に大切な何かを

あきらめてしまう

ことがある。

 

私が

「脱皮」

と呼んでいる、

人間にとっての

大きなステップアップの

瞬間は、

何かを手放すことで

多くは

成される。

 

「手放す」とは

別の表現を

使えば、

「あきらめる」

ということだ。

 

あきらめるべきを

あきらめた時、

初めて

「絶対に

あきらめては

ならないこと」

わかる。

 

それについては、

何があっても

どんな状況に

陥ろうとも、

手放しては

ならない。

 

あきらめては

ならないのだ。

 

・・・・・・

 

私が

『真本音の願い』

と呼んでいるものは、

その内の

一つだ。

 

真本音の願いは

何があっても

あきらめては

ならない。

 

この現実世界は

結構厳しくて、

八方塞がりに

なることが多い。

 

特に、

経営においては

そうだ。

 

にっちもさっちも

行かなくなると、

そこで多くの人は、

「ここは

願いよりも

現実だ」

となってしまう。

 

そして

願いをあきらめ

現実への対応へと

走る。

 

もちろん

現実への対応は

必須だ。

 

自分が

折れなければ

ならないことも

あるだろう。

 

しかし、

「願い」だけは

手放しては

ならない。

 

ここで「願い」を

あきらめるからこそ、

その後の展開が

常に

現実に翻弄され続ける

ものとなる。

 

現実が、

理想通りに

進むことは

ほぼ、ない。

 

現実が、

思惑通りに

進むことも

ほぼ、ない。

 

しかし

忘れないで

ほしい。

 

そのような展開を

呼び込んでいるのは、

紛れもなく

私達自身の

真本音だ。

 

真本音は、

「必要な瞬間に

必要な試行錯誤を

経験する」

ことを

常に望んでいる。

 

試行錯誤をしない

ことが

「スムーズに進む」

ということでは

ない。

 

きちんとした

試行錯誤を

繰り返すことで、

結果として

「スムーズに進む」

のだ。

 

しっかりと

試行錯誤を

体験・経験・実感

すること。

 

胸に

「願い」を

抱きながら。

 

この繰り返しが、

真本音度合いを

圧倒的に

高めていく。

 

・・・・・・

 

「過去」という

原因によって

「今」という

結果が

現れる。

 

ならば、

「今」ここで

現実に翻弄された

一歩を進めば、

「未来」もずっと

翻弄され続ける

道となる。

 

どのような

現実が

起ころうとも、

それは

「過去の結果」と

あきらめて、

 

真本音の願いを

大切に抱きながらも、

「今」出せる

最大の一歩を

踏み出そう。

 

真本音の願いの

ない状態での

一歩を

「妥協」

と言う。

 

真本音の願いを

抱いた状態での

一歩を

「最善」

と言う。

 

たとえ同じ一歩でも

中身は

本質は

まったく異なる

一歩だ。

 

物事は

理想通りには

行かない。

 

でも

私達は

最善を尽くす

ことは

できるはずだ。

 

そしてその

「最善」

とは、

真本音の願いを

中心にした

生き方からこそ

生まれるものだ。

 

つづく

 

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