こだわり

区別が極めて大事

 

もし自分の中に

強い塊

を感じたら、

 

私はそれが

光り輝いているか?

それとも

ただの固形物のような

塊か?

すぐさま観察する。

 

心の中にある

塊は

多くの場合は、

「価値観」

であったり

「信念」

であったり

「こだわり」

であったりする。

 

どんな価値観か?

とか

どんな信念か?

というように

中身そのものを

見つめるより

先に、

 

それが

光り輝いているか

どうか?

私は観察する。

 

もし

ただの固形物で

光のないものだと

したら、

 

それは

要らぬもの。

 

むしろ

それがあることで

私はそれに

縛られてしまい、

 

自分の視野を

狭めたり、

 

本来の自分らしさを

弱めたり、

 

本来進みたい一歩を

進めなかったり、

 

・・・そんな影響の

あるものだ。

 

しかしそれは

私自身が創り出した

価値観や信念で

あるので、

 

そうそう

なくすことは

できない。

 

なくそうとしても

逆に

反発をくらい、

ますます強固になる

可能性がある。

 

だから

そういった

光り輝かない価値観

や信念は、

 

そのまま

 

にしておく。

 

ただ、

いつもしっかり

そいつを観察する。

 

どんな時に

そういった価値観や

信念が

発動するか?

を。

 

いつもただ

観察だけするように

する。

 

すると

それだけでもう、

そいつに

影響されなくなる。

 

そいつからは

自由になる。

 

さて、

逆に、

 

光り輝く価値観や

信念が見つかったら、

それは

自分の真本音だ。

 

私はすぐさま

その輝きと

一体化する。

 

その輝きそのもの

の自分となる。

 

そしてさらに

その輝きを

深く理解しようとするし、

 

その輝きを

言語化し、

 

その言語化した

ものを

いつも思い出し、

 

かつ、

探究し続ける。

 

同じ信念・価値観

でも、

 

真本音かどうか?

 

見極める目が

必要だ。

 

真本音でない

信念・価値観は

自分を縛り、

 

真本音の

信念・価値観は

自分を

開放してくれるんだ。

 

つづく

 

こだわり

 

どこに

こだわるか?

 

というのは

本当に大事だな、

と思う。

 

私なんかは

職人気質なので、

これはとても

気をつけている。

・・・つもり。

 

こだわり

には

二つある。

 

真本音のこだわり

反応本音のこだわり

だ。

 

単純に言えば、

 

前者は

進化を生み出し、

 

後者は

皆が迷惑する。

 

物事には

変えてはならない

という

中心核がある。

 

それだけは

何があっても

不変のままで

行く。

しかし、それ以外は

ズブズブに (笑)

流されればいい。

 

周りの意見や

最近の動向や

流行や、

諸々のことを

取り入れればいい。

 

・・・というのが

真本音のこだわり

なので、

 

そのレベルのこだわり

を持っている人は

一見すると、

何のこだわりもない人

のように見られる場合

すらある。

 

時々私も

誤解を招いてしまう

のだが、

 

「真本音なんて言葉、

どうでもいいんですよ」

 

などと

平気で言ってしまう。

 

みんなが結果的に

真本音度合いが

高まっていけば良いので、

 

そこだけは本当に

大事にしたいので、

 

そのためにもし

「真本音」という言葉

そのものが

その足を引っ張るようなら、

 

私はその言葉は

使わない。

 

だから意外だと

思われるかもしれないが、

 

普段「真本音」という

言葉をまったく使わずに

サポートさせていただいている

クライアントさんは、

実は

半数近くいる。

 

そして

サポート内容は、

100社あれば

100通りのご要望と

やり方があると

思っている。

 

これは一見

柔軟に見えるかも

しれないが、

しかしやはり

私なりの強烈なこだわりが

あり、

 

それだけは

外さないようにしている。

 

なんか話が

私のことになって

しまったが、

 

言いたいのは、

 

自己満足のこだわりは

やめようね、

ということ。

 

「ここだけは曲げられない」

というのが、

ただの反応本音レベルの

こだわりに

なっていないかい?

 

という視点を

持つことは、

とても大事だ。

 

一緒に働いている

人達や、

お客様など、

 

周りの人達の

自分への対し方に

ちゃんと注意を

払おう。

 

意見を

言いにくそうに

していないかい?

 

腫れ物に触るように

コミュニケーションを

とってこないかい?

 

いつも遠慮するような

雰囲気を

感じないかい?

 

もしそうであれば、

誰も喜ばないこだわりに

 

執着

 

しているかもよ。

 

つづく

 

大事な問いだ

 

問いを

投げよう。

 

いくつもの答えを

出してほしい。

 

そしてその中で

最も自身の心と

魂に響く答えを

 

一つ、

決めてほしい。

 

『あなたが

あなたの真の

人生の目的を知る

ために、

一つ、

捨てるべきこだわりは

何か?』

 

必ず答えを出して、

実行に移すといい。

 

つづく

 

こだわりはこだわりとして

 

ここだけは

譲れない。

 

という

こだわりを

誰もが持っている

けど、

 

新しい時代を

迎えることだし、

 

一度、

そのこだわりを

横に置いて

みないか?

 

いったん、

「何でもOK」

という

自分になって

みないか?

 

こだわりは

こだわりなので、

自分にとっては

とても大切なもので、

 

それがなくなれば、

まるで

自分が自分では

なくなるみたいで、

ある種の

不安もよぎるかも

しれないが、

 

でもあえて、

 

一時的で

よいから、

 

自分にとって

最も重要なその

こだわりを

 

横に置いて

みないか?

 

そして

そうすることで

観えてくるもの、

感じるもの、

 

思いもかけない

新たな発想を、

 

一度しっかりと

受け止めて

みよう。

 

さらには、

 

これまでの

そのこだわりを

持ち続けていた

自分自身を

 

ちょっと

客観的に

見つめてみよう。

 

その自分は

どうだい?

 

小さく

観えるかい?

 

大きく

観えるかい?

 

そのこだわりは

これからもずっと

大事に

持ち続けると

いいかな?

 

それとも、

今回やってみた

ように、

 

こだわる時と

あえて横に置く時と、

 

その時その時に

合わせて

臨機応変に

使い分けた方が

いいかな?

 

まぁ

いずれにしても、

 

「これがなきゃ

生きていけない」

 

というものの

ほとんどは

「執着」

だから。

 

このこだわりが

なければ

自分は自分で

いられない、

というのも

ちょっと窮屈だね。

 

こだわりは

こだわりとして

大事にすれば

いいけど、

 

大事にすること

それに固執すること

別のことだからね。

 

新たな時代。

 

自分は

どんな自分として

生きていくか?

 

これまでよりも

ちょっと大きく、

ちょっと自由な

自分として

 

スタートを

してみないか。

 

つづく

 

そのこだわりは執着です

私達人間は

真本音のこだわりを持つことで

進化します。

 

しかしその「こだわり」は

なぜ持つかと言うと、

「手放す」ためです。

(→前回記事)

 

真本音のこだわりは、

必ず

手放す時が来ます。

 

なぜならそれは

自分自身だからです。

 

私で言えば、

私が初めて見出せた

真本音のこだわりは

「向き合う」

でした。

 

私はそれを自分の人生理念として

大切にし続けました。

それこそ、

24時間、その言葉を

思い出し続けました。

 

特に人とコミュニケーションを

とるときは、

「向き合う」という言葉を

自分の体の中心に

貼り付けているようなイメージを

いつもしていました。

 

すると、本当に

人と向き合うことができた

からです。

 

それ以前の私は、

人と向き合うことが

至難の業でした。

 

向き合っているフリは

できましたが。

 

人生理念「向き合う」ということを

いつも意識し続けることで、

私は私にとっての至難の業だと

思っていたことを

乗り越えることができました。

 

で、ある時に

その「向き合う」という言葉が

どうでもよくなりました。

 

むしろ、

「向き合う」という言葉に

違和感を覚えるように

なりました。

 

「向き合おう」とすると

逆に力が入ってしまうような、

自然体が崩れるような

感覚となりました。

 

それはそうです。

だって、

本当は、

「向き合う」とは

私自身だったから

です。

 

たけうちなおと

という人間は、

「向き合う」が

現象化したものだった

のです。

 

向き合う=私。

私=向き合う。

 

ということです。

 

つまり、

真本音のこだわりとは

本来の自分自身を

ある一面から

表現しているに

過ぎません。

 

「向き合う」と「私」は

同じであり、

「一つ」です。

 

でも、以前の私は

もともと「一つ」であったものが、

分離してしまって

いました。

 

私は向き合うことが

できない人間だ。

 

・・・と私は思い込んで

いました。

本当はそうではないのに。

 

そこで、その分離をなくし、

本来の姿に戻るために、

私はあえて

「向き合う」という言葉を

言語化、明確化し

それを意識するように

したのです。

 

意識し続けることで、

その分離はだんだんと

修正され、

ある時ある瞬間に

「一つ」に戻ることが

できたのです。

 

その瞬間から私は、

「向き合う」ということを

わざわざ言語化すること自体に

不自然さと違和感を

覚えるようになったのです。

 

当然のことです。

 

実はこれは私だけでなく、

誰にでもよくあることです。

 

私達の多くは、

本来の自分を忘れています。

 

そして、

本来の自分を

自分から分離しながら

生きています。

 

それは非常に

不自然な状態です。

 

不自然が故に、

ストレスが生じます。

エンティティが

発生し続けます。

 

その不自然さを

修正するために必要なのが

言葉。

 

言語化することで

修正し、

修正できればもう

その言語は

必要ありません。

 

手放せば

良いのです。

 

ところが、

もうすでに

修正が完了し、

もうすでに

「一つ」に戻れているにも

関わらず、

「まだ自分はそれができていない」

と思い込み、

ずっと自分の「こだわり」に

こだわり続ける人がいます。

 

それは、

本質的なこだわりではなく、

ただの「執着」であり

「依存」です。

 

「執着」の段階に

入ってしまっているにも関わらず、

それにこだわり続ければ、

逆に、

ストレスやエンティティが

発生します。

 

だからこそ

大事なのです、

「手放す」ことが。

 

そこで、

自分自身にぜひ

問うてみてください。

 

私にとっての

最大のこだわりとは

何だろうか?

 

もうそのこだわりは、

私は

手放してもよいのではないか?

 

・・・と。

 

理屈でも何でもなく、

直観として

「そうだな。手放そうかな」

と思えたら、

その通りにすることを

お勧めします。

 

もうあなたは

それ、そのものに

戻れているのですから。

 

つづく

 

それ、手放せます?

あなたの中にある

最大の「こだわり」とは

何ですか?

 

それは、

人生に対するものでも、

仕事に対するものでも、

人間関係に対するものでも、

その他のことでも

何でもよいです。

 

「こだわり」と聴いて、

最初に思いつくことは

何ですか?

 

恐らくその「こだわり」は

人生経験を踏む中で

できあがったものだと

思います。

 

とても

大切なものでしょう。

 

でももし、

その「こだわり」を

あなた自身が手放したとしたら、

あなたは

どうなりますか?

 

あなたの人生は

どうなりますか?

 

人生展開は

どうなりますか?

 

以上の質問を受けると、

多くの場合、

その「こだわり」をなくすことで、

人生展開は

暗転するイメージを

持たれるではないでしょうか。

 

それはそうです。

 

人生を好転させるために

私達は「こだわり」を

持っているのですから。

 

私で言えば、

私の最大のこだわりは

「向き合う」

ということかもしれません。

 

これは、

私が初めて明確化した

最初の真本音キーワード

であり、

私の最初の人生理念でも

あります。

 

「向き合う」ことで

物事は好転し、

自分の真本音度合いも高まり、

良い意味での真剣さと

良い意味での「楽」を

手に入れることができる

と、私は考えています。

 

私にとっては

なくてはならないもの。

 

私から

「向き合う」ということを

取ってしまったら、

もう私ではなくなるのではないか、

と思えるほどのものです。

 

ところが・・・。

 

今回、書かせていただく内容は

 

その最大の「こだわり」を

手放しましょう。

 

・・・ということなのです。

 

つまり私で言えば、

私のこだわりである

「向き合う」

という自らのポリシーを

手放してしまおう、

ということです。

 

これを、

すぐにできる人のことを

 

『天真爛漫』

 

と言います。

 

真本音度合いが高まったり、

意識の次元が高まることで、

人は自然に

天真爛漫になっていきます。

 

ですので、

真本音度合いが高まったり、

意識の次元が高まることで、

人は自分の最大の「こだわり」を

すぐに手放すことが

できるようになります。

 

正直に言いまして、

私はですね、

最大のこだわりは

「向き合う」ということですが、

じゃあ、

「その、向き合う、というこだわりを

手放してしまってください」

と言われたら、

 

あっそっか、

それも面白そうだね、

 

・・・などと思えてしまいます。

 

いつからそうなったのかは

定かではありませんが、

少なくとも

以前の私はこうでは

ありませんでした。

 

「手放してください」

と言ったその人に対して、

以前の私であれば

食ってかかっていたでしょう。

 

「何言ってるんですか。

あなたは私が最も大事にしていることを

蔑ろにするのですか!」

とか、

「大事にしたいことを

大事にし続けることこそが

大事なことではありませんか!」

とか、

「自分の中心軸を取り除いたら

もうそれは、自分では

なくなるではありませんか!」

とか。

 

でもこれらのセリフって、

本当はちょっと

不自然だと思いませんか?

 

皆さんは

いかがですか?

 

皆さんの中の

最大のこだわりを

手放してください、と言われたら、

拒絶感が

出ますか?

 

それとも逆に

好奇心が

出ますか?

 

もし拒絶感が

出るとしたら、

残念ながらその人は、

 

「自分のこだわりに依存している」

 

ということになるのです。

 

私の場合で言えば、

「向き合う」ということに

自分は依存していた

ということになるのです。

 

実はそれは

人間本来の生き方では

ありません。

 

自然な生き方では

ありません。

 

かと言って、

こだわりを持つのを

やめましょう、

と言いたいわけでも

ありません。

 

こだわりは

大事です。

 

こだわりがあるからこそ

私達は

進化できます。

 

でも、

「こだわり」とは

何のために持つもでしょうか?

 

それは、

 

そのこだわりを

手放すために持つ

 

ものなのです。

 

このテーマについては、

明日以降も続けます。

(多分。 ・・・笑)

 

つづく

 

そのこだわりは、「あなた」ではない

自分の今いる場所が、

無限に広がる世界であると感じても、

それは決して無限ではありません。

 

その世界そのものが、

一つの「枠」です。

 

そこには限界と境界があります。

 

私達が、今いる世界の中で進化を続ければ、

必ずその「枠」の存在を感じるようになります。

これまで無限だと思っていた世界なのに、

窮屈さを感じるようになるのです。

 

それは、「枠」を壊す前兆です。

 

刻一刻と私達は進化を続け、

自らは大きく大きくなっていきます。

 

そして自分自身が「枠」いっぱいに

広がります。

 

広がるけれど、すぐには「枠」は

壊れません。

ですからどんどん窮屈さが増していきます。

 

窮屈さが苦しみを生みます。

 

その苦しみを、素直に

認識することこそが大切です。

 

私達は、その苦しみに打ち勝つかのように、

内側から「枠」を壊します。

 

私達が本気で「壊そう」と決めた場合にのみ、

「枠」は壊れます。

 

見事に「枠」が壊れれば、

私達は急に「開放感」と「自由」を得ます。

そこには、

無限の世界が広がっているのです。

 

その無限の世界で、

私達はさらにさらに進化を続け、大きくなります。

 

これまで自分が入っていた「枠」は

信じられないほど小さかったことが

わかります。

 

自分が大きくなるにつれ、

その「枠」はどんどん小さくなり、

しまいには、砂粒くらいになり、やがて

見えなくなります。

 

それくらいの勢いで私達は

大きくなっていきます。

 

無限の世界の中で、

大きくなって行くのです。

 

・・・が。

 

その「無限」だと思っていた世界においても

またもや「枠」の存在を感じるようになります。

 

だんだん窮屈さが生まれ、

その新たな「枠」の中でギュウギュウ詰めと

なります。

 

そしてまたその「枠」を

私達は、内側から壊します。

 

・・・その連続です。

 

これが、私達人間の「自然」な人生です。

進化の人生です。

 

いったいそれはいつまで続くのか?

 

そんな疑問が湧きますが、

それは、それこそ無限に続きます。

 

じゃあいつになったら私達は

達成感を感じるのか?

幸福感を感じるのか?

 

その答えは、

「今この瞬間に」

です。

 

進化とは、過程(プロセス)では

ありません。

進化とは、

それ自体が目的です。

 

本当の進化を続けるならば、

毎日毎日が達成感と完了感と

幸福感に満たされます。

 

それが、

真本音で生きる、ということです。

 

一つの「枠」を壊すことを

『脱皮』と呼んでいます。

 

それは、一つ、次元を高めることでも

あります。

 

脱皮をし、次元を高めると、

私達が、これまでの「枠」の中でこだわっていたことが

本当に些細なことに感じられます。

 

AかBか?

とずっと悩んできたことが、

 

「どっちでもいいじゃん」

となります。

 

逆に言えば、

もし今、AかBか? で悩んでいたとしたら、

「どっちでもいいじゃん」

と呟いてみると、案外、面白いです。

 

これまでとは少し違う、

一つ次元の高いところからの発想が

生まれるかもしれません。

(→前回記事)

 

ところで、

ちょっと話は変わりますが、

皆さんは、「自分らしさ」って

何だと思いますか?

 

実は、ほとんどの人が

反応本音レベルの思考と行動のパターン

を「自分らしさ」であると勘違いされています。

 

それはあくまでも

「よく現れるパターン」であって、

真の「自分らしさ」ではありません。

 

自分の「こだわり」を自分らしさであると

思い込んでいる人も多いです。

 

しかし、真の「自分らしさ」とは

その「こだわり」をすべて手放した時にこそ

発現します。

 

「AではなくてBである」

・・・これが「こだわり」の一つの形です。

 

ですから、「こだわりを手放す」とは、

「AでもBでも、どっちでもいいじゃん」

となることを言います。

 

しかし、一つのこだわりを手放せば、

その奥から、次のこだわりが現れます。

例えば、

「CではなくDである」

というように。

 

これをさらに手放します。

つまり、

「CでもDでも、どっちでもいいじゃん」

と。

 

するとその奥から、

さらに次のこだわりが姿を現します。

 

そしてまたそれを手放します。

・・・・・

 

これを続けて、すべての「こだわり」を

手放したとします。

しかしそれでも最後に残るものがあります。

 

その最後の最後に残ったもの。

それこそが、真の「自分らしさ」の大本です。

 

つまり、

「どっちでもいいじゃん」を

突き詰めれば、

真の自分らしさに、行き着きます。

 

「どっちでもいいじゃん」とは、

強烈な一言なのです。

 

つづく