こなす

そろそろ本気で変えようよ

 

どうせ

生きるなら、

 

自分を輝かせる

生き方を

しよう。

 

・・・こう伝えると、

ほぼ、すべての人が

 

そうですね!

 

と言う。

 

が、

それを本気で

目指している人は

いったい

どれだけいるのかな?

 

自分を輝かせる

よりも、

日々、やらねばならない

ことを

こなすので

精一杯。

 

そんな人が

やはり多いね。

 

「こなす人生」

 

だ。

 

一生、

こなす人生が

いい人?

 

と問えば、

 

はーい!

手を挙げる人は

ほとんどいない

だろう。

 

本当は、

「こなす」

とは、

私達の真本音が

最も嫌がる生き方

だ。

 

だから

ストレスが

大量発生する。

 

「こなしながら、

ストレス大量発生

の人生」

 

なんて、

ホントに嫌だよね、

誰だって。

 

でも、

ほとんどの人が

それを

やってる。

 

嫌なのに、

嫌なことを

やってる。

 

これが今の

社会だな。

 

こんな社会を

変えたい、

思うのだが、

 

社会を変える

とは

人を変える

ことだ。

 

一人ひとりが

変わって初めて

社会が

本質的に変わる

のだと

私は思う。

 

だって

組織が

そうだから。

 

仕組みから

組織を変えようと

思っても、

ほぼ

上手くいかない。

 

その現実を

私は

それこそ嫌というほど

見てきた。

 

中身が

伴わない仕組みは

意味がない。

 

一人の人が

変わり、

一人の人が

輝き、

 

あー、あれいいな!

周りの人が

影響を受け、

 

その輝きが

波及し、

 

その結果として

仕組みが

変わっていく。

 

その道のりが、

組織が変わる

最も近道だと

いうことを

私は

数え切れないほど

見てきた。

 

組織を変えたい。

 

社会を変えたい。

 

だったら、

あなたが

変わることだ。

 

自分がまずは

変わることだ。

 

不幸せな方向に

変わっても

仕方ない。

 

幸せな方向に

変わることだ。

 

自分を

輝かせる方向に

変わることだ。

 

そのためには

もっと真剣に

考えようよ。

 

一日の内の

ほんの数分でも

いい。

 

まずは

自分はどうすれば、

もっと

輝けるか?

 

自分自身が

何を変えれば

自分は

もっと幸せになるか?

 

それを

真剣に考える

時間を取ろう。

 

あなたを変える

のは

あなたしか

いない。

 

誰も

あなたを

変えてはくれない。

 

セミナーに

出たって、

セミナーの先生が

あなたを変えてくれる

わけではないよ。

 

自分が

変わろうと

するしかないんだ。

 

こなす人生

から

輝く人生

へ。

 

今日から

自らの意志で

変えていこう。

 

つづく

 

子ども達は感じ取っている

 

私の息子は5歳で

子ども園に

通っている。

 

毎日はとても

無理であるが、

週に何回かは

できるだけ夕方に

お迎えに行くように

している。

 

息子との会話の時間

を取りたいという

目的があるが、

 

子ども園にいる

子ども達の「集団」を

感じてみたい

という

目的も大きい。

 

あの「集団」の中に

入ると、

今の幼い子達の

真本音からのメッセージ

をたくさん

知ることができる。

 

今、彼らは

世の中を

どのように捉えていて、

何を感じ、

自分がどう動こうと

思っているのか?

 

それを

真本音のレベル

(魂のレベル)

で知ることが

できる。

 

これは実は、

私のお仕事の

大きなヒントと

なっている。

 

なぜなら私は

彼らのような子ども達が

将来、

大活躍できる社会に

したいと思っている

からだし、

そのためにも、

そういった組織(会社)を

増やしたいと

願っているからだ。

 

子ども達の

感受性は

素晴らしい。

 

我々の世代よりも

真本音の度合いも

意識の次元も

明らかに

高い。

 

我々が創り出した

のとは

違った社会を

彼らは創り出して

くれるだろう。

 

その土台を

今のうちから

創っておく必要が

あると

私は思っている。

 

・・・・・・

 

これまで彼らから

いくつもの

真本音メッセージを

感じたが、

 

最近、最も

印象的なのは、

 

「大人達みんなが

こなし過ぎてる」

 

という

メッセージだ。

 

もちろんそんなことを

言葉で言われた

わけではない。

 

しかし彼らの

空気感を言葉にすると

こうなる。

 

「こなす」

というのは、

「魂を込めていない」

ということだ。

 

「妥協している」

ということだ。

 

日常の一つ一つの

行動、

それはほんの些細な

ことかもしれないが、

 

一つ一つの

大人達の振る舞いに、

子ども達は

悪い意味の「適当さ」を

感じてしまっている。

 

しかもそれが今は

日々、

増大している

ようなのだ。

 

そこに子ども達は

「気持ち悪さ」を感じ、

そのストレスが

私に伝わってきた。

 

子ども達は

親や、

周りの大人達に対して

「幸せであってほしい」

と常に

願っている。

 

自由奔放に見えて、

実は、

親や大人達の

幸せのために

「こうしよう」と

彼らなりに思いながら

行動していることは

とても多い。

 

子ども達は

親(大人達)の生み出す

ストレスに

敏感になっており、

 

多くの子ども達が

親(大人達)が

発生させたストレスを

肩代わりしている。

 

だから私は、

子ども達を通じて、

大人達のストレスを

子ども園では

よく受け取って

帰ってくる。

 

今、それらの多くは

「妥協のストレス」

だ。

 

自分の真本音を

無視し、

「まぁこれくらいでいいか」

と妥協しながら

生きる大人が

多いのだろう。

 

特にその妥協の度合いが

最近は増えている

ようだ。

 

子ども達の

感受性は高い。

 

大人達の生き方が

彼らにダイレクトに

影響を及ぼしている

という事実を

我々はもっと

知った方がいい。

 

「子ども達に

幸せになってほしい」

 

とか、

 

「次世代につながる

社会にしよう」

 

とか、

 

軽々しく我々は口に

するが、

 

そのためには

まずは、

普段の我々の

生き方こそを

もっとしっかり

するべきではないか。

 

もっと

一つ一つの物事に

魂を込める

べきではないか。

 

つづく

 

なぜあの人はそんなにゆとりがあるのか

どうすればもっと

ゆとりを持って生きることが

できるのでしょうか?

 

そんなご質問を

本当によくいただきます。

 

ゆとり、というと、

まず第一に思い浮かべるのは

時間です。

 

時間的なゆとりが

あるかどうか?

 

いつも仕事が溢れていて、

大忙しになればなるほど、

ゆとりはなくなります。

 

・・・と一般的には

考えられています。

 

しかし私はこれまで

本当に仕事量の凄い人で

あればあるほど、

ゆとりを持っている

という現実を

多く見てきました。

 

一番、ゆとりがないのは

中途半端に忙しい人

のような気がします。

 

中途半端に忙しい人は、

仕事をこなそうとします。

 

仕事をこなす

というのは、反応本音レベルの

行為です。

 

すると、ちょっと忙しくなると

すぐにゆとりがなくなります。

 

ゆとりがなくなれば、

視野が狭くなり、

いろんな仕事のミスが起き、

さらにゆとりがなくなります。

 

私は、ゆとりとは

時間があるかないか?

ではないと思っています。

 

ゆとりとは、

心の(もしくは魂の)エネルギーの

大小で決まると

思っています。

 

心の中にいつも

エネルギーが満ちている人は

どんな状況でも

ゆとりがあります。

 

実際に、

恐らく私は20年前の私の仕事に

比べれば、

今の仕事量は10倍くらい

多いかもしれません。

 

でも明らかに

20年前よりも今の方が

ゆとりがあります。

 

心が常に

エネルギーに満ちているから

です。

 

現実世界では

想定外のことがたくさん

起こります。

 

想定外がない、

という方が不自然でしょう。

 

例えば、想定外の

仕事が割り込んできた

とか。

 

「私の仕事は、想定外の仕事が

どんどん割り込んでくるので

ゆとりを持てないんです」

 

と言われる人が

本当に多いのですが、

それは、想定外がいけないのではなく

仕事をこなそうとしているから

ゆとりがなくなるのです。

 

しかも仕事をこなす人ほど

想定外が多くなります。

 

真本音で生きるということは

想定外が想定外では

なくなる、ということです。

 

高い次元の私達は

すべてをわかっているから

です。

 

3次元にいる私達の

顕在意識が

「うわっ、想定外だ!

まいった〜〜!」

とやっていても、

どこか根底では、

すべてを楽しんでいる自分が

います。

 

ここでこんな想定外を

私は私にもたらしたんだ、と

どこか客観的な目で

自分と現実を見つめています。

 

そこに、

その現実の意味を解釈として

考える必要はありません。

ただそれを

楽しめばよいのです。

 

高い次元の私達の意識は

それができます。

 

低い次元の自分は

オロオロとうろたえている。

でもその一方で

高い次元の自分は

そのオロオロも含めて

すべてを楽しんでいる。

 

そんな状態で生きていくのは

人間として生きることの

醍醐味の一つかも

しれません。

 

つづく