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- 反省
どれだけ分厚い
壁に見えても、
よ〜く観察すると
そこかしこに
ヒビがあり、
そのうちのどれかを
コツンと叩くと
一気に崩れる
ことすらある。
しかし私達は
その壁の大きさと
分厚さに
尻込みする。
最初から無理だ
と諦めかける。
諦めるのは、
よ〜く観察してから
でも遅くはないのでは、
とも思う。
尻込みはしても
良いが、
というか
私なんぞはしょっちゅう
尻込みばかりしているが、
それでも
しっかり
目は開こう。
よく観るんだ。
よく
向き合うんだ。
そうすれば
いつの間にか
次の一歩が
わかってくる。
まるで
手品のように
感じることさえある。
答えは
あるんだ。
・・・・・・
人間の本領は、
どうしようもなくなった
時にこそ
発揮されるもんだと
私は思っている。
調子の良い時は
調子が良いに
決まっている。
偉そうな一言も
言いたくなるし、
言葉に説得力も
出る。
でもいい気になって
いると
必ずすっ転ぶ。
すっ転んだその時に
その人の
本領が出る。
大事なのは
まずは反省することだ
と私は思う。
調子が良い時は
「俺は完璧だ」
と思い込んでしまう。
そして
失敗したり間違っている
自分を認められない。
そんな愚かだった
自分を
ちゃんと反省することだ。
反省できる人は
本当に素敵だ。
調子に乗って
立派に見えている人
よりも
1000倍素敵だ。
人間、
間違うのが
当たり前ではないか。
完璧ではない、
という事実(真実)にこそ
人間の本来の意味と
価値があるのに、
なんで完璧に
こだわるのか?
すっ転んだら
素直に反省する。
だから
次に進める。
さらに素敵な
自分になれる。
・・・・・・
弱っちい自分を
どれだけ大事に
しながら
共に進めるか、
だと思うよ。
そこで人生の
価値が
決まるのではないか。
あんまり自分を
高く見過ぎるな。
評価を
し過ぎるな。
等身大のまま
進めばいいでは
ないか。
等身大だからこそ、
どれだけ分厚い壁でも
よ〜く観察する
ことが
できるんだよ。
向き合うことが
できるんだよ。
つづく
生き様
というのは、
ほんのちょっとした
振る舞いに
現れる。
ちょっとした
空気感。
ちょっとした
一言。
ちょっとした
気遣い。
「あんなことを
言うつもりは
毛頭なかった。
たまたま要らぬ
一言が出てしまった」
という言い訳を
よく聴くのだが、
残念ながら
私は、
「たまたま」
というのはないな、
と
よく思うのだ。
やはり
その人の普段からの
生き様が
そこに現れる。
一見して「たまたま」と
思えるような
些細なことにこそ、
その本質が
現れたりする。
「以後、気をつけます」
という問題では
ないと
私は思うのだ。
もちろん
人間だから
間違いはあるよ。
完璧な人など
一人もいないし、
本当に
そんなつもりはなくても
人を傷つけてしまう
こともあるだろう。
何を言おう
この私こそ、
そんなこんなで
たくさんの人を傷つける
人生を送っていた。
私自身の
自覚のないところで。
だからこそ
本当にわかるのだ。
やっぱ
生き様だな、と。
間違ったことを
してしまった時に、
どれだけ反省
するか?
ではないか。
時には
同じ間違いを
繰り返してしまうのも
人間だが、
同じ間違いを
繰り返しても、
何度でも
何度でも
その度に
真剣に、
心と魂を込めて
反省する、
ということが
人して最も大事なこと
だと思うのだが。
その時は
落ち込めばいいし、
悲しめばいいし、
泣けばいい。
自分を責めたければ
自分を責めればいい。
でも
ちゃんと反省して、
その後悔を
誤魔化さないこと。
誤魔化して
次に行こうとするから、
それが
生き様になって
しまう。
「誤魔化す」
という理念で
生きている人が
ちょっと多いよなぁ・・・。
生き様は
変えられる。
本気で変えようと
思ったら、
今この瞬間から
変えられる。
人生は
やり直しがきく。
やり直しが
きかないところまで
誤魔化し続けたら
話は別だけど。
でも多くの場合は、
やり直しはきく。
だから
「今」に心と魂を
込めて、
ちゃんと後悔して
ちゃんと反省して
次に
つなげようぜ。
つづく
本当に深く
傷つかなきゃ、
本当の反省とは
言えない。
自分を責めている
余裕なんかあったら、
それはまだ
本当には反省していない
ということだ。
単なる自己満足。
反省のふり。
誤魔化し。
そう。
誤魔化したまま
先に進もうと
していないか?
自分で自分を
責めて、
それでよし、と
していないか?
反省とは
自分で自分を
責めることではない。
自分の否を
自己評価することでも
ない。
反省とは、
自分の否を
あるがままに
見つめることだ。
自分の否と
向き合うことだ。
そして
自分の否と
一つになること。
そうすれば
何をしなくとも
自然にその本当の
痛みがわかるはずだ。
もし
自分が傷つけてしまった
人がいるのならば、
その人の痛みが
そのままわかるだろう。
そしてそれを
見ている自分自身の痛みも
そのままわかるだろう。
それは
身を切られる痛み。
誤魔化しようのない
痛み。
全身が
引き裂かれそうな
痛み。
それを潔く
引き受けた時に
初めて、
私達は
「反省」しているのだ。
そしてそれができて
初めて、
そう、初めて、
本気で自分を
「変えよう」と
思える。
そしてその意志が、
次の一歩を自分自身に
もたらしてくれる。
だから。
中途半端な内省など、
せんほうがいい。
それをもって
「私は気づけた!」
などと
言ってくれるな。
私達には
「願い」がある。
本気で「願い」に
向かおうと思うからこそ、
「反省」ができる。
ふり、だけの反省を
するよりも、
本気で「願い」に
向かおうとする。
「願い」がわからなければ、
本気で「願い」を
見つけようとする。
そのための
一歩を今、
決める。
決めたら、
やる。
自分の準備が
できていようが、
いまいが
関係ない。
それくらいの意気と
意志で
進もうとする。
それが今の私達には
最も必要なことでは
ないのか。
つづく
自分を
鎮めよう。
もし
心の中が、
心の底が、
うるさくなったら、
騒がしくなったら、
物事の判断を
してはならない、
という
合図だ。
自分を
鎮めよう。
静謐な状態で
次の一歩を
決めよう。
もし
自分が鎮まらない
のであれば、
今のあなたの
生き方には
何か問題がある。
恐らく、
日々、
本当にすべきことを
していない。
自分が
鎮まらない最大の
原因は、
自分を責める
自分がいる
のだ。
すべきことを
せず、
してはならないこと
ばかりを
してしまう、
そんな自分を
心の奥底で
責め続けている
のだ。
だから
鎮まらない。
その場合は
一度、
「反省」
が必要だ。
自分の生き方を
ちゃんと
見つめ直し、
「やり直し」を
しようと、
覚悟することだ。
それをすれば、
自分を責める自分
は
「責め」をやめる。
そして
静謐が
訪れる。
その状態で
次の一歩を
決めよう。
あなたは
本当に
すべきことを
やっているか?
この問いに
静かに向き合える
自分で
いられるか?
人生に
「振り返り」と「反省」
は
必要だ。
一日の終わりに、
今日の自分を
しっかりと
見つめてみよう。
心が
鎮まったら、
一日を終えよう。
そして
鎮まった自分として
次の一日を
始めよう。
つづく
私はよく、
自分の人生を
振り返る。
過去を振り返る
よりも、
常に未来に意識を
向けた方がいい、
とも言われるが、
過去を振り返る
ことができない
うちは、
自分の本当の
未来を
築くことはできない。
なぜなら
過去の体験は
すべて
自分自身の心の中に
残っている。
それを観ない
ということは、
自分と向き合っていない
ということに
なるからだ。
自分と向き合えない人
に、
真本音の未来は
見つからない。
・・・・・・
とは言え、
何でもかんでも
まずは過去を振り返る
ところから、
・・・とやってしまう
サポートも
お勧めできない。
どうしても
見つめたくない
辛い過去は
誰だってある。
それを
見つめるだけの
準備が整う前に
強引に過去を見つめることで
心が壊れることもある。
人の心は
繊細だ。
やり過ぎると
すぐに壊れる。
しかし、
人の魂は
何があろうと
安定している。
心と魂は
別個のものだ。
魂に基づいて
今日という日を
生きることができる人は、
繊細な心のすべてを
見つめることが
できる。
魂の安定を
常に感じ取れるから。
しかし、
自分の魂を無視した
日々を送る人は、
自分自身の魂と
乖離し、
結果として
魂の安定を
感じられなくなる。
その状態で
自身の繊細な心と
向き合うのは
難しい。
安定しているから
こそ、
あらゆる過去を
振り返ることができる。
だからまず私は
クライアントさんに
その、安定状態に
なっていただくための
サポートをする。
つまり、
日々を
自分の魂に基づいた
行動が取れるように
サポートする。
魂の意思のことを
私は
「真本音」
と呼んでいる。
つまり、
真本音度合いを高める
サポートを
私はする。
・・・・・・
私自身も
自分の真本音度合いが
高まってからだ、
本当に
過去と向き合えるように
なったのは。
それまでも、
過去を振り返ることは
何度もしたが、
すべて
「ひん曲がった」見方
をしていた。
要するに、
自分に都合の良い
見方をしていた。
見たくないものは
見ずに
見ても差し支えのない
もののみを
見ていた。
しかも、
自分の分厚いフィルター(解釈)
をつけて。
それでは
過去の振り返りとは
言えない。
真本音度合いが
高まり、
安定度合いが高まる
ことで、
私は初めて
あるがままに過去を
振り返ることが
できるようになった。
まぁ、
過去を振り返る
と言っても、
意図的にやるという
よりも、
自然にフラッシュバックを
してしまうのだけど。
そして
大抵の場合、
そのフラッシュバックは
私を「反省」させる
ものだ。
過去の振り返りは
私にとっては
反省の時間だ。
しかし大事なのは、
「反省しようと思って
過去を振り返る」
のではなく、
「自然に過去を振り返り、
結果として
自然に反省する」
ということ。
この違いは
大きい。
前者の反省は、
自分を責めるだけで
終わる可能性が高い。
後者は、
本当に「反省」できる。
その結果として、
「今」や「未来」への
重要な指針となる。
こんなこと
胸を張って言える
ことではないが、
私の過去は
本当に恥ずかしいもの
ばかりだ。
道を歩いている時に
ふと
フラッシュバックする
ことがある。
その瞬間、
思わず私は
「ごめんなさい」
と小声で呟いていることが
多い。笑
過去において私は
随分と多くの方々に
迷惑をかけてしまった。
傲慢だった。
だからこそ、
今のこの瞬間に
今、目の前にいる
この人に、
本当に
真摯に向き合おうと
思うのだ。
つづく
後悔と反省
という言葉があります。
時々、
「後悔せずに反省しなさい」
と言われたりしますが、
後悔のない反省は
あり得ません。
悔恨の念。
これは、
とても大切です。
真剣に生きれば生きるほど、
自分が何か
間違っていたな、と
思ったら、後悔は
生まれます。
生まれなきゃ
不自然ですよね。
後悔や、悔恨の念には
私達は呑まれてしまいます。
それで良いのです。
思いっきり
とことんまで
呑まれることこそが
大事です。
ただそれを
まるでゲームのように
行ない続けている人も
います。
毎日後悔することで、
それを言い訳に
前に進まない状態を
つくっています。
それは、
後悔とは
言いません。
ただの
怠慢です。
本当の後悔や悔恨は
呑まれます。
落ちるところまで
落ちます。
そこに意味があります。
中途半端ではなく、
落ちるところまで
しっかりと落ちること。
それをすれば、
必ず、
「底」
にたどり着きます。
底にたどり着くことで
私達はもう
どうあがいてもこれ以上
落ちることができないことを
知ります。
頭での理解ではなく、
実感として
知ります。
それにより
私達は
「再浮上」
を始めます。
本当に後悔し、
本当に落ちるところまで落ち、
再浮上する。
この一連の流れを
私達は真本音で望むことが
あります。
その真本音の望み通りに、
しっかりと後悔をすれば、
再浮上の直前から
「反省」
が始まります。
「反省」とは
「解放」であり「開放」
です。
「反省」とは
本来は
すがすがしいもの
です。
なぜならそれは
次のステージに上がるための
気づきだからです。
私達はどうしても、
自分が落ちようとすると
まるで無限に落ちていくような
恐怖に苛まれます。
それにより、
バタバタとあがきます。
しっかりと
後悔すればよいのに、
中途半端に
後悔や悔恨の念から
逃れようとします。
そして、
中途半端な反省を
します。
中途半端な反省は
中途半端な浮上しか
もたらしません。
ゲームではなく、
本当の意味で後悔する
ということは、
真剣に生きている
証拠です。
真剣に生きていることを
一番よくわかっているのは
自分自身です。
そんな自分を
私達は見捨てることは
しません、決して。
ですから、
後悔に呑まれたら、
とことん後悔し尽くしましょう。
素直に
落ちていきましょう。
底に着いたら
底で大の字になって
休みましょう。
そして、
自然に浮上するのを
待ちましょう。
今、
人生の転換点を
迎えている人が
増えています。
大事な転換点。
後悔すべきをしっかり後悔し、
反省すべきをしっかり
反省しましょう。
つづく
私達の心の中には
自分の観たくない反応本音が
たくさんあります。
自分が知りたくない
反応本音のパターン(クセ)も
たくさんあるでしょう。
それを観て、
知ってしまったら、
自分のことを
嫌いになってしまうかも。
いや、
嫌いになるだけならまだましで、
自分のことを否定したり、
自分の過去の振る舞いを
後悔したり、
自分を責め続けることに
なるかもしれない。
過去の変えることのできない
後悔の事実達を
フラッシュバックしながら
生きていかねばならないかも。
・・・そんな恐れが
ほとんどの人にあるでしょう。
だから、
観たくないものには
フタをして、
前向きに生きていこう。
・・・これも多くの人が
無意識に行なっている
ことです。
しかし残念ながら、
こういった生き方は
自分の心をさらに
深刻にするだけです。
なぜなら、
フタをしているだけで、
本当は自分のことを
自分はよくわかって
いるからです。
自分を責めたくないから
フタをする。
しかし、
フタをしたその中で、
その人は自分をもう
責め続けているのです。
しかも、
自分を責めていることに
自分が気づいていない、
という状態ですから
「そこに気づけよ!」
と自分に苛立ちながら、
さらにその「責め」を
増幅させてしまうのです。
自分のことを
観ない。
その事実だけで、
人は自分を
責めるのです。
ですから、
一番楽な生き方とは、
一つ一つを
ちゃんと観察すること。
後悔するなら
後悔するでもいい。
一つ一つを
ちゃんと後悔しながら
進むこと。
一つ一つを
ちゃんと反省しながら
進むこと。
一見、その方が
深刻な人生になりそうですが、
それが本当にできている人は
だんだんと自分に対して
「おおらか」に
なっていきます。
自分ときちんと
向き合っていることを
自分が一番よく
わかっているからです。
そういう人は
自分のことを
自然に許せるように
なります。
確かにその行為は
酷かった。
するんじゃなかった。
でも、しょうがない。
私も人間だ。
間違いはある。
次はそうならないように
注意しよう。
・・・そんな感じに
なっていきます。
そしてそれをさらに
続ければ、
そんな間違う自分を
「可愛らしいな」
と思えるようになります。
もちろんそれは
自己満足とは違った
状態です。
自己満足の「可愛らしいな」は、
自分の観たくないものに
フタをした状態で
無理にそう思い込もうと
している状態です。
しかし、
自分と向き合い続けることで
自然に生まれる
「可愛らしいな」は
愛の一つのカタチです。
これができる人は
他人に対しても
同じ目線を向けることが
できるようになります。
人のことを
許せる自分になれます。
そこにあるものを
そのまま観る。
観るだけでよいのです。
それをどうこう
しようとしない。
それが
『存在承認』です。
存在承認を
し続けることで、
私達は初めて
ある一つのことに
気づくでしょう。
その気づきとは、
頭で理解する気づきではなく、
感覚として覚える
気づきです。
実感する気づき
です。
それをあえて
言葉にすれば、
次のようになります。・・・
すべての自分の心を
観続ける自分。
すべてを
存在承認し続ける
自分。
あれ?
この観続けている
この自分は
誰だ?
すべてを客観的に
観ているこの、
ここにいるこの
自分は
何者だ?
私は、
誰だ?
・・・ということです。
何度も書きますが、
理屈ではなく、
実感として
体感として
それを感じ取ります。
すべてを観つめている
その主体である
自分自身の存在を
ある瞬間に
ありありと自覚するのです。
そうです。
その主体こそが
『真本音』
です。
本当の
自分です。
つづく