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- 怖さ
もし、
「怖い」
と感じたら、
その怖さを
打ち消さない
方がいい。
怖さを
味わおう
としよう。
「怖い」という
感情の中に
ドップリと
浸かってしまおう。
「怖い」という
感情と
一体化しよう。
自分のすべてが
「怖い」
そのものに
なってしまおう。
要するに
その怖さを
100%感じる
こと。
それができた時
初めて、
その「怖さ」の
下に
大きな「土台」の
ような存在を
自覚するだろう。
実は、
「怖さ」とは
「土台」がなければ
決して感じることが
できないように
私達の心は
なっている。
「怖さ」の
奥には(下には)
必ず
「土台」が
ある。
その「土台」は
決して
揺るがない。
努力をして
揺るがないようにしている
のではなく、
最初から
そこにあり、
決してブレる
ことがない。
要するにそれこそが
「真本音」
であり、
「真本音の願い」
だ。
もしその存在を
自覚できれば、
その瞬間に
さらに次のことも
わかるだろう。
なるほど。
この「怖さ」が
あるからこそ、
最善の一歩を
進むことができるんだ。
と。
そう。
「怖さ」とは
味方だ。
最善の一歩、
地に足のついた
一歩を
踏み出すための
なくてはならない
財産だ。
しかしそれは
自らの真本音の
存在を
思い出してこそ
実感できるもの。
そして真本音を
思い出すためには、
怖さから
逃げようと
するのでなく、
怖さを
誤魔化そうと
するのもなく、
怖さを
あるがままに
感じ取ろうと
することだ。
人間はホントに
面白く
できている。
つづく
怖いことを
「怖い」と感じる
感性は
とても大事だ。
怖さとは
乗り越えるもの
ではない。
怖さとは
純粋に感じ取る
ものだ。
感じ取る
だけでいい。
しっかりと
感じ切ることだ。
ここを
中途半端にするから
足が前に
出なくなる。
感じ切ることで
「怖さがあるからこそ」
の進み方が
できるようになる。
それは多くの場合、
「地に足のついた」
進み方となる。
つまり怖さとは、
「味方」である。
・・・・・・
それは
私の5歳の息子を
見ていると
よくわかる。
私の息子は
かなりの怖がりだ。
すぐに
「怖い、怖い」
と言って
尻込みをする。
私も子どもの頃は
極度の怖がりだったが、
それ以上に見える。
しかしあえて私は
そのままに
放っておく。
「怖がらずにやれよ」
とは
あえて言わないことに
している。
ただ、
それをする意味だけ
伝える。
これに挑戦することで
こんな良いことが
あるのだよ、と。
それでも
「怖い」を連発する
のだが、
ある一定の時間が
経つと、
まるでそれまでの
記憶がなくなって
しまったかのように、
突然に
毅然とそれを
始めるのだ。
その変わり身に
私はいつも
茫然とするのだが、
あぁ彼は、
怖さをきちんと
感じ切ったな、
とわかるのだ。
反応本音を
しっかりと
感じ切ると、
真本音が
発動する。
今、自分が
何をすべきか?
に対して
真摯になれる。
毅然となれる。
それは
大人も子どもも
同じだ。
ただしこう書くと、
「邪魔な反応本音を
捨て去ることで
真本音が発動する」
という印象を
持たれてしまうかも
しれない。
いや、そうじゃない。
反応本音が
あるからこそ、
真本音の一歩は
より
毅然としたもの、
安定したものと
なるのだ。
反応本音は
真本音の
「味方」だ。
自らの
反応本音を
愛する人は、
自らの
真本音を
愛することができる。
つまりは、
自分自身を
本当の意味で
愛することができる。
それにより
私達は
自分を信じ、
最善の一歩を
踏み出し続けることが
できる。
・・・・・・
怖がる自分を
責めないで
ほしい。
責めても
何も生まれない。
怖がるからこそ
最善の一歩が
踏み出せるという
事実を
知ってほしい。
怖さは
次元を低める
ものではない。
怖さがあるからこそ、
私達は
次元の高い選択が
できる。
これからの時代は
「勇気」の
必要となる時代だ。
過去のやり方を
あらゆる意味で
手放さなければ
ならない。
過去の常識を
超えてゆかねば
ならない。
そんな時代に
存在している我々が
大事にすべきが、
「怖さ」
である。
あえて
「怖い」方に
向かおう。
「怖さ」を
感じ切りながら。
つづく
水は
上から下へと
流れます。
決して、
下から上へとは
流れません。
それが
自然の摂理です。
私達の人生も
上から下へと
流れる川のようである、
と
イメージしてみて
ください。
私達のたどり着く先
には
広大な「海」が
あります。
私達は
「海」を目指して
流れ続けています。
ところが、
川の流れの途中には
大きな「滝」が
あったりします。
時には、
滝壺が見えないくらいの
巨大で深い
滝があります。
大量の水が、
もの凄い勢いで
その滝壺に
飲み込まれていきます。
滝の上から
滝壺を見降ろしながら、
あなたは
恐れおののいて
います。
しかし、
ここを「落ちなければ」
先には
進めません。
さぁ、
どうしましょうか?
・・・・・・
落ちたくないので、
その場所に
立ち続けますか?
しかし、
川の水はずっと
勢いよく流れ続けて
います。
そこに立ち続ける
だけでも
体力を消耗し、
いずれは
あなたも滝壺に向かって
落ちることに
なるでしょう。
もしくは、
落ちるのがいや
なので、
川上に向かって
川を逆流しますか?
しかし
それほど不自然な
ことはありません。
もといた場所に
戻りたい、
というのは
我々人間の情の一つ
ではありますが、
それこそ
至難の業です。
・・・・・・
滝に落ちる恐怖。
それは誰しもに
あります。
しかしそれは
反応本音です。
私達の真本音は
滝壺に向かって
自ら飛び込むことを
望んでいます。
その勇気と
遊気を
望んでいます。
どうせ落ちるなら、
自分らしく
徹底的に
落ちてしまえ。
という
開き直りを
望んでいます。
いい意味での
「あきらめ」
が肝心です。
私のクライアントさんには、
滝壺に落ちる快感を
知ってしまった人が
何人もいます。
あるクライアントさんは、
自ら滝壺を
創り出し、
休みなく次々に
滝壺に飛び込み続けている
という
そんな人さえいます。
もちろん
自己満足で
やっているのでは
ありません。
その人は
一刻も早く
海に出たいのです。
そのために
自分にできることを
日々、
最大最高スピードで
行なっています。
私から観れば、
この人、毎日
滝壺だな、
と思えます。笑
そしてそれが
「普通」になってしまうと、
その人は
真に「安定」と「安寧」を
得ます。
ある意味、
怖いものなし
となります。
いえ、
もちろん「怖さ」は
あります。
何がどうなっても
私達には
反応本音は発生
します。
その人も
他の人と同様に
「怖がり」です。
しかしその
「怖さ」そのものに
対して、
とても素直です。
怖いからやめる、
のではなく、
怖さを存分に
味わいながら、
次々に
滝壺に飛び込む
のです。
すると、
その「怖さ」の根底に
私達は
「安寧」を得るのです。
それが、
真本音を感じながら
生きるという
ことです。
・・・・・・
自然の摂理に
抗う必要は
ありません。
私達自身が
「自然」なのですから。
人生は
怖いですか?
怖いですね。
その怖さを
消す必要など
一つもありません。
怖いから
進まない
のではなく、
怖いからこそ
進んでください。
怖いからこそ、
早く
飛び込んで
しまってください。
すると、
怖さとは味方である
ということが
ある瞬間から
わかるでしょう。
つづく