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人が人を救おう、
などと
思うことは、
大変おそがましい
ことだ。
傲慢だ。
ということは
重々に
よくわかっているのだが、
それでも
救いたい!
と
思ってしまうことがある。
それも
人間。
いいだろ?
・・・・・・
心が痛む。
心だけじゃない。
魂までが
ギリギリと
痛む。
なんでこの人は、
自らの意志で
自らの本当の願いとは
真逆の道を
行こうとするのか。
なんでこの人は、
自らの意志で
自分自身を
傷つけ尽くす道を
行こうとするのか。
それは
成長でも進化でも
ない。
その真逆だ。
そこには
何の希望も価値も
ない。
なのに
まっしぐらに
その道を行こうと
する。
何としてでも、
腕を引っ張ってでも
止めたいと
思う。
救いたい!
と
思ってしまう。
でも
残念ながら
できない。
やろうと思えば
思うほど、
その人の
その道へ向かう意志を
強めてしまう。
他者には
できないこと。
本人にしか
できないこと。
救えるのは
本人しか
できないのだ。
その真実を
無力感と共に
痛感する。
これまでに
何度もあった。
何度もあったが
これは
慣れることがない。
あまりに
苦しく、痛く、
悲しいことだ。
・・・・・・
救いたいと
思うこと自体が
傲慢なことは
わかってるんだ。
でも
思うのだから
しょうがないだろう。
人生は
痛いな。
でもこの痛みを
背負うことも
また
人間なのだな。
痛いままで
進むのが
人間なのだな。
つづく
自己犠牲は
決して
美しいとは
思いません。
でも、
どのような時にも、
誠実に
人と向き合い、
自分がどのような
状態であっても、
ただ、
目の前の人に
すべてのパワーを
注いでいく。
そんな潔さを
私は
美しいな、と
思います。
一日を終え、
すべてのパワーを
使い切り、
ボロボロの状態で
倒れ込むその姿は、
決して格好いいものでは
ないけれど、
でもその生き方に
私は
美しさを感じます。
自己犠牲では
ここまでのことは
できません。
自己犠牲とは
自己満足だから。
人は、
どこかで自分自身の
ことを
とてもよく
わかっています。
自分が本当に
潔く生きているか、
そうではないか。
潔く生きている人は
自分自身を
毅然と見つめることが
できます。
人を毅然と
見つめることが
できます。
そして、人を
毅然と助ける
ことができます。
人を助ける、とは
本来
自己犠牲ではなく、
自分自身をも
助けることに
なります。
人に対する
救いの手は、
自分自身に対する
救いの手でも
あるのです。
だから、
救う時は
全力で救う。
救ってはならない時は
決して
救わない。
その判断を
毅然と下すその
生き方が、
私は美しいと
思います。
やはり、・・・
人は美しく
あってほしいと、
私は願います。
あなたの
ように、ね。
つづく
私は私の人生を
歩みたいと
思っているのに、
どうしても
私ではない意思を
尊重してしまう。
本当は
こうしたい!
と思うのに、
そうではない選択や
行動をしてしまう。
そのうちに、
私が本当は
何を望んでいたのか?
という
自分自身の気持ちすら
わからなくなる。
そして、
今、抱いているこの
気持ちが、
本当の自分の気持ちなのか、
それとも
本当は自分が
望んでいないことなのか、
その区別すら
つかなくなる。
区別がつかないままに
日々、
流れていってしまう。
途中で、
まぁいいか、となる。
深く考えないでおこう、
となる。
そして気がつけば、
妥協ばかりをしていて、
しかし
妥協している自分を
見ること自体が
怖くて。
自分とまったく
向き合わないように
なる。
そして、
人生に対して
無気力に
なっていく。
いや。
無気力だと
自覚すればまだ
まし。
自分が無気力で
空虚感の塊に
なっていることすら
気づかなくなる。
いつの間にか
「自分」が
もう、ここには
いない。
ここには
私の体はあるけど、
心らしきものは
あるけど、
私の本質は
一つも
ない。
私は
どこに行って
しまったのだろう?
私は
本当に
生きているの
だろうか?
私とは
何だろう?
まぁ
いいか・・・。
・・・・・・
とても
傲慢なことであるとは
重々にわかっては
いるのですが、
私は、
人を救いたい。
自分と、
自分の人生を
失ってしまっている
人を
救いたい。
企業現場の中にいると
どうしても
そんな想いが
湧き上がってきます。
本当に
傲慢だと
わかっているのですが。
とはいえ、
私が他の人を
救えるはずが
ありません。
それも
わかっています。
その人を救えるのは
その人自身です。
でも
多くの人が
自分の救い方を
知らない。
知らなさ過ぎる。
私に
人を救うことは
できないけれども、
自分の救い方を
伝えることは
できる。
であれば、
それをどんどん
伝えていこう。
そう思うのですが、
これもやはり
傲慢でしょうか。
でも少なくとも
私は、
私を救うことが
できました。
もちろん
多くの人達の
援助と支えが
ありました。
その人達の
たった一人でも
もし出会えなかったら
私が私の人生を
取り戻すことは
できなかったでしょう。
でも
そういった事実を
すべて自覚した上で
やはり
思うのです。
私を救ったのは
私自身である
と。
そう。
これだけは
絶対的な
真実。
自分を救えるのは
自分だけ
なんですね。
・・・・・・
私は、毎日、
そう、
本当に、毎日、
私のクライアントさんに
お伝えしています。
「自分の思った通りに
生きてください」
と。
特に、
真本音度合いを高めた
クライアントさんには
口を酸っぱくして
伝え続けています。
様々な経験を
積んだ人ほど、
自分で自分を
縛ってしまいます。
私はそういう人が
自由になればいいと
本当に思っています。
真本音度合いの高い
人が、
自由になれば。
そこには間違いなく
調和が生まれます。
しかし、
「自由になっては
ならない」
「わがままは
絶対にダメ」
という「解釈」から
自分で自分を
縛ってしまうのです。
誠実な人ほど。
それは
誠実ではない!
今は、
あなたが
わがままに
自由に
振る舞うことこそが、
誠実なんだ!
と、
私は本当に毎日
全力でお伝え
しています。
・・・・・・
セルフコーチング。
自分と
向き合う方法。
無理に自分と
向き合うのではなく、
自然の摂理に則った
やり方で
自分と向き合い、
自分を理解し、
次の一歩を
決めて、
行動する。
「調和」と
「自由」は
本当は、
同義語です。
それを日々の中で
実感するための
セルフコーチングの
手法。
それを私はやはり
多くの人達に
お伝えしたい。
本当に今、
そう思います。
・・・・・・
ようやく、
セルフコーチング系の
発信ができることに
なりました。
新しい講座も
開講します。
電子書籍という
形をとりましたが、
動画もご覧に
なれます。
ぜひその
動画をご覧
いただきたいですね。
これからいよいよ
本格的に
始動します。
↓↓↓
『人生を真剣に生きたいあなたへ』
つづく
人が人を救う、
とか
人が人を守る、
とか
そういったことを
考えるのは
基本的には
傲慢なことだな
と私は思います。
その人の人生は
その人のもの。
押し付けがましく
その人の人生に
割り込んでいくのは
独りよがりの
自己満足になりかねない、
ということについては
私はとても
注意をしています。
でも、
そういったことを
すべて大事にした上で、
それでも
この人を守りたい。
この人を救いたい。
と心の底から
思うことがあります。
それはもちろん
私だけでなく、
すべての人に
あることですね。
この人を守りたい。
この人を救いたい。
本当に真剣に
そう思うことで、
そう思っているその人自身が
急成長することが
あります。
守りたいものがある。
救いたい人がいる。
というのは、
人として
とても幸せなこと
でもありますね。
何かを
守ろうとしている人、
何かを
救おうとしている人、
それを本当に
純粋に
真剣に
想い続けている人を、
私は
守りたいなぁ、
救いたいなぁ、
と、
とても純粋に
思えた
今日でした。
つづく