私達人間の心は
二つに分けることができます。
一つは、揺るがない心。
もう一つは、揺らぐ心。
揺るがない心を、『真本音』。
揺らぐ心を、『反応本音』。
私はそう名づけました。
どちらが良い・悪い、ということではありません。
どちらにもそれぞれの存在意義があります。
揺らぐ心など、最初からなけりゃいい、と
思われるかもしれませんが、
揺らぐ心があるからこそ、私達は
人間としての幸せを感じることもできます。
揺らぐ心があるからこそ、私達は
状況に応じて生き方を対応させることができます。
ところが、揺らぐ心(反応本音)は
本質的には弱いです。
反応本音で生きる、とは
あえて短絡的に言えば、
「不安や恐怖に基づいて生きる」ということになります。
不安を解消するためにどうすればよいか?
恐怖から逃れるためにどうすればよいか?
その視点からの発想に基づき、
私達は動くことになります。
それを「自己保身」と表現していますが、
自己保身を第一に考えてしまうと
本来の自分をいつの間にか見失ってしまいます。
それに対して、真本音で生きる、とは、
「自分の揺るがぬ願いに基づいて生きる」
ことになります。
しかしそれは決して理想論ではありません。
「自分の願いと、今の現実を観察しながら
今この瞬間における最善の一歩一歩を進む」
ということを、私達の真本音は大切にしています。
「今を生きる」とは
「今できる最善を尽くす」ことです。
最善とは、妥協ではありません。
理想でもありません。
自分の理想を大切にしながらも、
「今はこの一歩が最も良いな」と自分自身が納得できる
そんな一歩が「最善」です。
「妥協」とは自分自身が納得できていない状態を
言います。
反応本音で生きる場合は、
そういった最善かどうか?は考えず、
とにかく、不安や恐怖を解消するために、
妥協だろうが何だろうが、最も楽だと思える道を
とります。
しかしそれは極めて刹那的な判断となりますので、
後悔することが多いのです。
木村さんは、後悔しました。
(→前回記事)
村瀬さんとのやりとり。
本当は、木村さんには心の底から発したい言葉が
ありました。
それが、
「お前、すげーな!」
という村瀬さんを賞賛する一言です。
しかしそれを発することで、
「自分は村瀬に追い抜かれるかもしれない」
という恐怖を彼は抱きました。
その恐怖を消すために、後輩である村瀬さんの考えを
自分の経験則を前面に出しながら潰しにかかりました。
上司である平井さんからも、
そしてその他の社員さんからも
木村さんは「評価」を得たいのです。
ところが自分への評価を守るために行なった言動が、
結果的に、皆からの評価を著しく下げることになりました。
これが、反応本音で生きる人の
典型的なパターンです。
真本音で生きる人は、
評価どうこう、という視点がありません。
いえ、
正確に言えば、そういった視点や心は誰にでもありますが、
それに捕らわれずに、
本来自分が望んでいる生き方や、
自分の目指したい人生への願いに基づいて
今この瞬間の言動を決めます。
そこから出される一つ一つの言葉や行動は、
人々の心に響きます。
その結果として、
「あの人はいいなぁ」という印象につながります。
評価が上がります。
評価に捕らわれないことで
評価が上がります。
皮肉な感じがしますが、それが世の常ですね。
評価云々はともかくとして、
何よりも、木村さん本人が
「後悔する」
というところが問題です。
自分が後悔する行動を自分がとり続ける。
それは私達人間の心のパワーを著しく
減退させます。
それにより、パワーを失った私達は、
さらに不安や恐怖を覚え、
その解消のための言動につながる、
という悪循環に入ります。
その悪循環から抜け出せない人は多いです。
抜け出すためには、
①本来自分が望む生き方を言語化して常に思い出すこと
②自己保身のための自分のクセが現れそうになれば、
その瞬間に止めること
そして
③本来自分が望む生き方に基づいて行動してみること
この3つを行ない続けることです。
日常の中で行ない続けることです。
自己保身に基づいた行動のクセを、
願いに基づいた行動のクセに
変換していくのです。
それができればできるほど、
誰もが、心の根底から「楽」になってきます。
心に「自由」を感じるようになります。
本質的な「楽・自由」を手に入れるための
「クセ直し」ですね。
私はこれを木村さんには徹底的に
行なっていただきました。
すると、何が起こるか?
木村さんのさらに深いところに存在していた
新たな「クセ」が浮上してくるのです。
つづく