最善

妥協すんな

 

「妥協」

というのは、

妥協だと思うと

妥協になる。

 

しょうがない

妥協するか、

 

となると

妥協となる。

 

私は何をどうしても

これが嫌だ。

 

妥協をするくらいなら、

仲違いを選ぶ。

 

妥協は

不調和の象徴だと

思うのだ。

 

ただ、

 

「妥協」という言葉の

使い方とか

定義の仕方は

人によって違う。

 

私の言う「妥協」とは、

自分も相手も

納得していない状態

だ。

 

「妥協」に対して

私は

 

「最善」

 

という言葉を

よく使う。

 

最善を尽くす

のは

私は好きだ。

 

いや、

人生とは本来

最善を尽くすもの

だと思っている。

 

自分の思う通りに

いかないのが

人生。

 

自分の理想通りに

いかないのが

人生。

 

「理想」を常に

大切に胸に抱き続ける

ことは

とても大事だと思う。

 

しかし私達の目の前

には

「現実」があり

「他者」もいる。

 

自分の理想のみを

押しつけて進む

こともまた

不調和の象徴だ。

 

理想を抱きつつも、

現実と向き合い、

 

今できる最善は

これだ!

 

と決めること。

 

それが大切であり

それは「妥協」とは

異なり、

 

納得がいっている。

 

妥協も最善も

結局は同じ選択かも

しれない。

 

しかし

 

しょうがない、

妥協するか。

 

 

今はこれが

最善だな。

 

 

この違いは

大きい。

 

いや、「大きい」

というレベルでは

ない。

 

似て非なるもの。

 

本質が

まったく異なるもの。

 

だから私は

「最善」だと思えるまで

決して

選択をしない。

 

決断を

しない。

 

そのかわり、

「最善」だと思えれば

直ちに進む。

 

結局は、

妥協で進むよりも

最善で進む方が、

 

何十倍も

速く進めるし、

 

何百倍も

エネルギーは

高くなる。

 

だから、

 

先に進むために

妥協はするな。

 

先に進みたいならば、

決して

妥協はするな。

 

いついかなる時も

最善を尽くそう。

 

つづく

 

後悔かぁ、なくなったなぁ

 

たとえ今日で

人生が終わって

しまっても、

 

私には

後悔は一つも

ないだろうな。

 

いやいや、

やり残したことは

たくさんあるし、

 

これからやりたいこと

実現したいことも

たくさんあるし、

 

何よりも

家族もいるし、

仲間もいる。

 

いろんなことを

残して

去って行くのは

とても悲しいことだが、

 

でもやはり

「後悔」には

ならないだろうな。

 

え? いや、

ご安心を。

 

私はあとまだ少なくとも

27年は

生きるから。

 

でも、今日

ある社長さんの

コーチングをしながら

ふと

そう思えたんだ。

 

本当に私は

今、

「後悔」というものが

ない、と。

 

「ああしとけば良かった」

が、

一つもないのだ。

 

・・・・・・

 

もちろん

上手くいかないことは

たくさんあるし、

試行錯誤

ばかりだ。

 

でも、

ちゃんと

試行錯誤すべきを

試行錯誤して来た。

 

経験すべきを

経験して来た。

 

と思うんだ。

 

たとえ今から

タイムマシンで

過去に戻ったとしても、

 

今日までの記憶が

あるままに

過去に戻ったと

しても、

 

私はきっと

過去と同じ選択を

し続けるのだと

思う。

 

それが

「最善」

だから。

 

・・・・・・

 

な〜んて

本当に思えるように

なったのは、

 

この7〜8年

くらいかな。

 

でもこの7〜8年は

そういう日々が

続いている。

 

これが

真本音で生きる

ということだ。

 

もちろん

今も私は

未熟だ。

 

真本音で生きる

とは

「完成された人生を生きる」

ということではない。

 

「完成」などないし、

人間はずっと

未熟だし、

 

だからこそ

「進化」を

し続ける。

 

真本音で生きる

とは、

その「進化」を

存分に楽しむ生き方

だ。

 

最大に味わう生き方

だ。

 

だからこそ

「後悔」がない。

 

とはいえ、

「後悔のない人生を

生きよう」

などと

意気込む必要もない。

 

真本音で生きれば、

自然に

そうなるのだからね。

 

つづく

 

コーチ探し、始めます

 

「コーチ」とは

人をサポートする

役割であるが、

 

まずもって

自らが

その見本とならねば

ならない。

 

「自分の人生を生きる」

見本である。

 

「真本音で生きる」

見本である。

 

「一つ一つに魂を込める」

見本である。

 

ただし、

完璧でなくても

いい。

 

第一、

私達人間に

「完璧」

はない。

 

なぜなら私達は

進化する存在

だからだ。

 

進化に

完成はなく、

完璧もない。

 

だから「見本」

とは、

「誰よりも

進化スピードが

速い」

という

見本である。

 

クライアントさん

よりも、

自分自身の

成長・進化度合いが

高いからこそ、

 

良いコーチングが

できる。

 

最大速で走る人

のみが放つ

空気感と

エネルギーが

ある。

 

それが、

人に本質的な

影響を与える。

 

それが

本来の「コーチ」

である。

 

・・・・・・

 

・・・と、

私は信じて

ずっとやってきた。

 

もちろん

私自身、

とても不甲斐ない

人間であるし、

 

誰よりも

弱っちいところや

ヘナチョコのところを

たくさん

持ち合わせている。

 

以前は

そんな自分に

ダメ出しをしたり、

そんな自分を

責め続けていたが、

 

今はそんな

無駄なことに

時間は費やさない。

 

あるがまま

でいい。

 

でも、

最大速で日々、

進もうとする。

 

それを

一日一日

真本音で、

真剣に

やり続ける。

 

理想通りに

物事は進まないし、

 

理想的な

自分でもない。

 

でも、

誰もが

最善を尽くす

ことはできる。

 

私はそれを

やり続けた。

 

もちろん最初は

ずっとずっと

肩に力が

入り過ぎていたが、

 

幸いなことに

私は

不器用だった。

 

だから、

上手く事を進める

術を知らず、

 

たくさん

ぶつかり、

たくさん

悩み、

たくさん

挫けた。

 

で、ある時に

フッと

力が抜けて、

 

自然体が

どういうことか?

感覚として

知ることができた。

 

もちろん今も

私は

発展途上である。

 

数年後の私から

今の私を見れば、

 

何たる未熟者か、

 

と思うだろう。

 

でも

それでいい。

 

今の私だからこそ

できることがあるし、

 

今の私だからこそ

出せる最善が

ある。

 

最善を尽くすのは

疲れることでは

ない。

 

最善を尽くすこと

こそが、

自然体で

楽で

肩の力を抜ける

状態だ。

 

ということを

多くの人に

経験してもらいたい。

 

そして、

不器用でも

弱っちくても

いいから、

 

とにかく

前に前に

進み続ける。

 

最大速で

進み続けようとする。

 

出せる

最善を尽くす。

 

そんな人に

「コーチ」に

なってもらいたい。

 

そんな

気概のある人、

 

私に

ご連絡ください。

 

このブログの

コメント欄に

コメントをいただければ、

返信いたします。

 

これまでは

あえてそれを

してきませんでした。

 

でもここからは

少し変えます。

 

ただし、

真剣さの感じられない

ものについては

返信しないかも

しれませんので、

ご了承ください。

 

コメントいただいた

方の中で、

直観的に

「会わねば」

と感じた方とは、

 

直接お会いさせて

いただくかも

しれません。

 

つづく

 

何のためにここまで来たのだ?

 

あなたは今、

どこに立って

いるのだろうか?

 

あなたは今、

どの方向を

向いているのだろうか?

 

あなたは今、

何を見ているのだろうか?

 

あなたには

高い理想がある。

 

その理想への

想いは深い。

 

しかしそうであるが故に

あなたは今の自分に

自信を失くしている。

 

理想と現実の

ギャップに

言葉を失っている。

 

我を

失っている。

 

そしてあなたは、

自分を

責めている。

 

こんな自分は

不甲斐ない、と。

 

自分のあまりの

力の無さに

茫然としている。

 

自分のあまりの

勇気の無さに

憤っている。

 

こんなはずでは

なかった。

 

私はもっと

できるはずだった。

 

でも

現実を前にしたら

ビビりまくって

いる。

 

一歩も

足が

動かない。

 

こんなはずでは

なかった。

 

こんなに

情けない自分

だったなんて。

 

私は

私が

嫌だ。

 

・・・と。

 

・・・・・・

 

私はあえて

そんなあなたに

伝えよう。

 

あえて

厳しく

伝えよう。

 

自分を

責めるな、

と。

 

自分を

責めている暇が

あったら、

一歩でも

前に進め、

と。

 

どうすれば

次の一歩を

進めるか?

 

そこに意識を

集中せよ、

と。

 

自己卑下。

 

自己嫌悪。

 

罪悪感。

 

それらはみんな

自己満足だ。

 

自分を

どれだけ責めても

誰も

喜ばない。

 

自分自身も

喜ばないし、

周りの誰も

喜ばない。

 

そんなのは

何の生産性も

ない。

 

時間の

無駄だ。

 

命の

無駄だ。

 

人を

愛したい

あなたならば、

 

できるかどうかは

別として、

本気で

愛そうと

しなさい。

 

自分を責めるのは

単なる

自己愛。

 

そこには

真剣さのカケラも

ない。

 

現実逃避の

言い訳にしか

過ぎない。

 

だから早く、

そこから

抜け出しなさい。

 

あなたは

何のために

ここにいるのか?

 

あなたは

何のために

ここに来たのか?

 

あなたは

何のために

私と出会ったのか?

 

あなたの

人生への想いと

願いは

何だったのか?

 

あなたは

人に

何をもたらしたいのか?

 

あなたは

社会に

何をもたらしたいのか?

 

それらを

今一度、

しっかりと

思い出しなさい。

 

それらは

理想だ。

 

そして

この人生は

理想通りには

行かない。

 

そんなことは

重々に理解している

あなただったろう。

 

我々にできるのは、

理想を胸に

抱きながらも、

 

最善の一歩を

踏み出し続ける

ことではなかったか。

 

弱っちい自分で

いいではないか。

 

それでも

あなたには

足がある。

 

それでも

あなたには

意志がある。

 

であれば、

次の一歩を

踏み出せよ。

 

間違っても

いいから

踏み出せよ。

 

つづく

 

自信のない人生を送ってきた自信がある

今日ふと、

思ったんですよね。

 

私って、

自信があるなぁ、と思いながら

道を進んだことって

あったっけ?

と。

 

いや、もちろん

ありました。

 

でもそれは相当に

昔の話です。

 

いつからでしょうか。

 

ずっと

自信のないままに

生きているのは。

 

皆さんは

どう思いますか?

 

自信って

あった方がいいですか?

 

ない方がいいですか?

 

そりゃもちろん、

あった方がいいですよね。

 

私も

そう思います。

 

あった方が

楽ですよね。

 

そう思うんですけどね・・・。

 

でもそれは

顕在意識の私が

そう思っているだけで。

 

実は、

これはあくまでも

私の経験上での話ですが、

私の場合、

自信のある道を行く方が

結果として

楽ではなかったんですよね。

 

なんでかと言うと、

自信があると

余分な自分が

どんどん出てきてしまうのです。

 

こうやれば

こうなるな。

 

こんな場合は

こうすればきっと

上手く行くぞ。

 

・・・自信のある場合は

過去の経験則が

役に立ちます。

 

しかし私の場合、

そういった

過去の経験則に沿って

物事を進めると、

大概にして

ドツボにハマるんですね。

 

まぁそれは

人と向き合うお仕事を

させていただいているから

かもしれません。

 

人と向き合う私のお仕事は

過去の経験則が

ほぼ使えません。

いや、

本当は使えるのですが、

経験則で物事を進めようとすると、

大切な何かが

失われるのです。

 

大切な何か・・・。

 

それをあえて言葉に

すると、

 

「目の前の人と

共に最善の答えを見つける」

 

・・・ということでしょうか。

 

人生とは

現在進行形です。

 

人も様々です。

 

本当は

二つとして全く同じ事象や

現象は

ありません。

 

今、目の前にある一つの現実は

唯一無二

のものです。

 

これまでの人類の

過去のあらゆる場面で

一度もなかった現実が

目の前にあるのです。

 

そしてその現実は

今後の未来において

誰も経験することのない

ものでしょう。

 

すべて、

今この一瞬一瞬は

ただ、ここにあるだけ

のもの。

 

唯一無二のもの。

 

それが、

私達の人生の

尊厳だと思います。

 

唯一無二の

現実を

経験する

唯一無二の

存在が

私達人間

なのです。

 

そんな、

唯一無二に対して、

過去の経験則から

答えを導き出すことは

本来の

今この瞬間でしか生まれ得ない

宝物のような

本当の答えを

掘り起こさずに進む

ということになってしまうのだと

私は思うのです、

・・・これは経験的に。

 

ですから

いつしか私は

自分の中に「自信」という

感情が生まれた時に、

最も気をつけるように

なりました。

 

そしてちょっと

極端に言えば、

自信のない方ない方に

舵を切るように

なりました。

 

その方が

謙虚になれるからです。

 

何に対しての謙虚かと

言うと、

目の前の現実に対する

謙虚さであり、

目の前の人に対する

謙虚さです。

 

とは言え、

普段の私の行動や

振る舞いをご存知の方は

「一体、あなたのどこが

謙虚なんだ?」

と言われるかも

しれません。苦笑

 

なぜなら私は

ほとんど場合、

断定的にものを

お伝えすることが多いからです。

 

よく言われます。

 

「たけうちさんは

いつも断定的に

ものを言いますね。

よく、言えますね」

と。

 

私は、

自己弁護をする気は

毛頭ないのですが、

私の中では、

謙虚さの証が

「断定的振る舞い」

なのです。

 

私の場合、

自信があると

断定的になれないのです。

 

だって、

自信があるということは

目の前の人と

「共に最善の答えを

見つける」

ということが

できている実感が

極度に減るからです。

 

私が断定的になれるのは、

私一人の結論

ではないからです。

 

共に向き合い

共に創り出した

お互いの真本音コミュニケーション

によって生み出された

その場にしかない

唯一無二の

答えだからです。

 

それは

宝物です。

 

そんな宝物だから、

それをそのまま

表現しているだけの

ことなのです。

 

なんだ?

 

今回は、自己弁護のための

文章か?

 

いや、・・・違うな。

 

私が今、

とっても皆さんに断定的に

お伝えしたいことが

あるのです。

 

それは一言で言えば

こうなります。

 

『今はあえて、

自信のない方に進もう!』

 

です。

 

これが、現在、

多くの人達の真本音が

望んでいる

人生の指針です。

 

自信のない方向に

行くからこそ、

すべての現実と

あるがままに向き合う

ことができるでしょう。

 

そこで得られるのは、

これまで見たことのないような

自分の個性と、

自分の力です。

 

自分の

まだまだ隠されていた

可能性です。

 

そういったものを

どんどん自ら

掘り起こしてほしいですね。

 

ですから私も

今まで以上に

自信のない方向に

行こうと思います。

 

皆さんも、ぜひぜひ

そうしましょう。

 

つづく

 

嫌いになるのは悪いこと?

私達人間には誰しも、

好き・嫌い

があります。

 

嫌いなものがあった場合、

それを

「好きになろう」

とする人がいます。

 

例えば、

嫌いな人がいたとしても

その人のことを

好きになろう、

とします。

 

そういった生き方をしている人を

見ると、

私は素直に、いいなぁ、と

思います。

 

が、その生き方を

無理にし過ぎている人にも

これまで多く出会いました。

 

無理にし過ぎることで、

その人は自分の中の

「嫌い」

という気持ちにフタをして

しまいます。

 

そんな気持ちはないのだと

自分で自分をごまかして

しまいます。

 

その上で、

「好きであろう」

としますので、かなり心に

無理が生じ、

その無理無理感が

おかしな空気を生みます。

 

その空気感は実は

誰もが感じ取っていて、

その人の

「好き」

は、実はとても不自然なものだと

誰もが薄々わかってしまいます。

 

「好きになろう」

という気持ちは大切ですが、

「好きであらねばならない」

までいってしまうのは

苦しいです。

 

そういった人を観ると私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

ちょっと極端に言いますが、

私は思うのです。

 

嫌いなのものは

嫌いでよいではないか。

 

・・・と。

 

「好きだ」

「嫌いだ」

という、自分から湧く

素直な気持ちは

人間として当たり前のものなので、

それはそれでよいではないか、

と。

 

そこを否定することは

人間そのものを否定して

しまっている気がします。

 

ただし、・・・ですが。

 

「嫌いなものは嫌いだから、

そこは避けて通る」

とか、

「嫌いな人とは接しない」

とか、

「嫌いなものはすべて

拒絶する」

とか、

そういった人も私は

「不自由な人だなぁ」

と思います。

 

そこには

「選択肢」

がないからです。

 

「嫌い」

だから、

関われない。

 

「嫌い」

だから、

離れずにはいられない。

 

「嫌い」

だから、

受け止められない。

 

というのは、

その選択肢でしか

生きられないということです。

 

つまり

「嫌い」なものに

翻弄されている。

 

自分以外の何かに

翻弄されている。

 

・・・ということ。

 

それは、

人生のハンドルを

自分以外の他の何かに

握られているということと

イコールです。

 

一つの視点から言えば、

私は、自由とは

「選択肢の多さ」

にあると思っています。

 

つまり、

選択肢が多ければ多いほど

自由である、と。

 

どのような環境においても、

どのような状況においても、

自分の選択肢を

たくさん創ることのできる人こそが

自由ではないか、と。

 

「嫌いだから、関われない」

というのは、

たった一つの選択肢しか

ありません。

 

その選択肢以外の選択肢を

得られるようにすることが

より自由になるということでは

ないでしょうか。

 

それを「問い」として表せば、

次のようになります。

 

もし何か嫌いなものに遭遇した

として、

 

「嫌いなことはわかった。

では、その嫌いなことに

私はどのように関わろうか?」

 

ということですね。

 

その関わり方に

多くの選択肢があればあるほど

自由です。

 

選択肢が多い、

ということはそれだけ

「最善の選択」

をしやすいということです。

 

選択肢が少ないと、

そこには

「妥協」

が発生しやすいです。

 

「妥協」とは

自分が本当は納得していない

答え。

 

「最善」とは

理想とは違いますが、

今の状況においてはこれが最高だな、

と自分で納得できている

答えです。

 

妥協の道ばかりを

行く人は

自由ではありません。

当然ですが。

 

最善の選択のできる人が

自由なのだと

私は思います。

 

真本音で生きる度合いが

高まると、

単純に言えば、

その、最善の選択の度合いが

高まります。

 

つまりは、

今、自分は何を

最善と思っているか?

が、

すぐに明確になります。

 

そういった人生は

楽ですし、

自由ですね。

 

つづく

 

加速すればするほど、楽になる

私達人間は誰もが、

「進化をしたい」という本能を持っていますが、

自分が望む進化スピードを実現している人は

ほぼ、いません。

(→前回記事)

 

本当はグングン前に進みたいのに、

思うように進めない、

もしくは、進むことを恐れてしまい

躊躇している自分がいる、

・・・ほぼすべての人がその状態です。

 

私達には「加速」が必要です。

 

しかしどうすればよいのか?

誰もわかっていません。

 

私がコーチとして活動してきた

この21〜2年間は、

その方策を探求し続けてきたという

言い方もできます。

 

もちろん、今も探求中です。

 

ただ、一つ明確にわかっていることが

あります。

 

真本音度合いを高めることが

すべての基本にあるということです。

 

私達人間の揺るがぬ心、真本音とは、

私達の存在意義であり本能の中枢を成す

「進化欲求」に対して非常に素直です。

 

進化のためにどうすればよいか?

を最も大切にしています。

 

しかもそれは理想論ではありません。

 

自分の進化のために、

今の現実に対して、

自分は何をすればよいのか?

を極めて現実的に判断します。

 

その洞察力は

神秘的ですらあります。

 

逆に言えば、

私達人間は誰もが凄い洞察力を

もともと持っているということです。

 

しかしその洞察力は、

真本音度合いが高まらないと

発揮されません。

 

そして、

真本音度合いが高まり、

その洞察によって出された「次の一歩」を

踏み出し続ければ、

私達は必ず、周りと調和します。

 

先ほど書きました通り、

真本音とは極めて現実的な判断をしますので、

真本音で動くことで、

不必要な混乱や混沌は争いや諍いは

激減します。

そこには、必要な試行錯誤が必要なタイミングで

起こるだけです。

 

結果として、その一歩一歩は

進化に対しての最速の道となります。

 

それは「理想」ではありませんが、

「最善」です。

 

つまり、今できる最善、最速の道を

私達の真本音は選択するのです。

 

ですからそういった意味でも、

私は、クライアントさんの真本音度合いを

高めることを、コーチングの要諦としています。

 

そして「脱皮」とは、

そういった真本音度合いの高まった人達が

引き起こす「現実」です。

 

「脱皮」を起こすことで、

ステージが一気に変化します。

 

それは喩えて言えば、

今まで地面を歩いていた自分が、

突然、東京スカイツリーの展望台に

登ったようなものです。

突然に視界が変わります。

今まで見えていなかったものが

見えるようになります。

 

いえ、

本当に大きな脱皮をした場合は、

もっと凄い変化があります。

東京スカイツリーどころか、場合によっては

飛行機の視点とか、成層圏の視点とか、

地球を見降ろす宇宙の視点まで

行ってしまうかもしれません。

 

脱皮とは、それくらいに劇的な

変化があることなのですが、

しかし、本人の顕在意識はその変化に

気づいていません。

 

気づいていないのだけれども、

しかし、視界そのものは

これまでとはまったく比べ物にならないほどに

広がっているのです。

 

ですから、本人の気づかないところで

発想そのものが大きく変化します。

本人は気づいていないのに、

周りから見ると驚くべき発想を

生み出す時があるのです。

 

しかしそれは私達人間にとっては

実に自然な振る舞いです。

 

なぜなら私達は

それだけ大きな進化を望んでいるからです。

でも今のところ、どれだけ脱皮をしても

まだまだ私達の望む進化スピードには

追いつけません。

 

本当に望む進化スピードに

もし追いつくことができたとしたら、

私達人類はとてつもなく素晴らしい世界を

創ることができるでしょう。

 

話があまりに大きくなり過ぎますと

現実味がなくなってしまいますが、

私達誰もにできるのは、

自分自身の「次の一歩」を決めること。

 

その「次の一歩」を

真本音で決めることです。

 

それを粛々と続けることで、

私達は本来私達の望む進化スピードに

近づいていけるでしょう。

 

そのためのサポートが

私のサポートです。

 

そしてそういったサポートのできる人を

私は増やしていきたいのです。

 

真本音で生きること、

進化を加速させること、

それは、決して難しいことではありません。

 

むしろ、それは

最も楽な道のりです。

 

最も自分が自然体になり、

最も自分が自分らしくなり、

最も人間としての幸せを感じることのできる

明るく楽しい道なのです。

 

つづく

 

これまでの最善が、これからも最善とは限らない

人やチームが脱皮する時に

大切にすべき原理原則の3つ目は、

 

『物事を深く考えない。

表面上のことだけに目を向ける』

 

・・・ということでした。

(→前回記事)

 

私は弓江さんに問いました。

 

「その原理原則を大切にすると、

これから新規事業プロジェクトが脱皮を

きちんと完了するために、

何が必要だと思いますか?

表面上のことで良いですよ。」

 

う〜ん、と弓江さんは考え込みました。

すると、木村さんが口を挟みました。

 

「そういうことで言えば、

さっき弓江が言っていた、

ペアが良くない、

ペアを変えるべき、

ということのような気がします。」

 

「あぁ、なるほど!」

 

もともと、新規事業プロジェクトチームが

脱皮をしようとしていることに

気づけたきっかけは、

「ペアを変えるべきではないか」

という検討課題が出されたからでした。

(→【一つになることで、すべてがどんどん晴れ渡っていく】)

 

新規事業プロジェクトチームは

基本的には二人一組で活動をするそうです。

そのペアの組み合わせが良くないと

弓江さんが直観的に指摘しました。

 

しかし、二人ともこれまでは

今のペアの組み合わせが最善であると

思っていたのです。

しかしこの二人コーチングの場で考えると、

今のペアに違和感ばかりが出る、

ということでした。

 

私はその二人の話を聴いて、

なるほど、今のこのプロジェクトチームは

脱皮をしようとしているのだ、

これまで最善だと思っていたことが、

最善ではなくなるんだ、

だから、脱皮のために必要な変化を

ここで起こさなければならないんだ、

ということに気づいたのでした。

 

そうするとやはり、

「ペアの組み合わせを変える」

というのは、

脱皮のためにも必要なことのように

思えます。

 

「では、一度、

ペアの組み方を発想してみましょうか。」

 

「はい、まずは。

それをしないと次の発想が出ない気が

します。」

 

「これまでのペアというのは、

・お互いの能力が補完できること

・相性がいいこと

を基準にして組んでいたのでしたね?」

 

「はい。」

 

「では、これからの基準はどうします?」

 

しばらく木村さんは

無言でいました。

そして私に何とも言えない不思議な

目を向けてきました。

 

「たけうちさん、・・・

ちょっとわけがわからないのですが・・・。」

 

「どうしました?」

 

「ペアをどう変えようか?と考えようとすると、

富士山が噴火しているイメージばかりが

頭の中に出てくるんです。」

 

それを聴いて、

弓江さんの目が、

キラッと楽しそうに輝きました。

 

その二人の様子を見て、

あぁこれは「実在」だな、と私は思いました。

 

「木村さん、いい傾向ですね。

それは単なるイメージではなく、

木村さんの真本音発想がカタチになった

ものですよ、きっと。

私の言うところの、実在、というやつです。

だいぶ、発想が柔らかくなりましたね。」

 

木村さんは少し

照れ臭そうに笑いながら言いました。

 

「でも、イメージは鮮明ですが、

意味がよくわからないのです。」

 

「じゃあ面白いので、

意味がわからないままで

ペアを組み直してみましょうか。」

 

「そんなことができるんですか?」

 

つづく

 

いつまで不安解消のためだけの人生を続けるの?

私達人間の心は

二つに分けることができます。

 

一つは、揺るがない心。

もう一つは、揺らぐ心。

 

揺るがない心を、『真本音』。

揺らぐ心を、『反応本音』。

私はそう名づけました。

 

どちらが良い・悪い、ということではありません。

 

どちらにもそれぞれの存在意義があります。

 

揺らぐ心など、最初からなけりゃいい、と

思われるかもしれませんが、

揺らぐ心があるからこそ、私達は

人間としての幸せを感じることもできます。

 

揺らぐ心があるからこそ、私達は

状況に応じて生き方を対応させることができます。

 

ところが、揺らぐ心(反応本音)は

本質的には弱いです。

 

反応本音で生きる、とは

あえて短絡的に言えば、

「不安や恐怖に基づいて生きる」ということになります。

 

不安を解消するためにどうすればよいか?

恐怖から逃れるためにどうすればよいか?

 

その視点からの発想に基づき、

私達は動くことになります。

 

それを「自己保身」と表現していますが、

自己保身を第一に考えてしまうと

本来の自分をいつの間にか見失ってしまいます。

 

それに対して、真本音で生きる、とは、

「自分の揺るがぬ願いに基づいて生きる」

ことになります。

 

しかしそれは決して理想論ではありません。

 

「自分の願いと、今の現実を観察しながら

今この瞬間における最善の一歩一歩を進む」

 

ということを、私達の真本音は大切にしています。

 

「今を生きる」とは

「今できる最善を尽くす」ことです。

 

最善とは、妥協ではありません。

理想でもありません。

 

自分の理想を大切にしながらも、

「今はこの一歩が最も良いな」と自分自身が納得できる

そんな一歩が「最善」です。

 

「妥協」とは自分自身が納得できていない状態を

言います。

 

反応本音で生きる場合は、

そういった最善かどうか?は考えず、

とにかく、不安や恐怖を解消するために、

妥協だろうが何だろうが、最も楽だと思える道を

とります。

 

しかしそれは極めて刹那的な判断となりますので、

後悔することが多いのです。

 

木村さんは、後悔しました。

(→前回記事)

 

村瀬さんとのやりとり。

本当は、木村さんには心の底から発したい言葉が

ありました。

それが、

「お前、すげーな!」

という村瀬さんを賞賛する一言です。

 

しかしそれを発することで、

「自分は村瀬に追い抜かれるかもしれない」

という恐怖を彼は抱きました。

その恐怖を消すために、後輩である村瀬さんの考えを

自分の経験則を前面に出しながら潰しにかかりました。

 

上司である平井さんからも、

そしてその他の社員さんからも

木村さんは「評価」を得たいのです。

 

ところが自分への評価を守るために行なった言動が、

結果的に、皆からの評価を著しく下げることになりました。

 

これが、反応本音で生きる人の

典型的なパターンです。

 

真本音で生きる人は、

評価どうこう、という視点がありません。

いえ、

正確に言えば、そういった視点や心は誰にでもありますが、

それに捕らわれずに、

本来自分が望んでいる生き方や、

自分の目指したい人生への願いに基づいて

今この瞬間の言動を決めます。

 

そこから出される一つ一つの言葉や行動は、

人々の心に響きます。

その結果として、

「あの人はいいなぁ」という印象につながります。

評価が上がります。

 

評価に捕らわれないことで

評価が上がります。

 

皮肉な感じがしますが、それが世の常ですね。

 

評価云々はともかくとして、

何よりも、木村さん本人が

「後悔する」

というところが問題です。

 

自分が後悔する行動を自分がとり続ける。

それは私達人間の心のパワーを著しく

減退させます。

それにより、パワーを失った私達は、

さらに不安や恐怖を覚え、

その解消のための言動につながる、

という悪循環に入ります。

 

その悪循環から抜け出せない人は多いです。

 

抜け出すためには、

①本来自分が望む生き方を言語化して常に思い出すこと

②自己保身のための自分のクセが現れそうになれば、

その瞬間に止めること

そして

③本来自分が望む生き方に基づいて行動してみること

 

この3つを行ない続けることです。

日常の中で行ない続けることです。

 

自己保身に基づいた行動のクセを、

願いに基づいた行動のクセに

変換していくのです。

 

それができればできるほど、

誰もが、心の根底から「楽」になってきます。

 

心に「自由」を感じるようになります。

 

本質的な「楽・自由」を手に入れるための

「クセ直し」ですね。

 

私はこれを木村さんには徹底的に

行なっていただきました。

 

すると、何が起こるか?

 

木村さんのさらに深いところに存在していた

新たな「クセ」が浮上してくるのです。

 

つづく