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今の自分は
本当は
何を一番
望んでいるのか?
・・・これはとても
単純な問い
なのだが、
この問いを
自分自身に
毎日のように
真剣に
投げ続けている人は
いったい
どれだけいるだろうか?
自分の気持ちを
本当の気持ちを
自分が知らずして、
どのようにして
自分の人生を
生きることができるのか?
自分のことを
自分が理解せずして、
いったい誰が
自分を理解
してくれるのか?
「望み」。
自分のことを
よく観察する人は
いるが、
自分の望みを
観察する人
し続ける人は
びっくりするくらい
少ない。
毎日の現実に
ドップリと
浸かってしまえば
それも
やむを得ないかも
しれない。
自分を見つめる時間
など
確保する気力は
ないかもしれない。
しかし
それでも
わずかでも、
一日に最低
一回は、
静かに自分を
見つめよう。
自分の「望み」に
意識を
向けてみよう。
真剣に。
何よりも
真剣に。
つづく
私は、
真面目な人にほど、
「もっと不真面目で
いいよ」
と伝えるし、
不真面目な人には、
「もっと真面目に
やれ」
と言う。
矛盾しているように
思う?
矛盾していないんだな、
これが。
・・・・・・
「真面目」
って、いろんな捉え方が
あるけど、
私は
「与えられた一つの枠を
壊さずに、
その枠を守りながら
がんばり続ける」
という風に
考えている。
不真面目な人は
第一、
この「枠」を守らない。
「こうしろ」と言っても
その通りにしない。
例えば、
朝は8時から仕事だ、
という決まり事があっても
それを守らない。
とか、
ちゃんと人には挨拶しような、
と注意しても
まったく守らない。
とか。
人に枠を与える意味は、
一つには
「基本をしっかりする」
というのがある。
基本や基礎が
しっかりするからこそ、
その人は良い方向に
伸びていく。
地盤がしっかり
していないと、
ちゃんとした家が
建たないのと同じだ。
不真面目な人の多くは、
地盤がフニャフニャにも
関わらずに、
自分勝手に
自己満足の家ばかりを
建てようとする。
しかしどんな家を
建てても、
地盤が緩いから
安心して住むことすら
できない。
それでは
誰も喜ばない。
だから
「真面目にやれ」
と言う。
一方、
真面目な人の多くは、
基本や基礎はできてるけど、
いつまで経っても
自ら「枠」を壊そうとしない。
与えられた枠から
出ようとしない。
だから、
その人が本来持っている
独創性のようなものが
生まれない。
そういう人の創る家は
いつまで経っても
つまらない。
遊び心もない。
安心して住むことは
できるかもしれないが、
それ以上の魅力が
ないのだ。
だから、
そういつまでも
枠に捕らわれずに、
たまには
「もっと不真面目で
いいよ」
と伝えるのだ。
大事なのは
真面目か
不真面目か
ではない。
両方できること
だ。
ここは真面目に。
でも、
ここは不真面目に。
・・・と
自ら選択できる
ことだ。
「真面目」と「不真面目」
という表現に
もし抵抗があるなら、
次のように
言い換えてもいい。
「基本に忠実」
と
「望みのままに」
だ。
・・・・・・
基本を修得する
努力もせずに
「望みのままにやりたい」
と思っている人が
多過ぎはしないか。
本当に望みのままに
やりたいのなら、
もっとちゃんと
勉強せい。
努力せいよ。
一方で、
勉強と努力をして
そこで満足してしまっている
人も
多過ぎないか。
せっかく基礎が
あるんだから、
もっと
好きにやれよ。
冒険しろよな。
自分の望みに
素直になろうな。
つづく
今のあなたにとって
最も大切なものは
何ですか?
こう問われると、
いろいろなものが
浮かぶと思いますが、
あえて
一つを選んでみて
ください。
その
最も大切なものを
あなたは
手放すことが
できますか?
こう問われると
もちろん、
「手放せます」
と答えられる人は
ほぼいないと思います。
そしてもちろん、
手放さなければならない
ものでもありません。
でも、
あえて
「手放すことが
できますか?」
と問われた時の、
あなたの心の動きに
注目してください。
・・・・・・
「いや、手放せませんよ」
とほとんどの人は
思うでしょう。
問題は
その答えでは
ありません。
そう答えている
自分の心の
その「奥」を
覗いてほしいのです。
「奥」
というよりも、
「土台」
と言った方が
よいかもしれません。
「手放せませんよ」
という心の
「土台」
を感じてください。
その「土台」は
光り輝いていますか?
それとも
暗いものですか?
それは
心を癒してくれるような
気持ちの良いものですか?
それとも
ネチョネチョした
いや〜な感じのする
ものですか?
・・・・・・
もしネチョネチョした
いや〜な感覚の
ものでしたら、
それを「執着」と言います。
もちろん
「執着」は誰にも
あります。
それがあるからダメです、
というお話でも
ありません。
「土台」が執着で
あるならば、
その執着の中身を
観察してほしいのです。
じーっとその執着の
いや〜な感覚を
あるがままに
感じてみてください。
その執着を
完全に味わい尽くそう
もしくは、
細部まで観察し尽くそう
としてみてください。
そうすると何となく、
その執着が
何を望んでいるか?が
わかるかもしれません。
そうです。
執着にはすべて
「望み」があります。
その「望み」が
普段、満たされていないが
故に、
その執着が生まれると
言ってもよいでしょう。
自分の中の
満たされていない「望み」。
それが何か?
を自分で理解することは
とても重要です。
なぜならそれを
満たしてあげられるのは
自分自身だけですから。
・・・・・・
今の私はおかげさまで、
「土台」は
光り輝いているのですが、
昔の私は
もう、ドロドロでした。笑
執着の塊。
私にとって一番大事なもの
について、
「それは俺のものだ!」
と私の執着は
叫んでいました。
そして、
「俺が支配者だ!」
とも。
つまり私は
私自身が支配者に
なりたかったのですね。
当時の私には
非常に厳しい師匠がおり、
ある意味、毎日
自分をいかに抑え込むか?
ばかりを考えていました。
恐らくその反動で、
支配欲が強烈に
高まっていたのだと
思います。
問題なのは、
その支配欲に私自身が
いっさい気づいていなかった
ことです。
ということは、
私の知らないところで
私のちょっとした行動や
表情や、振る舞いや、
そして空気感などで、
私の支配欲は常に
私から滲み出いていた
はずです。
私は無意識に
支配欲を持ち、
無意識に
支配欲を抑えこみ、
無意識に
それが滲み出ていた。
そんな私が
日々を送れば、
どのような人生になるかは
一目瞭然ですね。
・・・・・・
自分の執着を
否定するのではなく、
自分が何に執着しているのか?
をあるがままに
自分が知ることは
大変、意義のあることです。
自分が知るだけで
それだけでもう、
その人の空気感は
変わるのですよ。
つづく