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自分の中に
ある
大樹のように
揺るがぬもの。
その存在を
常に
感じ続けるだけで、
生き方は、
その一歩一歩は、
180度変わる
ことがある。
次の一歩を
どうするか?
今ここにある
選択肢のうち
どれを
選ぼうか?
それらを
大樹を感じながら
するのと、
そうでない状態で
するのとでは、
選択の質が
変わる、
というよりも
もっと根本的な
自分という
存在そのものの
土台のような
何かが
変わる。
その体験を
多くの人達が
できるといいな、
という
願いを込めて、
私はそれを
「真本音」
というキーワードを
使い、
皆様にご紹介して
きた。
それからもう
20年経つ。
思えばちょうど
2002年から
なのだ。
これを本質的に
始めたのは。
しかし今でこそ
私は
そういった生き方が
できるが、
20年前は当然の
ことながら、
一日のほとんどを
私自身が
大樹を忘れていた。
今も未熟だが、
当時の未熟ぶりは
それこそ
大したものだった。
でも
思うのだ。
未熟な私
だったからこそ、
真本音を
必死に
語り続けることが
できたのだと。
「未熟だから
できません」
「もっと成長してから
始めます」
・・・というのは
だから私は
違うと思う。
志があるならば、
想いがあるならば、
今、
始めよう。
人間は
どこまで行っても
未熟だ。
未熟なのが
人間。
そこに価値が
ある。
未熟の極みが
真本音を語り続けた
ところに
価値があると、
20年やり続けて
本当にわかった。
始めようと
思うことは、
今、
始めよう。
今、
始めよ。
つづく
私達は
「今にしかできないこと」
をしている。
よく
「今の自分」の
未熟さを見て、
「今の自分は価値がない」
と自己評価する人が
いる。
自己評価だけであれば
まだ良いのだが、
それにより
「何をやっても無駄」
という方向に
意識を向けてしまう人が
残念ながら多い。
しかし、
最初から
成熟している人間
なんて
一人もいない。
未熟な時期を経て
初めて
成熟に向かう。
未熟な時期を
「未熟な自分」として
しっかりと体験・経験
することによって、
初めて成熟を
手に入れる。
これはもちろん
人間として
という話だけではなく、
仕事の能力の面でも
まったく同じ。
しかも。
私達人間なんて
ずっと未熟では
ないか。
未熟だからこそ
進化がある。
未熟さを
いかに楽しむか?
ではないか、
大切なのは。
しかも
「未熟さ」のとても
素敵なところは、
昨日の未熟さと
今日の未熟さは
異なる
ということだ。
未熟さと真摯に
向き合えば、
一歩一歩
成熟に向かい、
結果として、
今の未熟さは
今にしかない
ということに
なる。
これって
とても素敵なことでは
ないか。
だから。
今にしかない
今の未熟さを
存分に味わいながら
存分に楽しもう。
今の未熟さだから
こそできることを
見つけよう。
今の未熟さだから
こそできる冒険を
しよう。
今の未熟さだから
こそできる挑戦を
しよう。
それが
「今を生きる」
ということだと
私は思うね。
つづく
今、
あなたの中にある
最大の「問い」は
何だろうか?
私達人間は
「問い」と共に
生きている。
自分自身に問うては、
その答えを見つけ、
さらに問うては、
その答えを見つけ、
・・・の繰り返しで
生きている。
幼い子どもは
親にたくさんの質問を
する。
実はその習性が
人生でずっと
続くのが、人間だ。
ただ、
そういった「問い」に
いつしか私達は
意識を向けなくなって
しまう。
「問い」はあるのに、
「問い」に気づかない
状態になってしまう。
それを「大人」と
言うのかもしれないが、
本当はみんな
子どもでしょ?
子どものままでしょ?
未熟でしょ?
なぜなら人は
「進化」の反映。
「進化」をカタチにすると
「人」になる。
だから私達は
本当はずっと
未熟なままだ。
未熟だからこそ
ずっと「問い」がある。
自分の中の「問い」と
いつもいつも
しっかりと向き合い続ける
ことで、
私達は私達の願う
進化を続けることができる。
今、
あなたの中にある
最大の「問い」は
何だろうか?
あなた自身の「問い」を
探してほしい。
考えるのではない。
探す、のだ。
すでにある「問い」を。
それがあなたの人生を
一気に進めてくれる。
つづく
自分自身の未熟さを
責める人がいるが、
それはまったく
見当違いだ。
誰もが、
未熟から成熟
へと
階段を上がっていく。
未熟という
プロセスを経ない
成熟はない。
当たり前の
ことだ。
未熟さをもし
責めるだけの
エネルギーが
あるならば、
未熟であるが
故の、
今にしかできないことを
精一杯
すればいい。
例えば、
私はずっと毎日、
日記を書いている。
書いた日記を
読み返すことは
ほとんどないの
だが、
時々、思い出した
ように
昔の日記を見たり
する。
例えば、
「真本音」という概念が
私自身の中で
生まれた頃の
日記がある。
17〜8年前の
日記だ。
それを読むと
未熟だなぁ、
と思う。
しかし、
その文章は
その時の私にしか
書けない文章
であり、
その日の
気づきは、
その時の私にしか
得られないもの
だ。
未熟であるが
とても伝わって
くる文章。
そしてその一日は
今の私には
到底できない一日
だ。
未熟かどうか?
ではない。
今の自分にしか
できない
一日を
創り出すこと。
それこそが
大事ではないか。
未熟であることを
恥じることも
責めることも
ない。
ただ、
早く一人前になろう
という
その意志は
大事だ。
意志に基づき、
今日という一日を
精一杯
生きる。
実はそれは
今の私も
まったく変わって
いない。
私は
今の私に
まったく満足
していない。
いまだ
未熟だ。
だから、
今にしかできない
一日を
創り出す。
ずっと変わらずに
それをやっている。
だから今、
こんなにも
人生が楽しいのだな、
と
思える。
つづく